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アイリ
せっかく挑戦したのに、
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アイリ
怖くて最後まで聞けなかったから、ダメになっちゃった…。
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レン
いいんだよ、そんなのは。
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アイリ
パパの大切な車だったから…、
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アイリ
お兄ちゃんにとっては宝物でしょ?
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レン
…、
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アイリ
もちろん私にとっても、大好きなパパの思い出が詰まった車だから…ずっと大切にしたいもん。
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レン
——…
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レン
(やっぱりそうか…)
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…親父が亡くなったのは、俺がまだ大学に入りたての頃。
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生命保険などを含め、残してくれていたものがある程度あったために生活苦にはならなかったが、
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全てにおいて右も左も分からずで、手探りで生きていくのが精一杯だった。
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まだ中学生だったアイリを不安にさせないためにも、気丈に振る舞って乗り切ってはいたが、
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ある日、大学の講義を終えてからのバイトで夜遅くに帰った俺は、
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カーポートの親父の車の前で……一人、泣いた。
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乗っていたマウンテンバイクをその隣に置いて、いつも通り家の中にそのまま入るつもりだったのに。
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その日はなぜか、親父が乗っていたその車が視界に入った途端、
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抑え込んでいたものが一気に溢れて、止めどなく涙が零れ落ちた。
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それを、アイリが見ていた。
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アイリは、その細い腕を俺の腰に回してぎゅっと抱き込んで、
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憚らず咽び泣く俺の後ろで、一緒に泣いた。
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レン
……、
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アイリがその時のことをまだ覚えているかどうかは分からないが。
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走馬灯のようによぎるその思い出は、賭けの内容を鑑みても、
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アイリの俺を気遣う気持ちをしっかりと裏付けているような気がした。
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アイリ
車は明日、私が洗うね。
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レン
…いいって。
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レン
ここのところ、おまえも家事で手一杯だろ?
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近づいて、その場に屈み込む。
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レン
洗車は結構疲れるし、ほんとに構わねえから。
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アイリ
…でも、
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レン
近いうちにやっと休みも取れるから、その時に俺が洗うよ。
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アイリ
分かった…。
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アイリ
じゃあ、私も手伝うね?
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レン
ああ。
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レン
…俺のために、今日は怖い思いをさせたよな。
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アイリ
ううん、大丈夫だよ、
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アイリ
私が挑戦したいと思ったことだから。
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レン
俺のために、ありがとな。
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アイリの頭をぽんぽんと撫でて微笑んで見せたが、
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疲れのせいもあって、思わず小さな溜め息を漏らした刹那、
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アイリは、『あっ!』と閃いたように声を刻んで、シオンに視線を巡らせた。
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アイリ
先輩、今日はCDありがとうございました。
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アイリ
また返すときに連絡入れるので…今日はこれで。
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すっくと立ち上がり、帰りを促すような笑顔を貼り付ける。
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いきなりの場面転換が起きたことで、ポカンとしたシオンだったが、
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強制終了のコマンドみたいな申し出に、少しばかり不服そうにアイリを見上げた。
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シオン
CD、一緒に聴くとかって、言ってなかったっけ…?
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アイリ
ごめんなさい。
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アイリ
今からお兄ちゃんの晩御飯に付き合うので、それはまた今度で。
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シオン
…さっき、俺が買ってきた弁当食べてたじゃん。
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アイリ
晩御飯、私は食べないですけど、
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アイリ
お兄ちゃんがご飯を食べるので、そばにいてあげないと。
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アイリ
ご飯をよそったり、色々と食べる準備をしてあげたいので。
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シオン
……、
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シオン
ま、いいけど。
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シオン
今度、ランチ行くよな?
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アイリ
賭けに負けたから、それは約束します。
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アイリ
もちろん私の奢りで。
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シオン
いいよ、飯代は俺が出す。
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キザキ
へえ…、シオンくん、
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キザキ
粋な計らい。
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二人のやり取りを黙って見つめていたサクヤは感嘆めいたように告げてから、アイリに視線を移す。
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キザキ
アイリちゃんも…、
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キザキ
レンに対して相当過保護だよね。
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アイリ
……別に、
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アイリ
そんなことないですよ。
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キザキ
そう?
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キザキ
疲れて溜め息ついた、そんなレンの小さな変化…見逃さなかったのに?
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アイリ
——…、
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キザキ
つまりは、
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キザキ
お兄ちゃんのこと、早くゆっくりさせてあげなきゃって思ったんだよね?
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アイリ
……む。
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アイリ
キザキさん、なかなか鋭い。
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キザキ
いえいえ、
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キザキ
アイリちゃんが分かりやすいんだよ。
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穏やかに笑って俺に視線を寄越したサクヤは、
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ソファーからおもむろに腰を上げて、どこか探るように見下ろしてくる。
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そして。
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キザキ
僕は、レンの味方だよ。
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レン
え?
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キザキ
ずっと色々と頑張ってる…、レンの味方。
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レン
…、
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レン
(どういう意味だ…?)
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その真意を把握しきれずに黙ってしまう俺のすぐ側まで
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音も立てずにスッと近づいたサクヤは、ひそひそと低い声で耳打ちをする。
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キザキ
…僕も今、
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キザキ
とても可愛い子に片想い中。
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キザキ
お互い頑張ろうね、レン。
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レン
———、
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レン
(…こいつ、)
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レン
(俺のアイリへの気持ち、見抜いてるのか…?)
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意味ありげに告げたサクヤの言葉を反芻しながら、俺は声を失う。
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親父たちが再婚して1年ほど経ってからこの街に越してきて以来、
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つまり、サクヤとはそこからの付き合いだから、
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血縁のこととか諸々、何も話していないから見当もつかないはず。
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さらに言えば、この街の近隣の人間だってみんな、何も知らないはずだ。
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…ということは。
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レン
(こいつはたたぶん、ストレートに、)
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レン
(血の繋がった妹への、純度100%の禁断の恋だと思ってるだろうな…)
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レン
……、
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レン
(弁解したところで…、)
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レン
(もうこの際、好きに思わせとくか…)
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脳内では思考が走りっぱなしなのに、眉間に縦皺を作ったまま沈黙する俺はきっと不自然に違いないが、
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サクヤは、そんな俺をサラッと放置して。
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キザキ
じゃ、僕もそろそろ帰ろうかな。
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キザキ
…ほら、君も。
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シオン
……分かりましたよ。
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ちょっぴり渋るシオンの二の腕を柔く引いて、廊下へ続くドアへと向かった。
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キザキ
お邪魔しました。
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キザキ
またね、レン、アイリちゃん。
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シオン
…レンさん、お邪魔しました。
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シオン
アイリ、またな。
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笑顔のアイリが手を振る傍で、俺は小さく破顔しながらも落ち着かなく二人を見送る。
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全く何も気付いていないシオンが初心で幼く見えてしまうのは、
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その隣で、
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何もかも見透かしたような微笑を浮かべたサクヤの相貌がちらつくからだろう。
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レン
(…まあ、サクヤが他に言い回るような安っぽい真似はしねーか…)
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アイリ
どうしたの?
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アイリ
大丈夫、お兄ちゃん。
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レン
…ああ、
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アイリ
今日は徹夜にならないって言ってたから、晩御飯作ってあるけど…、
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アイリ
食べるよね?
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レン
そうだな…、腹も減ったし、先に食うか。
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不自然に立ち尽くす俺の姿が、アイリに妙な不安を与えてしまったかもしれない。
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気遣うアイリに向けて、その憂慮を払拭するみたいに柔らかな笑みを返した。
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