カーテンコール
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きりのいいところまでやっていたら今日はいつもより遅くなってしまった。「失礼します」と引き戸の扉を開ける。もうわりと遅い時間だからか、職員室の中はあまり人がいなかった。使っていた家庭科準備室の鍵をもとの場所に戻していた時。
「琴璃」
名前を呼ばれて振り向く。跡部が同じように室内に入ってきた所だった。何か書類を脇に抱えている。
「どうしたの?」
「色々と報告やら提出物だ」
と、抱えていた紙の束を見せてきた。生徒会のものなのか文化祭関連のものなのか。多分どっちもなんだろう。いつも忙しそうな人だなぁと思う。
「すぐ終わるから待ってろ」
と、ドア付近を指差してから跡部は奥へ入ってゆく。職員室の、その先に繋がっている校長室の中へと姿を消した。琴璃は大人しく外の廊下で待つことにした。もうこんな時間だから校舎内に残っている生徒はそんなにいない。なら少しくらいは彼といたって大丈夫だろう。これが日中だったら、他の生徒に見られたりするリスクが高いから絶対に嫌だけど。
2、3分くらいして跡部は部屋から出てきた。書類の束は手から無くなっていた。2人は並んで廊下を歩き出す。
「押し付けられていたものは終わりそうか?」
「だから押し付けられたわけじゃないってば。お陰様で今日作り終わったよ。他の班も良い感じに進んでるみたい」
結局というか思ったとおりというか、クロスやカーテンは3日かけて琴璃が1人で仕上げた。それでも出来が早かったようで、他の班の子らに物凄く感謝された。
不意に跡部の足が止まる。つられて琴璃も止まってしまった。そのまま彼は琴璃に体を向ける。立ち止まった場所は階段に差し掛かるところだった。そこはあまり灯りが届かない。でも、彼の瞳の色はよく分かった。見惚れそうなほど綺麗な青い瞳が、琴璃に向けられている。
「どうしたの?」
「疲れた顔してるな」
そう言うと、跡部はいきなり琴璃の頬に手を添えてきた。温度を持った長い指が肌を滑る。最近はやたらとこんなふうに触れてくることが増えた。跡部がわざとやってることくらい琴璃は分かっている。いつもはぐらかす自分を、まるで逃がさないと訴えられているかのようだ。
「文化祭、お前は楽しみじゃねぇのか」
「なんで?楽しみだよ」
「ならもう少し活気を見せろよ」
「……準備にちょっと疲れちゃっただけ」
まだ頬には彼の手がある。やんわりと払おうと手を伸ばしたのに、逆に掴まれてしまう。けっこう強めの力だった。
「嘘だな」
少し突き放したような言い方だった。琴璃の心臓が大きく跳ねる。
「俺と2人になるのが嫌なんだろ、お前」
「そんなわけ」
「ないと言えるのかよ」
琴璃はまだ手を離してもらえない。振り払って逃げたくても、行く手を阻まれてどうすることもできない。物理的にも精神的にも逃げ場を塞がれている。
「俺に対して思うことがあるというよりも、あの女友達のせいだろ。あの日を境に、お前は俺に対してどこか余所余所しくなったからな」
やっぱり。全部知ってるんだな。あの子の気持ちだけじゃなくて私の気持ちも。この人は全部知ってる。もともと隠せる自信なんてなかったけれど。それでも、簡単には言えない。だってあの子が悲しむから。自分の思うように行動したら誰かが悲しむなんて嫌だ。それならいっそ、何もしないほうがいい。
高等部から氷帝学園に入学した琴璃は、最初のうちは物凄く緊張していた。氷帝はどこか裕福な家庭の子が通うようなイメージがあって、ごく普通の家の自分はどこか馴染めずにいた。みんな初めましての子ばかりで気軽に話せない。別にまわりの子と線を引くつもりなんかなくても、やっぱりどこか感覚が違う時があった。
1年のクラスの時、最初に話しかけてくれたのがあの子だった。彼女もまたどこかいい所のお嬢様なのに、琴璃にとても優しく接してくれた。見下したり自慢することもなく、対等に接してくれたから嬉しかった。
その彼女からある日の学校生活の中で、秘密を打ち明けられた。
『跡部くんのことが好きなの』
彼女に教えられる前から跡部の存在は琴璃も認識していた。色々とこの学校のトップ的地位だったから、在校生ならば知らない者などいない。生徒会長を担いテニス部の部長も務める彼もまた、跡部財閥の御曹司というすごい立場の人だった。育ちだけでなく容姿も整っているから女子からの人気がすごい。彼の誕生日やバレンタインといったイベントの日は、毎年軽くお祭り騒ぎになっていた。『跡部様のファンクラブがあるんだよ』と琴璃に教えてくれた彼女もまたファンクラブの一員だった。
彼女が好きだと言うから、時には一緒に男子テニス部の練習を見に行ったりもした。跡部はいつも堂々としていて、集団の中心にいてとにかく派手な人だった。人に見られることに慣れてるんだなと思った。女子たちから熱い視線を受けたり、もてはやさることは彼の中で特別なことではないらしい。ますます住む世界が別の人だと思ってしまう。
そんな彼とは3学年になって同じクラスになった。直接的に関わることなんてほとんどなかった。なのにある日、ひょんなことから跡部と話をする機会があった。話してみるとわりと普通の人――といったら語弊があるかもしれないが、少なくとも琴璃の想像していたような人ではなかった。真面目にこちらの話を聞いてくれたし親切だった。これも実のところ意外だった。最初はもっと、怖い人かと思っていたから。
その一件を機に、跡部と話をすることがわりと増えた。話していくうちに彼が女子からモテる理由が分かった気がした。でもきっと、跡部に好意を寄せる女子の多くは外見を見て好きだと言ってるのだと思う。だってそんなに彼は普段から彼女らと話をしている様子もない。というか、彼があまり女子生徒と接する所を見たことがない。じゃあ自分はどうして日頃からこんなに話しかけてもらえるんだろう。何故彼は私のことを名前で呼ぶのだろう。いつからか気になって、気づいたら彼の姿を目で追う日々だった。友達の付き合いで一緒に見に行く男子テニス部が、密かに楽しみになっていた。
『今日も跡部様かっこいい』
『うん』
『キラキラしてる。ずっと見てられるわ』
『そうだね』
友人に対するただの相槌じゃなくて、琴璃も本心からそう思っていた。かっこいいな。何でもできてしまう彼は眩しいな。ずっと見ていたいな。恋に落ちたのがいつからなのか正確な日なんて分からないし、理由だって説明できない。理屈じゃないと思った。いつしか琴璃の眼には特別な人に映っていた。
跡部がコートでサーブやスマッシュを決めるたびに周囲から黄色い声が沸く。彼は沢山の女子から好かれている。誰かと付き合っているという噂は今のところ聞いたことがないけれど、でもいつかはあの中から誰か1人を選ぶのだろうか。それを考えた時、一気に気持ちが落ち込んだ。言いようのない不安みたいなものを感じた。そんな自分に琴璃ははっとした。それってつまりは嫉妬なのだと自覚した瞬間だった。琴璃の隣では、相変わらず友人がうっとりした目で跡部を応援している。もう2年くらい、ずっとずっと片想いをしている彼女。琴璃にとって氷帝で初めて友達になってくれた子。恋する気持ちを琴璃に打ち明けてくれた。そんな話をしてくれるぐらい、自分は彼女からとても信頼されているんだと思う。
そんな子を裏切るだなんてできない。だから琴璃は、跡部に惹かれたことをなかったことにした。自分の気持ちに嘘をついて、蓋をした。
それからはもう、跡部を見るのがどこか辛い。教室で話しかけられてもテニス部の活動を見ていても、ふとした時に目に入ってしまった時も。琴璃にとって、跡部を好きになることは辛くて苦しいことだった。なのに、そんなことしたくないのに、今でもやっぱり彼の姿を探してしまう自分がいる。行き場のない気持ちをまだ、胸の奥底に燻ぶらせて。
「琴璃」
名前を呼ばれて振り向く。跡部が同じように室内に入ってきた所だった。何か書類を脇に抱えている。
「どうしたの?」
「色々と報告やら提出物だ」
と、抱えていた紙の束を見せてきた。生徒会のものなのか文化祭関連のものなのか。多分どっちもなんだろう。いつも忙しそうな人だなぁと思う。
「すぐ終わるから待ってろ」
と、ドア付近を指差してから跡部は奥へ入ってゆく。職員室の、その先に繋がっている校長室の中へと姿を消した。琴璃は大人しく外の廊下で待つことにした。もうこんな時間だから校舎内に残っている生徒はそんなにいない。なら少しくらいは彼といたって大丈夫だろう。これが日中だったら、他の生徒に見られたりするリスクが高いから絶対に嫌だけど。
2、3分くらいして跡部は部屋から出てきた。書類の束は手から無くなっていた。2人は並んで廊下を歩き出す。
「押し付けられていたものは終わりそうか?」
「だから押し付けられたわけじゃないってば。お陰様で今日作り終わったよ。他の班も良い感じに進んでるみたい」
結局というか思ったとおりというか、クロスやカーテンは3日かけて琴璃が1人で仕上げた。それでも出来が早かったようで、他の班の子らに物凄く感謝された。
不意に跡部の足が止まる。つられて琴璃も止まってしまった。そのまま彼は琴璃に体を向ける。立ち止まった場所は階段に差し掛かるところだった。そこはあまり灯りが届かない。でも、彼の瞳の色はよく分かった。見惚れそうなほど綺麗な青い瞳が、琴璃に向けられている。
「どうしたの?」
「疲れた顔してるな」
そう言うと、跡部はいきなり琴璃の頬に手を添えてきた。温度を持った長い指が肌を滑る。最近はやたらとこんなふうに触れてくることが増えた。跡部がわざとやってることくらい琴璃は分かっている。いつもはぐらかす自分を、まるで逃がさないと訴えられているかのようだ。
「文化祭、お前は楽しみじゃねぇのか」
「なんで?楽しみだよ」
「ならもう少し活気を見せろよ」
「……準備にちょっと疲れちゃっただけ」
まだ頬には彼の手がある。やんわりと払おうと手を伸ばしたのに、逆に掴まれてしまう。けっこう強めの力だった。
「嘘だな」
少し突き放したような言い方だった。琴璃の心臓が大きく跳ねる。
「俺と2人になるのが嫌なんだろ、お前」
「そんなわけ」
「ないと言えるのかよ」
琴璃はまだ手を離してもらえない。振り払って逃げたくても、行く手を阻まれてどうすることもできない。物理的にも精神的にも逃げ場を塞がれている。
「俺に対して思うことがあるというよりも、あの女友達のせいだろ。あの日を境に、お前は俺に対してどこか余所余所しくなったからな」
やっぱり。全部知ってるんだな。あの子の気持ちだけじゃなくて私の気持ちも。この人は全部知ってる。もともと隠せる自信なんてなかったけれど。それでも、簡単には言えない。だってあの子が悲しむから。自分の思うように行動したら誰かが悲しむなんて嫌だ。それならいっそ、何もしないほうがいい。
高等部から氷帝学園に入学した琴璃は、最初のうちは物凄く緊張していた。氷帝はどこか裕福な家庭の子が通うようなイメージがあって、ごく普通の家の自分はどこか馴染めずにいた。みんな初めましての子ばかりで気軽に話せない。別にまわりの子と線を引くつもりなんかなくても、やっぱりどこか感覚が違う時があった。
1年のクラスの時、最初に話しかけてくれたのがあの子だった。彼女もまたどこかいい所のお嬢様なのに、琴璃にとても優しく接してくれた。見下したり自慢することもなく、対等に接してくれたから嬉しかった。
その彼女からある日の学校生活の中で、秘密を打ち明けられた。
『跡部くんのことが好きなの』
彼女に教えられる前から跡部の存在は琴璃も認識していた。色々とこの学校のトップ的地位だったから、在校生ならば知らない者などいない。生徒会長を担いテニス部の部長も務める彼もまた、跡部財閥の御曹司というすごい立場の人だった。育ちだけでなく容姿も整っているから女子からの人気がすごい。彼の誕生日やバレンタインといったイベントの日は、毎年軽くお祭り騒ぎになっていた。『跡部様のファンクラブがあるんだよ』と琴璃に教えてくれた彼女もまたファンクラブの一員だった。
彼女が好きだと言うから、時には一緒に男子テニス部の練習を見に行ったりもした。跡部はいつも堂々としていて、集団の中心にいてとにかく派手な人だった。人に見られることに慣れてるんだなと思った。女子たちから熱い視線を受けたり、もてはやさることは彼の中で特別なことではないらしい。ますます住む世界が別の人だと思ってしまう。
そんな彼とは3学年になって同じクラスになった。直接的に関わることなんてほとんどなかった。なのにある日、ひょんなことから跡部と話をする機会があった。話してみるとわりと普通の人――といったら語弊があるかもしれないが、少なくとも琴璃の想像していたような人ではなかった。真面目にこちらの話を聞いてくれたし親切だった。これも実のところ意外だった。最初はもっと、怖い人かと思っていたから。
その一件を機に、跡部と話をすることがわりと増えた。話していくうちに彼が女子からモテる理由が分かった気がした。でもきっと、跡部に好意を寄せる女子の多くは外見を見て好きだと言ってるのだと思う。だってそんなに彼は普段から彼女らと話をしている様子もない。というか、彼があまり女子生徒と接する所を見たことがない。じゃあ自分はどうして日頃からこんなに話しかけてもらえるんだろう。何故彼は私のことを名前で呼ぶのだろう。いつからか気になって、気づいたら彼の姿を目で追う日々だった。友達の付き合いで一緒に見に行く男子テニス部が、密かに楽しみになっていた。
『今日も跡部様かっこいい』
『うん』
『キラキラしてる。ずっと見てられるわ』
『そうだね』
友人に対するただの相槌じゃなくて、琴璃も本心からそう思っていた。かっこいいな。何でもできてしまう彼は眩しいな。ずっと見ていたいな。恋に落ちたのがいつからなのか正確な日なんて分からないし、理由だって説明できない。理屈じゃないと思った。いつしか琴璃の眼には特別な人に映っていた。
跡部がコートでサーブやスマッシュを決めるたびに周囲から黄色い声が沸く。彼は沢山の女子から好かれている。誰かと付き合っているという噂は今のところ聞いたことがないけれど、でもいつかはあの中から誰か1人を選ぶのだろうか。それを考えた時、一気に気持ちが落ち込んだ。言いようのない不安みたいなものを感じた。そんな自分に琴璃ははっとした。それってつまりは嫉妬なのだと自覚した瞬間だった。琴璃の隣では、相変わらず友人がうっとりした目で跡部を応援している。もう2年くらい、ずっとずっと片想いをしている彼女。琴璃にとって氷帝で初めて友達になってくれた子。恋する気持ちを琴璃に打ち明けてくれた。そんな話をしてくれるぐらい、自分は彼女からとても信頼されているんだと思う。
そんな子を裏切るだなんてできない。だから琴璃は、跡部に惹かれたことをなかったことにした。自分の気持ちに嘘をついて、蓋をした。
それからはもう、跡部を見るのがどこか辛い。教室で話しかけられてもテニス部の活動を見ていても、ふとした時に目に入ってしまった時も。琴璃にとって、跡部を好きになることは辛くて苦しいことだった。なのに、そんなことしたくないのに、今でもやっぱり彼の姿を探してしまう自分がいる。行き場のない気持ちをまだ、胸の奥底に燻ぶらせて。
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