優しいオオカミは君からの赦しに飢えている
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途中から、これは夢だと分かっていた。夢の中なのに懐かしいと感じられたそこは、跡部が幼少期に住んでいたイギリスの家の前だった。大きな庭園には薔薇を始めとした様々な花が咲き、手入れされた道が長く続いていた。
道なりに歩いてゆくとやがて前方に少女の姿が見えてきた。琴璃だった。幼い頃の、よく家に遊びに来ていた時の姿だった。その彼女が地べたに座り込んで、何かしきりに手を動かしている。跡部のいる場所からでは彼女の後ろ姿しか見えないので何をしているかまで分からない。確認しようと跡部は琴璃の前に回り込んだ、その瞬間。
――もういっこがないの。
彼女は真っ赤に染まった両手を跡部に向かって伸ばしてきたのだった。
そこでやっと目が覚めた。あぁまたか、と思った。この目覚め方ももう慣れたもので何の驚きもしない。でも、そういう目覚めの時は決まって1日が長い。
喋れるようになってから琴璃は確かに明るくなった。言葉でコミュニケーションを取れるのがただ素直に嬉しいのだろう。口がきけるようになったことで自由に出来ることもぐんと増えた。だからなのか、病院へも今後は1人で行くと言い出した。忙しいのに今までごめんね、と言われたが、元々部活のない曜日に行ってるのだから何ら支障はない。別にこれからも変わらず付き添いができるのに、
「今日はユキちゃんが病院に来るみたいだからひとりで平気」
そう言って今朝彼女は自分の同行を断った。跡部はそうか、とだけ言ったけど、胸の内が穏やかじゃないことを感じた。その原因も察しはついた。彼女が自分よりも幸村を選んだせいだ。くだらないと思った。なのに気づけば、日中もそのくだらないことが頭の片隅を占拠していた。やっぱり今日は長かった。それでも1日を卒なく終えて、跡部はひとり自室にいた。
同じ屋根の下で今は暮らしているのに、琴璃との距離は縮まらない。たまに廊下ですれ違っても、相変わらず跡部に向ける表情は申し訳なさでいっぱいのものだった。日本に残りたいと言ったからうちで預かるという提案をしたのに。あんな顔を見せられては、本当にこれで良かったのかと疑問になる。まさか本当のところは向こうへ戻りたかったのか。それとも跡部の家に世話になるのが嫌という意味なのか。どちらにせよ、琴璃は自分のことを恐れている。それだけは分かる。
不意に、部屋の外で何か物音がした。こんな時間だが使用人でもいるのかと、跡部はドアノブに手をかけ押し開けた。
「わ」
「……なんでお前がいる」
扉の向こうにはまさかの琴璃がいた。白くふわふわしたウサギみたいな部屋着姿で。でも足は出ていて、暖かいんだか寒いんだかよく分からない格好だった。
「けーくん、あの、どうしたの」
まさか跡部が出てくるとは思わなかったようで琴璃は至極焦っていた。人の部屋の前に立っていたくせにどうしたのとは何だと思った。
「それはこっちの台詞だ。こんな時間にこんな所で何してる」
「あ、えっと、今日ね、お土産を買ってきたから」
「アン?」
琴璃はドアノブにかけようとしていたらしい何かの紙袋を跡部へ差し出してきた。
「……あぁ、そうか。今日は病院帰りに幸村の野郎とデートしてきたんだっけか」
「違うよ」
冗談のつもりで言ったのだが、琴璃はあからさまに不満な顔を見せて否定してきた。珍しくムッとしている。
「デートなんて、そんなの行かないし、そもそもユキちゃんとは病院で別れたよ」
「なんだそうなのか」
「うん……」
琴璃はそれきり黙ってしまった。用があるのはそっちだというのに一体何なんだ。仕方ないから跡部は助け舟を出してやる。
「で、お前は何故ここにいる」
「あ、うん。あのね、病院の帰りにお買い物してきたからけーくんにお土産だよ」
「俺にか」
「うん。イギリスにいた時あった紅茶のお店が、期間限定で日本に宣伝に来てるらしくて。百貨店の中に催事で出店してた」
言いながら琴璃は紙袋の中から筒状の缶をいくつか取り出して跡部に見せる。
「これ、けーくんも好きだったよね?」
跡部も見知っている銘柄のものだった。琴璃の言う通り、向こうにいた時はよく愛飲していた。ああ、という跡部の顔を見た琴璃は少々得意げになりながら商品1つひとつを披露する。
「これがストレート向きで、これはミルクに合うやつ。ちなみに日本限定のものだよ。あとこれ、けーくんが好きなやつ、確かこれだったと思うよ」
琴璃のつらつらとした説明を聞きながら跡部は、そんなことまでコイツはよく覚えているなと思った。幼い頃のふとしたことをまだ忘れずにいる。本当に、あの日のことだけ を置き去りにしてるだけで。それ以外は何も変わらないのだ。
「随分色々買ってきたんだな」
「なんか懐かしくて。それで、あの……3月まであともう少し、お世話になるのでよろしくお願いします」
琴璃は最後にそう言ってぺこりと頭を下げると、紅茶が入った紙袋を今一度跡部に差し出してきた。彼女なりの、日頃の感謝のつもりなのだろう。でも跡部はすぐに受け取らなかった。代わりに静かに口を開く。
「お前はどうしたいんだ」
「え?」
「医者にかかる必要も無くなりやがて今年度が終わったら、お前はどうしたいんだ?母親の言う通り向こうに戻りたいのか?」
「私は……どうしよう」
言い淀む琴璃。お決まりの、いつもの相手の機嫌を伺うかのような素振りをする。誰にも迷惑をかけまいとする姿勢は彼女の性分なのだろうが、そうなったのは声の病と大いに関係している。ならばもう、治った今はそこまで懸念する必要などないというのに。いつまでも本音と建前を気にしている。跡部は小さく嘆息した。
「喋れるようになったのに、自分に嘘をついてどうする。何もお前の率直な気持ちを聞いたところで、俺もお前の母親もそれをむやみに否定するつもりはない」
「うん」
「もっと堂々としろ。お前は周りに気を回しすぎだ」
「……そんなようなこと、今日ユキちゃんにも言われたよ」
「なら、決定的だな」
そうだね、と返事をしながら琴璃は微かに笑う。
「時として図々しくなるのも、正しい選択の場合があるもんだぜ」
「うん」
跡部の言葉に後押しされたのか、琴璃はようやく視線を上げた。円らな瞳と視線がぶつかる。
「私は、今年度が終わっても、この先も日本に居たいと思ってる」
「だったら正直に打ち明けてみたらいいんじゃねぇのか。お前の母親はちゃんとお前の気持ちを聞いてくれる人だろう」
「……うん」
「どうした」
「けーくんが、いるから……日本にいたいって思っちゃうのは、駄目だよね。怒る?」
少しだけ、声が震えていた。こんな時でも彼女は自分を恐れているのか。もう何も怒ってなどいないというのに。赦されたいのはこっちの方なのに。
「怒りはしねぇな」
「ほんと?」
「だが、お前がそう思う理由を知りたい」
跡部のその言葉を聞いて琴璃は、今日1番の困った顔をして俯いた。そんな展開になるであろうと薄々分かっていた。でも、ここでまた有耶無耶にしたら彼女はまた口を閉ざしてしまう。彼女の今の、本当の声を聞きたいと思った。だから跡部はわざと追求した。目の前で琴璃は一生懸命思ってる言葉を出そうと考えている。口元に手を当てて、憂い顔ではあるが頭の中をフル回転させている。そんな彼女を目の前にしていたら、自然と手を伸ばしていた。え、と琴璃は小さく声をあげた。跡部が、彼女の頭の上にポンと手を乗せたからだ。そしてこれが大人になって再会して、初めて琴璃に触れた瞬間だった。これまでに跡部から触れることは今日まで1度もなかった。
「何も難しく考えないで、お前の知ってる言葉で言えばいい」
円らな2つの瞳が揺れる。その瞳は縋るように跡部に向けられていた。薄桃色をした唇がゆっくりと開く。
「好きなの」
声はかなり小さかったはずのに、しんとした廊下によく響いた。
「けーくんのことが好きだから、離れたくないって思っちゃうの。イギリス戻ったらまた遠くになっちゃうから、それが寂しくて嫌なの」
どうしようもなく頼りない声音だった。本当にお前はそう思っているのかと疑うほどに。ついでに涙声に近い響き方もしていた。跡部はただじっと琴璃を見つめる。見つめながら今の彼女の発言を頭の中でリフレインさせる。琴璃がそんなことを言うだなんて1ミリも想像してなかった。迂闊にも、柔らかい何かで殴られたような気分だった。
「けーくん?」
「俺の思い違いだったと言うのか」
「……なにが?」
「お前は俺を恐れているんじゃないのか」
跡部のその言葉を聞いて今度は琴璃が目を丸くする番だった。
「なんでそうなるの、そんなわけないよ」
「現に、お前はいつも俺を見てビビってるだろうが」
「それは、だって……嫌われるのが怖くて何言っていいか分からなかったの」
「何だそりゃ」
「だって、今までいっぱい迷惑かけてるのに。もうこれ以上足手まといに……なりたくなくて」
琴璃は思わず半歩後ろへ下がる。だがその分跡部が距離を詰めた。
「はん。笑わせんなよ。お前のどの部分が足手纏いだって?生憎だが、お前の存在が迷惑だなんて思ったことは一瞬たりともねぇな」
「でも、」
「迷惑を被っているかどうかは俺自身が判断することだ。お前が判断することじゃない」
「そうかもだけど、だって」
「“でも”も“だって”も、俺には通用しねぇんだよ」
それでも琴璃はいま一度言い訳じみた反論をしようとする。けーくんは、と言いかけたが、
「くしゅん」
「ったく。そんな防寒にもならないようなもの着てるからだ。ちょっと待ってろ」
「いいよ、大丈夫だよ」
跡部は部屋からガウンを取ってこようとしたが、その袖を琴璃が掴んで止めた。
「ねぇ、もう寝るとこだった?」
「別にそういうわけでもねぇな」
「そしたらさ、今からこれ一緒に飲まない?美味しいよ。デカフェだから今飲んでも平気だし。私、淹れるから部屋入ってもいい?」
そんな提案を持ちかけてきた。だが跡部は返事をしない。何も答えずただじっと琴璃を見つめていた。
「どしたの?」
「お前がこの中に入ったら何もしない保障が無い」
「え?」
「お前の気持ちを知った以上、お前に触れないことは約束できないと言った。高校生つったって、俺もお前ももう充分大人だ。あの頃とはもう違う。言葉の意味くらい、1から説明しなくても分かるだろう?」
「……うん」
琴璃は少し俯いて目を泳がせた。あれこれ頭の中で考えているのが分かる。また余計なことまで気を回しながら考えを巡らせようとしてる。当たり前だが、跡部はそんなふうに困らせるつもりはなかった。
「やっぱり今日は戻れ。で、早いとこ寝ろ。今日は1人で行ったから疲れただろう」
張り詰めた空気をわざと崩すかのように跡部は肩を竦めて言った。でも琴璃の表情は和らがなかった。
「こいつは明日頂くとしよう」
跡部は琴璃の手から紅茶を受け取ろうとした。だが琴璃は後ろに手を組んでそれを拒否する。そして、真っ直ぐと跡部のほうを見つめてくる。
「戻らない」
「琴璃」
「それでもいい。ここにいたい。……けーくんのそばにいたいんだもん」
上目遣いの瞳がまた揺れた。まるで退路を絶たれたウサギのようだった。
「俺は忠告したぜ?」
こくりと頷く琴璃。その表情は、追い詰められたようにも、覚悟を決めたようにもどちらにも見えた。だけど目を逸らすことなくこちらを見つめてくるから、跡部はもう何も言わず、部屋の扉を開けた。素直に琴璃は1歩ずつ足を踏み出す。そして彼女の体が完全に部屋の中に入ったのを確認し、自身も中に入ると、後ろ手で静かに扉を閉めた。
道なりに歩いてゆくとやがて前方に少女の姿が見えてきた。琴璃だった。幼い頃の、よく家に遊びに来ていた時の姿だった。その彼女が地べたに座り込んで、何かしきりに手を動かしている。跡部のいる場所からでは彼女の後ろ姿しか見えないので何をしているかまで分からない。確認しようと跡部は琴璃の前に回り込んだ、その瞬間。
――もういっこがないの。
彼女は真っ赤に染まった両手を跡部に向かって伸ばしてきたのだった。
そこでやっと目が覚めた。あぁまたか、と思った。この目覚め方ももう慣れたもので何の驚きもしない。でも、そういう目覚めの時は決まって1日が長い。
喋れるようになってから琴璃は確かに明るくなった。言葉でコミュニケーションを取れるのがただ素直に嬉しいのだろう。口がきけるようになったことで自由に出来ることもぐんと増えた。だからなのか、病院へも今後は1人で行くと言い出した。忙しいのに今までごめんね、と言われたが、元々部活のない曜日に行ってるのだから何ら支障はない。別にこれからも変わらず付き添いができるのに、
「今日はユキちゃんが病院に来るみたいだからひとりで平気」
そう言って今朝彼女は自分の同行を断った。跡部はそうか、とだけ言ったけど、胸の内が穏やかじゃないことを感じた。その原因も察しはついた。彼女が自分よりも幸村を選んだせいだ。くだらないと思った。なのに気づけば、日中もそのくだらないことが頭の片隅を占拠していた。やっぱり今日は長かった。それでも1日を卒なく終えて、跡部はひとり自室にいた。
同じ屋根の下で今は暮らしているのに、琴璃との距離は縮まらない。たまに廊下ですれ違っても、相変わらず跡部に向ける表情は申し訳なさでいっぱいのものだった。日本に残りたいと言ったからうちで預かるという提案をしたのに。あんな顔を見せられては、本当にこれで良かったのかと疑問になる。まさか本当のところは向こうへ戻りたかったのか。それとも跡部の家に世話になるのが嫌という意味なのか。どちらにせよ、琴璃は自分のことを恐れている。それだけは分かる。
不意に、部屋の外で何か物音がした。こんな時間だが使用人でもいるのかと、跡部はドアノブに手をかけ押し開けた。
「わ」
「……なんでお前がいる」
扉の向こうにはまさかの琴璃がいた。白くふわふわしたウサギみたいな部屋着姿で。でも足は出ていて、暖かいんだか寒いんだかよく分からない格好だった。
「けーくん、あの、どうしたの」
まさか跡部が出てくるとは思わなかったようで琴璃は至極焦っていた。人の部屋の前に立っていたくせにどうしたのとは何だと思った。
「それはこっちの台詞だ。こんな時間にこんな所で何してる」
「あ、えっと、今日ね、お土産を買ってきたから」
「アン?」
琴璃はドアノブにかけようとしていたらしい何かの紙袋を跡部へ差し出してきた。
「……あぁ、そうか。今日は病院帰りに幸村の野郎とデートしてきたんだっけか」
「違うよ」
冗談のつもりで言ったのだが、琴璃はあからさまに不満な顔を見せて否定してきた。珍しくムッとしている。
「デートなんて、そんなの行かないし、そもそもユキちゃんとは病院で別れたよ」
「なんだそうなのか」
「うん……」
琴璃はそれきり黙ってしまった。用があるのはそっちだというのに一体何なんだ。仕方ないから跡部は助け舟を出してやる。
「で、お前は何故ここにいる」
「あ、うん。あのね、病院の帰りにお買い物してきたからけーくんにお土産だよ」
「俺にか」
「うん。イギリスにいた時あった紅茶のお店が、期間限定で日本に宣伝に来てるらしくて。百貨店の中に催事で出店してた」
言いながら琴璃は紙袋の中から筒状の缶をいくつか取り出して跡部に見せる。
「これ、けーくんも好きだったよね?」
跡部も見知っている銘柄のものだった。琴璃の言う通り、向こうにいた時はよく愛飲していた。ああ、という跡部の顔を見た琴璃は少々得意げになりながら商品1つひとつを披露する。
「これがストレート向きで、これはミルクに合うやつ。ちなみに日本限定のものだよ。あとこれ、けーくんが好きなやつ、確かこれだったと思うよ」
琴璃のつらつらとした説明を聞きながら跡部は、そんなことまでコイツはよく覚えているなと思った。幼い頃のふとしたことをまだ忘れずにいる。本当に、
「随分色々買ってきたんだな」
「なんか懐かしくて。それで、あの……3月まであともう少し、お世話になるのでよろしくお願いします」
琴璃は最後にそう言ってぺこりと頭を下げると、紅茶が入った紙袋を今一度跡部に差し出してきた。彼女なりの、日頃の感謝のつもりなのだろう。でも跡部はすぐに受け取らなかった。代わりに静かに口を開く。
「お前はどうしたいんだ」
「え?」
「医者にかかる必要も無くなりやがて今年度が終わったら、お前はどうしたいんだ?母親の言う通り向こうに戻りたいのか?」
「私は……どうしよう」
言い淀む琴璃。お決まりの、いつもの相手の機嫌を伺うかのような素振りをする。誰にも迷惑をかけまいとする姿勢は彼女の性分なのだろうが、そうなったのは声の病と大いに関係している。ならばもう、治った今はそこまで懸念する必要などないというのに。いつまでも本音と建前を気にしている。跡部は小さく嘆息した。
「喋れるようになったのに、自分に嘘をついてどうする。何もお前の率直な気持ちを聞いたところで、俺もお前の母親もそれをむやみに否定するつもりはない」
「うん」
「もっと堂々としろ。お前は周りに気を回しすぎだ」
「……そんなようなこと、今日ユキちゃんにも言われたよ」
「なら、決定的だな」
そうだね、と返事をしながら琴璃は微かに笑う。
「時として図々しくなるのも、正しい選択の場合があるもんだぜ」
「うん」
跡部の言葉に後押しされたのか、琴璃はようやく視線を上げた。円らな瞳と視線がぶつかる。
「私は、今年度が終わっても、この先も日本に居たいと思ってる」
「だったら正直に打ち明けてみたらいいんじゃねぇのか。お前の母親はちゃんとお前の気持ちを聞いてくれる人だろう」
「……うん」
「どうした」
「けーくんが、いるから……日本にいたいって思っちゃうのは、駄目だよね。怒る?」
少しだけ、声が震えていた。こんな時でも彼女は自分を恐れているのか。もう何も怒ってなどいないというのに。赦されたいのはこっちの方なのに。
「怒りはしねぇな」
「ほんと?」
「だが、お前がそう思う理由を知りたい」
跡部のその言葉を聞いて琴璃は、今日1番の困った顔をして俯いた。そんな展開になるであろうと薄々分かっていた。でも、ここでまた有耶無耶にしたら彼女はまた口を閉ざしてしまう。彼女の今の、本当の声を聞きたいと思った。だから跡部はわざと追求した。目の前で琴璃は一生懸命思ってる言葉を出そうと考えている。口元に手を当てて、憂い顔ではあるが頭の中をフル回転させている。そんな彼女を目の前にしていたら、自然と手を伸ばしていた。え、と琴璃は小さく声をあげた。跡部が、彼女の頭の上にポンと手を乗せたからだ。そしてこれが大人になって再会して、初めて琴璃に触れた瞬間だった。これまでに跡部から触れることは今日まで1度もなかった。
「何も難しく考えないで、お前の知ってる言葉で言えばいい」
円らな2つの瞳が揺れる。その瞳は縋るように跡部に向けられていた。薄桃色をした唇がゆっくりと開く。
「好きなの」
声はかなり小さかったはずのに、しんとした廊下によく響いた。
「けーくんのことが好きだから、離れたくないって思っちゃうの。イギリス戻ったらまた遠くになっちゃうから、それが寂しくて嫌なの」
どうしようもなく頼りない声音だった。本当にお前はそう思っているのかと疑うほどに。ついでに涙声に近い響き方もしていた。跡部はただじっと琴璃を見つめる。見つめながら今の彼女の発言を頭の中でリフレインさせる。琴璃がそんなことを言うだなんて1ミリも想像してなかった。迂闊にも、柔らかい何かで殴られたような気分だった。
「けーくん?」
「俺の思い違いだったと言うのか」
「……なにが?」
「お前は俺を恐れているんじゃないのか」
跡部のその言葉を聞いて今度は琴璃が目を丸くする番だった。
「なんでそうなるの、そんなわけないよ」
「現に、お前はいつも俺を見てビビってるだろうが」
「それは、だって……嫌われるのが怖くて何言っていいか分からなかったの」
「何だそりゃ」
「だって、今までいっぱい迷惑かけてるのに。もうこれ以上足手まといに……なりたくなくて」
琴璃は思わず半歩後ろへ下がる。だがその分跡部が距離を詰めた。
「はん。笑わせんなよ。お前のどの部分が足手纏いだって?生憎だが、お前の存在が迷惑だなんて思ったことは一瞬たりともねぇな」
「でも、」
「迷惑を被っているかどうかは俺自身が判断することだ。お前が判断することじゃない」
「そうかもだけど、だって」
「“でも”も“だって”も、俺には通用しねぇんだよ」
それでも琴璃はいま一度言い訳じみた反論をしようとする。けーくんは、と言いかけたが、
「くしゅん」
「ったく。そんな防寒にもならないようなもの着てるからだ。ちょっと待ってろ」
「いいよ、大丈夫だよ」
跡部は部屋からガウンを取ってこようとしたが、その袖を琴璃が掴んで止めた。
「ねぇ、もう寝るとこだった?」
「別にそういうわけでもねぇな」
「そしたらさ、今からこれ一緒に飲まない?美味しいよ。デカフェだから今飲んでも平気だし。私、淹れるから部屋入ってもいい?」
そんな提案を持ちかけてきた。だが跡部は返事をしない。何も答えずただじっと琴璃を見つめていた。
「どしたの?」
「お前がこの中に入ったら何もしない保障が無い」
「え?」
「お前の気持ちを知った以上、お前に触れないことは約束できないと言った。高校生つったって、俺もお前ももう充分大人だ。あの頃とはもう違う。言葉の意味くらい、1から説明しなくても分かるだろう?」
「……うん」
琴璃は少し俯いて目を泳がせた。あれこれ頭の中で考えているのが分かる。また余計なことまで気を回しながら考えを巡らせようとしてる。当たり前だが、跡部はそんなふうに困らせるつもりはなかった。
「やっぱり今日は戻れ。で、早いとこ寝ろ。今日は1人で行ったから疲れただろう」
張り詰めた空気をわざと崩すかのように跡部は肩を竦めて言った。でも琴璃の表情は和らがなかった。
「こいつは明日頂くとしよう」
跡部は琴璃の手から紅茶を受け取ろうとした。だが琴璃は後ろに手を組んでそれを拒否する。そして、真っ直ぐと跡部のほうを見つめてくる。
「戻らない」
「琴璃」
「それでもいい。ここにいたい。……けーくんのそばにいたいんだもん」
上目遣いの瞳がまた揺れた。まるで退路を絶たれたウサギのようだった。
「俺は忠告したぜ?」
こくりと頷く琴璃。その表情は、追い詰められたようにも、覚悟を決めたようにもどちらにも見えた。だけど目を逸らすことなくこちらを見つめてくるから、跡部はもう何も言わず、部屋の扉を開けた。素直に琴璃は1歩ずつ足を踏み出す。そして彼女の体が完全に部屋の中に入ったのを確認し、自身も中に入ると、後ろ手で静かに扉を閉めた。
