恋情アンチノミー
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保健医に手当てをしてもらい、再びグラウンドへと戻る途中。
「ご迷惑おかけしてすみませんでした」
小さな声で琴璃が呟いた。
「おん。気にせんで。たまたま見てただけやから」
へらりと笑って返したけど、琴璃は相変わらず前を向いたままムスッとしている。
「にしても、顔は怪我せんでよかったなあ」
「……はぁ」
「走るとこ見てたけど、自分、足早いやん」
「別に。人並みです」
「あ、ハードルは苦手なん?」
「そういうわけではありません」
会話が続かない。彼女が、意図的に断絶しようとしているからだ。もうこれ以上話しかけるなというオーラがびしびし伝わってくる。だらだら歩いているうちに昇降口についてしまった。
「なんか、俺のこと避けとる?」
ぴくりと琴璃の肩が反応した。図星をつかれて顔を上げる。ようやく目が合った彼女は、とんでもなく不機嫌な顔をしていた。こんなふうに真正面から女の子に睨まれたのは、忍足にとって初めてのことだった。
「こないだ俺があんなこと言ったから怒らしてもうたんやな。堪忍な」
機嫌を取ろうとしてしまうのは性分なのか。はたまた怒っている女の子が苦手なのか。女の子に嫌われたことがないから分からないけど、今のこの、いたたまれない空気をどうにかしようと思ったのだ。だが、忍足がへらりと笑うたびに彼女の眉間の皺はどんどん深くなってゆく。めっちゃ嫌がられとるやん、と脳内で独りツッコミを入れる。なんだか虚しくなった。
「ほな、体育頑張ってな」
そう言って、忍足は琴璃の隣から次第に逸れて歩く。彼女がもう自分に興味など無くなった今、これ以上構ったりするのも可哀想だと思った。だが、去ろうとする忍足に声がかかる。
「あの」
「ん?」
「もしあの時私が、あなたが言った通り「好き」って言ってたらどうしたんですか?」
「んー?ありがとぉって言うよ」
そんなことを聞かれるとは思わなかった。はっきり言って今のは意表を突かれたのだが、それでも忍足は悩む時間など作ることなく軽やかに答えた。これもまた性分なのだろうか。相手が傷つかず、必要以上に距離を詰めないような、実に曖昧な返答をしてしまう。琴璃にその意思が伝わったのかは分からない。けれど彼女は「そうですか」とだけ言うと、もう忍足のほうを見なかった。しゃがんで靴を履いている。その小さな背中を上から見下ろしていた。何を考えとるんかな、と思った。
「なんか、今俺に言っときたいこと、ある?」
どうしてかそんな言葉が出てしまった。この子のことを試しているのか。流れで聞いてしまっただけで、あまり深くは考えていなかった。だけどちょっとした賭けであったのかもしれない。彼女がまだ自分に気があるのかどうかを確かめたかった。これでもし、今度こそ彼女が告白をしてきたら自分はなんと答えるのだろうか。その先を考えておく間もなく、分からないままにそんなパスを送ってしまった。ただ彼女の反応を見たかっただけだった。数秒間の沈黙はやたら長く感じた。靴を履き終えた琴璃はゆっくりと立ち上がる。そして忍足のほうへ顔を向けると、
「何もないです」
たったそれだけ、きっぱりとした口調で言うと、忍足を置いて早歩きでグラウンドへ戻っていった。
「あの子って、1年生やんな?何組?」
「そんな抽象的な言い方で誰のことだか分かるわけがねぇだろうが」
「あぁ、そやな」
部活中にまたしても話しかけている。そろそろ怒られるんじゃないかと思っているけど、案外彼は話相手になってくれる。忍足のお喋りよりも、ここ数日ずっとジローが部活をサボっていることのほうが気に障っているようだった。
「ほら、こないだ部室に来た子。跡部に生徒会の書類のサインもらいに。名前は藤白琴璃ちゃん」
「へぇ」
それを聞いた跡部は分かりやすく興味を示す。忍足がすすんで特定の女子の話をすることなど、かつてないくらい珍しいのを跡部は知っている。
「いつの間に名前を知るほどアイツと仲良くなったんだ?」
「別に仲良くなんかなっとらんけど。ここに書類もらい来た時、跡部に苛められてたから帰り際にちょっと喋ったくらいやで」
「誰が苛めただと」
「まあまあ。ほんでな、今日その子と話す機会ができてな。こないだのこともあって気まずいから、もっかい聞いてみたん。「なんか俺に言うことある?」って。けど、ここまでパスしてやっても言わんかったわ。それどころか「ないです」て、めっちゃおっかない顔で言われてもうた」
「……テメェは一体なんの話をしてやがる」
「せやからほら、いつも気づいたら視界の隅っこにおる子の話をちょっと前にしたやん?」
「あぁ、テメーが、俺が好きならさっさと告白しろだとか、自惚れもいい発言してドン引きされたやつか」
「ちょい、言い方」
「そうか、その相手の女ってのが藤白だったわけだな」
ようやく話の本筋が見えた跡部は、ニヤリと口元を引き上げた。
「もともとお前の思い過ごしだったんじゃねーのか?だとしたら救いようのねぇレベルの思い上がりだが」
「うわ、そうやったとしたら俺もう、最悪やん」
跡部に笑って答えながら、内心では本当にそうなのかと疑問に思う。
てっきり琴璃も同じように、自分に友好的な眼差しを向けているだけの女の子だと思っていたのに。
忍足にまるで興味がないのなら、あんなことを聞いてきたりはしないだろう。自分に気があるかどうかは、相手からの視線で大抵分かる。そんなことを跡部に言ったらそれこそ「自惚れ野郎」と蔑まれそうだが、男女関わらず忍足は自分に向けてくる視線で、相手が自分をどう思っているのかが、なんとなくではあるが分かるのだ。琴璃が忍足に向けてくる眼差しは、決して無関心なんかではなかった。図書館や食堂などでこっそり視線を向けてきた時も。そこに仄かな好意を宿していた。それが自分の思い過ごしというのか。
「で、結局テメェはアイツをどうしたいんだ?落としてぇのかよ」
「は?」
「そこまで興味を持つってことは、他の女とは違うってことだろ?」
跡部の指摘はごもっともだった。好きなら好きと言えばいい、とけしかけておいて、それを断られて、それでも自分はまだ彼女のことを考えている。思い通りにならないのが、そんなに気に食わないのか。彼女に「何もないです」と突き放された時に、味わったことのないものを感じたのは間違いない。でもそれは屈辱感とか不愉快だとか、そういったマイナスの感情ではなくて。なんだか、うまく言えないが、はっとさせられたのだ。いつも、異性の心なんて手に取るように分かってしまっていたから。でもそれが今回は全く通用しなくて。冷静だったけど、まるで肩透かしを食らったような気分になった。
跡部の言う通り、自分はあの子に興味はあるんだと思う。けれどそれ以上ではない。だから、この気持ちに名前を付けることができない。少なくとも今の段階は。こんなふうに理詰めができない感情を抱くのは久しぶりだった。
「良いことを教えてやろう」
少々高慢気味に跡部が言う。
「俺の知る限り、アイツはお前と真逆な性質をしている」
「っちゅーのは、どういう意味」
「周りと群れない。お前のように相手の感情に気を配ることなく常に淡々としている」
「あぁ、それはなんとなく思ったわ。跡部に対しても特に怖気づいたりしてへんかったし」
「生徒会の中でも常に黙々と動いている。余計な感情をそこに持ち合わさず、合理的なことだけを考えているような女だ。1年のくせに実に理にかなった働きぶりをしてくれるぜ」
「へぇー」
跡部がこんなふうに他人を褒めるのが新鮮だった。テニス部の中であってもそんなことは滅多に無いのに。生徒会の中で琴璃は期待以上の活躍をしてくれているという証拠だ。
「だから、お前にとってはつまらねぇ女でしかねぇだろうな。ジョークも世辞も受け付けない。端的に言うならば頭の固いヤツだ。柔軟に物事を捉えられない」
あんなに褒めていたのに今度は批判的なことを言っている。だが跡部もまた、相手の思考を読むことに長けている。今の批評はあながち間違っちゃいないのだろうと忍足は思った。現に、彼女に冗談は通じなかった。愛想も振りまくだけ無駄だった。そんな性質の彼女がお前なんかに惚れるわけがないと、跡部はそう言いたいのだろう。
「ほんで。話戻るけどあの子って何組なん?」
「聞いてどうする」
「んー。何かのきっかけで思い出した時、会いに行くかもしれへんから」
自分がなんだか可笑しいことを言っている自覚はあった。その発言を聞いた跡部もまた、呆れた様子で忍足を嘲った。
「そんな日が果たして来るのかよ」
「そんなん分からんわ」
そんな日は来ないのかもしれない。でも、このまま琴璃のことをあっさり忘れるような感じでもない。だから、聞いた。それだけだ。今はそう思うようにした。
「ご迷惑おかけしてすみませんでした」
小さな声で琴璃が呟いた。
「おん。気にせんで。たまたま見てただけやから」
へらりと笑って返したけど、琴璃は相変わらず前を向いたままムスッとしている。
「にしても、顔は怪我せんでよかったなあ」
「……はぁ」
「走るとこ見てたけど、自分、足早いやん」
「別に。人並みです」
「あ、ハードルは苦手なん?」
「そういうわけではありません」
会話が続かない。彼女が、意図的に断絶しようとしているからだ。もうこれ以上話しかけるなというオーラがびしびし伝わってくる。だらだら歩いているうちに昇降口についてしまった。
「なんか、俺のこと避けとる?」
ぴくりと琴璃の肩が反応した。図星をつかれて顔を上げる。ようやく目が合った彼女は、とんでもなく不機嫌な顔をしていた。こんなふうに真正面から女の子に睨まれたのは、忍足にとって初めてのことだった。
「こないだ俺があんなこと言ったから怒らしてもうたんやな。堪忍な」
機嫌を取ろうとしてしまうのは性分なのか。はたまた怒っている女の子が苦手なのか。女の子に嫌われたことがないから分からないけど、今のこの、いたたまれない空気をどうにかしようと思ったのだ。だが、忍足がへらりと笑うたびに彼女の眉間の皺はどんどん深くなってゆく。めっちゃ嫌がられとるやん、と脳内で独りツッコミを入れる。なんだか虚しくなった。
「ほな、体育頑張ってな」
そう言って、忍足は琴璃の隣から次第に逸れて歩く。彼女がもう自分に興味など無くなった今、これ以上構ったりするのも可哀想だと思った。だが、去ろうとする忍足に声がかかる。
「あの」
「ん?」
「もしあの時私が、あなたが言った通り「好き」って言ってたらどうしたんですか?」
「んー?ありがとぉって言うよ」
そんなことを聞かれるとは思わなかった。はっきり言って今のは意表を突かれたのだが、それでも忍足は悩む時間など作ることなく軽やかに答えた。これもまた性分なのだろうか。相手が傷つかず、必要以上に距離を詰めないような、実に曖昧な返答をしてしまう。琴璃にその意思が伝わったのかは分からない。けれど彼女は「そうですか」とだけ言うと、もう忍足のほうを見なかった。しゃがんで靴を履いている。その小さな背中を上から見下ろしていた。何を考えとるんかな、と思った。
「なんか、今俺に言っときたいこと、ある?」
どうしてかそんな言葉が出てしまった。この子のことを試しているのか。流れで聞いてしまっただけで、あまり深くは考えていなかった。だけどちょっとした賭けであったのかもしれない。彼女がまだ自分に気があるのかどうかを確かめたかった。これでもし、今度こそ彼女が告白をしてきたら自分はなんと答えるのだろうか。その先を考えておく間もなく、分からないままにそんなパスを送ってしまった。ただ彼女の反応を見たかっただけだった。数秒間の沈黙はやたら長く感じた。靴を履き終えた琴璃はゆっくりと立ち上がる。そして忍足のほうへ顔を向けると、
「何もないです」
たったそれだけ、きっぱりとした口調で言うと、忍足を置いて早歩きでグラウンドへ戻っていった。
「あの子って、1年生やんな?何組?」
「そんな抽象的な言い方で誰のことだか分かるわけがねぇだろうが」
「あぁ、そやな」
部活中にまたしても話しかけている。そろそろ怒られるんじゃないかと思っているけど、案外彼は話相手になってくれる。忍足のお喋りよりも、ここ数日ずっとジローが部活をサボっていることのほうが気に障っているようだった。
「ほら、こないだ部室に来た子。跡部に生徒会の書類のサインもらいに。名前は藤白琴璃ちゃん」
「へぇ」
それを聞いた跡部は分かりやすく興味を示す。忍足がすすんで特定の女子の話をすることなど、かつてないくらい珍しいのを跡部は知っている。
「いつの間に名前を知るほどアイツと仲良くなったんだ?」
「別に仲良くなんかなっとらんけど。ここに書類もらい来た時、跡部に苛められてたから帰り際にちょっと喋ったくらいやで」
「誰が苛めただと」
「まあまあ。ほんでな、今日その子と話す機会ができてな。こないだのこともあって気まずいから、もっかい聞いてみたん。「なんか俺に言うことある?」って。けど、ここまでパスしてやっても言わんかったわ。それどころか「ないです」て、めっちゃおっかない顔で言われてもうた」
「……テメェは一体なんの話をしてやがる」
「せやからほら、いつも気づいたら視界の隅っこにおる子の話をちょっと前にしたやん?」
「あぁ、テメーが、俺が好きならさっさと告白しろだとか、自惚れもいい発言してドン引きされたやつか」
「ちょい、言い方」
「そうか、その相手の女ってのが藤白だったわけだな」
ようやく話の本筋が見えた跡部は、ニヤリと口元を引き上げた。
「もともとお前の思い過ごしだったんじゃねーのか?だとしたら救いようのねぇレベルの思い上がりだが」
「うわ、そうやったとしたら俺もう、最悪やん」
跡部に笑って答えながら、内心では本当にそうなのかと疑問に思う。
てっきり琴璃も同じように、自分に友好的な眼差しを向けているだけの女の子だと思っていたのに。
忍足にまるで興味がないのなら、あんなことを聞いてきたりはしないだろう。自分に気があるかどうかは、相手からの視線で大抵分かる。そんなことを跡部に言ったらそれこそ「自惚れ野郎」と蔑まれそうだが、男女関わらず忍足は自分に向けてくる視線で、相手が自分をどう思っているのかが、なんとなくではあるが分かるのだ。琴璃が忍足に向けてくる眼差しは、決して無関心なんかではなかった。図書館や食堂などでこっそり視線を向けてきた時も。そこに仄かな好意を宿していた。それが自分の思い過ごしというのか。
「で、結局テメェはアイツをどうしたいんだ?落としてぇのかよ」
「は?」
「そこまで興味を持つってことは、他の女とは違うってことだろ?」
跡部の指摘はごもっともだった。好きなら好きと言えばいい、とけしかけておいて、それを断られて、それでも自分はまだ彼女のことを考えている。思い通りにならないのが、そんなに気に食わないのか。彼女に「何もないです」と突き放された時に、味わったことのないものを感じたのは間違いない。でもそれは屈辱感とか不愉快だとか、そういったマイナスの感情ではなくて。なんだか、うまく言えないが、はっとさせられたのだ。いつも、異性の心なんて手に取るように分かってしまっていたから。でもそれが今回は全く通用しなくて。冷静だったけど、まるで肩透かしを食らったような気分になった。
跡部の言う通り、自分はあの子に興味はあるんだと思う。けれどそれ以上ではない。だから、この気持ちに名前を付けることができない。少なくとも今の段階は。こんなふうに理詰めができない感情を抱くのは久しぶりだった。
「良いことを教えてやろう」
少々高慢気味に跡部が言う。
「俺の知る限り、アイツはお前と真逆な性質をしている」
「っちゅーのは、どういう意味」
「周りと群れない。お前のように相手の感情に気を配ることなく常に淡々としている」
「あぁ、それはなんとなく思ったわ。跡部に対しても特に怖気づいたりしてへんかったし」
「生徒会の中でも常に黙々と動いている。余計な感情をそこに持ち合わさず、合理的なことだけを考えているような女だ。1年のくせに実に理にかなった働きぶりをしてくれるぜ」
「へぇー」
跡部がこんなふうに他人を褒めるのが新鮮だった。テニス部の中であってもそんなことは滅多に無いのに。生徒会の中で琴璃は期待以上の活躍をしてくれているという証拠だ。
「だから、お前にとってはつまらねぇ女でしかねぇだろうな。ジョークも世辞も受け付けない。端的に言うならば頭の固いヤツだ。柔軟に物事を捉えられない」
あんなに褒めていたのに今度は批判的なことを言っている。だが跡部もまた、相手の思考を読むことに長けている。今の批評はあながち間違っちゃいないのだろうと忍足は思った。現に、彼女に冗談は通じなかった。愛想も振りまくだけ無駄だった。そんな性質の彼女がお前なんかに惚れるわけがないと、跡部はそう言いたいのだろう。
「ほんで。話戻るけどあの子って何組なん?」
「聞いてどうする」
「んー。何かのきっかけで思い出した時、会いに行くかもしれへんから」
自分がなんだか可笑しいことを言っている自覚はあった。その発言を聞いた跡部もまた、呆れた様子で忍足を嘲った。
「そんな日が果たして来るのかよ」
「そんなん分からんわ」
そんな日は来ないのかもしれない。でも、このまま琴璃のことをあっさり忘れるような感じでもない。だから、聞いた。それだけだ。今はそう思うようにした。
