優しい雨
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連日の雨のせいでグラウンドは乾かない。今日の体育は屋内になった。
跡部のクラスはバスケで、自分もさっきまでゲームに参加していた。好んではしないがルールさえ知れば容易い。天性の才能が周りの女子の眼を釘付けにしている。相手チームが物凄いアウェイにされていた。
「あっれ、跡部じゃん」
自分のゲームは勿論快勝し、壁にもたれて休んでいた。声がした方を見るとジローが駆け寄ってくる。彼のクラスもここで体育の授業をしているらしい。手にはテニスのものとは違うラケットを握っている。
氷帝の設備と広さは付近の私立校よりも郡を抜いている。同時に3クラスほどが館内で授業を行っても問題ない。なのでこういう天気の日は別のクラスと合同ですることも稀ではない。
「跡部んとこ何してんのー?」
「バスケだ」
「へーぇ。オレらバドミントン!テニスみたいでおもしろいよ」
ジローはそう言って楽しげにラケットを振り回す。面白いお陰で今日は眠くないようだ。
「あっちでね、琴璃ちゃんのクラスもやってんだよ」
と、指差して隣の建物の方を見る。換気のために開け放たれた扉から、もう一棟の体育館の中の様子が見えた。確かに琴璃がいた。端の方に立って何かを書いている。運動しているようには見えない。
「オレさ、できるだけ毎日琴璃ちゃんに会いに行ってるんだ。たまに寝ちゃって行けないんだけど。手、もうすぐ完治だって」
「そうか」
「跡部も毎日会ってるんでしょ?琴璃ちゃんと。毎日送り迎えしてあげてるっぽいし。なんで?」
「片手じゃ何かと不便だろうからな」
「ふーん」
ジローは返事をしながらシャトルをくるくる回す。
「ねぇ、それならオレがやるよ。オレんちと琴璃ちゃんち方角いっしょだし」
「お前は寝坊の常習者だから3日と続かねえだろうよ」
「寝坊しないよ、大丈夫!ちゃんとお家まで送り届ける。だから明日からオレ行っていい?」
「あのな、その時間を次のテスト対策に充てろって言ってんだよ。また泣きを見るぜ」
痛いところを突かれてジローは押し黙る。冗談抜きで、次のテストの点数が悪かった場合はレギュラー維持問題にも関わってくるというのに。本人だけが危機を感じていない。
「ぶー、ケチ。じゃあ琴璃ちゃんに聞いてみようよ」
「あん?」
「どっちと一緒に帰りたいか」
オレ聞いてくる、と走り出そうとしたジローの襟首を跡部がすかさず掴んだ。
「余計なことしてねぇでさっさと戻れ。さっきからクラスの連中がお前のこと呼んでるぜ」
「あー……ほんとだ。しょーがねぇなあ」
クラスメイトらしき数人がこっちを見ていた。なかには女子も紛れていて跡部に好意的な視線を送っている。ジローは面白くない顔をしながらも素直に彼らの輪に向かって走っていった。
跡部のクラスは今ゲームが始まったところである。自分はさっきまで活躍してたから今回は出ない。なんとなく、琴璃の方を見た。相変わらず突っ立って動く生徒たちをただ見つめている。彼女は見学なのだと分かった。
「なるほど見学者は記録係か」
「わ、びっくりした……跡部くん」
そっと近づいて彼女の持っているものを覗き込むと、どうやらスコアを書いているようだった。どこからともなく現れた跡部に焦っている。焦りすぎて落としたペンを跡部は拾ってやった。
「あ、ありがとう。跡部くんも体育の授業なの?」
「ああ」
「参加しなくていいの?」
「今さっきまで試合していた。……お前のところはテニスか」
目の前の生徒たちを見て跡部が言った。
「うん。軟式の。右利きだからわたしも参加しようと思ったんだけどね、先生が危ないから今日はまだ見学でねって」
「まぁ妥当だな。どこからボールが飛んできて左手を直撃するかも分からない」
「そうだよね……」
跡部の言うとおりで。話してる間にもどこからかボールが飛んできた。きゃっと思わず声を挙げる琴璃の目前で、跡部がボールをキャッチした。飛ばしてきた生徒に投げ返す。
「跡部くん、治ったらナイフとフォークでお肉を食べる次にやってみたいことできたよ」
と、嬉しそうに彼女が言うから跡部がなんだ、と聞いてやる。
「テニス、やってみたいなあ」
なんとなくだけど。運動なんて日頃滅多にしない自分がそう思うようになったのは、今回の怪我をしたからだった。
「テニスボールで被った災難なのにテニスをしたいと思えるんだな」
「あ、別にテニスじゃなくてもいいんだけどね、何かスポーツやってみたいなって。お医者さんにも、骨はある程度使わないとまた簡単に折れますよって脅されちゃった」
「まぁテニスは手首を使うから今の状態じゃ無理だが、握力の強化にはなるだろう。お前の飲み込みの早さにもよるが、何日かやればサーブを決められるまでには鍛えられる」
「……跡部くん、教えてくれるの?」
「ああ、いいぜ。俺様に教わるからにはラリー最低100回はできるようになれ」
「ええっ、スパルタだよ」
あの跡部くんが自分のために。約束を交わせた事実に次第に口角が上がってゆく。それだけでもう胸いっぱいなのに、今日も一緒に帰れる。また会える。
跡部が自分のクラスに戻ってゆく。その背中をずっと見ていた。
外はまだ雨が降り続いている。時刻は3時を過ぎ放課後になった。跡部のクラスももう終わっただろうか。そう思いながら帰りの支度をしていたら友人に呼ばれた。
「琴璃あてに隣のクラスの人が来てるよ」
ドアの側に知らない女子生徒が立っていた。どこかで見たことあるような、だけど思い出せないでいる。
「藤白琴璃さん?」
「そうですけど」
「急にごめんなさい。私、女子テニス部の部長やってるの。少しいいかな」
そこでようやく思いだした。確かになんとなく見覚えがあった。跡部と話してるところを何度か見たからだ。テニス部の部長同士で何かの相談をしていたのだろうか。
「ちょっと聞きたいことあって。あなたが踏んづけて転んじゃったボールって、もしかして、これ?」
彼女はテニスボールを持っていて、それを琴璃に見せてきた。これ、と言われても。ボールを見ただけで、はいそうです、とも言えない。素人にボールを見分けるなんて無理な話だ。琴璃が困っていると彼女は悲しそうな表情になった。
「これね、女子のほうのテニス部のボールなの。男子のとメーカーが違うから、並べると見た目がちょっと違うの」
ほら、と彼女はポケットから別のボールを出した。目の前で並べられると微妙に色や縫い目の違いが分かる。
「ボールの在庫確認してたら足りないことが発覚してね。男子は、部長が跡部くんだし管理ちゃんとしてると思うから。だから男子じゃなくて、うちのボールで怪我したんだと思うの。本当にごめんね」
つまりあの日、琴璃が乗り上げて怪我をさせたボールは男子テニス部のものではないと言いたいらしい。跡部もジローも謝って心配してくれたが、全く関係なかった。どういう経緯で発覚したのかは知らないが、彼女は部長として謝罪するために琴璃を訪れたと言う。琴璃はすぐに言葉がでなかった。しばらく立ち尽くしていた。そして口を開く。
「あの、このこと跡部くんには話したの?」
「ううん、これから行くところ。あなたに謝ってから跡部くんの所に行くつもりでいたから」
本当にごめんなさい、ともう一度頭を下げられて彼女は琴璃の前から去った。これからA組に行くのだ。跡部に真実を話すために。
知ったら彼は自分に何と言うのだろうか。関係ないのに手を煩わせやがって、と思われるのか。いや、彼はそんなふうに思ったりしない。優しい人だから。女子テニス部を恨んだりもしないだろうし、怪我が治ればそれでいい、と言ってくれるはずだ。
じゃあどうしてこんなに心臓が痛いんだろう。さっきから泣きそうだ。
「もう話したり……できなくなるんだなぁ」
どうなろうと、腕が治ればもう会う理由は無い。最初から決まっていたこと。分かっていたのに受け止めるのがつらい。別にそこまで深刻に考えなくとも、同じ学園に通っているのだから会いたいと思えば会える。でも相手は別格な存在。気軽に話せなくなることくらい琴璃も分かっている。今更それを思い知って途端に悲しくなった。
自分の怪我をこれっぽっちも呪っていなかった。怪我をしたことで跡部が心配してくれる。そんなふうに思っていた。密かな優越を感じていた。そんな自分だと気付いて、泣きたくなった。自分はなんて嫌なやつなんだと。
ゆるゆると自分の席に戻る。そこからしばらく動けなかった。予定があるから先に帰る友人と何とない会話をして。最後に残っていた日直の子に、電気よろしく、と言われても適当に返事をした。
その後少なくとも30分以上はぼーっとしていた気がする。ようやく教室を後にした。今日は昼前から一日中雨だ。午前よりも雨足が強い。今朝も跡部に送ってもらったから傘は持ち合わせていない。昇降口には誰のものか知らないビニール傘が何本か残されていたが、他人のものを勝手に拝借なんてできない。
「濡れて帰ろ」
外へ出て僅かな距離しか歩いてないのに、制服に次々染みができる。わりと大降りの雨。
こんな天候で傘を差さないほうが可笑しい。教室からここまで誰とも会わないのが幸運だった。こんなところ誰かに見られたくない。
「お前は風邪をひきたいのか」
声がして、自分に落ちてくる雨が無くなった。黒い影が琴璃の頭上にある。大きな傘だった。持ち主は、
「……跡部くん」
1番会いたくなかった。見られたくなかったのに。黙って帰ろうとしてたのに。なんでここが、と聞きたかった。それより早く跡部が琴璃の腕を掴む。
「こんな所で何してる。俺は部室に来いと言ったはずだが」
「……うん。忘れてた」
「嘘だな」
来い、と琴璃の腕を引いて跡部が歩きだす。雨はいっそう強まってきた。まるで自分の心の中みたいだな。他人事のように感じながら、琴璃は静かに泣いた。それは髪から滴る雫と混じって地面に落ちていった。
跡部のクラスはバスケで、自分もさっきまでゲームに参加していた。好んではしないがルールさえ知れば容易い。天性の才能が周りの女子の眼を釘付けにしている。相手チームが物凄いアウェイにされていた。
「あっれ、跡部じゃん」
自分のゲームは勿論快勝し、壁にもたれて休んでいた。声がした方を見るとジローが駆け寄ってくる。彼のクラスもここで体育の授業をしているらしい。手にはテニスのものとは違うラケットを握っている。
氷帝の設備と広さは付近の私立校よりも郡を抜いている。同時に3クラスほどが館内で授業を行っても問題ない。なのでこういう天気の日は別のクラスと合同ですることも稀ではない。
「跡部んとこ何してんのー?」
「バスケだ」
「へーぇ。オレらバドミントン!テニスみたいでおもしろいよ」
ジローはそう言って楽しげにラケットを振り回す。面白いお陰で今日は眠くないようだ。
「あっちでね、琴璃ちゃんのクラスもやってんだよ」
と、指差して隣の建物の方を見る。換気のために開け放たれた扉から、もう一棟の体育館の中の様子が見えた。確かに琴璃がいた。端の方に立って何かを書いている。運動しているようには見えない。
「オレさ、できるだけ毎日琴璃ちゃんに会いに行ってるんだ。たまに寝ちゃって行けないんだけど。手、もうすぐ完治だって」
「そうか」
「跡部も毎日会ってるんでしょ?琴璃ちゃんと。毎日送り迎えしてあげてるっぽいし。なんで?」
「片手じゃ何かと不便だろうからな」
「ふーん」
ジローは返事をしながらシャトルをくるくる回す。
「ねぇ、それならオレがやるよ。オレんちと琴璃ちゃんち方角いっしょだし」
「お前は寝坊の常習者だから3日と続かねえだろうよ」
「寝坊しないよ、大丈夫!ちゃんとお家まで送り届ける。だから明日からオレ行っていい?」
「あのな、その時間を次のテスト対策に充てろって言ってんだよ。また泣きを見るぜ」
痛いところを突かれてジローは押し黙る。冗談抜きで、次のテストの点数が悪かった場合はレギュラー維持問題にも関わってくるというのに。本人だけが危機を感じていない。
「ぶー、ケチ。じゃあ琴璃ちゃんに聞いてみようよ」
「あん?」
「どっちと一緒に帰りたいか」
オレ聞いてくる、と走り出そうとしたジローの襟首を跡部がすかさず掴んだ。
「余計なことしてねぇでさっさと戻れ。さっきからクラスの連中がお前のこと呼んでるぜ」
「あー……ほんとだ。しょーがねぇなあ」
クラスメイトらしき数人がこっちを見ていた。なかには女子も紛れていて跡部に好意的な視線を送っている。ジローは面白くない顔をしながらも素直に彼らの輪に向かって走っていった。
跡部のクラスは今ゲームが始まったところである。自分はさっきまで活躍してたから今回は出ない。なんとなく、琴璃の方を見た。相変わらず突っ立って動く生徒たちをただ見つめている。彼女は見学なのだと分かった。
「なるほど見学者は記録係か」
「わ、びっくりした……跡部くん」
そっと近づいて彼女の持っているものを覗き込むと、どうやらスコアを書いているようだった。どこからともなく現れた跡部に焦っている。焦りすぎて落としたペンを跡部は拾ってやった。
「あ、ありがとう。跡部くんも体育の授業なの?」
「ああ」
「参加しなくていいの?」
「今さっきまで試合していた。……お前のところはテニスか」
目の前の生徒たちを見て跡部が言った。
「うん。軟式の。右利きだからわたしも参加しようと思ったんだけどね、先生が危ないから今日はまだ見学でねって」
「まぁ妥当だな。どこからボールが飛んできて左手を直撃するかも分からない」
「そうだよね……」
跡部の言うとおりで。話してる間にもどこからかボールが飛んできた。きゃっと思わず声を挙げる琴璃の目前で、跡部がボールをキャッチした。飛ばしてきた生徒に投げ返す。
「跡部くん、治ったらナイフとフォークでお肉を食べる次にやってみたいことできたよ」
と、嬉しそうに彼女が言うから跡部がなんだ、と聞いてやる。
「テニス、やってみたいなあ」
なんとなくだけど。運動なんて日頃滅多にしない自分がそう思うようになったのは、今回の怪我をしたからだった。
「テニスボールで被った災難なのにテニスをしたいと思えるんだな」
「あ、別にテニスじゃなくてもいいんだけどね、何かスポーツやってみたいなって。お医者さんにも、骨はある程度使わないとまた簡単に折れますよって脅されちゃった」
「まぁテニスは手首を使うから今の状態じゃ無理だが、握力の強化にはなるだろう。お前の飲み込みの早さにもよるが、何日かやればサーブを決められるまでには鍛えられる」
「……跡部くん、教えてくれるの?」
「ああ、いいぜ。俺様に教わるからにはラリー最低100回はできるようになれ」
「ええっ、スパルタだよ」
あの跡部くんが自分のために。約束を交わせた事実に次第に口角が上がってゆく。それだけでもう胸いっぱいなのに、今日も一緒に帰れる。また会える。
跡部が自分のクラスに戻ってゆく。その背中をずっと見ていた。
外はまだ雨が降り続いている。時刻は3時を過ぎ放課後になった。跡部のクラスももう終わっただろうか。そう思いながら帰りの支度をしていたら友人に呼ばれた。
「琴璃あてに隣のクラスの人が来てるよ」
ドアの側に知らない女子生徒が立っていた。どこかで見たことあるような、だけど思い出せないでいる。
「藤白琴璃さん?」
「そうですけど」
「急にごめんなさい。私、女子テニス部の部長やってるの。少しいいかな」
そこでようやく思いだした。確かになんとなく見覚えがあった。跡部と話してるところを何度か見たからだ。テニス部の部長同士で何かの相談をしていたのだろうか。
「ちょっと聞きたいことあって。あなたが踏んづけて転んじゃったボールって、もしかして、これ?」
彼女はテニスボールを持っていて、それを琴璃に見せてきた。これ、と言われても。ボールを見ただけで、はいそうです、とも言えない。素人にボールを見分けるなんて無理な話だ。琴璃が困っていると彼女は悲しそうな表情になった。
「これね、女子のほうのテニス部のボールなの。男子のとメーカーが違うから、並べると見た目がちょっと違うの」
ほら、と彼女はポケットから別のボールを出した。目の前で並べられると微妙に色や縫い目の違いが分かる。
「ボールの在庫確認してたら足りないことが発覚してね。男子は、部長が跡部くんだし管理ちゃんとしてると思うから。だから男子じゃなくて、うちのボールで怪我したんだと思うの。本当にごめんね」
つまりあの日、琴璃が乗り上げて怪我をさせたボールは男子テニス部のものではないと言いたいらしい。跡部もジローも謝って心配してくれたが、全く関係なかった。どういう経緯で発覚したのかは知らないが、彼女は部長として謝罪するために琴璃を訪れたと言う。琴璃はすぐに言葉がでなかった。しばらく立ち尽くしていた。そして口を開く。
「あの、このこと跡部くんには話したの?」
「ううん、これから行くところ。あなたに謝ってから跡部くんの所に行くつもりでいたから」
本当にごめんなさい、ともう一度頭を下げられて彼女は琴璃の前から去った。これからA組に行くのだ。跡部に真実を話すために。
知ったら彼は自分に何と言うのだろうか。関係ないのに手を煩わせやがって、と思われるのか。いや、彼はそんなふうに思ったりしない。優しい人だから。女子テニス部を恨んだりもしないだろうし、怪我が治ればそれでいい、と言ってくれるはずだ。
じゃあどうしてこんなに心臓が痛いんだろう。さっきから泣きそうだ。
「もう話したり……できなくなるんだなぁ」
どうなろうと、腕が治ればもう会う理由は無い。最初から決まっていたこと。分かっていたのに受け止めるのがつらい。別にそこまで深刻に考えなくとも、同じ学園に通っているのだから会いたいと思えば会える。でも相手は別格な存在。気軽に話せなくなることくらい琴璃も分かっている。今更それを思い知って途端に悲しくなった。
自分の怪我をこれっぽっちも呪っていなかった。怪我をしたことで跡部が心配してくれる。そんなふうに思っていた。密かな優越を感じていた。そんな自分だと気付いて、泣きたくなった。自分はなんて嫌なやつなんだと。
ゆるゆると自分の席に戻る。そこからしばらく動けなかった。予定があるから先に帰る友人と何とない会話をして。最後に残っていた日直の子に、電気よろしく、と言われても適当に返事をした。
その後少なくとも30分以上はぼーっとしていた気がする。ようやく教室を後にした。今日は昼前から一日中雨だ。午前よりも雨足が強い。今朝も跡部に送ってもらったから傘は持ち合わせていない。昇降口には誰のものか知らないビニール傘が何本か残されていたが、他人のものを勝手に拝借なんてできない。
「濡れて帰ろ」
外へ出て僅かな距離しか歩いてないのに、制服に次々染みができる。わりと大降りの雨。
こんな天候で傘を差さないほうが可笑しい。教室からここまで誰とも会わないのが幸運だった。こんなところ誰かに見られたくない。
「お前は風邪をひきたいのか」
声がして、自分に落ちてくる雨が無くなった。黒い影が琴璃の頭上にある。大きな傘だった。持ち主は、
「……跡部くん」
1番会いたくなかった。見られたくなかったのに。黙って帰ろうとしてたのに。なんでここが、と聞きたかった。それより早く跡部が琴璃の腕を掴む。
「こんな所で何してる。俺は部室に来いと言ったはずだが」
「……うん。忘れてた」
「嘘だな」
来い、と琴璃の腕を引いて跡部が歩きだす。雨はいっそう強まってきた。まるで自分の心の中みたいだな。他人事のように感じながら、琴璃は静かに泣いた。それは髪から滴る雫と混じって地面に落ちていった。