クレハ
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「私はクレハ。クレハ・ソウマだ」
開け放たれた開かずの間の奥で、キキョウに瓜二つの女はそう名乗った。
その名を聞き、ベルベットは怪訝そうに眉をひそめる。
「ソウマ……?どういうこと?ソウマ家の生き残りはもう、キキョウしかいないんじゃ……」
「今の時代を生きていた人間というなら、そうだろうな」
ベルベットの疑問に答えたのはアイゼンだった。彼は油断なくクレハを睨み据えたまま、事もなげに言う。
「その女“業魔”だ。業魔なら、何百年という時間を生きられてもおかしくはない」
「ああ。少し前に凄まじい剣気に当てられ、目を覚ましたのだが……寝起きでぼんやりとしていたところを、不意をつかれてこの部屋に閉じ込められてしまってな」
クレハは悪びれる様子もなく、肩をすくめた。
「なんとか出られないか、と何度か斬りつけてみたが……ま、ご覧の通りだよ」
ぐるりと部屋を見渡す。無惨にズタズタに引き裂かれた壁や床の惨状は、彼女がここから脱出しようと内側から破壊を試みた痕跡だったらしい。
キキョウと同じ顔で、呆れるほど猟奇的な力技をやってのけるクレハに、ベルベット達は思わず引き気味になる。だが、マギルゥだけは何やら顎に手を当てて思案した後、その考えを口にした。
「……もしやお主、“本物のソウマ家の始祖”かえ?」
「本物って、どういうことですかマギルゥ?」
「先ほど、あのソウマ家の当主の業魔が言うておったじゃろう。『自分達は偽物だった。キキョウだけが本物だった』とな」
エレノアの問いに、マギルゥは言葉を続ける。
「てっきり才能云々の話かと思っておったが、剣の型とはそもそも、それを残した本人の身体に最適化された動きであろう?
それを誰よりも上手く使いこなしてみせたのがキキョウじゃ。もしやソウマ家の剣とは“女が振るうこと”に最適化されたものではないのか、とな。
そして現れた、キキョウに瓜二つの業魔の女。つまり今のソウマ家には、キキョウの母親とキキョウ以外、こやつの血を引く者はおらんかったのじゃろうよ」
「なるほど。今のソウマ家は、この女から家名と当主の座を奪った簒奪者の血筋、ということか」
アイゼンの鋭い推論に、クレハはしかし、ゆっくりと首を横に振った。そして、遠く離れた家族を想うような、どこか穏やかな顔で語り出す。
「半分正解だが、もう半分は間違いだ。この国でキャスパリーグ家に仕える武人の家を興した、という意味では私は始祖ではない」
「どういうこと?」
「私は数百年前にランゲツ共々、キャスパリーグ殿への恩義に報いるために彼の御方に仕えた。そこまではお前達も知っていよう。だが、今に続くソウマの家を興したのは、私がこの地へ来る旅の最中に拾い育て、剣を教えた子供。
弟子にあたる者だ」
信じられない事実が次々と明かされていく。
「家名も、家督も、そして宝剣である雲薙も、私が私の意思で弟子に譲り贈ったもの。
お前達のいうキキョウという女は、そこの女が言うように私がここではない何処かで成した血筋を、いつかの代にこの家が迎え入れたのだろうよ」
「弟子に名前も家督も譲って、あまつさえ雲薙まで置いて、自分から出てくなんて……なんでそんなことしたんだ?」
剣に生きるロクロウには、それがどうしても理解できなかった。己のすべてを投げ打つような真似をしてまで、この女は何を求めたというのか。
ロクロウの問いに、クレハはきょとんとした後、至極当然のように答えた。
「今しがた言っただろう。血は別のところで残した、と。女が家名も家業も捨てて出ていく理由など、“恋をしたから”に決まっている」
「「「「「「は!?」」」」」」
あまりにも予想外すぎる答えに、一行は揃って間抜けな声を漏らしてしまった。
そんなベルベット達の反応を見て、クレハは心底おかしそうにカラカラと笑い声を上げる。
「まぁ、弟子には裏切り者だの、シグレには勝負から逃げる気か、だの散々詰られはしたが……私の人生を私の好きなように生きて何が悪い。主君であったキャスパリーグ殿など、暇をもらうこと許してくれたどころか、祝儀までくれたというのに。あははは!」
「キキョウの先祖にしては、なんというか……その……」
「どっちかっていうとこの気質……ロクロウやシグレに近いわよね……なに?剣士ってみんなこうなの?」
大人しいキキョウとは似ても似つかない、あっけらかんとした奔放さに、エレノアは困惑し、ベルベットは呆れ果ててロクロウを横目で見た。
「育った環境が違うと、双子でも性格が違うと言うからのう……」
「そんなに強かったのか?あんたの旦那になった男は」
マギルゥのぼやきを他所に、ロクロウは純粋な疑問をぶつけた。ソウマ家の真の剣士であり、自分の先祖である当時のシグレ・ランゲツが決着を求めた程の彼女を射止めた男であるなら、さぞかし腕の立つ武人だったのだろうと。
しかし、クレハは優しく微笑んで首を振った。
「いいや?むしろ弱い。何処にでもいるような、血の臭いなど欠片もしない凡夫と言っていい。だが、血で汚れた私の手を握って、言ってくれたんだ。
『助けてくれてありがとう。怪我はありませんか?』
……とな」
クレハの視線が、遠い過去の情景をなぞるように宙を彷徨う。
「その人も私を恐れ、怯えてはいたんだ。街を襲った賊とはいえ、一人で数十人すべて殺し尽くした女など、普通は誰だって怖いに決まっている。それでも、その恐怖を飲み込んで私に礼を述べてくれた……その人だけが、言ってくれた」
キキョウによく似た面差しが、慈しむような、とろけるような微笑みに染まる。それは剣士としてではなく、ただの女としての顔だった。
「その人の生が穏やかなものであるよう守りたい、叶うことならその人に寄り添って。そう思ってからは、自分でも驚くほどあっという間だった。だが弟子もシグレも戻ってこいとうるさくてな……だから、夫と共に海を超え、別の地に渡った。その先で夫と小さな塾を開いて生きていこう。夫と共に、子供達に勉学を教えると決めて。平凡だが、幸せな人生だったろうさ」
穏やかな幸福を懐かしむようなその語り口に、一瞬だけ、その場に静かで優しい空気が流れた。
けれど。
「――じゃあなんで、あんたは業魔なんだ?」
ロクロウの鋭い声が、その空気を切り裂いた。
クレハが剣を捨て、ただの女として生きていたというのなら、何故業魔となってここにいるのか。
剣士としてのすべてを譲り渡した弟子の末裔が滅びたこの跡地に、何故お前は閉じ込められているのか。
クレハはゆっくりとベルベット達に背を向け、また滔々と、だがひどく冷たい声で話し出し始めた。
「夫と共に生きることを選んだことに、けして後悔はしていない。だが……もはやソウマの人間、剣士としての生き方、“業”が染み付いてしまっていた私は、シグレとの決着を着けられなかったことだけが心残りであった」
声の温度が、急激に下がっていく。
「夫と共に、穏やかで平凡に生きていきたい私。戦の喧騒、勝鬨の大音声を求め、強者と斬り結びたい私。その葛藤はやがて凄まじい穢れとなり、いつか愛する夫に牙を剥きかねなかった。だから、私は心を二つに分けて切り離し、その片方を雲薙に封じたのだよ」
背を向けたクレハの周囲の空気が、不気味に歪み始める。
「だと言うのに、急に叩き起こされたと思えば、妙な術でこの部屋から出られなくなった。
辛かったよ、あまりにも……退屈で、情けなくて。
壁越しに聞こえる言葉は、あまりにも不甲斐なく、情けない泣き言と、恨み言ばかり。もしここを出られても、ここには我が剣を振るうに足る者などいない。ああ、嘆かわしい、腹立たしい……ソウイチロウは良い弟子だった。
なのに、その末裔がこうも腐り果ててしまうとは……」
ギシッ、と、骨が軋むような異音が鳴った。
クレハの背中が、異様に膨れ上がる。
「改めて名乗ろう、我が名はクレハ。
━━ 業魔“鬼女”クレハ!」
振り返ったその姿は、もはや人の形を留めてはいなかった。
艶やかな黒髪は、夥しい血を被ったように真っ赤に染まる。
ずるり、と背中の皮膚を突き破って、剣を握る赤黒い二対の腕が新たに生え出た。
ちろちろと揺れる炎のような真っ赤な舌が、針山のごとく鋭い歯列の間から垂れ、ひどく飢えたように舌舐めずりをする。
真のソウマ家の祖、その身から溢れ出した穢れと殺気が吹き荒れた。
「人に遭うては人を斬り!
魔に遭うては魔をも斬り!
神に遭うては神すら斬り伏せよう!
ああ!我はすべてを斬り、すべてに勝ちたいと渇望したクレハ・ソウマの鬼の相 、業そのもの!」
阿修羅のごとき異形の姿となったクレハは、狂気に満ちた歓喜の咆哮を上げ、狂乱に血走った眼で、ロクロウを真っ直ぐに射抜く。
「我が弟子の血脈すでに絶え、何処にも行けぬ無為の日々、筆舌に尽くし難き落胆に打ちひしがれていた……!
だが!ランゲツの裔!お前が来てくれた!
この幸運、逃してなるものかよ!」
血に酔い、闘争に狂う鬼女が、歓喜の絶叫と共にベルベット達へと襲いかかる。
六本の腕に握られた六振りの刃から繰り出されるクレハの猛攻は、文字通り常軌を逸していた。
「くっ……なんて手数なの……!」
ベルベットが業魔手を振るって巨大な刃を叩き落とそうとするが、クレハの二本の腕がそれを交差して受け止め、すかさず別の腕がベルベットの胴を薙ぎ払う。
咄嗟に後方に飛んで躱すが、腹に浅く、赤い一文字を引かれてしまった。
間髪入れずに踏み込んだアイゼンの拳圧も、エレノアの高速の槍の突きも、クレハの背から生えた腕がそれぞれを的確に弾き返す。
「攻めきれない……!まるで舞を踊っているような、変幻自在の剣!」
槍の軌道を逸らされ、体勢を崩したエレノアが呻く。
二本でも厄介な達人の剣技が、六つの腕から同時に、しかもそれぞれが独立した意志を持っているかのような精密さで繰り出されるのだ。数人がかりで取り囲んでいるはずのベルベット達の方が、逆に圧倒され、防戦を強いられていた。
「ライフィセット、マギルゥ!術を!」
「わかっておる!ブラッド……」
「漆黒渦巻く……」
ベルベットの叫びに呼応し、後衛のライフィセットとマギルゥが聖隷術の詠唱に入ろうとした、その瞬間。
「よそ見をしている余裕があるのか?」
クレハの眼がぎょろりと後衛を睨む。
彼女は前衛の三人を三本の剣でいなしながら、残りの三本を大きく振りかぶり、すさまじい剣圧を飛ぶ斬撃として放った。
「のわーっ!?」
「うわっ!」
床や壁を深く抉りながら迫る真空の刃に、マギルゥとライフィセットは詠唱を中断して回避行動をとらざるを得ない。聖隷術という決定打を封じられ、戦局はじりじりと膠着し、確実にベルベット達が削られていく。
「アハハハッ!どうしたどうした! ランゲツの夜叉!お前の剣はそんなものか!?」
自身と同じく、前衛で斬り結んでいるロクロウに向け、クレハは歓喜の声を上げる。
ロクロウの双剣もまた、クレハの嵐のような剣戟の中に絡め取られていた。いかにロクロウの手数が多かろうと、純粋な腕の数で三倍の差があるのだ。防ぐことすら至難の業だった。
「さすがあいつのご先祖様なだけあるな……!」
クレハの六本の刃が一斉にロクロウへと殺到する。
全方位からの逃げ場のない死の檻。だが、ロクロウはその包囲網から逃げるのではなく、あえて自ら死地の中へと踏み込んだ。
「ロクロウッ!?」
エレノアの悲鳴にも似た声が響く。
クレハの刃がロクロウの身体を捉えようとした瞬間、ロクロウはこれまで自分の命を繋いできた両手の小太刀を――手放した。
「!?」
狂気に支配されていたクレハの目に、わずかな驚愕が走る。
宙を舞う二本の小太刀が囮となり、クレハの剣の軌道が一瞬だけ狂った。その千載一遇のコンマ一秒の隙を縫って、ロクロウは無防備な身体をクレハの懐深くへとねじ込む。
「取った!」
ロクロウの手が、背に負った重厚な大太刀の柄を握る。
シグレから受け継いだ、ランゲツ最強の証明、號嵐を抜刀する。
同時に放たれたのは、技術や小細工を一切かなぐり捨てた、純粋な“剛”の一撃。
クレハが咄嗟に剣を重ねて防御の壁を展開する。
しかし、鋼の塊とも呼べる號嵐の圧倒的な頑強さと重量、ロクロウの膂力を乗せた一振りは、その防壁を丸ごと叩き折る。
激しい金属の破砕音と共に、クレハの三本の剣は半ばからへし折れ、がら空きになった鬼女の胴体。
だが、號嵐を振り抜いたロクロウもまた、体勢が崩れている。
それを見逃すはずとなく、クレハの残りの腕が、ロクロウを串刺しにすべく迫る。
しかし、ロクロウの唇は不敵な弧を描いていた。
「俺はこれ一本じゃないんでな!」
ロクロウの空いたもう片方の手が、もう一振りの大太刀、友の命と魂を打ち直した無二の刃の柄を握りしめていた。
號嵐によって開いた活路に、クロガネ征嵐を叩き込む。
その刃は、クレハの防御に回ろうとした残りの腕ごと、その巨体を袈裟懸けに深々と両断した。
「あっ……!?ごふっ……!」
ごぼり、と。クレハの口から大量の鮮血が溢れる。
信じられないというように自身の胸に刻まれた傷跡を見下ろし、そして、目の前で大太刀を振り抜いた残心を見せる夜叉を見つめた。
「見事……!」
砕けた剣が床に散らばる。
すべてを斬り伏せることを渇望した、ソウマ家の始祖。その鬼の側面たる業魔は、満足げな、しかしどこか呆気ない呟きを残し、夥しい血の海の中へと崩れ落ちた。
ソウマ家の始祖というだけあり、それはあまりにも強大で恐ろしい業魔だった。
だが、二振りの大太刀によるロクロウの捨て身の一撃は、ついにその身を捉え、クレハに致命傷を負わせることに成功した。
胸の傷口を力なく押さえ、蹲るクレハの身体から、どす黒い穢れが霧のように霧散していく。
禍々しい二対の腕は崩れ落ち、赤く染まっていた髪は、本来の艶やかな黒へと戻る。
憑き物が落ちたように、キキョウによく似た、嫋やかで美しい女の姿に戻っていた。
「ふっ……あっはははっ!はーっ……」
死の淵にありながら、クレハは清々しいまでの笑い声を上げる。
その声は先程までの血に飢えた狂気はなく、晴れやかで、どこか満足げな響きを帯びていた。
「分け身ではここまでか……だが、その全てを出し切った……これで、心残りはない」
「……クレハ」
静かに死を受け入れる彼女の姿に、エレノアが一歩前に出る。
戦いの中で彼女の生き様を聞き、その不器用な生き方に触れたエレノアは、どうしても言わずにはいられなかった。
「あなたの弟子と、あなたの時代のシグレ・ランゲツが、あなたに戻ってこいと言ったのは……その、多分……」
剣士としての未練や、家督への執着などではない。
ただ一人の女性として、彼女を愛していたからではないのか。
エレノアが言い淀んだその言葉の先を、クレハは穏やかな微笑みで遮った。
「知ってるよ」
「え……?」
「でも、だからなんだと言うのだ」
クレハは目を伏せ、遠い昔の不器用な男たちを思い出すように、小さく息を吐いた。
「それなら、そう言えばよかったんだ。
ソウイチロウも、シグレも……そうすれば私も、真正面から『否』と言葉で切り捨ててやった」
「……」
「ちゃんと私に向き合ってくれない者に心砕いてやるほど、私は優しくはない」
それは、剣に生きる者特有の不器用さへの、手厳しい批判だった。
「夫について、一つ訂正しよう」
クレハはふと表情を和らげ、どこか誇らしげに語る。
「夫は確かに私より弱かったが、私よりずっと心の強い人だった。
私自身が向き合って、受け入れなければならなかった己の業。それを斬り捨てなければ、人でいられなかった私なんかより、ずっと強くて、優しい人だった……」
化け物じみた強さを持つ自分に怯えながらも、それでも手を握り、感謝を伝えてくれた名もなき凡夫。
己の業を切り離すという過酷な真似をしてまで、クレハが選びたかった光。
「人でいたいと、そう思わせてくれる人だったんだ……」
その言葉には、ただの女として生きた彼女の、偽りない深い愛情が込められていた。
やがて、限界を迎えたクレハの足元から、その身体が少しずつ崩れ始める。
クレハはゆっくりと視線を上げ、無言で立ち尽くす夜叉、ロクロウを真っ直ぐに見据えた。
「ロクロウといったか。お前が私の裔に何用があるかは知らんが、まぁ、大体想像はつく。
『言わなくてもわかる』
『わかってくれる』
などと思い上がるな。
……わかるかそんなもん」
「……」
その言葉は、鋭い刃となってロクロウの胸の奥を深々とえぐった。
ロクロウがキキョウに対して抱いていた、「とうに自分の嘘に気付いていた」という諦観。「想い続けてもらえる価値などない」という独りよがりな自己完結。
それらすべてを真っ向から否定するような、刃のように鋭い言葉だった。
「全く……何百年経ってもこれだからランゲツの男は……。
ソウイチロウも……本当に馬鹿な奴らだ……」
呆れたような、けれどどこか愛おしいものを思い出すような笑みを浮かべ、その言葉を最後に、クレハの体はさらさらと灰のように崩れ落ちる。
そして、その灰すらも空気に溶けるように完全に消え去ったそこには、一冊の古い手記が落ちている。
残されたそれを、ロクロウは拾いあげ、ぱらぱらとページを流し読む。
ところどころ、破り捨てられたところがあったが、そこに記されていた大凡の経緯を理解したロクロウは、馬鹿馬鹿しい、と呟いた。
「雲薙の所有権をランゲツとソウマで争った……か。
フられた女の思い出の品が欲しかっただけかよ……」
子供の頃から聞かされていた、ランゲツとソウマの確執。
その発端となった剣の逸話を思い出し、ロクロウは乾いた笑いを漏らした。
「経緯はどうあれ、師から正式に譲り受けたものを渡す謂れはなかっただろうな」
「ああ。だが、ソウイチロウには、クレハ程の腕はなかったみたいでな。
うちのご先祖様はそれを偽物だの、紛い物だの、随分ひどい言い方をしたらしい。
ほんとに迷惑な話だよ……」
ロクロウは呆れたように息を吐き出すと、手記を閉じて乱雑に放り投げた。
先祖達の未練と八つ当たりが、何百年もの時を経て、今のランゲツとソウマの確執を生み出していた。
あまりのくだらなさと業の深さに眩暈すら覚えたが、今は感傷に浸っている場合ではない。
「……昔の話は今はいい。今度こそ、キキョウを探しに行く。
こんなふざけた家に、あいつをこれ以上長居させるわけにはいかないからな」
ロクロウが顔を上げ、双剣を背と腰に納めて歩き出そうとした、その時だった。
「待てロクロウ」
マギルゥが、普段のちゃらんぽらんな態度をすっと消し、油断のない冷ややかな声で一行を制止した。
「マギルゥ?どうかしたんですか?」
「事態は儂らが思っておる以上にややこしくなっておるかやもしれん」
エレノアの問いかけに、マギルゥは薄暗い廊下の奥へと視線を向けながら答える。
そのただならぬ雰囲気に、ベルベットが眉をひそめた。
「どういうこと?」
「わからんか?クレハをこの部屋に“閉じ込めた何か”が、まだこの屋敷に潜んでおるやもしれんということじゃ」
その一言に、全員の顔にハッとしたような緊張が走る。
「クレハは言うておったじゃろう。目を覚ましたら、妙な術で部屋から出られなくなっておった、と。そしてこの部屋は、聖隷術に似て非なる穢れが混じった術で結界が張られておった」
「……確かに。札を使った巧妙な結界だった」
アイゼンが顎に手を当て、険しい顔でマギルゥの言葉を肯定する。
「ソウマ家の当主……あれは怒りと屈辱で完全に我を失っていた。あんな高度な術を使えるほどの理性も、力もなかったはずだ」
「ええ。それに、クレハはこれだけ大暴れして中から部屋を破壊しようとしていた。並の術者や業魔が施した結界なら、とっくに破られていたはずよ」
ベルベットの言葉に、ライフィセットが不安げに周囲を見渡した。
「じゃあ……あのクレハを閉じ込めておけるぐらいの“何か”が、まだこの屋敷のどこかにいるってこと……?」
「そういうことじゃ。そやつがキキョウの行方を知っておるかはわからんが……」
マギルゥはそこで言葉を区切り、ロクロウを横目で見た。
「キキョウは今、その『何か』の術中にあるか、あるいはもうすでにやられておるかもしれん」
クレハを閉じ込めるほどの力を持った、未知の存在。それが、一人で後始末をつけようとこの屋敷に踏み込んだキキョウに牙を剥いているとしたら。
「全員、気を引き締めなさい。ここから先は、今まで以上の敵が潜んでるかもしれないわよ」
ベルベットの鋭い号令とともに、一行はさらに重く冷たい空気が漂う屋敷の深部へと、駆け出していった。
開け放たれた開かずの間の奥で、キキョウに瓜二つの女はそう名乗った。
その名を聞き、ベルベットは怪訝そうに眉をひそめる。
「ソウマ……?どういうこと?ソウマ家の生き残りはもう、キキョウしかいないんじゃ……」
「今の時代を生きていた人間というなら、そうだろうな」
ベルベットの疑問に答えたのはアイゼンだった。彼は油断なくクレハを睨み据えたまま、事もなげに言う。
「その女“業魔”だ。業魔なら、何百年という時間を生きられてもおかしくはない」
「ああ。少し前に凄まじい剣気に当てられ、目を覚ましたのだが……寝起きでぼんやりとしていたところを、不意をつかれてこの部屋に閉じ込められてしまってな」
クレハは悪びれる様子もなく、肩をすくめた。
「なんとか出られないか、と何度か斬りつけてみたが……ま、ご覧の通りだよ」
ぐるりと部屋を見渡す。無惨にズタズタに引き裂かれた壁や床の惨状は、彼女がここから脱出しようと内側から破壊を試みた痕跡だったらしい。
キキョウと同じ顔で、呆れるほど猟奇的な力技をやってのけるクレハに、ベルベット達は思わず引き気味になる。だが、マギルゥだけは何やら顎に手を当てて思案した後、その考えを口にした。
「……もしやお主、“本物のソウマ家の始祖”かえ?」
「本物って、どういうことですかマギルゥ?」
「先ほど、あのソウマ家の当主の業魔が言うておったじゃろう。『自分達は偽物だった。キキョウだけが本物だった』とな」
エレノアの問いに、マギルゥは言葉を続ける。
「てっきり才能云々の話かと思っておったが、剣の型とはそもそも、それを残した本人の身体に最適化された動きであろう?
それを誰よりも上手く使いこなしてみせたのがキキョウじゃ。もしやソウマ家の剣とは“女が振るうこと”に最適化されたものではないのか、とな。
そして現れた、キキョウに瓜二つの業魔の女。つまり今のソウマ家には、キキョウの母親とキキョウ以外、こやつの血を引く者はおらんかったのじゃろうよ」
「なるほど。今のソウマ家は、この女から家名と当主の座を奪った簒奪者の血筋、ということか」
アイゼンの鋭い推論に、クレハはしかし、ゆっくりと首を横に振った。そして、遠く離れた家族を想うような、どこか穏やかな顔で語り出す。
「半分正解だが、もう半分は間違いだ。この国でキャスパリーグ家に仕える武人の家を興した、という意味では私は始祖ではない」
「どういうこと?」
「私は数百年前にランゲツ共々、キャスパリーグ殿への恩義に報いるために彼の御方に仕えた。そこまではお前達も知っていよう。だが、今に続くソウマの家を興したのは、私がこの地へ来る旅の最中に拾い育て、剣を教えた子供。
弟子にあたる者だ」
信じられない事実が次々と明かされていく。
「家名も、家督も、そして宝剣である雲薙も、私が私の意思で弟子に譲り贈ったもの。
お前達のいうキキョウという女は、そこの女が言うように私がここではない何処かで成した血筋を、いつかの代にこの家が迎え入れたのだろうよ」
「弟子に名前も家督も譲って、あまつさえ雲薙まで置いて、自分から出てくなんて……なんでそんなことしたんだ?」
剣に生きるロクロウには、それがどうしても理解できなかった。己のすべてを投げ打つような真似をしてまで、この女は何を求めたというのか。
ロクロウの問いに、クレハはきょとんとした後、至極当然のように答えた。
「今しがた言っただろう。血は別のところで残した、と。女が家名も家業も捨てて出ていく理由など、“恋をしたから”に決まっている」
「「「「「「は!?」」」」」」
あまりにも予想外すぎる答えに、一行は揃って間抜けな声を漏らしてしまった。
そんなベルベット達の反応を見て、クレハは心底おかしそうにカラカラと笑い声を上げる。
「まぁ、弟子には裏切り者だの、シグレには勝負から逃げる気か、だの散々詰られはしたが……私の人生を私の好きなように生きて何が悪い。主君であったキャスパリーグ殿など、暇をもらうこと許してくれたどころか、祝儀までくれたというのに。あははは!」
「キキョウの先祖にしては、なんというか……その……」
「どっちかっていうとこの気質……ロクロウやシグレに近いわよね……なに?剣士ってみんなこうなの?」
大人しいキキョウとは似ても似つかない、あっけらかんとした奔放さに、エレノアは困惑し、ベルベットは呆れ果ててロクロウを横目で見た。
「育った環境が違うと、双子でも性格が違うと言うからのう……」
「そんなに強かったのか?あんたの旦那になった男は」
マギルゥのぼやきを他所に、ロクロウは純粋な疑問をぶつけた。ソウマ家の真の剣士であり、自分の先祖である当時のシグレ・ランゲツが決着を求めた程の彼女を射止めた男であるなら、さぞかし腕の立つ武人だったのだろうと。
しかし、クレハは優しく微笑んで首を振った。
「いいや?むしろ弱い。何処にでもいるような、血の臭いなど欠片もしない凡夫と言っていい。だが、血で汚れた私の手を握って、言ってくれたんだ。
『助けてくれてありがとう。怪我はありませんか?』
……とな」
クレハの視線が、遠い過去の情景をなぞるように宙を彷徨う。
「その人も私を恐れ、怯えてはいたんだ。街を襲った賊とはいえ、一人で数十人すべて殺し尽くした女など、普通は誰だって怖いに決まっている。それでも、その恐怖を飲み込んで私に礼を述べてくれた……その人だけが、言ってくれた」
キキョウによく似た面差しが、慈しむような、とろけるような微笑みに染まる。それは剣士としてではなく、ただの女としての顔だった。
「その人の生が穏やかなものであるよう守りたい、叶うことならその人に寄り添って。そう思ってからは、自分でも驚くほどあっという間だった。だが弟子もシグレも戻ってこいとうるさくてな……だから、夫と共に海を超え、別の地に渡った。その先で夫と小さな塾を開いて生きていこう。夫と共に、子供達に勉学を教えると決めて。平凡だが、幸せな人生だったろうさ」
穏やかな幸福を懐かしむようなその語り口に、一瞬だけ、その場に静かで優しい空気が流れた。
けれど。
「――じゃあなんで、あんたは業魔なんだ?」
ロクロウの鋭い声が、その空気を切り裂いた。
クレハが剣を捨て、ただの女として生きていたというのなら、何故業魔となってここにいるのか。
剣士としてのすべてを譲り渡した弟子の末裔が滅びたこの跡地に、何故お前は閉じ込められているのか。
クレハはゆっくりとベルベット達に背を向け、また滔々と、だがひどく冷たい声で話し出し始めた。
「夫と共に生きることを選んだことに、けして後悔はしていない。だが……もはやソウマの人間、剣士としての生き方、“業”が染み付いてしまっていた私は、シグレとの決着を着けられなかったことだけが心残りであった」
声の温度が、急激に下がっていく。
「夫と共に、穏やかで平凡に生きていきたい私。戦の喧騒、勝鬨の大音声を求め、強者と斬り結びたい私。その葛藤はやがて凄まじい穢れとなり、いつか愛する夫に牙を剥きかねなかった。だから、私は心を二つに分けて切り離し、その片方を雲薙に封じたのだよ」
背を向けたクレハの周囲の空気が、不気味に歪み始める。
「だと言うのに、急に叩き起こされたと思えば、妙な術でこの部屋から出られなくなった。
辛かったよ、あまりにも……退屈で、情けなくて。
壁越しに聞こえる言葉は、あまりにも不甲斐なく、情けない泣き言と、恨み言ばかり。もしここを出られても、ここには我が剣を振るうに足る者などいない。ああ、嘆かわしい、腹立たしい……ソウイチロウは良い弟子だった。
なのに、その末裔がこうも腐り果ててしまうとは……」
ギシッ、と、骨が軋むような異音が鳴った。
クレハの背中が、異様に膨れ上がる。
「改めて名乗ろう、我が名はクレハ。
━━ 業魔“鬼女”クレハ!」
振り返ったその姿は、もはや人の形を留めてはいなかった。
艶やかな黒髪は、夥しい血を被ったように真っ赤に染まる。
ずるり、と背中の皮膚を突き破って、剣を握る赤黒い二対の腕が新たに生え出た。
ちろちろと揺れる炎のような真っ赤な舌が、針山のごとく鋭い歯列の間から垂れ、ひどく飢えたように舌舐めずりをする。
真のソウマ家の祖、その身から溢れ出した穢れと殺気が吹き荒れた。
「人に遭うては人を斬り!
魔に遭うては魔をも斬り!
神に遭うては神すら斬り伏せよう!
ああ!我はすべてを斬り、すべてに勝ちたいと渇望したクレハ・ソウマの鬼の
阿修羅のごとき異形の姿となったクレハは、狂気に満ちた歓喜の咆哮を上げ、狂乱に血走った眼で、ロクロウを真っ直ぐに射抜く。
「我が弟子の血脈すでに絶え、何処にも行けぬ無為の日々、筆舌に尽くし難き落胆に打ちひしがれていた……!
だが!ランゲツの裔!お前が来てくれた!
この幸運、逃してなるものかよ!」
血に酔い、闘争に狂う鬼女が、歓喜の絶叫と共にベルベット達へと襲いかかる。
六本の腕に握られた六振りの刃から繰り出されるクレハの猛攻は、文字通り常軌を逸していた。
「くっ……なんて手数なの……!」
ベルベットが業魔手を振るって巨大な刃を叩き落とそうとするが、クレハの二本の腕がそれを交差して受け止め、すかさず別の腕がベルベットの胴を薙ぎ払う。
咄嗟に後方に飛んで躱すが、腹に浅く、赤い一文字を引かれてしまった。
間髪入れずに踏み込んだアイゼンの拳圧も、エレノアの高速の槍の突きも、クレハの背から生えた腕がそれぞれを的確に弾き返す。
「攻めきれない……!まるで舞を踊っているような、変幻自在の剣!」
槍の軌道を逸らされ、体勢を崩したエレノアが呻く。
二本でも厄介な達人の剣技が、六つの腕から同時に、しかもそれぞれが独立した意志を持っているかのような精密さで繰り出されるのだ。数人がかりで取り囲んでいるはずのベルベット達の方が、逆に圧倒され、防戦を強いられていた。
「ライフィセット、マギルゥ!術を!」
「わかっておる!ブラッド……」
「漆黒渦巻く……」
ベルベットの叫びに呼応し、後衛のライフィセットとマギルゥが聖隷術の詠唱に入ろうとした、その瞬間。
「よそ見をしている余裕があるのか?」
クレハの眼がぎょろりと後衛を睨む。
彼女は前衛の三人を三本の剣でいなしながら、残りの三本を大きく振りかぶり、すさまじい剣圧を飛ぶ斬撃として放った。
「のわーっ!?」
「うわっ!」
床や壁を深く抉りながら迫る真空の刃に、マギルゥとライフィセットは詠唱を中断して回避行動をとらざるを得ない。聖隷術という決定打を封じられ、戦局はじりじりと膠着し、確実にベルベット達が削られていく。
「アハハハッ!どうしたどうした! ランゲツの夜叉!お前の剣はそんなものか!?」
自身と同じく、前衛で斬り結んでいるロクロウに向け、クレハは歓喜の声を上げる。
ロクロウの双剣もまた、クレハの嵐のような剣戟の中に絡め取られていた。いかにロクロウの手数が多かろうと、純粋な腕の数で三倍の差があるのだ。防ぐことすら至難の業だった。
「さすがあいつのご先祖様なだけあるな……!」
クレハの六本の刃が一斉にロクロウへと殺到する。
全方位からの逃げ場のない死の檻。だが、ロクロウはその包囲網から逃げるのではなく、あえて自ら死地の中へと踏み込んだ。
「ロクロウッ!?」
エレノアの悲鳴にも似た声が響く。
クレハの刃がロクロウの身体を捉えようとした瞬間、ロクロウはこれまで自分の命を繋いできた両手の小太刀を――手放した。
「!?」
狂気に支配されていたクレハの目に、わずかな驚愕が走る。
宙を舞う二本の小太刀が囮となり、クレハの剣の軌道が一瞬だけ狂った。その千載一遇のコンマ一秒の隙を縫って、ロクロウは無防備な身体をクレハの懐深くへとねじ込む。
「取った!」
ロクロウの手が、背に負った重厚な大太刀の柄を握る。
シグレから受け継いだ、ランゲツ最強の証明、號嵐を抜刀する。
同時に放たれたのは、技術や小細工を一切かなぐり捨てた、純粋な“剛”の一撃。
クレハが咄嗟に剣を重ねて防御の壁を展開する。
しかし、鋼の塊とも呼べる號嵐の圧倒的な頑強さと重量、ロクロウの膂力を乗せた一振りは、その防壁を丸ごと叩き折る。
激しい金属の破砕音と共に、クレハの三本の剣は半ばからへし折れ、がら空きになった鬼女の胴体。
だが、號嵐を振り抜いたロクロウもまた、体勢が崩れている。
それを見逃すはずとなく、クレハの残りの腕が、ロクロウを串刺しにすべく迫る。
しかし、ロクロウの唇は不敵な弧を描いていた。
「俺はこれ一本じゃないんでな!」
ロクロウの空いたもう片方の手が、もう一振りの大太刀、友の命と魂を打ち直した無二の刃の柄を握りしめていた。
號嵐によって開いた活路に、クロガネ征嵐を叩き込む。
その刃は、クレハの防御に回ろうとした残りの腕ごと、その巨体を袈裟懸けに深々と両断した。
「あっ……!?ごふっ……!」
ごぼり、と。クレハの口から大量の鮮血が溢れる。
信じられないというように自身の胸に刻まれた傷跡を見下ろし、そして、目の前で大太刀を振り抜いた残心を見せる夜叉を見つめた。
「見事……!」
砕けた剣が床に散らばる。
すべてを斬り伏せることを渇望した、ソウマ家の始祖。その鬼の側面たる業魔は、満足げな、しかしどこか呆気ない呟きを残し、夥しい血の海の中へと崩れ落ちた。
ソウマ家の始祖というだけあり、それはあまりにも強大で恐ろしい業魔だった。
だが、二振りの大太刀によるロクロウの捨て身の一撃は、ついにその身を捉え、クレハに致命傷を負わせることに成功した。
胸の傷口を力なく押さえ、蹲るクレハの身体から、どす黒い穢れが霧のように霧散していく。
禍々しい二対の腕は崩れ落ち、赤く染まっていた髪は、本来の艶やかな黒へと戻る。
憑き物が落ちたように、キキョウによく似た、嫋やかで美しい女の姿に戻っていた。
「ふっ……あっはははっ!はーっ……」
死の淵にありながら、クレハは清々しいまでの笑い声を上げる。
その声は先程までの血に飢えた狂気はなく、晴れやかで、どこか満足げな響きを帯びていた。
「分け身ではここまでか……だが、その全てを出し切った……これで、心残りはない」
「……クレハ」
静かに死を受け入れる彼女の姿に、エレノアが一歩前に出る。
戦いの中で彼女の生き様を聞き、その不器用な生き方に触れたエレノアは、どうしても言わずにはいられなかった。
「あなたの弟子と、あなたの時代のシグレ・ランゲツが、あなたに戻ってこいと言ったのは……その、多分……」
剣士としての未練や、家督への執着などではない。
ただ一人の女性として、彼女を愛していたからではないのか。
エレノアが言い淀んだその言葉の先を、クレハは穏やかな微笑みで遮った。
「知ってるよ」
「え……?」
「でも、だからなんだと言うのだ」
クレハは目を伏せ、遠い昔の不器用な男たちを思い出すように、小さく息を吐いた。
「それなら、そう言えばよかったんだ。
ソウイチロウも、シグレも……そうすれば私も、真正面から『否』と言葉で切り捨ててやった」
「……」
「ちゃんと私に向き合ってくれない者に心砕いてやるほど、私は優しくはない」
それは、剣に生きる者特有の不器用さへの、手厳しい批判だった。
「夫について、一つ訂正しよう」
クレハはふと表情を和らげ、どこか誇らしげに語る。
「夫は確かに私より弱かったが、私よりずっと心の強い人だった。
私自身が向き合って、受け入れなければならなかった己の業。それを斬り捨てなければ、人でいられなかった私なんかより、ずっと強くて、優しい人だった……」
化け物じみた強さを持つ自分に怯えながらも、それでも手を握り、感謝を伝えてくれた名もなき凡夫。
己の業を切り離すという過酷な真似をしてまで、クレハが選びたかった光。
「人でいたいと、そう思わせてくれる人だったんだ……」
その言葉には、ただの女として生きた彼女の、偽りない深い愛情が込められていた。
やがて、限界を迎えたクレハの足元から、その身体が少しずつ崩れ始める。
クレハはゆっくりと視線を上げ、無言で立ち尽くす夜叉、ロクロウを真っ直ぐに見据えた。
「ロクロウといったか。お前が私の裔に何用があるかは知らんが、まぁ、大体想像はつく。
『言わなくてもわかる』
『わかってくれる』
などと思い上がるな。
……わかるかそんなもん」
「……」
その言葉は、鋭い刃となってロクロウの胸の奥を深々とえぐった。
ロクロウがキキョウに対して抱いていた、「とうに自分の嘘に気付いていた」という諦観。「想い続けてもらえる価値などない」という独りよがりな自己完結。
それらすべてを真っ向から否定するような、刃のように鋭い言葉だった。
「全く……何百年経ってもこれだからランゲツの男は……。
ソウイチロウも……本当に馬鹿な奴らだ……」
呆れたような、けれどどこか愛おしいものを思い出すような笑みを浮かべ、その言葉を最後に、クレハの体はさらさらと灰のように崩れ落ちる。
そして、その灰すらも空気に溶けるように完全に消え去ったそこには、一冊の古い手記が落ちている。
残されたそれを、ロクロウは拾いあげ、ぱらぱらとページを流し読む。
ところどころ、破り捨てられたところがあったが、そこに記されていた大凡の経緯を理解したロクロウは、馬鹿馬鹿しい、と呟いた。
「雲薙の所有権をランゲツとソウマで争った……か。
フられた女の思い出の品が欲しかっただけかよ……」
子供の頃から聞かされていた、ランゲツとソウマの確執。
その発端となった剣の逸話を思い出し、ロクロウは乾いた笑いを漏らした。
「経緯はどうあれ、師から正式に譲り受けたものを渡す謂れはなかっただろうな」
「ああ。だが、ソウイチロウには、クレハ程の腕はなかったみたいでな。
うちのご先祖様はそれを偽物だの、紛い物だの、随分ひどい言い方をしたらしい。
ほんとに迷惑な話だよ……」
ロクロウは呆れたように息を吐き出すと、手記を閉じて乱雑に放り投げた。
先祖達の未練と八つ当たりが、何百年もの時を経て、今のランゲツとソウマの確執を生み出していた。
あまりのくだらなさと業の深さに眩暈すら覚えたが、今は感傷に浸っている場合ではない。
「……昔の話は今はいい。今度こそ、キキョウを探しに行く。
こんなふざけた家に、あいつをこれ以上長居させるわけにはいかないからな」
ロクロウが顔を上げ、双剣を背と腰に納めて歩き出そうとした、その時だった。
「待てロクロウ」
マギルゥが、普段のちゃらんぽらんな態度をすっと消し、油断のない冷ややかな声で一行を制止した。
「マギルゥ?どうかしたんですか?」
「事態は儂らが思っておる以上にややこしくなっておるかやもしれん」
エレノアの問いかけに、マギルゥは薄暗い廊下の奥へと視線を向けながら答える。
そのただならぬ雰囲気に、ベルベットが眉をひそめた。
「どういうこと?」
「わからんか?クレハをこの部屋に“閉じ込めた何か”が、まだこの屋敷に潜んでおるやもしれんということじゃ」
その一言に、全員の顔にハッとしたような緊張が走る。
「クレハは言うておったじゃろう。目を覚ましたら、妙な術で部屋から出られなくなっておった、と。そしてこの部屋は、聖隷術に似て非なる穢れが混じった術で結界が張られておった」
「……確かに。札を使った巧妙な結界だった」
アイゼンが顎に手を当て、険しい顔でマギルゥの言葉を肯定する。
「ソウマ家の当主……あれは怒りと屈辱で完全に我を失っていた。あんな高度な術を使えるほどの理性も、力もなかったはずだ」
「ええ。それに、クレハはこれだけ大暴れして中から部屋を破壊しようとしていた。並の術者や業魔が施した結界なら、とっくに破られていたはずよ」
ベルベットの言葉に、ライフィセットが不安げに周囲を見渡した。
「じゃあ……あのクレハを閉じ込めておけるぐらいの“何か”が、まだこの屋敷のどこかにいるってこと……?」
「そういうことじゃ。そやつがキキョウの行方を知っておるかはわからんが……」
マギルゥはそこで言葉を区切り、ロクロウを横目で見た。
「キキョウは今、その『何か』の術中にあるか、あるいはもうすでにやられておるかもしれん」
クレハを閉じ込めるほどの力を持った、未知の存在。それが、一人で後始末をつけようとこの屋敷に踏み込んだキキョウに牙を剥いているとしたら。
「全員、気を引き締めなさい。ここから先は、今まで以上の敵が潜んでるかもしれないわよ」
ベルベットの鋭い号令とともに、一行はさらに重く冷たい空気が漂う屋敷の深部へと、駆け出していった。