毒か薬か
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帰ってくる間にもう随分と体調は回復したけれど、跡部家の主治医が来訪し、琴璃の容態を診てくれた。
念のため解熱薬を処方され、十分な食事と睡眠を促された。医者が帰ったあとは跡部家のメイドにいろいろと世話になり、今晩泊まる部屋に案内された。この家は一般的な家庭とは違いゲストルームなる部屋がある。急に客人が押しかけてきたところでさして問題ではないのだ。
当然のように食事と風呂をいただいた。制服を洗濯してくれるとのことで、琴璃は部屋に備えてあったバスローブを着た。ふわふわでいい匂いがして、まるでホテルのよう。でもちょっと、スースーして落ち着かない。
ここへは何度も遊びに来たことはあるけれど、やっぱりどうしてもそわそわしてしまう。部屋の真ん中にある広いソファの端っこに控えめに座った。さっきメイドから持ってきてもらった体温計で念の為熱を測る。すっかり平熱になっていた。体のだるさもなく、至って元気だ。栄養をとって体が温まったのもあるかもしれない。
琴璃は眠くなるまで何かしようと、自宅から持ってきた教科書たちをテーブルの上に広げた。一応テスト期間なので復習でもしておこうと持ってきたもの。
と、その時ノックの音がした。メイドさんかなと思って琴璃はぱたぱたと小走りでドアに近づき開ける。
「部長」
扉の向こうには跡部が立っていた。
「具合はどうだ」
「大丈夫です。もう治りました」
琴璃は部屋に戻りさっきの体温計を取って跡部に見せた。跡部はさっきまで琴璃が座っていた大きなソファに座る。隣をぽんとされたので素直にそこに腰掛けると、肩に頭を乗せてきた。
「……ぶちょう?」
なんだか本当に元気がない。車の中にいる時からそう感じていた。大丈夫なのかな。表情を確認しようにも、琴璃の肩口にうずめているから見えない。彼のさらさらの髪の毛が首筋にかかる。何も言えずじっとしていると、くぐもった声が聞こえた。
「俺は今日、初めて忍足の野郎に嫉妬した」
「……うそ」
「あぁん、なんだその反応は」
「だって、部長が嫉妬とか、そういうの、」
「似合わないって?」
そこで跡部が顔を上げた。至近距離から青い瞳が琴璃をとらえる。
「お前は俺のことをなんにも知らないんだな」
「え」
「俺も、お前のことをなんにも知らなかった」
言ってから跡部は鼻で笑う。
「天気で体調を崩しがちなのも、1週間親が不在で独りきりなのも知らなかった」
「言わなかったこと……怒ってますか」
「別に。お前が俺に言いたくないことだったんだろうから、そこに俺が怒る権利なんざねぇだろうが」
言いたかった。本当は。言えるタイミングを見つけていたら言わず終いになってしまった、だなんて、結局のところ言い訳だ。メールでも電話でも、いくらでも他人に見られないところで跡部に告げるタイミングは作れたはず。だからやっぱり無意識にこの人に言うことをやめたんだ。心配をかけたくない気持ちと、あともう1つの自分のワガママで。琴璃はきゅっと唇を噛んだ。自分はまだ、跡部に対して遠慮をしている。
跡部のことを毎日見ているのに、誰かの目を気にして最近は視界に入れることさえ怖がるようになってしまった。本当は違うのに、そんなことないのに。自分の行動が裏目に出ている。付き合うということはこんなにつらいものなのか。最近はそう思い詰めることもあった。
琴璃が黙っていると、跡部の手が頬に伸びてきた。そして、琴璃の頭の中を見透かしたかのように彼は言った。
「お前が他のヤツにバレることを嫌がるのは分かっている。けどな、それを守り抜くためにお前自身が窮屈になっていたら本末転倒じゃねぇのか」
琴璃は言葉を呑んだ。彼の言う通りだと思った。
「まぁ、お前がそのやり方で納得しているのなら構わねぇがな」
全然、構わないと思っているような口ぶりではなかった。いつもと変わらず冷静だけど、そこには確かに普段と比べて違和感がある。その微妙な違いが琴璃には分かる。恋人だから。跡部のことが、好きだから。
「それにしたって」
「わっ」
いきなり視界が反転した。
「いつになったら俺は名前で呼ばれるんだ?」
自分のことを見下ろしている跡部。口元は僅かに上がっている。彼の背後には白くて高い天井が見えた。
「ジローなんかは気軽に呼んでるくせに」
「ジロー先輩は、苗字が長いし他の皆さんも下の名前で呼んでるから」
「じゃあ鳳はどうなんだよ」
「長太郎くんは、幼稚舎の時からずっとクラスが同じだったから……」
苗字が長いからという理由でジローは下の名呼びなのに、鳳は反対に、苗字ではなく長い下の名のほうをわざわざ選んで呼んでいる。この矛盾に跡部は納得がいかない。自身の呼称は名前ですらないというのに。
「だって……、部長は部長ですもん」
「今もそうなのか」
「え」
「今この瞬間は、お前にとって俺は“部長”という存在なのかよ?」
ニヤニヤしながら跡部は琴璃に顔を近づける。押し倒されて身動きを封じられている今、どこにも逃げ場なんてない。琴璃は観念して首を振った。真っ赤な顔をして、小さく「違います」と呟いた。
もう元気なのに、熱は下がったはずなのに、顔は熱いし心臓もバクバク跳ねている。もう誰も、見ていないのに。気持ちを隠す必要なんてないのにこんなにも正常でいられない。普段学校では互いに素っ気ない態度でいるけれど。2人だけになると彼はこうやって真正面から琴璃を見つめる。そのギャップの差に、いまだに琴璃だけがどぎまぎしている。大きくて温かい手が琴璃の髪に伸びてきた。
「毛先が濡れてる」
「あ、まだちゃんと乾かしきれてなかったのかも。さっきお風呂いただいたので……」
琴璃が言い終わる前にキスをされた。今度は額ではなく唇だった。
「誘われているとしか思えねぇな」
横たわったまま、ぎゅっと身体を抱きしめられる。跡部はそのまま動かなくなった。ちっとも痛くはないけれど、強い強い力だった。広いソファの上で、琴璃は風呂上りで、バスローブ1枚で。健全な男子高校生ならこれで変な気が起きないほうがおかしいと思う。
琴璃の心臓はすさまじい速度で脈を打つ。抱きしめられると普通は落ち着くとか安らぐ気持ちになるのに、今日はひたすら緊張している。
やっぱり今日の彼はいつもと違う。忍足に嫉妬したと言ってきたり、今さら呼び名のことを指摘してきたり。怒っているわけではなさそうだけど、やっぱり、どこか違う。「今日は大人しく寝ておけ」とでも言われると思っていたのに全然そんなことない。琴璃は戸惑ってしまう。
こういうムードは初めてじゃないのに。何故だろう。嬉しいのに、嫌ではないのに、いつもと違う種類のこのドキドキ感はどこからやってくるんだろう。彼の体温を感じながら、琴璃は疑問を抱く。そして、理由が分かって思わず「あ」と声に出てしまった。その声に反応した跡部は顔を上げ、どうしたのかと琴璃の瞳を覗き込んできた。
――もうだめだ。限界で直視できない。
耐えきれず琴璃は目を逸らしてしまった。恥ずかしさと愛しさと、どこから現れたのか分からない謎の辛さ。いろんな感情が混ざり合って、もうこれ以上見つめ合うのが苦しくなってしまった。
嫌なんかじゃない。だけど、毎日学校で跡部に対して無視に近いような態度を向けているせいで、その延長線みたいに気持ちがまだ張り詰めている。うまく気持ちを切り替えられないせいでぎくしゃくしている自分がいるのだ。これじゃ跡部がさっき言った通りで本末転倒じゃないか。
普段あんなに我慢しているのに。ここぞという時に素直になれない。琴璃のこの現状を跡部も分かっている。人前でいる時と2人きりの時の“顔”の使い分けが思うようにできない、この不器用な態度に。
「なんてツラしてんだ」
フ、と笑って跡部は琴璃を解放した。ほぼ拒絶みたいな態度をとった琴璃に気を悪くするでもなく。立ち上がって部屋から出る寸前に、「早めに寝ろよ」と言うとあっさり姿を消した。さっきは一瞬まさかと思ったけど、やっぱり彼は優しいから、病み上がりな自分を襲うわけがない。
1人にされた後、案の定気持ちが一気にずんと落ちる。せっかく、具合もよくなって今夜は好きな人のそばにいられるというのに。ありのままに気持ちを解放できない自分ってなんなんだろう。
素直になりたい。好きと言いたい。名前を呼びたい。そんな、簡単な願望も叶えられない自分に嫌気がさした。テーブルに広げただけの教科書たちをまた鞄の中にしまう。そして、ゆるゆるした足取りでベッドに移動した。毛布を頭からかぶって横たわる。あんなにうるさかった心臓はもう正常のリズムに戻っていた。
念のため解熱薬を処方され、十分な食事と睡眠を促された。医者が帰ったあとは跡部家のメイドにいろいろと世話になり、今晩泊まる部屋に案内された。この家は一般的な家庭とは違いゲストルームなる部屋がある。急に客人が押しかけてきたところでさして問題ではないのだ。
当然のように食事と風呂をいただいた。制服を洗濯してくれるとのことで、琴璃は部屋に備えてあったバスローブを着た。ふわふわでいい匂いがして、まるでホテルのよう。でもちょっと、スースーして落ち着かない。
ここへは何度も遊びに来たことはあるけれど、やっぱりどうしてもそわそわしてしまう。部屋の真ん中にある広いソファの端っこに控えめに座った。さっきメイドから持ってきてもらった体温計で念の為熱を測る。すっかり平熱になっていた。体のだるさもなく、至って元気だ。栄養をとって体が温まったのもあるかもしれない。
琴璃は眠くなるまで何かしようと、自宅から持ってきた教科書たちをテーブルの上に広げた。一応テスト期間なので復習でもしておこうと持ってきたもの。
と、その時ノックの音がした。メイドさんかなと思って琴璃はぱたぱたと小走りでドアに近づき開ける。
「部長」
扉の向こうには跡部が立っていた。
「具合はどうだ」
「大丈夫です。もう治りました」
琴璃は部屋に戻りさっきの体温計を取って跡部に見せた。跡部はさっきまで琴璃が座っていた大きなソファに座る。隣をぽんとされたので素直にそこに腰掛けると、肩に頭を乗せてきた。
「……ぶちょう?」
なんだか本当に元気がない。車の中にいる時からそう感じていた。大丈夫なのかな。表情を確認しようにも、琴璃の肩口にうずめているから見えない。彼のさらさらの髪の毛が首筋にかかる。何も言えずじっとしていると、くぐもった声が聞こえた。
「俺は今日、初めて忍足の野郎に嫉妬した」
「……うそ」
「あぁん、なんだその反応は」
「だって、部長が嫉妬とか、そういうの、」
「似合わないって?」
そこで跡部が顔を上げた。至近距離から青い瞳が琴璃をとらえる。
「お前は俺のことをなんにも知らないんだな」
「え」
「俺も、お前のことをなんにも知らなかった」
言ってから跡部は鼻で笑う。
「天気で体調を崩しがちなのも、1週間親が不在で独りきりなのも知らなかった」
「言わなかったこと……怒ってますか」
「別に。お前が俺に言いたくないことだったんだろうから、そこに俺が怒る権利なんざねぇだろうが」
言いたかった。本当は。言えるタイミングを見つけていたら言わず終いになってしまった、だなんて、結局のところ言い訳だ。メールでも電話でも、いくらでも他人に見られないところで跡部に告げるタイミングは作れたはず。だからやっぱり無意識にこの人に言うことをやめたんだ。心配をかけたくない気持ちと、あともう1つの自分のワガママで。琴璃はきゅっと唇を噛んだ。自分はまだ、跡部に対して遠慮をしている。
跡部のことを毎日見ているのに、誰かの目を気にして最近は視界に入れることさえ怖がるようになってしまった。本当は違うのに、そんなことないのに。自分の行動が裏目に出ている。付き合うということはこんなにつらいものなのか。最近はそう思い詰めることもあった。
琴璃が黙っていると、跡部の手が頬に伸びてきた。そして、琴璃の頭の中を見透かしたかのように彼は言った。
「お前が他のヤツにバレることを嫌がるのは分かっている。けどな、それを守り抜くためにお前自身が窮屈になっていたら本末転倒じゃねぇのか」
琴璃は言葉を呑んだ。彼の言う通りだと思った。
「まぁ、お前がそのやり方で納得しているのなら構わねぇがな」
全然、構わないと思っているような口ぶりではなかった。いつもと変わらず冷静だけど、そこには確かに普段と比べて違和感がある。その微妙な違いが琴璃には分かる。恋人だから。跡部のことが、好きだから。
「それにしたって」
「わっ」
いきなり視界が反転した。
「いつになったら俺は名前で呼ばれるんだ?」
自分のことを見下ろしている跡部。口元は僅かに上がっている。彼の背後には白くて高い天井が見えた。
「ジローなんかは気軽に呼んでるくせに」
「ジロー先輩は、苗字が長いし他の皆さんも下の名前で呼んでるから」
「じゃあ鳳はどうなんだよ」
「長太郎くんは、幼稚舎の時からずっとクラスが同じだったから……」
苗字が長いからという理由でジローは下の名呼びなのに、鳳は反対に、苗字ではなく長い下の名のほうをわざわざ選んで呼んでいる。この矛盾に跡部は納得がいかない。自身の呼称は名前ですらないというのに。
「だって……、部長は部長ですもん」
「今もそうなのか」
「え」
「今この瞬間は、お前にとって俺は“部長”という存在なのかよ?」
ニヤニヤしながら跡部は琴璃に顔を近づける。押し倒されて身動きを封じられている今、どこにも逃げ場なんてない。琴璃は観念して首を振った。真っ赤な顔をして、小さく「違います」と呟いた。
もう元気なのに、熱は下がったはずなのに、顔は熱いし心臓もバクバク跳ねている。もう誰も、見ていないのに。気持ちを隠す必要なんてないのにこんなにも正常でいられない。普段学校では互いに素っ気ない態度でいるけれど。2人だけになると彼はこうやって真正面から琴璃を見つめる。そのギャップの差に、いまだに琴璃だけがどぎまぎしている。大きくて温かい手が琴璃の髪に伸びてきた。
「毛先が濡れてる」
「あ、まだちゃんと乾かしきれてなかったのかも。さっきお風呂いただいたので……」
琴璃が言い終わる前にキスをされた。今度は額ではなく唇だった。
「誘われているとしか思えねぇな」
横たわったまま、ぎゅっと身体を抱きしめられる。跡部はそのまま動かなくなった。ちっとも痛くはないけれど、強い強い力だった。広いソファの上で、琴璃は風呂上りで、バスローブ1枚で。健全な男子高校生ならこれで変な気が起きないほうがおかしいと思う。
琴璃の心臓はすさまじい速度で脈を打つ。抱きしめられると普通は落ち着くとか安らぐ気持ちになるのに、今日はひたすら緊張している。
やっぱり今日の彼はいつもと違う。忍足に嫉妬したと言ってきたり、今さら呼び名のことを指摘してきたり。怒っているわけではなさそうだけど、やっぱり、どこか違う。「今日は大人しく寝ておけ」とでも言われると思っていたのに全然そんなことない。琴璃は戸惑ってしまう。
こういうムードは初めてじゃないのに。何故だろう。嬉しいのに、嫌ではないのに、いつもと違う種類のこのドキドキ感はどこからやってくるんだろう。彼の体温を感じながら、琴璃は疑問を抱く。そして、理由が分かって思わず「あ」と声に出てしまった。その声に反応した跡部は顔を上げ、どうしたのかと琴璃の瞳を覗き込んできた。
――もうだめだ。限界で直視できない。
耐えきれず琴璃は目を逸らしてしまった。恥ずかしさと愛しさと、どこから現れたのか分からない謎の辛さ。いろんな感情が混ざり合って、もうこれ以上見つめ合うのが苦しくなってしまった。
嫌なんかじゃない。だけど、毎日学校で跡部に対して無視に近いような態度を向けているせいで、その延長線みたいに気持ちがまだ張り詰めている。うまく気持ちを切り替えられないせいでぎくしゃくしている自分がいるのだ。これじゃ跡部がさっき言った通りで本末転倒じゃないか。
普段あんなに我慢しているのに。ここぞという時に素直になれない。琴璃のこの現状を跡部も分かっている。人前でいる時と2人きりの時の“顔”の使い分けが思うようにできない、この不器用な態度に。
「なんてツラしてんだ」
フ、と笑って跡部は琴璃を解放した。ほぼ拒絶みたいな態度をとった琴璃に気を悪くするでもなく。立ち上がって部屋から出る寸前に、「早めに寝ろよ」と言うとあっさり姿を消した。さっきは一瞬まさかと思ったけど、やっぱり彼は優しいから、病み上がりな自分を襲うわけがない。
1人にされた後、案の定気持ちが一気にずんと落ちる。せっかく、具合もよくなって今夜は好きな人のそばにいられるというのに。ありのままに気持ちを解放できない自分ってなんなんだろう。
素直になりたい。好きと言いたい。名前を呼びたい。そんな、簡単な願望も叶えられない自分に嫌気がさした。テーブルに広げただけの教科書たちをまた鞄の中にしまう。そして、ゆるゆるした足取りでベッドに移動した。毛布を頭からかぶって横たわる。あんなにうるさかった心臓はもう正常のリズムに戻っていた。
