戸惑い
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カドニクス港を出発して、しばらく経ったバンエルティア号の甲板。
潮風の中、傷が大分癒えたキキョウは、船員達と手際よく干し終わったシーツを取り込んでいた。
「ありがとう、キキョウ。本当に助かったよ」
船員の一人が、照れたように笑いながら声をかける。
「私にできることなら、何でも言ってくださいね」
キキョウは穏やかに微笑み返し、丁寧に頭を下げた。
「いやあ、本当にいい子だよなぁ。ベルベットみたいに口煩くないし、マギルゥみたいに変なちょっかいも出さないし……」
「あれで業魔だってんだから信じられないぜ」
「業魔でもあんだけ良い子なら、俺らには女神様みたいなもんだよ」
船員たちがヒソヒソと、しかし嬉しそうに囁き合う声が、少し離れた帆柱の影に寄りかかっていたロクロウの耳にも届いていた。
「(女神様、なぁ……)」
ロクロウは腕を組み、その光景をぼんやりと眺めていた。
キキョウの船員たちからの評判は、すこぶる良い。
元々お人好しで、雑務にも慣れている彼女は、あっという間に荒くれ者ばかりの海賊船に馴染んでいた。
人間だった頃と変わらない、誰に対しても分け隔てのない気遣い。
それは素晴らしいことだ。ロクロウ自身、シグレに挑まなければ、クロガネがいなくなってもキキョウだけは町で暮らせていた。その方がキキョウにとってよかったのではないか、と思っているくらいなのだから、彼女がこの生活に適応できているのは喜ばしいことのはずだった。
「ロクロウ様」
不意に呼ばれ、ロクロウは思考から引き戻された。
見れば、いつの間にかシーツの束を抱えたキキョウが目の前に立っていた。
「ダイルが探してましたよ」
「あ、ああ……悪いな、わざわざ」
二人の間に僅かな沈黙が落ちる。
かつてのキキョウなら、ここで少しはにかむように微笑むか、あるいは黙り込んでしまったロクロウに「何処か具合でも悪いんですか?」と世話を焼いてきたはずだ。ロクロウは無意識のうちに、彼女が次に紡ぐであろう言葉を待っていた。
しかし。
「では、他の手伝いがありますので。失礼します」
キキョウは感情の読めない凪いだ瞳で一礼すると、それ以上ロクロウの顔を見ることもなく、あっさりと背を向けて歩き出してしまう。
その後ろ姿には、かけらも未練や情愛が見られない。
先ほど他の船員に向けていた「穏やかな微笑み」すら、ロクロウに対しては完全に消え失せていた。
「っ、キキョウ」
「はい?」
思わず呼び止めてしまった。
振り向いたキキョウは、変わらず凪いだ眼差しでロクロウを見ている。
「あ、その、お前はもう剣を使わないのか?」
「……そうですね、今の武器の方が使い勝手がいいですし」
「シグレの攻撃も弾いてたよな」
「上手く使えば布でも刃を弾くことは出来るんですよ。
……どうして?」
「いや、面白いと思ってな。すぱっと両断してみたい」
「ロクロウ様なら近い内に出来るようになると思いますけど、私としては武器がなくなってしまうのは困りますね」
「その時は剣を使えばいいだろう?」
「でもその剣を私はロクロウ様に向けられませんよ?」
「そうか。残念だな」
「……では」
曖昧に口を噤んで微笑み、今度こそキキョウは去っていく。
ただの、船の乗組員の一人としての、完璧に事務的な対応。
ロクロウは、遠ざかっていくキキョウの背中を見つめた。
『俺は今、業魔だ。お前への想いはなくなってる』
そう告げて、キキョウを突き放したのは自分だ。キキョウはその言葉を正確に受け入れ、一切の情を交えずに「ただの仲間」として接している。
こちらの要求通りなのだから、何の問題もない。これでいいはずなのだ。
「(そのはず、なんだけどな……)」
ロクロウは無造作に後頭部を掻き毟った。
胸の奥に、泥が沈み、溜まるするような、得体の知れないモヤモヤとしたものが居座っている。
想いはない。
ある筈がない。
あるのなら……
潮風の中、傷が大分癒えたキキョウは、船員達と手際よく干し終わったシーツを取り込んでいた。
「ありがとう、キキョウ。本当に助かったよ」
船員の一人が、照れたように笑いながら声をかける。
「私にできることなら、何でも言ってくださいね」
キキョウは穏やかに微笑み返し、丁寧に頭を下げた。
「いやあ、本当にいい子だよなぁ。ベルベットみたいに口煩くないし、マギルゥみたいに変なちょっかいも出さないし……」
「あれで業魔だってんだから信じられないぜ」
「業魔でもあんだけ良い子なら、俺らには女神様みたいなもんだよ」
船員たちがヒソヒソと、しかし嬉しそうに囁き合う声が、少し離れた帆柱の影に寄りかかっていたロクロウの耳にも届いていた。
「(女神様、なぁ……)」
ロクロウは腕を組み、その光景をぼんやりと眺めていた。
キキョウの船員たちからの評判は、すこぶる良い。
元々お人好しで、雑務にも慣れている彼女は、あっという間に荒くれ者ばかりの海賊船に馴染んでいた。
人間だった頃と変わらない、誰に対しても分け隔てのない気遣い。
それは素晴らしいことだ。ロクロウ自身、シグレに挑まなければ、クロガネがいなくなってもキキョウだけは町で暮らせていた。その方がキキョウにとってよかったのではないか、と思っているくらいなのだから、彼女がこの生活に適応できているのは喜ばしいことのはずだった。
「ロクロウ様」
不意に呼ばれ、ロクロウは思考から引き戻された。
見れば、いつの間にかシーツの束を抱えたキキョウが目の前に立っていた。
「ダイルが探してましたよ」
「あ、ああ……悪いな、わざわざ」
二人の間に僅かな沈黙が落ちる。
かつてのキキョウなら、ここで少しはにかむように微笑むか、あるいは黙り込んでしまったロクロウに「何処か具合でも悪いんですか?」と世話を焼いてきたはずだ。ロクロウは無意識のうちに、彼女が次に紡ぐであろう言葉を待っていた。
しかし。
「では、他の手伝いがありますので。失礼します」
キキョウは感情の読めない凪いだ瞳で一礼すると、それ以上ロクロウの顔を見ることもなく、あっさりと背を向けて歩き出してしまう。
その後ろ姿には、かけらも未練や情愛が見られない。
先ほど他の船員に向けていた「穏やかな微笑み」すら、ロクロウに対しては完全に消え失せていた。
「っ、キキョウ」
「はい?」
思わず呼び止めてしまった。
振り向いたキキョウは、変わらず凪いだ眼差しでロクロウを見ている。
「あ、その、お前はもう剣を使わないのか?」
「……そうですね、今の武器の方が使い勝手がいいですし」
「シグレの攻撃も弾いてたよな」
「上手く使えば布でも刃を弾くことは出来るんですよ。
……どうして?」
「いや、面白いと思ってな。すぱっと両断してみたい」
「ロクロウ様なら近い内に出来るようになると思いますけど、私としては武器がなくなってしまうのは困りますね」
「その時は剣を使えばいいだろう?」
「でもその剣を私はロクロウ様に向けられませんよ?」
「そうか。残念だな」
「……では」
曖昧に口を噤んで微笑み、今度こそキキョウは去っていく。
ただの、船の乗組員の一人としての、完璧に事務的な対応。
ロクロウは、遠ざかっていくキキョウの背中を見つめた。
『俺は今、業魔だ。お前への想いはなくなってる』
そう告げて、キキョウを突き放したのは自分だ。キキョウはその言葉を正確に受け入れ、一切の情を交えずに「ただの仲間」として接している。
こちらの要求通りなのだから、何の問題もない。これでいいはずなのだ。
「(そのはず、なんだけどな……)」
ロクロウは無造作に後頭部を掻き毟った。
胸の奥に、泥が沈み、溜まるするような、得体の知れないモヤモヤとしたものが居座っている。
想いはない。
ある筈がない。
あるのなら……