戯作

愛のある風景




「なにそれ、新手の冗談?」

「いや……」

「それとも、今流行りのギャグなの?」

「冗談でもギャグでもないよ、君のことを愛してると言ったんだ。真面目に受け取ってくれ」

男は女に縋った。
美しい夜景の見える展望レストラン、豪華な食事、蝋燭で彩ったロマンチックな、二人だけの空間。こんな所に連れてこられて、察しないのもどうかと思う。だが女がそういう返しをしてくるような人間でないことは重々承知している。そんなミステリアスで予測不能な所が愛おしいのだ。負けるものか。

出会ってからというもの、決してがっついたりはしなかった。紳士的に、しかしフランクに、知的で楽しく美しい、きわめて清らかな交際を続けてきた。
女はよく笑っていたし、よく喋った。決して今までのアプローチが間違っていたとは思えない。
そしてもうここしかないという所まで、新密度は上がったのだ。あとは美しい場所と美しい料理と美しい音楽、そして美しい人が揃う場所で、求愛と求婚をするだけ。
自信はある。
男は再度言った。

「君を愛している。できれば結婚を前提に、僕の恋人になってほしい」

完璧だ。
声の抑揚も音量も、句読点の間隔も、恋愛ドラマのイケメン俳優さながらだ。
男は顔を作りすぎないように、なるべく自然に笑って見せた。くどすぎる演出は嫌われてしまう可能性大だ。

「愛している?」

サロンで綺麗に染め上げたピンクブラウンの巻き髪を、女の白い手がかきあげる。長い髪は襟の後ろに挟まるのだろう。
指にはまっていたゴールドの指輪は、食器に当たらないように外されてテーブルの脇に置かれている。飾っていたのは女の右手の小指だ。男はそういうところもしっかり記憶していた。

男が黙っていると、女は呆れたように鼻から息を吐き、ワインに口を付けるポーズで沈黙の間を縫い上げた。中身の減らないグラスを実に正しく元の位置に無音で戻すのを、夜景を望む硝子が映し出す。
音が全くないというのは大きな音を立てられるよりむしろ怒っている感じがするのは、有より無が怖いと感じるのと同じだろうか。
そこまで考えて、女と一緒にいるうちに自分の思考パターンまでもが複雑になっていることを男は自覚した。
しかし女の思考回路は男の脳など遠く及ばないほど複雑で難解だった。

「愛してるなんて一体世界中の何人の女性が言われてると思ってるの? 私はこの世に一人しかいないのよ?」

「……それは……そうだね」

「やりなおし」

「え」

「やりなおしよ、聞こえなかったの? さっきのは無かったことにしてあげるから、もう一度やりなおして。私だけの言葉が欲しいわ」

「……」

聞き返したことで女は実際少し怒ったようだった。
女は同じことを二度言うのを嫌う。本当に聞こえなかったのならまだしも、聞こえているのに聞き返す行為が許せないと何度か男に語っていた。
そういう時の聞き返しとは、混乱しているのだから仕方がないと男は思うのだが。

「わ、わかったよ。ちょっと、考えさせてくれないか」

俯くと、女の着ているドレスが視界の真ん中に来る。
女のドレスは目が覚めるような鮮やかな赤だ。決してけばけばしくはなく、どちらかというと司書のようなストイックさが全身を覆っていた。
女の好きな色が赤だというのは、男はよく知っている。けれども赤いルージュをプレゼントした時、酷く女の機嫌を損ねたのは苦くも謎の残る思い出だ。

「このステーキ美味しいわ」

考えると言っているのに、女は容赦なく話しかける。考えても無駄と思っているのかもしれない。しかしそう考えると、ますます負けじと世界に一つの愛の言葉を女に聞かせたいと願った。

「そうだね」

「それが愛の言葉?」

「いや、君が話しかけたから返事をしたんじゃないか」

「あなたには話しかけてないわ。あなたと居る時にあなたにだけ話しかけるのだとは思わないで」

「……ごめん。でも誰に話しかけたの? もしかして何か視えてる? まさかね」

女は男の冗談にはピクリとも反応しなかった。面白くなかったというより、冗談に対して面白いか面白くないかを評価する程度の興味も無いらしい。冗談を飛ばされたことにも気付かないように、変わらない表情とテンポで会話は続く。

「ここには私とあなたの二人しかいないのよ。あなたでなければ私に決まってるじゃない」

「それって、独り言ってこと?」

「独り言は独りで言うものでしょ」

「そうかな……」

「もう考え事はやめたの?」

「……」

口では女に敵わなかった。仕方なく、また愛の言葉を考える。
その間、女はステーキを口に運んだり、ワインの色を眺めていたり、夜景の中を流れる光の河のような車の列を別の世界の人間のような気持ちで見下ろしていた。
カトラリーの擦れる音が、小さく響く。

男はずっと考えていた。そのさなかに女に凝視されている気がしたが、これという愛の言葉をこの口からだすまではと、顔を上げなかった。そのせいで、女が男を観察しながらずっと笑っていることに、気が付かなかった。

「私口紅嫌いなの」

「……」

「だってキスする時に隔たりがあるのがまどろっこしいんだもの」

「……」

「あなたがあんなゴテゴテのルージュをくれたときは、私とは絶対にキスしないって言ってるのかと思ったわ」

「それはただ似合うと思……」

「まだ思いついてないでしょ考えて」

早口でたしなめられ、些かふてくされた気持ちで俯くが、女の言葉を思い返してまたググッと目線を上げる。その二つの瞳は夜景と蝋燭の明かりに照らされて輝いていた。

「それって僕とキスしたかったってこと?」

「か、ん、が、え、る!」

「……はい」

今度は女が笑ったのを、男の目ははっきりととらえた。
何がそんなに愉快なのか、男の乏しい想像力ではわからなかった。何も言葉が出てこない自分を笑っているのだろうか? それとも沈黙が続くとつい笑ってしまうタイプか?
それくらいしか理由がわからず、とりあえず今は、という気持ちで愛の言葉を脳内辞書から引っ張り出す作業に戻る。

ネット検索で参考にしてはダメだろうかと魔が差した考えがよぎる。直後、ダメだろうなあと思いなおす。ネットなんて所詮は既存のアイデアの寄せ集めだ。いくら見たところで当然出来上がったものはそれらの何番煎じにしかならない。女はそんなものでは満足しないだろう。携帯を取り出した時点で交渉は決裂。これは確実だ。

「このお店、何時までかしら」

「……」

閉店までに思いつかないだろうという意味なのだろうか。
いいや思いついてみせる。とびきりの笑顔の彼女を、恋人として迎えるのだ。


「うふふ」

女はついに声に出して笑った。おかしくておかしくてたまらないというように。
男が欲しいのはそんな意味不明で不安になる笑顔ではないというのに、あまりにも無情な笑いだった。

「なあ、酷いじゃないか。僕は君が、自分のためだけの愛の言葉が欲しいというから一生懸命考えてるんだ。何がそんなにおかしいんだい」

「別におかしくなんかないわ」

「笑ったじゃないか」

「あなたはおかしいときにしか笑わないの?」

「君はおかしいような笑い方をした」

「感じ方の違いよ」

「……」

「……」

まずい沈黙が流れる。これはまるでケンカだ。

「もう考えないの?」

「まだ考えろって言うのか? そもそもいくら考えたって、完全オリジナルの言葉なんて存在しないんじゃないか。どんなに独創的な言葉でも、それを思いつく奴は、この世界大勢いるだろう」

ケンカするためにここに来たわけではない。こんな展開望んでいない。
それでも、一度イラつくと歯止めがきかずに表情までもが柔らかさを保っていられなくなる。手が細かく震えても、気にすることはできなかった。それでも女は構わずに繰り返す。

「考えないの?」

「……君は……」

一体何なんだ。
決して短くない付き合いで、男は女のことをだいたいわかったつもりでいた。こんな難解なやりとりも、今までに幾度となく経験した。そのいずれも、乗り越えてきた。乗り越えたはずだ。
それでも、今日が一番難しい日かもしれなかった。

「考えて」

甘えるような声音だったにもかかわらず、その表情は完全に命令する女帝の冷徹さを纏っている。

「……無理だ」

瞬間、女の顔から表情が消えた。冷徹でさえもない無の顔は、能面のように動かずに男を見る。男はやけくそになった。

「僕には無理だよ、君にだけの愛の言葉なんて思いつくはずがない。アイラブユーの日本語訳だって“月が綺麗ですね”しか思い浮かばないのに。君は知ってるだろ? 僕は自分が気取るほど知的な男じゃない。君にとっては非常につまらない人間だ。でも人の愛を見極める材料は言葉だけか? 僕は君の知的興奮を刺激するような語彙も知識もないけれど、君への愛は誰にも負けない。それじゃダメだろうか?」

思いきりまくしたてた後、腰は椅子から浮き、額は汗ばみ、息は切れていた。心の中でがくりと膝が落ちる。
女が、細い顎を上げて男を見下ろす格好になる。
もう、終わりだ。

「できるじゃない」

「え?」

「同じこと二度言わせないで」

「ああ、ごめん」

女は空になったステーキの皿をわずかにテーブル中央に寄せ、ゴールドの指輪を右手の小指にはめなおした。その手を、首の後ろへ滑り込ませてピンクブラウンの長い巻き毛を払う。蝋燭が浮かび上がらせる髪は、暗闇に浮かぶ金色の炎のようで、男は思わず見惚れた。

「でももうちょっと考えていてほしかったわ。あなた、諦めが早すぎるのよ。そんなに生き急いでどうするの? 世の中答えを出すことがすべてじゃないのよ」

「……考えていてほしかった?」

「汗ふいてよ」

「ああ、ごめん」

「さっきと同じこと言ってるわ」

くすりと笑う女に苦い顔をしてから、男は背広のポケットからハンカチを取り出し、額に押し当てる。

「できたらずっと愛の言葉は言わないでほしかったわね」

「言葉が欲しいって言ったじゃないか」

「口に出したらそれで終わりじゃないの。口に出さない間はあなたはずーっと私への愛の言葉を頭のなかであれやこれや言い続けてるのよ? そっちのほうが素敵じゃない」

それであんなに笑っていたのか。なんていうことだ。
ハンカチを持ったままの手で顔を覆う。

「じゃ、じゃあ僕と……」

「というわけでもう一度やりなおし。今度は私だけのプロポーズの言葉を考えて。ネット検索も人に聞くのもダメよ」

「何だって!? ていうか、調べないと既存かどうかわからないじゃないか」

「既存かどうかわかったらその時点で終わってしまうじゃないの」

「いつまで考えればいいんだよ!」

「お店移動しましょうよ。このお店ワインが美味しくない」

「しーっ!」

万が一店員に聞かれたらという焦りで、慌てて周囲を見渡す。
女はしまったという顔をしたが、しかしそれは店側に対する配慮というわけではなかった。

「あ、でもあなたの奢りよね、ごめんなさい。ワイン以外はとても美味しかったわ」

「お、奢り…………?」

女は裏に何かありそうで無かったりする普段の笑顔を見せて立ち上がった。

「ごちそうさまでした」

はじけるような笑顔が男の財布の重量を攫っていくかわりに、別の何かが貯まっていくだろう。

……そう思うことにした。




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