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ぼんやりと霞む視界を、無機質な白が埋め尽くす。
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レン
———
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それがどこかの室内の天井だと気づいた頃、
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歓喜のような甲高い音色が近くで響いた。
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アイリ
兄が…、
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アイリ
兄が目を覚ましました…!
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アイリ
先生をっ…、藤沢先生をお願いします!
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レン
……
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咄嗟にそれがアイリの声だと悟り、
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鉛のようにビクともしない体に辟易しながらも頭をわずかに傾けると、
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頬に、つい最近感じたことのある暖かな雨粒。
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アイリ
お兄ちゃんっ…!
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アイリ
私のこと分かる?!
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レン
…っ、
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レン
(……アイリ…、)
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名前を口に出しているつもりでも、もちろんそれは声にはならず、
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頷くことすらままならないために、強く瞬きをすることでYESを示した。
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アイリ
良かった…!
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アイリ
お兄ちゃんっ、ほんとに良かった…!
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レン
……
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ポロポロと上から降り注ぐ大粒の涙。
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レン
(……あのとき、)
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レン
(雨粒だと思ってたあれは…、)
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レン
(おまえの涙だったんだな…)
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朧気だった記憶が、点から線を描いてゆっくりと繋がってゆく。
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レン
(俺は…、あの男に刺されて…、)
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意識を失ってから、どれだけの時間こうして眠ってしまっていたのだろう。
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涙が伝うアイリの頬に手を伸ばしてそれを拭おうとしても、
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思うように四肢は言うことを聞かない。
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レン
…、
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このなんともいえない拘束感に不満が募りそうになった時、
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アイリ
お兄ちゃん…、
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アイリ
おかえり…っ、
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アイリが、俺の前髪を撫で梳きながら、
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露わになった額に自分の額をくっ付けて優しく微笑んだ。
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レン
……、
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レン
(ああ……、そうだ、俺は…、)
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深い闇の中で一人、
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足元まで伸びた一筋の光に吸い寄せられるようにして、
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その先の輝きを目指し懸命に歩いていた。
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気の遠くなるような闇の道を、一度も足を止めることなく…、
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光の奥には、アイリが待っているのだと信じて。
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レン
……っ…、
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レン
ただ…いま…、
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たどたどしく紡いだ声と、酸素マスクの内側でゆっくりと弧を描いた唇。
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それを見たアイリはとびきりの笑顔を広げると、
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アイリ
うん…っ、
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アイリ
おかえり…っ、お兄ちゃん…!
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もう一度、喜びで震える声を並べながら、俺の頭を優しく掻き抱いた。
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手術後の3日間、俺は昏睡状態だったこと。
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アイリから連絡を受けたサクヤが、警察との応対など全ての手続き等を請け負ってくれたこと。
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俺の指示を受けてハルカのことを病院まで乗せたタクシーの運転手は、母親の病室の前まで付き添ってやってくれたこと、
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そして、その病院で俺たちからの連絡を待っていたハルカも、すぐにこっちに駆け付けてくれていたこと。
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サクヤから聞いたという、アイリに好意を寄せ、俺を刺した男の素性も。
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意識を取り戻した数日後、
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少しずつ回復していく俺の状態を気遣いながら、アイリはあらましを話してくれた。
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…俺を刺した男は、
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幼い頃からおとなしい性格で、中学時代には同級生から壮絶なイジメを受けた経験があり、
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それ以来、ずっと家に引きこもった生活を送っていたらしい。
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二十歳を過ぎた頃からようやく外に出られるようになり、少しずつ社会生活に慣れるために散歩や買い物に行き始めて、
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自分なりの生き方を地道に模索していたある日、
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駅で偶然アイリと出会った。
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[隣に立っていた人間が落としてしまったものを、それに気づいた人間が拾って渡す]
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それは日常でいくらでも起こり得る些細な出来事だったが、
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他人からの優しさに飢えていた男にとっては、計り知れない衝撃だった。
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心惹かれる異性に近づきたいと望むのは、別におかしなことではない。
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いつからか男は、アイリに近づきたいと、もっと深く知りたいと思うようになった。
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ただ、
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人との関わりをほぼ断っていた中学時代から
時間 は止まっていて。 -
生きてきた人生の長さに比べて、少し未成熟だったから、
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歪な愛情表現を真っ当だと思い込んでしまっていた。
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……あの日、
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*
『…やらないと、やられる——』
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あのとき、男がそう呟いて俺に刃先を向けたのも、
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その心に染み付いた過去のイジメのトラウマが引き起こしたのかもしれない…、
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少なくとも、俺はそう思った。
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男が犯行に至った要因を、俺なりの解釈で通話口のサクヤに話すと、
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キザキ
《…はぁ…。》
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キザキ
《だからレンに詳細を話すかどうか迷ったんだよね…。》
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キザキ
《レンってば、刺されたことを忘れたの?》
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キザキ
《まさかとは思うけど…、許すつもりじゃないよね?》
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怒りを通り越して呆れられたが、
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もしも、過去にイジメを受けていなければ、こんなことにはならなかったんじゃないか…、
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そもそも、人をイジメるということ自体が悪であって、
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そんなことがなければ、きっと男の人生も違ったものになっていたはず。
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どう考えを巡らせても終着点はそこで、そうなってくると男に対する怒りが萎えて、
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心から深く反省するなら罪には問わず、
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再起のチャンスを与えるのもアリだと考えた。
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キザキ
《…君が死んでいたらこうはならない。》
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キザキ
《あの男は、レンが死なずに生きてくれていることに感謝すべきだね。》
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キザキ
《百万回、ありがとうとごめんなさいを言わせようかな…、》
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キザキ
《それでも全然足りないけど。》
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サクヤの辛辣な言葉はごもっともだ。
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だが、幸いにも俺はまだ生きることができたから。
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こういった選択肢も、きっと悪くない。
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