何より深く抉るもの
夢主の名前
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嗅ぎ慣れた湿った土や、鉄の匂いではなく、潮の匂い。
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、見慣れない木の天井が滲んで見えた。
シグレに斬られた胸の奥がじんわりと熱を持ち、鈍い痛みを訴えている。
ここがどこなのか、上手く回らない頭で思考を巡らせようとしたキキョウは、ふと、ベッドの傍らに気配を感じて視線を巡らせた。
「……気づいたか」
低く、少し掠れた声。
キキョウの心臓が、大きく跳ねた。
視線の先には、ずっと、ずっと探し求めていた姿があった。
顔の右半分を禍々しい黒い痣が覆っているが、それでも間違えるはずのない、愛しい人。
「ロクロウ、様……っ」
痛む体など忘れたように、キキョウは弾かれたように起き上がり、ロクロウの胸に縋り付いた。 生きていた。本当に、生きてここにいる。 あの日、もう二度と会えないかもしれないと絶望したその温もりが、今、確かに自分の腕の中にある。
「生きて……生きててよかったっ……本当に……!」
ポロポロととめどなく溢れる涙が、ロクロウの着物を濡らしていく。
そっと顔を上げる。
かつて、不器用で初々しい口付けを交わした日のように、彼の唇に自分のそれを重ねようとして。
しかし。
「……悪い」
キキョウの肩を掴む、大きく、冷たい手。 引き寄せられるのではなく、明確に「拒絶」を示すその力に、キキョウの動きはピタリと止まった。
「え……?」
見上げたロクロウの顔は、かつてキキョウに向けていたような、気恥ずかしそうな、でも優しさに満ちたものではなかった。
「俺は今、業魔だ。
……俺の中にはもう、シグレを斬りたいという欲しか残らなかった」
淡々と、事実だけを告げるような声が、船室に響く。
その言葉の刃がどこへ向かうのか、キキョウの本能は嫌というほど理解していた。聞きたくない。耳を塞ぎたい。けれど、容赦なくその言葉は続く。
「シグレを斬る、ただそのことばかり考えていつの間にか業魔になって、その強すぎる欲のせいで……他の色んな感情が、削げ落ちた」
ロクロウは、決してキキョウから視線を逸らさなかった。それが、彼なりのせめてもの誠意であるかのように。
「だから……今、俺の中には、お前への想いはなくなってる。すまん」
それは、シグレの刃よりも深く、鋭く、キキョウのすべてを両断する言葉だった。
呼吸が止まった。
頭の中から、サァッと血の気が引いていくのがわかる。絶望という言葉では足りない、世界が音を立てて崩壊していくような感覚。
どうして。
置いていかないで。
私を見て。
胸の奥で、そんな悲鳴がぐちゃぐちゃに渦を巻いて、暴れ狂っているのに。
「…………」
キキョウの喉は、ひゅっと微かに鳴ったきり、一切の言葉を紡がなかった。
いや、紡げなかったのだ。
ただ、大粒の涙だけが、真っ白な頬を伝ってボロボロとこぼれ落ちていく。
「……わかりました」
やっと、絞り出せた言葉は、自分の意思に反したものだった。
そのあまりにも静かなキキョウの反応に、ロクロウの顔が微かに歪む。
「……なんか、食えるもの持ってくる」
耐えきれないとばかりに、ロクロウは背を向けて立ち上がり、逃げるように部屋を出て行った。 パタン、と木の扉が閉まる。
一人残された船室で、キキョウただ静かに、声もなく涙を流し続けていた。
シグレに斬られた胸の奥がじんわりと熱を持ち、鈍い痛みを訴えている。
ここがどこなのか、上手く回らない頭で思考を巡らせようとしたキキョウは、ふと、ベッドの傍らに気配を感じて視線を巡らせた。
「……気づいたか」
低く、少し掠れた声。
キキョウの心臓が、大きく跳ねた。
視線の先には、ずっと、ずっと探し求めていた姿があった。
顔の右半分を禍々しい黒い痣が覆っているが、それでも間違えるはずのない、愛しい人。
「ロクロウ、様……っ」
痛む体など忘れたように、キキョウは弾かれたように起き上がり、ロクロウの胸に縋り付いた。 生きていた。本当に、生きてここにいる。 あの日、もう二度と会えないかもしれないと絶望したその温もりが、今、確かに自分の腕の中にある。
「生きて……生きててよかったっ……本当に……!」
ポロポロととめどなく溢れる涙が、ロクロウの着物を濡らしていく。
そっと顔を上げる。
かつて、不器用で初々しい口付けを交わした日のように、彼の唇に自分のそれを重ねようとして。
しかし。
「……悪い」
キキョウの肩を掴む、大きく、冷たい手。 引き寄せられるのではなく、明確に「拒絶」を示すその力に、キキョウの動きはピタリと止まった。
「え……?」
見上げたロクロウの顔は、かつてキキョウに向けていたような、気恥ずかしそうな、でも優しさに満ちたものではなかった。
「俺は今、業魔だ。
……俺の中にはもう、シグレを斬りたいという欲しか残らなかった」
淡々と、事実だけを告げるような声が、船室に響く。
その言葉の刃がどこへ向かうのか、キキョウの本能は嫌というほど理解していた。聞きたくない。耳を塞ぎたい。けれど、容赦なくその言葉は続く。
「シグレを斬る、ただそのことばかり考えていつの間にか業魔になって、その強すぎる欲のせいで……他の色んな感情が、削げ落ちた」
ロクロウは、決してキキョウから視線を逸らさなかった。それが、彼なりのせめてもの誠意であるかのように。
「だから……今、俺の中には、お前への想いはなくなってる。すまん」
それは、シグレの刃よりも深く、鋭く、キキョウのすべてを両断する言葉だった。
呼吸が止まった。
頭の中から、サァッと血の気が引いていくのがわかる。絶望という言葉では足りない、世界が音を立てて崩壊していくような感覚。
どうして。
置いていかないで。
私を見て。
胸の奥で、そんな悲鳴がぐちゃぐちゃに渦を巻いて、暴れ狂っているのに。
「…………」
キキョウの喉は、ひゅっと微かに鳴ったきり、一切の言葉を紡がなかった。
いや、紡げなかったのだ。
ただ、大粒の涙だけが、真っ白な頬を伝ってボロボロとこぼれ落ちていく。
「……わかりました」
やっと、絞り出せた言葉は、自分の意思に反したものだった。
そのあまりにも静かなキキョウの反応に、ロクロウの顔が微かに歪む。
「……なんか、食えるもの持ってくる」
耐えきれないとばかりに、ロクロウは背を向けて立ち上がり、逃げるように部屋を出て行った。 パタン、と木の扉が閉まる。
一人残された船室で、キキョウただ静かに、声もなく涙を流し続けていた。