鬼ノ産声
夢主の名前
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その後のことは、よく覚えていない。
幾らかの冷静さを取り戻したあとは、人目につかぬように夜や影に隠れ潜んで、辺境のアイルガンドへと向かう船に乗り込んで、そしてあの坑道で恩人であるクロガネに拾われて、ロクロウと再会した。
振り返れば、目まぐるしい日々の中で何とも無様で、卑しい行為にロクロウを付き合わせたことだろう。
それでも心の何処かで期待した。
業魔になって、心の在り様が変わり果てたとしても、そこに僅かでもかつての想いが残ってくれていやしないか、と。
しかし、ロクロウが、シグレを斬るという目的を果たしても、次はロクロウを斬るために彼を追う者が現れる。
そう、エレノアに言われたロクロウは、子供みたいな笑顔で楽しそうに笑った。
クロガネを喪い、シグレの死を経て、ロクロウのその笑みを見たキキョウは、ある一つの結論に至った。
自分にとって剣はどこまでも“手段”にしかなり得ず、そしてロクロウは剣を“目的”として生きてている。
ロクロウの心は戻らない。
少なくとも、キキョウが望んだ形ではけして。
そんなこと、とっくにわかっていた。それでも縋りたかった。
誰も彼もが、自分が信じる道を見つけて、自分で舵を取る。
比べて自分はどうだ。
ただ流されて、この期に及んでもまだ、彼らのように明確な信念、生き方も見つけられていない。
「ああ……そういうことだったんですねシグレ義兄様……」
誰かの為に振るう剣。
聞こえはいいが、その誰かを失えば、剣が、心が折れてしまう。
残ったのは空っぽの自分だけ。
子供の頃からシグレは警告してくれていたのに、その言葉の意味をキキョウが理解した時にはもう遅かった。
今思えば、シグレが本当にキキョウを娶るつもりだったかも疑わしいし、あの日の当主のなりふり構わない様子を思えば、都合の良い解釈をしていた可能性の方が高い。
「馬鹿みたい」
アルトリウスを倒した後、きっと皆は、それぞれの信念や目的に向かって歩いて行くだろう。
けど自分はどうだろう、どうしたいのだろう、と考えた時、キキョウは何も思い浮かばなかったのだ。
ロクロウに付いていく、ということさえ、思い描けなかった。
そんな時だった。血翅蝶がこの依頼をキキョウに持ってきたのは。
良い機会かもしれない、と置き手紙と幾らかの金銭を置いて、キキョウは二年前の不始末を片付けに来た。
邸内に蠢いていたのは、二年前に自分が殺した死体に穢れが宿り、動き出したアンデッドの業魔達。
結果的に蠱毒も行われたのだろう、数は少ないが手強いものもいる。
それでもキキョウの歩みを阻むには足りない。
二年前のどす黒い跡の上に、鮮やかな赤が飛び散っていく。
取りこぼしがないように、隈なく邸内を歩いていた時、突如横の壁を破って現れた巨漢の業魔が、キキョウに襲いかかった。
「(“目”がない……?)」
その業魔には目がなかった。
その代わり、気配や物音に異様に敏感で、驚くほど正確にこちらの居場所を掴んで大鉈のような剣を振りかぶり、斬りかかってくる。
「(ああ、この業魔は……)」
ソウマ家の伝統的な鍛錬の一つに、目隠しをしながら相手の気配を頼りに攻撃を避ける、あるいは気配を読んで相手に打ち込む、というものがある。
まだうまく避けられなかった子供の頃は、身体中を容赦なく打ち据えられて、いつも稽古が終わると、痛くて泣いてばかりだったのを思い出す。
目の前の業魔は、その師範代を務めていた者の成れの果てだろう。
いつ頃からか、この男からの指導を受けることはなくなって、良かったと胸を撫で下ろしていた。
今ならその理由がわかる。
襟巻を足首に絡めて前方に引き、体勢を崩した隙をついて、暗器で喉を裂いて、トドメに眉間に穿ち込んだ。
「私はあなたみたいに自分より弱い人を甚振って喜ぶ趣味はないです」
びく、びく、と何度か痙攣した後に、巨漢の業魔は動かなくなった。
眉間に刺さっている暗器を引き抜いて、べったりと張り付いた血を振り払い、懐紙で拭って袖に仕舞う。
これもクロガネの形見なのだ。一本たりとて、こんなところに置いていきたくはない。
二年前の忌まわしい記憶を辿りながら、キキョウは最も悍ましくて、嫌悪していた人物の部屋へと足を運んでみた。
「?」
その部屋、もとい“当主の間”は、隙間なく襖が閉められていた。
しかし、何か違和感を感じる。
何かいる気がする。
今まで倒してきた小物達よりもよほど強くて、恐ろしい何かが。
「……」
そっ、と襖に手を掛け横に引こうとしたが、開かなかった。
敷居に何かが引っ掛かっているわけでもないのに、まるで打ち付けられているかのように動かない。
いっそ斬ってみようか、と思った時、向こう側から襖を強く叩きつける音が轟いた。
「っ!?」
金属が擦れるような甲高い音と、鋭い風切音が何度も部屋の中から聞こえてくる。
襖越しに感じる、その凄まじい気迫と苛立ちが、何度も叩きつけれる度にキキョウに冷や汗と緊張が走る。
やがて、部屋の中にいる何かは諦めたらしく、襖への攻撃が止んだ。
明らかに何かは、この中に“閉じ込められている”。
誰が?
何を?
聖寮が施していった術の類なら、何処かに解除の為の装置があるかもしれない、と踵を返した時だった。
「キキョウ」
「っ!?」
不意に名前を呼ばれ、動揺したキキョウの視界が、ぐにゃりと大きく歪んだ。
頭の中を直接掻き回されているような不快感。
目の前が色とりどりの光が炸裂するようにちかついて、米神に杭が打たれたような鋭い頭痛で、立っていられなくなったキキョウはその場に崩れ落ちた。
「……」
キキョウは意識を失った。
そのだらり、と床に投げ出された腕を掴んだ何かは、ずるり、ずるり、とキキョウをソウマ邸の更に奥深い、暗がりへと引き摺っていった。