毒か薬か
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ひたすら天井を見つめるという、至極落ち着かない体験をした。熱なんて、最後に出したのはいつだったか。思い出せないほどに体調を崩したことなんて殆どなかった。今回のは間違いなく琴璃の風邪がうつったのだろう。
一方で元気になった琴璃は1人で氷帝に登校した。氷帝のそばまで車で送らせたが、琴璃の送迎から戻ってきた運転手から「帰りの迎えは結構ですとのことです」と告げられた。じゃあ今日は学校が終わってもここへは来ないのか。きっと風邪をうつしてしまったことで申し訳ないとか思ってるに違いない。けれど連絡くらいは寄こしてくるもんだと思っていたのに、携帯は日中何も受信しなかった。
今日は1日がやたらと長いと感じた。ずっと眠っていたわけではないが、部屋から出ると執事やらに小言を言われるのが嫌で日中はほとんど自室に居た。“することがない”だなんて事態が久しぶりすぎて、余計に時間を持て余してしまった。夕方になって、そろそろ通常の生活に戻ろうと思い部屋から出てみる。階段を降りたその先に琴璃が1人で立っていた。
「部長」
跡部の姿を見るなり血相変えて駆け寄ってきた。半分、泣きそうな顔をしていた。
「具合は大丈夫なんですか?熱は?横になってなくていいんですか?」
「もう治ったから心配するな」
「そうですか……よかった」
「そんなことよりお前、ここに戻ってくるなら連絡しろよ。迎えを断ったと聞いたから、てっきり自分の家に帰るのかと思った」
「すいません。なんか、部長がいないのにお迎えに来てもらうのも申し訳ない気がして」
そういうことだろうと思った。もしくは、車に乗るところを氷帝の生徒に目撃されるのを恐れたか。そのどちらかだと思ったが、琴璃は最初からここに戻ってくるつもりだった。その事実を知って内心で嬉しさを感じる自分がいる。我ながら単純なもんだなと思った。彼女の一挙手一投足が、こんなにも自分の精神を左右していることなど本人は知らないだろう。
「駅から1人で歩いてきたのか?」
「はい、途中でスーパー寄って、はちみつとか生姜買ってきました。昔、風邪で寝込んだ時にお湯で割って飲んだら治ったの思い出して……でも、もうそんなの要らないかもだけど」
言いながら琴璃は手にしていた袋を揺らす。控えめに笑ったかと思いきや、跡部と目が合うと途端につらそうな顔つきになった。
「私にも何か、できないかなと思って、それで……」
言葉が途切れる。とうとう琴璃は袋ごと手を下に降ろし俯いてしまった。
「私のせいで、風邪うつしちゃってごめんなさい。風邪だけじゃなくて、今まで……今もだけど、いろいろ、いっぱい……迷惑かけてごめんなさい」
そこまで言って再び琴璃は顔を上げる。見せてきたのは、今にも泣きだしそうな切羽詰まった表情だった。大きな両目はうるうると揺れている。跡部は小さく溜息をついた。
「とりあえずそいつを置け」
「え?」
「じゃないとお前を抱きしめられない」
「あ、あ、」
琴璃がもたもたしているうちに、跡部は袋を取り上げそばのチェストの上に置いた。両手が空くと今度こそ正面から両手で抱きしめた。
「お前は本当に罪作りな女だな」
「……」
「お前が笑うと気持ちが安らぐ。だが泣きそうな顔をされると今度は無性に落ち着かなくなる。そうやって癒したり惑わせたり。まるで毒にも薬にもなりうるような存在だ」
「部長……」
「俺を生殺しにでもしたいのか?」
「そ、そんなつもりないですよ!」
琴璃が喚くから、一度身体を離しその顔を覗き込む。顔を近づけられ慌てふためく彼女の頬は見事に赤く染まっていた。
「“Gift”って単語があるだろ」
「贈り物って意味の?」
「あぁ。英語ではそういう翻訳になる。だが同じスペルでも、ドイツ語のGiftは“毒”という意味になる」
「え、そうなんですか……不思議。まるで正反対の意味になっちゃうんだ」
「そうだな。だが、元々はどちらも“与える”という意味の語源らしい」
「へぇー」
「俺は、お前から与えられるものなら何だっていい。愛でも毒でも」
淀みなく言った跡部を琴璃ははっとした顔で見つめていた。
「毒なんて……そんなひどいもの与えませんよ」
「なら、なるべく俺には笑顔を見せてくれ。お前に辛そうな顔をされると、俺も辛い」
「……部長も」
「なんだ」
「辛いと思う時とか、あるんだなぁって」
「当たり前だろうが。俺をなんだと思ってやがる」
そう言った跡部から琴璃は額を小突かれる。だけどなんだか嬉しいと感じた。それでいて、完全無欠な人が自分のせいで悲しんだり落ち込んだりするんだと知った。そしてその逆も言えて。自分が笑えばこの人が喜んでくれる。こんな嬉しいことってないのに。
皆に隠すような態度をとるようになってから、常にどこか気持ちが張っていて。心から笑った回数などきっと、最近じゃ数えられる程度だったかもしれない。だからやっぱり、この状態を保ち続けるのは精神的もよくないんだと痛いほど分かった。他の人の目を欺く為に、好きな人を無視なんてやっぱりできない。琴璃は決心した。
「そもそもな話だが」
自分の中で答えが出た時、跡部が切り出す。まるで琴璃の頭の中身を見抜いていたかのようなタイミングで。
「お前が他の連中の前で器用に立ち振る舞えるだなんて思っちゃいねぇよ。いずれどうしたって、バレる。それくらい分かっていた」
「……はい」
「お前にはどうしてもそれが許せないのか?」
琴璃が恋人関係を秘匿したがる理由を、今まで跡部は聞いたことがなかった。琴璃が思いつめた顔をするから敢えて触れずにいた。周りからの目が怖いとか、そんな類いの理由だろうと思っていたし、聞いたところで秘密にし続ける姿勢は変わらないのだと思っていたからだ。
跡部の問いに琴璃は首を振った。
「もう、いいんです。隠すのはもうやめます。無理して過ごすの、もう疲れた」
「何かあったのか」
まさかこんな簡単に諦めるとは思っていなかったから不審に思う。あれほど執拗にバレることを恐れていたというのに、どういう風の吹き回しなのか。
「違うんです、投げやりになったわけじゃなくて。……えと、今日学校で、隠してることに関してアドバイスを頂いてきたんですけど」
「忍足か」
琴璃はこくりと頷く。
「忍足先輩に、しなくてもいい我慢をしてるって言われました。私、全然そんなつもりじゃなかったのに。でも考えたらそのとおりで。私、部長とのことを隠すために色々無理してました。そのせいで最近は部活の時間が楽しくないって思うようになってた。部長にわざと素っ気なくしなくちゃ。でもその加減が分からなくて関わること自体避けちゃったり。あとになってそれが罪悪感いっぱいになったり。かと思えば、せっかく2人で居てもなかなか素直になれなかったり。……なんかもう、めちゃめちゃで」
跡部は今朝琴璃に、忍足には知られていることを教えた。だからきっと会いに行くだろうと思っていた。一度あの男と話をしたほうがいいと思ったのだ。これ以上隠し続けるリスクを知るいい機会になるんじゃないかと、そう思った。だから事実を教えた。どう転ぶか分からなかったが、結果的に琴璃は前向きになれたようだ。珍しく熱のこもった口調になっている。
「忍足先輩はとっても朗らかに言ってくれたけど、私にはその言葉がすごく刺さったんです。このままでいいのかな。好きな気持ちを殺してまで、部長とのことを隠したいのかなって。……なんか、それって違うんじゃないかなって」
そうまでして、心をすり減らして何を馬鹿みたいに嘘を演じているのだろうと。まさしくしなくてもいい我慢だ。忍足の言ったことが胸に深く沈みこんだ。誰からも指摘されたことがなかったから、尚更あの言葉は琴璃の心にこたえた。
「ただ、好きなだけなのに」
いつの間にか思いを吐露する琴璃の目尻に涙が溜まっていた。表面張力によってまだぎりぎり落ちずにいたが、もう時間の問題だった。
「だから、隠すのやめます。もう誰にバレたっていい。自分の気持ちに嘘つかないでいたい」
言い切って、琴璃は目を赤らめたまま静かに笑った。全て吐き出して気持ちが軽くなったようだ。
気持ちを隠すということは、跡部にも多少なりとも見えない足枷になっていた。偽るとまではいかなくとも、通常とは違う態度をとり続けることは跡部であっても神経を使うのだ。負担は少しづつであろうが、着実に溜まる。だから、今ここで琴璃が隠し通すことへの拘りを捨ててくれて、心底ほっとした。
「それで、これからは邪魔にならない程度に控えめに見ていようと思います、部長のこと」
「なんだそりゃ。遠慮せず、もっと堂々と、この距離で俺のことを見つめていいんだぜ?」
言って、跡部は琴璃へぐっと顔を近づける。もうあと数センチで鼻先がぶつかる距離。琴璃は恥ずかしがるけど、もう顔をそらしたりしなかった。僅かに開いている唇が跡部には誘っているようにしか見えない。今すぐに塞ぎたくなる。けれど琴璃は何かをまだ言おうとしていた。大人しく言葉の続きを待つ。
「……私は部長が思っているよりも、もっと、ずっと重たいんです。本心では、もっと部長のこと独り占めしたいしたいとか、思っちゃってる。部長のことを幻滅させちゃうくらい、考えてることが幼稚なんです」
そんなふうに、どこか自暴気味に琴璃が打ち明ける。言ってる内容と表情が明らかに矛盾している。その必死な琴璃の面持ちを冷静に見ていた跡部だが、我慢できなくなって笑ってしまった。
「何を言うかと思ったら」
自身の愛が重いだなんて告白を、このタイミングでされるとは思わなかった。
「今の言葉そっくり返すぜ。いいか琴璃。俺だって、お前が思っているよりもずっと重い愛を持っている。それは全てお前の為のものだというのに、お前が日中俺のことをちっとも見やしないから、行き場がない感情をいつも持て余している」
「へ……」
「それどころかお前は、他の部員共とは常に仲良く接してやがる。笑い合ってるのを目にするたび俺は内心不愉快になる。何がそんなに楽しいんだって、その輪の中に乗り込んでやりたくなるぜ。だがそんな無謀な真似をしたらお前との約束を破ることになる。だから行動にうつすなんて真似はしねぇが、そうやっていつも、頭の中で理性と衝動が鬩ぎ合っていたわけだ」
いたずら気に口元を引き上げながら跡部は続ける。
「だから、お前がまた次の日になって俺を避ける学校生活を送るくらいなら、いっそ学校かお前のどちらかをどうにかするしかねぇか、だなんて、くだらねぇのもいい所なことまで考えたりしていた」
「ど、どうにかって……?」
「さぁ。どうなるんだろうな」
跡部は最後だけわざと含み気味に言ってやる。目の前で琴璃が顔色を変える。焦ったり赤くなったり、忙しいヤツだなと思う。
「部長がそんなふうに、思ってたなんて」
「どうだ?幻滅したか?」
「そんなこと思いません」
「だろ?俺だって、お前がさっき言った程度のことで幻滅なんかしねぇよ。寧ろ本音が聞けて良かったと思っている。ま、結果的にお前が体調を崩したことによって聞けたわけだが。こういう時でなきゃ、お前は素直になろうとしないからな」
琴璃は黙って頷いた。
「けど、お前の愛の重さなんてまだまだ全然可愛いもんだぜ、琴璃。嫉妬だろうが独占だろうが、これぐらいじゃ到底俺が困ることは無ぇだろうな。ちっとも足りねぇよ。もっと俺を押し潰すぐらいぶつけてみやがれ」
跡部は余裕たっぷりに笑って言ってのける。彼女が自分に向けてくる感情の重さがある程度のものでは狼狽しない。それが、愛であろうと毒であろうと。例えばその感情が名前のつかないようなものであっても、全て、残さず受け止めよう。明日から第三者にバレようがそんなことは跡部には関係がない。この気持ちが変わることも揺らぐことも一切ないのだ。思いの重さを競うつもりはないけれど、自分の抱く彼女への愛は、それぐらい深くて大きなものだから。
琴璃はそれを分かっているだろうか。今日まで隠し通すことを我慢し続けたのも、全ては彼女の為だということも。
「け、け、けぇ……」
「なんだそれは」
突然、琴璃が真っ赤な顔で不可思議な声をあげ出す。跡部は何のつもりか分からなくて眉根を寄せた。
「すいません……。私には、ハードルが高いみたいです。すぐには呼べない」
「あ?」
「その、名前の話です……」
ごにょごにょ言って下を向く琴璃。だが、そんなの跡部が許すわけがなかった。
「そんな言い訳を俺が許すと思ってるのか」
ニヤリと笑って琴璃の頬を撫でる。さっきまでの涙はもう渇いていた。泣き顔を見るのはもうさっきので最後だ。
「そんなに難しいことかよ。名前で呼ぶことが」
「いや、その、あの、急には慣れなくて。あと、恥ずかしすぎて」
「そんなレベルじゃないほどの恥ずかしいことをもうしてるだろうが」
「い、言わないで!」
琴璃は両手で自身の耳を塞ごうとするが、その両腕を跡部が掴んで阻害した。そして真っ赤になった彼女の頬に唇を寄せた。
「俺は昨日お預けを喰らった上に風邪までうつされたんだ。きっちり責任とってもらおうじゃねぇの」
「…………はい」
頼りない声で琴璃は返事をする。いつまでも初々しい反応を見せる彼女が愛おしいと思う。
「明日は手始めに、皆がいるコートのど真ん中でお前を抱きしめてやる」
まるで、子供が悪巧みするかのような跡部を見て琴璃は思った。彼のこんな一面を見ることができるのも、きっと自分だけ。この人が甘えたり、辛いと言ったりする姿を他の人間は知らない。それはこれからも変わらないこと。2人の関係が皆に知られても、この人の素顔を知り続けるのは私1人だけのまま。この秘密だけはいつまでもずっと、守られ続ける。それだけでもう、彼をじゅうぶん独り占めしているということに、琴璃は今やっと気づいた。嬉しくて、何故だか泣きそうにもなった。広い背に回した手にぎゅっと力を込めると、それよりもずっと強い力が返ってきた。
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完璧(と思われてる)人でも、甘えるし落ち込むし嫉妬もするさ。人間だもの。
一方で元気になった琴璃は1人で氷帝に登校した。氷帝のそばまで車で送らせたが、琴璃の送迎から戻ってきた運転手から「帰りの迎えは結構ですとのことです」と告げられた。じゃあ今日は学校が終わってもここへは来ないのか。きっと風邪をうつしてしまったことで申し訳ないとか思ってるに違いない。けれど連絡くらいは寄こしてくるもんだと思っていたのに、携帯は日中何も受信しなかった。
今日は1日がやたらと長いと感じた。ずっと眠っていたわけではないが、部屋から出ると執事やらに小言を言われるのが嫌で日中はほとんど自室に居た。“することがない”だなんて事態が久しぶりすぎて、余計に時間を持て余してしまった。夕方になって、そろそろ通常の生活に戻ろうと思い部屋から出てみる。階段を降りたその先に琴璃が1人で立っていた。
「部長」
跡部の姿を見るなり血相変えて駆け寄ってきた。半分、泣きそうな顔をしていた。
「具合は大丈夫なんですか?熱は?横になってなくていいんですか?」
「もう治ったから心配するな」
「そうですか……よかった」
「そんなことよりお前、ここに戻ってくるなら連絡しろよ。迎えを断ったと聞いたから、てっきり自分の家に帰るのかと思った」
「すいません。なんか、部長がいないのにお迎えに来てもらうのも申し訳ない気がして」
そういうことだろうと思った。もしくは、車に乗るところを氷帝の生徒に目撃されるのを恐れたか。そのどちらかだと思ったが、琴璃は最初からここに戻ってくるつもりだった。その事実を知って内心で嬉しさを感じる自分がいる。我ながら単純なもんだなと思った。彼女の一挙手一投足が、こんなにも自分の精神を左右していることなど本人は知らないだろう。
「駅から1人で歩いてきたのか?」
「はい、途中でスーパー寄って、はちみつとか生姜買ってきました。昔、風邪で寝込んだ時にお湯で割って飲んだら治ったの思い出して……でも、もうそんなの要らないかもだけど」
言いながら琴璃は手にしていた袋を揺らす。控えめに笑ったかと思いきや、跡部と目が合うと途端につらそうな顔つきになった。
「私にも何か、できないかなと思って、それで……」
言葉が途切れる。とうとう琴璃は袋ごと手を下に降ろし俯いてしまった。
「私のせいで、風邪うつしちゃってごめんなさい。風邪だけじゃなくて、今まで……今もだけど、いろいろ、いっぱい……迷惑かけてごめんなさい」
そこまで言って再び琴璃は顔を上げる。見せてきたのは、今にも泣きだしそうな切羽詰まった表情だった。大きな両目はうるうると揺れている。跡部は小さく溜息をついた。
「とりあえずそいつを置け」
「え?」
「じゃないとお前を抱きしめられない」
「あ、あ、」
琴璃がもたもたしているうちに、跡部は袋を取り上げそばのチェストの上に置いた。両手が空くと今度こそ正面から両手で抱きしめた。
「お前は本当に罪作りな女だな」
「……」
「お前が笑うと気持ちが安らぐ。だが泣きそうな顔をされると今度は無性に落ち着かなくなる。そうやって癒したり惑わせたり。まるで毒にも薬にもなりうるような存在だ」
「部長……」
「俺を生殺しにでもしたいのか?」
「そ、そんなつもりないですよ!」
琴璃が喚くから、一度身体を離しその顔を覗き込む。顔を近づけられ慌てふためく彼女の頬は見事に赤く染まっていた。
「“Gift”って単語があるだろ」
「贈り物って意味の?」
「あぁ。英語ではそういう翻訳になる。だが同じスペルでも、ドイツ語のGiftは“毒”という意味になる」
「え、そうなんですか……不思議。まるで正反対の意味になっちゃうんだ」
「そうだな。だが、元々はどちらも“与える”という意味の語源らしい」
「へぇー」
「俺は、お前から与えられるものなら何だっていい。愛でも毒でも」
淀みなく言った跡部を琴璃ははっとした顔で見つめていた。
「毒なんて……そんなひどいもの与えませんよ」
「なら、なるべく俺には笑顔を見せてくれ。お前に辛そうな顔をされると、俺も辛い」
「……部長も」
「なんだ」
「辛いと思う時とか、あるんだなぁって」
「当たり前だろうが。俺をなんだと思ってやがる」
そう言った跡部から琴璃は額を小突かれる。だけどなんだか嬉しいと感じた。それでいて、完全無欠な人が自分のせいで悲しんだり落ち込んだりするんだと知った。そしてその逆も言えて。自分が笑えばこの人が喜んでくれる。こんな嬉しいことってないのに。
皆に隠すような態度をとるようになってから、常にどこか気持ちが張っていて。心から笑った回数などきっと、最近じゃ数えられる程度だったかもしれない。だからやっぱり、この状態を保ち続けるのは精神的もよくないんだと痛いほど分かった。他の人の目を欺く為に、好きな人を無視なんてやっぱりできない。琴璃は決心した。
「そもそもな話だが」
自分の中で答えが出た時、跡部が切り出す。まるで琴璃の頭の中身を見抜いていたかのようなタイミングで。
「お前が他の連中の前で器用に立ち振る舞えるだなんて思っちゃいねぇよ。いずれどうしたって、バレる。それくらい分かっていた」
「……はい」
「お前にはどうしてもそれが許せないのか?」
琴璃が恋人関係を秘匿したがる理由を、今まで跡部は聞いたことがなかった。琴璃が思いつめた顔をするから敢えて触れずにいた。周りからの目が怖いとか、そんな類いの理由だろうと思っていたし、聞いたところで秘密にし続ける姿勢は変わらないのだと思っていたからだ。
跡部の問いに琴璃は首を振った。
「もう、いいんです。隠すのはもうやめます。無理して過ごすの、もう疲れた」
「何かあったのか」
まさかこんな簡単に諦めるとは思っていなかったから不審に思う。あれほど執拗にバレることを恐れていたというのに、どういう風の吹き回しなのか。
「違うんです、投げやりになったわけじゃなくて。……えと、今日学校で、隠してることに関してアドバイスを頂いてきたんですけど」
「忍足か」
琴璃はこくりと頷く。
「忍足先輩に、しなくてもいい我慢をしてるって言われました。私、全然そんなつもりじゃなかったのに。でも考えたらそのとおりで。私、部長とのことを隠すために色々無理してました。そのせいで最近は部活の時間が楽しくないって思うようになってた。部長にわざと素っ気なくしなくちゃ。でもその加減が分からなくて関わること自体避けちゃったり。あとになってそれが罪悪感いっぱいになったり。かと思えば、せっかく2人で居てもなかなか素直になれなかったり。……なんかもう、めちゃめちゃで」
跡部は今朝琴璃に、忍足には知られていることを教えた。だからきっと会いに行くだろうと思っていた。一度あの男と話をしたほうがいいと思ったのだ。これ以上隠し続けるリスクを知るいい機会になるんじゃないかと、そう思った。だから事実を教えた。どう転ぶか分からなかったが、結果的に琴璃は前向きになれたようだ。珍しく熱のこもった口調になっている。
「忍足先輩はとっても朗らかに言ってくれたけど、私にはその言葉がすごく刺さったんです。このままでいいのかな。好きな気持ちを殺してまで、部長とのことを隠したいのかなって。……なんか、それって違うんじゃないかなって」
そうまでして、心をすり減らして何を馬鹿みたいに嘘を演じているのだろうと。まさしくしなくてもいい我慢だ。忍足の言ったことが胸に深く沈みこんだ。誰からも指摘されたことがなかったから、尚更あの言葉は琴璃の心にこたえた。
「ただ、好きなだけなのに」
いつの間にか思いを吐露する琴璃の目尻に涙が溜まっていた。表面張力によってまだぎりぎり落ちずにいたが、もう時間の問題だった。
「だから、隠すのやめます。もう誰にバレたっていい。自分の気持ちに嘘つかないでいたい」
言い切って、琴璃は目を赤らめたまま静かに笑った。全て吐き出して気持ちが軽くなったようだ。
気持ちを隠すということは、跡部にも多少なりとも見えない足枷になっていた。偽るとまではいかなくとも、通常とは違う態度をとり続けることは跡部であっても神経を使うのだ。負担は少しづつであろうが、着実に溜まる。だから、今ここで琴璃が隠し通すことへの拘りを捨ててくれて、心底ほっとした。
「それで、これからは邪魔にならない程度に控えめに見ていようと思います、部長のこと」
「なんだそりゃ。遠慮せず、もっと堂々と、この距離で俺のことを見つめていいんだぜ?」
言って、跡部は琴璃へぐっと顔を近づける。もうあと数センチで鼻先がぶつかる距離。琴璃は恥ずかしがるけど、もう顔をそらしたりしなかった。僅かに開いている唇が跡部には誘っているようにしか見えない。今すぐに塞ぎたくなる。けれど琴璃は何かをまだ言おうとしていた。大人しく言葉の続きを待つ。
「……私は部長が思っているよりも、もっと、ずっと重たいんです。本心では、もっと部長のこと独り占めしたいしたいとか、思っちゃってる。部長のことを幻滅させちゃうくらい、考えてることが幼稚なんです」
そんなふうに、どこか自暴気味に琴璃が打ち明ける。言ってる内容と表情が明らかに矛盾している。その必死な琴璃の面持ちを冷静に見ていた跡部だが、我慢できなくなって笑ってしまった。
「何を言うかと思ったら」
自身の愛が重いだなんて告白を、このタイミングでされるとは思わなかった。
「今の言葉そっくり返すぜ。いいか琴璃。俺だって、お前が思っているよりもずっと重い愛を持っている。それは全てお前の為のものだというのに、お前が日中俺のことをちっとも見やしないから、行き場がない感情をいつも持て余している」
「へ……」
「それどころかお前は、他の部員共とは常に仲良く接してやがる。笑い合ってるのを目にするたび俺は内心不愉快になる。何がそんなに楽しいんだって、その輪の中に乗り込んでやりたくなるぜ。だがそんな無謀な真似をしたらお前との約束を破ることになる。だから行動にうつすなんて真似はしねぇが、そうやっていつも、頭の中で理性と衝動が鬩ぎ合っていたわけだ」
いたずら気に口元を引き上げながら跡部は続ける。
「だから、お前がまた次の日になって俺を避ける学校生活を送るくらいなら、いっそ学校かお前のどちらかをどうにかするしかねぇか、だなんて、くだらねぇのもいい所なことまで考えたりしていた」
「ど、どうにかって……?」
「さぁ。どうなるんだろうな」
跡部は最後だけわざと含み気味に言ってやる。目の前で琴璃が顔色を変える。焦ったり赤くなったり、忙しいヤツだなと思う。
「部長がそんなふうに、思ってたなんて」
「どうだ?幻滅したか?」
「そんなこと思いません」
「だろ?俺だって、お前がさっき言った程度のことで幻滅なんかしねぇよ。寧ろ本音が聞けて良かったと思っている。ま、結果的にお前が体調を崩したことによって聞けたわけだが。こういう時でなきゃ、お前は素直になろうとしないからな」
琴璃は黙って頷いた。
「けど、お前の愛の重さなんてまだまだ全然可愛いもんだぜ、琴璃。嫉妬だろうが独占だろうが、これぐらいじゃ到底俺が困ることは無ぇだろうな。ちっとも足りねぇよ。もっと俺を押し潰すぐらいぶつけてみやがれ」
跡部は余裕たっぷりに笑って言ってのける。彼女が自分に向けてくる感情の重さがある程度のものでは狼狽しない。それが、愛であろうと毒であろうと。例えばその感情が名前のつかないようなものであっても、全て、残さず受け止めよう。明日から第三者にバレようがそんなことは跡部には関係がない。この気持ちが変わることも揺らぐことも一切ないのだ。思いの重さを競うつもりはないけれど、自分の抱く彼女への愛は、それぐらい深くて大きなものだから。
琴璃はそれを分かっているだろうか。今日まで隠し通すことを我慢し続けたのも、全ては彼女の為だということも。
「け、け、けぇ……」
「なんだそれは」
突然、琴璃が真っ赤な顔で不可思議な声をあげ出す。跡部は何のつもりか分からなくて眉根を寄せた。
「すいません……。私には、ハードルが高いみたいです。すぐには呼べない」
「あ?」
「その、名前の話です……」
ごにょごにょ言って下を向く琴璃。だが、そんなの跡部が許すわけがなかった。
「そんな言い訳を俺が許すと思ってるのか」
ニヤリと笑って琴璃の頬を撫でる。さっきまでの涙はもう渇いていた。泣き顔を見るのはもうさっきので最後だ。
「そんなに難しいことかよ。名前で呼ぶことが」
「いや、その、あの、急には慣れなくて。あと、恥ずかしすぎて」
「そんなレベルじゃないほどの恥ずかしいことをもうしてるだろうが」
「い、言わないで!」
琴璃は両手で自身の耳を塞ごうとするが、その両腕を跡部が掴んで阻害した。そして真っ赤になった彼女の頬に唇を寄せた。
「俺は昨日お預けを喰らった上に風邪までうつされたんだ。きっちり責任とってもらおうじゃねぇの」
「…………はい」
頼りない声で琴璃は返事をする。いつまでも初々しい反応を見せる彼女が愛おしいと思う。
「明日は手始めに、皆がいるコートのど真ん中でお前を抱きしめてやる」
まるで、子供が悪巧みするかのような跡部を見て琴璃は思った。彼のこんな一面を見ることができるのも、きっと自分だけ。この人が甘えたり、辛いと言ったりする姿を他の人間は知らない。それはこれからも変わらないこと。2人の関係が皆に知られても、この人の素顔を知り続けるのは私1人だけのまま。この秘密だけはいつまでもずっと、守られ続ける。それだけでもう、彼をじゅうぶん独り占めしているということに、琴璃は今やっと気づいた。嬉しくて、何故だか泣きそうにもなった。広い背に回した手にぎゅっと力を込めると、それよりもずっと強い力が返ってきた。
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完璧(と思われてる)人でも、甘えるし落ち込むし嫉妬もするさ。人間だもの。
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