グッバイ、マイシェルター
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廃部寸前レベルな部にちゃんとした部室なんてあてがわれているわけがなく。
「ここです」
琴璃が跡部を案内したのは社会科準備室だった。中央に長テーブル4台分が固まるように置かれ、その周りにパイプ椅子が何脚か並べられている。一方の壁には黒板があり反対側には大きめのキャビネット棚。中には本やら雑誌やらが沢山詰まっていて、壁上部には額に入れられた賞状が飾られていた。琴璃の先輩が、過去に品評会で優秀賞を納めた時のものだ。
「こんな感じです」
「整理整頓はしっかりしてるんだな」
「まぁ……1人なので」
言えば言うほど虚しくなる。今日彼と会話するたびに 、1人でこの部にいる寂しさをひしひしと感じるようになっていた。さっきはつい啖呵を切るように宣言したけど、4月も残すところあと数日じゃないか。普通に考えてきっと殆どの新入生たちは入る部活を決めてる可能性が高い。考えてみれば、今日までに誰1人として文芸部を見学に来る者などいなかった。それって結構やばいことなんじゃないのか。どうして私はもっと早く行動に移さなかったんだ。今更に頭の中で己を責めていると、横から「おい」と声がかかった。
「それでお前の作品は」
「え?」
「お前が書いたものを見せろと言っている」
「え!……そんな、無理だよ急には」
「何が無理なんだよ。別に手元に無いわけじゃねぇだろが」
「いや、あるけど、その……心の準備とか」
「あぁ?何、寝ぼけたこと言ってやがる。まさか卒業した部員たちの功績だけ見せてそれで済ませるつもりか?お前、曲がりなりにも部長になったんだろうが」
「う、」
「だったら逃げずに堂々と見せろ」
些か横暴な生徒会長様は、鋭くてどこまでも真っ直ぐな言葉で心の芯をぶち抜いてくる。ごもっともすぎて琴璃はぐうの音も出やしない。でもやっぱり、恥ずかしいのは否めない。仲の良い友達に見せるのとはワケが違う。相手はこの学園のトップに立つ完全無欠な存在だ。皆が羨む容姿と権力を兼ね備え、圧倒的なカリスマ性のある跡部財閥の御曹司。面識が無かったとはいえ、琴璃だってそれぐらいは知っている。いろんな意味で自分の遥か上を生きている人からいきなり見せろだなんて言われれば、そりゃ当たり前に怖気付くものだ。
「……笑わない?」
「お前が時間と熱量を込めて書いたものをどうして笑う必要がある」
さっきと同じく凄むようなトーンで言われたのに、今の言葉はどこか違った。不思議と、琴璃の背をそっと押してくれるような、そんな感覚を覚えた。それでも気の進まなさは変わらずだが、もうどうしたって逃げられないのが分かったので琴璃は棚から冊子を取り出し跡部に渡した。目次を見せ、「これです」と指差す。総数100,000字ほどの叙事的なもの。内容はサスペンス寄りのミステリーで去年の今頃に書いたものだった。跡部は琴璃から冊子を受け取ると、そばの椅子に座り優雅に足を組んで読み始めた。その間特にすることが無くなってしまったので、琴璃はただ黙ってつっ立っていた。座る気にもなれなくて意味もなく室内を彷徨いたりしてみる。
「眩しい」
「あ、すいません」
光でも入れようかとカーテンを開けてみたが、苦情を受けたのですぐさま閉める。再び手持ち無沙汰になってしまった。彼は何も言わない。紙のめくれる音が聞こえるのみ。仕方なく琴璃はソワソワしながらも跡部が読み終わるのを大人しく待つ。まるで子供が親に答案用紙を見せてるような面持ちだなと思った。5分が10分に、10分が20分に感じた。沈黙とは、こんなにも居心地の悪さを持っていたのか。普段はここでいくらでも1人きりで静かに過ごしていられるのに。2人での沈黙はこんなにも息が詰まる。無論、相手が相手というのもある。
「可笑しくねぇか」
「へっ」
「ここ」
不意に跡部が声を発し、文中のとある箇所を指差した。
「『タカシはサチコにゆっくりとした足取りで迫り、とうとう壁際まで追い詰めた。途端にサチコの顔色が青ざめる。逃げ場を失くし、観念したかのようだ。最早タカシを恐怖の顔で見つめることしかできない』」
琴璃は目を剥く。跡部が、小説の一節を音読したからだ。突然な行動すぎてこの人何考えてるんだと思った。ドキドキしながらも今彼が読み上げた部分を琴璃は思い返す。そこは結構重ためなシーンで、殺人犯である男を追い詰めた主人公の女性が、逆に返り討ちに遭いそうになるという緊迫した場面の一節だった。
なんて部分を音読しちゃってくれてるんだこの人は。いや、書いたのは自分だが、いきなり読み上げるだなんて誰が想像できよう。しかもそんな、素晴らしく良い声で読んでくれるな。恥ずかしさがさらに増幅する。一体何の罰だと思った。だが彼からの公開処刑はまだ続く。
「『タカシはサチコの右手首を壁に縫い付け、反対の手を壁についた。そして、サチコの顎に手を添え無理矢理に上を向かせる。サチコは最後の力を振り絞るかのように「やめて」と涙ながらに訴えるのだった』。……だがこれではタカシの手は3本必要になる。サチコの手首を捕まえる手と壁につく手、そしてサチコの顎にそえる手の3本だ」
「そ、そうですね……」
そんなことどうでも良い。手が2本でも3本でももう構わないから叫び散らしたい、今すぐにこの恥ずかしさを大声で打ち消したい。そんな琴璃の心の訴えなど露知らず、彼は真面目に考察している。そういう為の文章じゃないってば。読ませろと脅されたから見せただけで、まさかこんなふうに査定されることになるなんて聞いてない。
「つまり、実際はこうだ」
「は」
徐に跡部は立ち上がると、琴璃に詰め寄るように近づいてきた。ただものじゃない迫力を感じ琴璃は思わず後ずさる。背中に壁がぶつかった。もうこれ以上後ろに下がれない。
「右手でサチコの手首を拘束する」
「ちょ、」
「この時、片手で相手の両腕を捕まえちまえばいいわけだ」
「な」
「そして――」
何が何だか分からないうちに、琴璃の身柄は跡部の手によって拘束されてしまった。頭の上で両手を押さえつけられている状態。ぽかんとしている琴璃の顎を彼の左手がとらえた。次いで目を合わせるように上を向かされる。
「まだ空いている左手で顎を持ち上げる。どうだ?」
「そ……そうですね……」
違う、こんなはずじゃない。
このシーンは殺人を犯した男が次の標的を追い詰める場面だ。もっと戦慄的で、気の張りつめた空気になるはずで、こんなにドキドキする展開なんかにはならない。そりゃ今のは芝居で、彼が自分を手にかけようだなんてことにならないことは分かっているけれど。これじゃあいわゆる“壁ドン”と“顎クイ”というやつじゃないか。動きを封じられながら琴璃は頭の中でぐるぐる考えていた。私はサスペンスミステリーを書いたはずなのに、なんでこんな少女漫画的展開になっているんだ。どうして跡部景吾がやると、こんなにも色気の塊みたいな展開になるんだ。否、彼ではない他の誰かがやったところでこんなに格好よくきめるのは難儀だろう。彼の一挙手一投足はそれだけ威力を持っている。
「なかなかお前の書いたものは面白かった」
「はぁ、どうも……」
押さえつけられている手の力は、痛いまではいかないが結構な強さだった。ついでに言うと、顔がすごく近い。見下ろしてくる彼の表情は意地悪気に歪んでいた。またしても何か、猛烈に嫌な予感をおぼえた。
「せっかくだからもう少し演じてやろう」
「……はい?」
腕の拘束が解かれた。やっと解放されたと思いきや、跡部はまだ琴璃の目の前から離れない。相変わらず妖しげな笑みを浮かべている。そして、何をするかと思えば今度は琴璃の首にその大きな手を添えてきた。まさか、と思った。頼むからどうか、自分の勘違いであってほしい。琴璃は強く願った。けれど彼は迫るのをやめない。
「跡部くん、あのさ、」
「馬鹿なヤツだな。俺から逃げられるとでも思っていたのか?」
今のも、琴璃が書いた小説の中に出てくるセリフ。跡部は琴璃が描いた世界を演じようとしている。それが分かって琴璃はますます動揺した。恐怖を煽るセリフなはずが、彼が言うとこんなに艶めいた含みを持たせる言葉になる。琴璃は何も言えなかった。目の前に立ちはだかる存在感に圧倒されてしまっている。
「お前が俺を拒むからいけないんだ」
「あの」
「誰かのものになるくらいなら、お前をこの手で――」
「……ひっ」
彼はどこまでやる気なんだ。このまま小説の展開通り進むのならば、サチコはタカシに絞殺されてしまう。琴璃は思わず目をギュッと瞑る。その直後、首の圧迫感が消えた。今度は頭に何かが乗った。恐る恐る瞳を開くと、なんとも楽しそうに笑う跡部と目が合った。頭の上に乗っていたのは、琴璃の首を絞めようとした彼の手だった。今はそっと頭に触れている。安心するような、でも戸惑うような。琴璃はこの変化にすぐにはついていけなかった。だからきっと、変な顔になっていたんだろう。跡部は琴璃を見下ろしくつくつと笑っている。最初の生徒会室の時に見せた、何かを企んだふうな笑い方ではなくて、心底面白いものを見たように目を細めていた。本当に面白い時、この人はこうやって笑うんだ。そう思ったのも束の間、琴璃は我に返る。今はそんなことを感心してる場合じゃない。
「何、本気でビビってんだよ」
「……だって」
「俺様に本当に殺されるとでも?」
「思うわけないじゃないっ」
言い返してみてもどうせ、彼の目には意味のない悪足掻きにしか映らないのだろう。くやしい。一杯食わされた。だが実際にビビってしまったのだからなんの弁明もできない。
「ま、4月が終わるまで……つっても大して残ってねぇが。精々頑張って部員を見つけるんだな」
最後のセリフもきっちり決めてくれた後、跡部は部屋から出て行った。1人残された琴璃は力が抜けたように椅子に座る。緊張の糸が切れたのか深い深いため息が自ずと出た。
「……はぁ」
彼はテニスだけじゃなくて芝居もできるのか。素質があるというか天性の持った魅力というか。とにかく底知れない人だと思った。だって、一瞬だけでも琴璃はリアルに息を呑んでしまったのだから。控え目に言っても迫真な演技力だった。それは認めざるを得ない。
でもひとつだけ、指摘するならば。
琴璃の描いていたタカシはこれほどまでに格好良くなんかない。そこだけは減点だ。
「ここです」
琴璃が跡部を案内したのは社会科準備室だった。中央に長テーブル4台分が固まるように置かれ、その周りにパイプ椅子が何脚か並べられている。一方の壁には黒板があり反対側には大きめのキャビネット棚。中には本やら雑誌やらが沢山詰まっていて、壁上部には額に入れられた賞状が飾られていた。琴璃の先輩が、過去に品評会で優秀賞を納めた時のものだ。
「こんな感じです」
「整理整頓はしっかりしてるんだな」
「まぁ……1人なので」
言えば言うほど虚しくなる。今日彼と会話するたびに 、1人でこの部にいる寂しさをひしひしと感じるようになっていた。さっきはつい啖呵を切るように宣言したけど、4月も残すところあと数日じゃないか。普通に考えてきっと殆どの新入生たちは入る部活を決めてる可能性が高い。考えてみれば、今日までに誰1人として文芸部を見学に来る者などいなかった。それって結構やばいことなんじゃないのか。どうして私はもっと早く行動に移さなかったんだ。今更に頭の中で己を責めていると、横から「おい」と声がかかった。
「それでお前の作品は」
「え?」
「お前が書いたものを見せろと言っている」
「え!……そんな、無理だよ急には」
「何が無理なんだよ。別に手元に無いわけじゃねぇだろが」
「いや、あるけど、その……心の準備とか」
「あぁ?何、寝ぼけたこと言ってやがる。まさか卒業した部員たちの功績だけ見せてそれで済ませるつもりか?お前、曲がりなりにも部長になったんだろうが」
「う、」
「だったら逃げずに堂々と見せろ」
些か横暴な生徒会長様は、鋭くてどこまでも真っ直ぐな言葉で心の芯をぶち抜いてくる。ごもっともすぎて琴璃はぐうの音も出やしない。でもやっぱり、恥ずかしいのは否めない。仲の良い友達に見せるのとはワケが違う。相手はこの学園のトップに立つ完全無欠な存在だ。皆が羨む容姿と権力を兼ね備え、圧倒的なカリスマ性のある跡部財閥の御曹司。面識が無かったとはいえ、琴璃だってそれぐらいは知っている。いろんな意味で自分の遥か上を生きている人からいきなり見せろだなんて言われれば、そりゃ当たり前に怖気付くものだ。
「……笑わない?」
「お前が時間と熱量を込めて書いたものをどうして笑う必要がある」
さっきと同じく凄むようなトーンで言われたのに、今の言葉はどこか違った。不思議と、琴璃の背をそっと押してくれるような、そんな感覚を覚えた。それでも気の進まなさは変わらずだが、もうどうしたって逃げられないのが分かったので琴璃は棚から冊子を取り出し跡部に渡した。目次を見せ、「これです」と指差す。総数100,000字ほどの叙事的なもの。内容はサスペンス寄りのミステリーで去年の今頃に書いたものだった。跡部は琴璃から冊子を受け取ると、そばの椅子に座り優雅に足を組んで読み始めた。その間特にすることが無くなってしまったので、琴璃はただ黙ってつっ立っていた。座る気にもなれなくて意味もなく室内を彷徨いたりしてみる。
「眩しい」
「あ、すいません」
光でも入れようかとカーテンを開けてみたが、苦情を受けたのですぐさま閉める。再び手持ち無沙汰になってしまった。彼は何も言わない。紙のめくれる音が聞こえるのみ。仕方なく琴璃はソワソワしながらも跡部が読み終わるのを大人しく待つ。まるで子供が親に答案用紙を見せてるような面持ちだなと思った。5分が10分に、10分が20分に感じた。沈黙とは、こんなにも居心地の悪さを持っていたのか。普段はここでいくらでも1人きりで静かに過ごしていられるのに。2人での沈黙はこんなにも息が詰まる。無論、相手が相手というのもある。
「可笑しくねぇか」
「へっ」
「ここ」
不意に跡部が声を発し、文中のとある箇所を指差した。
「『タカシはサチコにゆっくりとした足取りで迫り、とうとう壁際まで追い詰めた。途端にサチコの顔色が青ざめる。逃げ場を失くし、観念したかのようだ。最早タカシを恐怖の顔で見つめることしかできない』」
琴璃は目を剥く。跡部が、小説の一節を音読したからだ。突然な行動すぎてこの人何考えてるんだと思った。ドキドキしながらも今彼が読み上げた部分を琴璃は思い返す。そこは結構重ためなシーンで、殺人犯である男を追い詰めた主人公の女性が、逆に返り討ちに遭いそうになるという緊迫した場面の一節だった。
なんて部分を音読しちゃってくれてるんだこの人は。いや、書いたのは自分だが、いきなり読み上げるだなんて誰が想像できよう。しかもそんな、素晴らしく良い声で読んでくれるな。恥ずかしさがさらに増幅する。一体何の罰だと思った。だが彼からの公開処刑はまだ続く。
「『タカシはサチコの右手首を壁に縫い付け、反対の手を壁についた。そして、サチコの顎に手を添え無理矢理に上を向かせる。サチコは最後の力を振り絞るかのように「やめて」と涙ながらに訴えるのだった』。……だがこれではタカシの手は3本必要になる。サチコの手首を捕まえる手と壁につく手、そしてサチコの顎にそえる手の3本だ」
「そ、そうですね……」
そんなことどうでも良い。手が2本でも3本でももう構わないから叫び散らしたい、今すぐにこの恥ずかしさを大声で打ち消したい。そんな琴璃の心の訴えなど露知らず、彼は真面目に考察している。そういう為の文章じゃないってば。読ませろと脅されたから見せただけで、まさかこんなふうに査定されることになるなんて聞いてない。
「つまり、実際はこうだ」
「は」
徐に跡部は立ち上がると、琴璃に詰め寄るように近づいてきた。ただものじゃない迫力を感じ琴璃は思わず後ずさる。背中に壁がぶつかった。もうこれ以上後ろに下がれない。
「右手でサチコの手首を拘束する」
「ちょ、」
「この時、片手で相手の両腕を捕まえちまえばいいわけだ」
「な」
「そして――」
何が何だか分からないうちに、琴璃の身柄は跡部の手によって拘束されてしまった。頭の上で両手を押さえつけられている状態。ぽかんとしている琴璃の顎を彼の左手がとらえた。次いで目を合わせるように上を向かされる。
「まだ空いている左手で顎を持ち上げる。どうだ?」
「そ……そうですね……」
違う、こんなはずじゃない。
このシーンは殺人を犯した男が次の標的を追い詰める場面だ。もっと戦慄的で、気の張りつめた空気になるはずで、こんなにドキドキする展開なんかにはならない。そりゃ今のは芝居で、彼が自分を手にかけようだなんてことにならないことは分かっているけれど。これじゃあいわゆる“壁ドン”と“顎クイ”というやつじゃないか。動きを封じられながら琴璃は頭の中でぐるぐる考えていた。私はサスペンスミステリーを書いたはずなのに、なんでこんな少女漫画的展開になっているんだ。どうして跡部景吾がやると、こんなにも色気の塊みたいな展開になるんだ。否、彼ではない他の誰かがやったところでこんなに格好よくきめるのは難儀だろう。彼の一挙手一投足はそれだけ威力を持っている。
「なかなかお前の書いたものは面白かった」
「はぁ、どうも……」
押さえつけられている手の力は、痛いまではいかないが結構な強さだった。ついでに言うと、顔がすごく近い。見下ろしてくる彼の表情は意地悪気に歪んでいた。またしても何か、猛烈に嫌な予感をおぼえた。
「せっかくだからもう少し演じてやろう」
「……はい?」
腕の拘束が解かれた。やっと解放されたと思いきや、跡部はまだ琴璃の目の前から離れない。相変わらず妖しげな笑みを浮かべている。そして、何をするかと思えば今度は琴璃の首にその大きな手を添えてきた。まさか、と思った。頼むからどうか、自分の勘違いであってほしい。琴璃は強く願った。けれど彼は迫るのをやめない。
「跡部くん、あのさ、」
「馬鹿なヤツだな。俺から逃げられるとでも思っていたのか?」
今のも、琴璃が書いた小説の中に出てくるセリフ。跡部は琴璃が描いた世界を演じようとしている。それが分かって琴璃はますます動揺した。恐怖を煽るセリフなはずが、彼が言うとこんなに艶めいた含みを持たせる言葉になる。琴璃は何も言えなかった。目の前に立ちはだかる存在感に圧倒されてしまっている。
「お前が俺を拒むからいけないんだ」
「あの」
「誰かのものになるくらいなら、お前をこの手で――」
「……ひっ」
彼はどこまでやる気なんだ。このまま小説の展開通り進むのならば、サチコはタカシに絞殺されてしまう。琴璃は思わず目をギュッと瞑る。その直後、首の圧迫感が消えた。今度は頭に何かが乗った。恐る恐る瞳を開くと、なんとも楽しそうに笑う跡部と目が合った。頭の上に乗っていたのは、琴璃の首を絞めようとした彼の手だった。今はそっと頭に触れている。安心するような、でも戸惑うような。琴璃はこの変化にすぐにはついていけなかった。だからきっと、変な顔になっていたんだろう。跡部は琴璃を見下ろしくつくつと笑っている。最初の生徒会室の時に見せた、何かを企んだふうな笑い方ではなくて、心底面白いものを見たように目を細めていた。本当に面白い時、この人はこうやって笑うんだ。そう思ったのも束の間、琴璃は我に返る。今はそんなことを感心してる場合じゃない。
「何、本気でビビってんだよ」
「……だって」
「俺様に本当に殺されるとでも?」
「思うわけないじゃないっ」
言い返してみてもどうせ、彼の目には意味のない悪足掻きにしか映らないのだろう。くやしい。一杯食わされた。だが実際にビビってしまったのだからなんの弁明もできない。
「ま、4月が終わるまで……つっても大して残ってねぇが。精々頑張って部員を見つけるんだな」
最後のセリフもきっちり決めてくれた後、跡部は部屋から出て行った。1人残された琴璃は力が抜けたように椅子に座る。緊張の糸が切れたのか深い深いため息が自ずと出た。
「……はぁ」
彼はテニスだけじゃなくて芝居もできるのか。素質があるというか天性の持った魅力というか。とにかく底知れない人だと思った。だって、一瞬だけでも琴璃はリアルに息を呑んでしまったのだから。控え目に言っても迫真な演技力だった。それは認めざるを得ない。
でもひとつだけ、指摘するならば。
琴璃の描いていたタカシはこれほどまでに格好良くなんかない。そこだけは減点だ。
