Vol. 8 守りたいもの ・4

  • 工事中の事務所の前に到着し、

  • 車を横付けしたキザキさんは、すぐに降車して外から顔を覗かせる。

  • キザキ

    ごめん、

  • キザキ

    ちょっとだけ待っててくれる?

  • ユヅキ

    分かりました。

  • キザキ

    この辺りはあまり治安が良くないから、

  • キザキ

    車から出ないで待っててね。

  • ユヅキ

    …はい。

  • 幼い子どもに言いつけるように人差し指を立てたその仕草に、思わず笑ってしまいながらも頷いた。

  • ユヅキ

    ……

  • しばらくの間、パソコンのキーを叩くことを繰り返していたが

  • 何気に手を止めて窓の外に視線を投じる。

  • 少しだけ車のサイドウィンドウを下げれば、

  • すっきりと濁りのない冷たい空気が顔に当たって、ヒュッと身が引き締まった。

  • ユヅキ

    …、

  • 治安が良くないと言われた周辺一帯を、緊張気味に見澄ます。

  • 古いビル街の一角であるこの場所は、

  • 工事途中のキザキさんの探偵事務所以外、どれも寂れた風情を醸し出しているように見えた。

  • どこから飛んできたのか、木枯らしに舞う敗れたポスターの切れ端。

  • 年期を感じさせるそれぞれの店舗の店看板。

  • なんだか、それらが物珍しくて。

  • ユヅキ

    ——…

  • けれど、

  • 車窓から見上げた青空はどこにいても同じ青さなんだな…と、

  • ぼんやりそんなことを思う。

  • ユヅキ

    ……、

  • ユヅキ

    (ここは、前所長とキザキさんの絆が育まれた、)

  • ユヅキ

    (思い入れのある場所なんだろうな…)

  • そんなことが脳裏をよぎったときには、

  • 自然と助手席のドアを開けて地面に足を降ろしていた。

  • ユヅキ

    …、ん……。

  • 舗装の一部が剥がれた歩道を踏みしめてゆっくりと伸びをしながら、

  • 広い冬空をまた仰ぎ見る。

  • キザキさんの事務所のほうに視線を向けると真新しいカーテンウォールの窓に空の青が映えて、

  • 工事も順調に進んでいるのが見て取れた。

  • ユヅキ

    ……

  • *

    …お嬢さん、

  • ユヅキ

    ……、?

  • 背後からの人懐っこい声に振り返る。

  • *

    どうも、こんにちは。

  • 見知らぬ若い男がニコニコしながら立っているその姿はどこか異質で。

  • その飄々としたどこか食えないような雰囲気はもとより、

  • くだけたように着こなしたスーツの胸元から覗くシャツは、普段あまり見ることのない奇抜な色柄のもので、

  • それがまた違和感を増幅させていた。

  • *

    お嬢さん、

  • *

    モデルの経験とかってありますか?

  • ユヅキ

    …ないです、興味もないので。

  • *

    それはもったいない!

  • *

    綺麗な方だから、今までにもスカウトの経験があるでしょう?

  • ユヅキ

    ありません。

  • ユヅキ

    別に普通のルックスですけど。

  • ユヅキ

    (いきなり何なんだ…)

  • ツンと顔を逸らして、

  • 舐められたくないという自己防衛の表れから、

  • 強がるようにコートのポケットに手を突っ込んで眉根を寄せる。

  • けれど男は臆する様子もなく、

  • 『ハハハッ』と軽快な笑い声を立てて私の前に一歩踏み込んだ。

  • *

    良かったら、ちょっとお茶でもどうですか?

  • *

    私どもはモデル事務所の者でして、モデルスカウトをやってるんですよ…、

  • *

    向こうのお店でゆっくり話しませんか?

  • ユヅキ

    お断りします。

  • *

    まあそう言わずに…、

  • *

    ちょっと話を聞くだけでも、ね?

  • 不自然にヘラヘラと笑いながら、男はぬっと手を伸ばし私の二の腕を掴んだ。

  • ユヅキ

    …っ、やめてくださいっ、

  • 男の顔に広がるギラリとした鈍色の翳りを目にして急速に背筋が凍る。

  • ユヅキ

    (…ッ、怖い…っ)

  • 恐怖から逃れるために、必死で手を振り解こうとした刹那、

  • キザキ

    …なにやってるの?

  • 男の後方から、

  • 端麗な顔立ちを冷徹な色に染めたキザキさんが現れた。

  • *

    …チッ、連れがいたのか。

  • 振り返り、キザキさんをチラッと見遣った男はいきなり態度を豹変させると、

  • 苛立ったように舌打ちをする。

  • キザキ

    ああ、やっぱり君か…。

  • *

    は?

  • *

    なんだよ、アンタ。

  • キザキ

    あれ?

  • キザキ

    しばらく僕がここにいない間に、もう忘れちゃったの?

  • *

    …はあ?

  • *

    俺はアンタのことなんて…、

  • キザキ

    下っ端の君には、

  • キザキ

    解像度の悪い画像でしか僕のこと知らされてなかったのかな?

  • *

    ……、

  • キザキ

    前にも、君のこと…散らしたことあるんだけど。

  • *

    ……!

  • *

    もしかして、おまえ…、

  • キザキ

    うん。

  • キザキ

    思い出してくれた?

  • *

    おまえは、あの探偵事務所の——…、

  • 男はキザキさんの工事中の事務所を高く指差すと、明らかに動揺し始めた。

  • キザキ

    そうだよ、久しぶりだねー。

  • *

    おまえ…、

  • *

    あのときの火事に懲りて、

  • *

    居所失ってどっかへ消えちまってたんじゃねえのかよ!

  • キザキ

    ふーん…、

  • キザキ

    やっぱり、君たち・・・の腹いせか。

  • *

    …ッ、

  • 男はますます動揺を隠しきれずにそのまま口籠もり、

  • その様を見下ろすキザキさんはさらに酷薄な笑みを浮かべた。

  • キザキ

    今日は一人なんだね。

  • キザキ

    いつものお仲間は?

  • *

    …、

  • キザキ

    あ。

  • キザキ

    事務所に火を付けた時点で君は用無しになって、切り捨てられちゃったか。

  • *

    …だ、黙れっ!

  • キザキ

    群れてないと落ち着かないから、

  • キザキ

    前の繋がりとは別のところと関わりだしたってとこかな…?

  • 愚弄するようにせせら笑ったキザキさんは、

  • 私の腕を掴んだままの男の手に視線を一点集中させる。

  • キザキ

    見た感じ、今もつまらないことしてるんだね…、

  • キザキ

    女の子にモデルスカウトだとか嘘ついて、

  • キザキ

    売色させようとするなんて外道極まりない。

  • キザキ

    そういうのやめろって何度も言ってるのに…、

  • キザキ

    いつまでも懲りないね。ほんとに君ってバカだなあ。

  • *

    っ、…るせえんだよっ!!

  • 今にも噛み付かんばかりに凄む男に、

  • キザキさんは落ち着き払ったままで片眉をピクリとだけさせる。

  • キザキ

    ……

  • そして、

  • 鋭い眼光を湛えたままゆったりとした動作で、

  • 工事現場の片隅に置いてある1メートルほどの角材を一本掴み取った。

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