戯作
美鬼囚
アダージョで歩く僕の横を、アレグロの男が追い越していった。
黒衣のアレグロは僕より5メートル程先でぴたりと止まって振り返り、
「鬼を見に行かれなさい。ここからずっと北の、異国の城に捕らわれています」
そう独り言のように呟くと、流れる風と共に細い脇道へと滑り込んで行く。
僕はアレグロを追いかけようとして久しぶりの駆け足で脇道を覗いたが、そこにあるのは窓も扉もない壁に圧迫された窮屈な道と、行く手を阻む分厚いレンガの壁だけだった。
【第一線】
僕は音楽家だ。
音楽家といっても、特別有名な訳でもなければ、ショパンやベートーヴェンのような大それた恋物語などもこれといって無い。
友人も家族も居ないし、音楽以外にやりたいこと、というか『やれる』ことも全く無い。
だが今は、その音楽ですらスランプに陥りそうなのだ。
僕はもう駄目なのだろうか。
僕の唯一の取り柄である音楽がなくなったら、僕の価値はどこに依存して存在すればいいのだろうか。
そもそも僕に価値などあったのだろうか。
誰か僕の作る曲を待っていると言った人は居ただろうか……。
そうして、よい曲が書けず街をふらついていると、黒衣のアレグロ男と出会った。
嘘か真実か、夢か現かなど、どうでもいい。
アレグロの言葉を聞いた時、頭より足のほうが目的らしい目的を見つけてややご機嫌になっているようだったので、頭が足を甘やかして進むに任せた。
例によってアダージョで歩き続け、目的地である古城でアレグロと再会したのがそれから1ヶ月後だ。
嘘でも夢でもなく、鬼は真実に現に存在していた。
捕らわれているなどと言うからどのような檻に閉じ込めているのかと思ったら、鬼は日当たりがよく天井の高い豪奢な部屋で、赤いソファにゆったりと腰かけている。
高いドの音の瞳、柔らかなアルペジオの髪。それを分けて天を刺す二本の角。
「貴男にお願いがあります。その鬼に、貴男が作った曲を聴かせてやってほしいのです」
アレグロの狙いは最初からそれだった。
僕ははいともいいえとも言わなかったが、アレグロはその様子に満足したように鬼と僕を残して部屋を去った。
【第二線】
僕に課せられた仕事は、一匹の鬼に音楽を聴かせること、ただそれだけ。
但し、他人が作った既存のものではなく、僕自身が作曲した、常に新鮮な音楽を。
当然、今の自分には出来ないだろうと思った。
が、僕はある時から狂ったように曲を書きだした。
鬼は僕が作った曲に対していちいち表情を変化させ、時には優雅な踊りを見せたり、星の煌めきのような美声を披露したりするので、僕は嬉しくてますます曲を書く手が止まらなくなる。
自分が作った曲で誰かにこんなに喜んで貰えたことが、かつてあったか。
僕が作った曲を次々と鬼が覚え、スタッカートなスキップをしながら微笑むと、僕もそれを見て微笑む。
まっさらだった僕の五線譜に、音符たちが我先にと飛び込んだ。
そのうちに僕はどうしても鬼のことがもっと知りたくなって、ある時、アレグロを呼び止めた。
何故あの鬼に音楽が必要なのか。
鬼の正体は一体何なのか。
アレグロは笑みを湛え、
「そのうち、わかりますよ」
ではまた、と言って長い廊下の向こうへ消えた。
その後も僕は、凄まじい勢いで曲を作り続けた。
スランプだなどと悩んでいたのが幻のように、僕の持つペンはもう黙ること無く五本の線の上を縦横無尽に駆け巡る。
やがて、ダルセーニョからセーニョに戻り、フィーネに辿り着いた頃、僕はふとペンを置いた。
僕は、囚われた美しい鬼の奥深くまで入ってゆきたいという欲望を、抑え込むことができなかった。
【第三線】
「ええい、こんな在り来たりな曲では儂は満足出来ぬ!」
でっぷりとした男が色とりどりの料理が乗った机を叩き、純銀の食器達が可哀想なほど金切った声を上げる。
気が付いた時、僕は高いドの音の瞳と柔らかなアルペジオの髪と、それを分けて天を刺す二本の角を持っていた。
今まで聴いたことの無い曲や音が脳のあらゆる部分を占め、僕はこの世の音という音を知り、その全てを自分のものにした。
夜毎城を訪ねて来る貴族達の御耳を新鮮な音楽で潤すよう、僕はひとつの楽器になった。
黒衣のアレグロ男が言う。
「この世は未だ知らぬ音で溢れているでしょう。そして世界が終わらぬ限り、新たな音は産声を上げることを止めぬでしょう。美しい音に飢えた屈託の公達を、満足させて差し上げなさい」
【第四線】
「貴男にお願いがあります。その鬼に、貴男が作った曲を聴かせてやってほしいのです」
ある日ひょいと城にやって来た音楽家に、アレグロは言った。
音楽家は次々と曲を作り、僕は覚えた曲を夜な夜な城に訪れる公達に披露した。
憶えよ謡えよ
醜悪の美徳
此の世は未だ知らぬ
美音の塵塚
詮無き世に
産声上げる
新なる音よ
彷徨える
屈託の公達に
美鬼の美音を
さあ、
謡えや美鬼や!
【第五線】
音楽家は僕をじっと見つめている。
「これは何だ。何故、音楽を聴かせる必要がある」
アレグロは笑みを湛え、
「そのうち、わかりますよ」