優しいオオカミは君からの赦しに飢えている
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
水曜日の夕方、病院からの帰り。いつものように彼女を家まで送ってやる。診療を終えて着く頃にはあたりは真っ暗になっていた。冬も半ばでまだまだ寒い。
琴璃は無事に再び声を取り戻した。けれど、だからと言ってすぐに診療が終わるわけではない。精神的なもので生じたことだから、多少時間をかけてもゆっくりと向き合うべきだと琴璃の主治医は言った。だから今日も先週と変わらず跡部は病院まで付き添っている。
変わったことといえば、送り迎えをするたびに琴璃から「ごめんね」をもらう。跡部はそれが好ましく思わない。送迎の役目が煩わしいだなんてちっとも思ってないのに、話せるようになった琴璃はいつも跡部にその言葉を告げる。もっと言ってほしい言葉があるのに、毎回真っ先に謝られるのが些か不愉快だった。
ふと思う。喋れるようになったと言うことは、彼女の頭の中では記憶に何らかの変化が起こっているのだろうか。でも、琴璃の毎度の「ごめんね」は過去のことに謝罪をしているわけではない。それでも跡部の目には彼女がどこか意味深に映る。
本当に、思い出したのだろうか。だがそれを聞くことは許されない気がした。せっかく蓋をしたものが溢れてきそうな、あまり良くない感じがした。だから今日もこれと言って大したことは話さなかった。
家の前に着き車が停車すると、ちょうどそこへ琴璃の母親が中から出てきた。車の存在に気づいた母親は門を開けると道路沿いまで出迎えにきた。琴璃も母の姿に気づき窓越しから手を振ると、同じように向こうも手を振り返してきた。
「おかえりなさい。いつもありがとね」
琴璃の母親はそう言って跡部に微笑みかけると、「よかったらお茶でも飲んでいかない?」と言ってきたので跡部は誘いに乗ることにした。
出された紅茶の入ったティーカップになんとなく見覚えがあった。確かうちにもこの銘柄のものがあったはずだ。彼女は自分の母親と友人感関係であるから食器の趣味もどことなく似ているのだ。跡部が日本の琴璃の家にあがるのは、送迎のみを抜くと今回がまだ2回目だった。最初は先月の話。琴璃が日本に来てこっちの病院に通う話になった時だった。イギリスにいた時もそれほど彼女の家には行かず、跡部の屋敷で遊ぶことが多かった。互いに成長した今は当然もう、“遊ぶ”、だなんてことも無くなってしまったが。
琴璃の家は、跡部の家のような屋敷と呼べるほどの規模の広さではなく、ごく普通の一軒家だ。だが家の規模は普通であっても、いわゆる“一般家庭”よりは少し裕福な家庭である。日本と英国の2カ所に棲家を構えているし、親はそれなりに世界を相手にするような役職についている。その、数多のグローバルな仕事のどこかで自分達の母親同士は出会ったらしかった。
「ねぇ琴璃、また向こうの学校に戻りたい?」
「え?」
唐突に、母からそんなことを聞かれた琴璃はきょとんとした顔をした。
「話せるようになったから、向こうでできたお友達にまた会いたいんじゃないかなって。お話したいんじゃないの?」
「……そうだけど」
イギリスの学校で出来た友人は琴璃の帰国を惜しんでくれた。でも琴璃にとっては決して、離れ難いというわけではなかった。喋れなかったという理由を差し置いてもやはり、どうも馴染めなかった節がある。再会できたらそりゃ嬉しいけれど、でも、本音はそうじゃない。
琴璃が答えに逡巡するその様子を跡部は黙って見ていた。そして、彼女を見つめながら微かだが緊張をしていた。琴璃がなんと返答するのか。彼女が答えるのを待つ時の面持ちと言ったら多分、これまでにない真剣なものだったと思う。
やがて琴璃の唇がゆっくり開く。その瞬間ほど、こんなにも気を張ったのは久しぶりだった。
「まだ、日本にいたいな。氷帝学園でも楽しくやっていけそうだし」
琴璃は少し控えめに笑いながら答えた。聞いた跡部は心の中でひっそりと安堵する。日本での生活を続けたいという意思表示を彼女の口から聞けたことで、緩やかに張り詰めていた気持ちが解けてゆく。もしも“イギリスに戻りたい”と彼女が言ってたら、この気持ちはどうなっていたかわからない。
「そっか。ならそうしようね」
琴璃の母親もまた、応えるように微笑みながら言った。だがその態度にどこかよそよそしさの影が見えた。跡部にでさえ判ったのだから、娘だってとっくにそれに気がついている。怪訝な顔をして琴璃は問う。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか、あったのお母さん。何か隠してる感じ」
言い当てられたのが予想外だったのか思わず母親は目を泳がせた。だが一呼吸おくと、カップから手を離し彼女は口を開く。
「ごめんね、隠してるとかそう言うつもりじゃないんだけど。本当のことを話すと、向こうの支署からまた戻ってこないかってお話をもらって」
「……イギリスでまた働かないかってこと?」
「そういうこと。日本に帰ってくる前にお母さんの引き継ぎを担当した人が体調を崩して、当分お休みすることになっちゃったんだって」
元々は琴璃のために一時的に日本に戻ってきたわけで、彼女の仕事は順風満帆だった。それを無理に切り上げて帰国したようなものだった。琴璃の親もまた、跡部の親のように世界を相手にするような働きをしている。そこまで各国を頻繁に飛び回ったりはしていないが、間違いなく才のある人である。彼女のことを必要としている組織はたくさんあるのだ。
「でも、大人の都合に巻き込むつもりはないから安心してね」
「でもお母さんはそのお仕事をやりたいんでしょう?戻ってきてほしいって言ってくれてるなら行くべきじゃない?」
「娘以上に大切なものなんてないのよ。こうしてまたお話ができるようになったんだから、何もあなたが我慢する必要ないの」
きっと向こうの職場はすぐにでも母には戻ってきてほしいのだと思う。それは琴璃にも分かっている。どんな仕事内容なのかよく分からなくても、色々と大人の事情を潜り抜けて娘の自分を優先してくれたことも。ならば無事に声が戻った今、琴璃の選ぶ選択はひとつだった。
「我慢なんてしてないよ。だからお母さんはしたいことをしてよ。大丈夫だよ、私。別に1人でも全然大丈夫」
「まさかあなた、1人でこっちで暮らすっていうの?」
イギリスの職場に戻ることを後押ししてくれるのなら、母親はてっきり琴璃もついてきてくれるのだと思っていたらしい。でも、琴璃は自分だけで日本に残ると言う。そんな新たな選択肢を挙げられて母親はわかりやすく面食らった。
「お母さんが向こうに戻るにしても、琴璃だけおいてくなんてできないわよ」
「だって、私はもう少し病院に通うようだし、せめて今年度は氷帝学園に在籍してたいから」
「うん、そうね。だからやっぱりお母さん行かない」
「でも、それじゃあ……」
母親が娘を大事にする気持ちと、娘が母の仕事を応援したい気持ちが衝突している。どちらも正論だからこそ、話の収拾がつかない。そのやりとりを跡部はただ黙ってずっと聞いていた。家庭の論判に口を出すつもりなど毛頭ない。
困った顔をして琴璃は母親を見つめる。だが母親はもうこの話を終わりにしたいようでカップをかたし始めた。キッチンに向かう母の後ろ姿をじっと目で追う琴璃。その揺れる瞳が、不意に跡部の方に向けられた。向けられたのはわずか一瞬だった。たまたま目が合った、という表現が正しいのかもしれないが、せつなそうな顔が跡部には“助けて”と訴えているようにも見えた。
跡部が黙って立ち上がると、それに気づいた琴璃の母親は見送るためリビングへまた戻ってきた。
「景吾くん、なんだか空気を悪くしちゃってごめんね。いつもありがとね。またいつでも寄ってね」
「差し支えなければ、ひとつ提案を聞いてもらえますか」
「え?」
「琴璃を1人で残すことが懸念材料ならば、通院と今学期の学生生活が終了するまで琴璃はうちで預かります」
「そんな、いいのよ気を遣わないで。ごめんね、私がこんな話聞かせたからよね」
「俺の母親がここにいたとしても、きっと俺と同じ提案をしたと思いますよ」
「でも、もうこれ以上……」
「“これ以上迷惑をかけられない”と言うのなら、それこそ強硬手段にかかると思います。あの人だったら」
多分、俺の母親 だったらさっさと琴璃を連れ帰り、琴璃の母親を強制的に仕事に復帰させてしまうだろう。跡部はそう思った。やりたいことを我慢したまま生き続ける時間なんて、死んだものと同然と思うくらいの人だから。親友である彼女が困っているのなら尚更そうする。そこに迷惑だとか遠慮を感じるような人ではない。
「俺はそこまで強引なことをしませんが琴璃と話してみてください。どちらも不幸にならない提案だと思うので」
「……ありがとね」
跡部の言葉を聞いて、琴璃の母親は今日会って一番の安堵の表情を浮かべた。やはりこの提案は願ったりなのだろう。
リビングを出て玄関へ向かう跡部の背中に弱々しく声がかった。
「けーくん、……ごめんね」
跡部はゆっくりと振り向く。八の字に眉を下げた琴璃が申し訳なさそうに立っていた。今日2度目の意味の分からないごめんねを浴びせられ、思わず舌打ちしそうになったがどうにか堪えた。
「お前はいつも俺に謝ってばかりだな」
「え」
「感謝はされても、謝罪をされる覚えはねぇっつってんだよ。あとはうまく話し合えよ」
「うん。ありがとう」
なのに、琴璃の表情はちっとも晴れやかじゃなかった。母親とはまるで対照的に、彼女は寂しく笑うのだった。本当にこの提案はお前を救ったのかと疑いたくなるほどに、もの悲しく無理やりに口元だけを上げていた。跡部はこれで良かったのかと聞きたかったのに、でもやっぱりできなくてその言葉を呑み込んだ。いつもそうだ。いつも、肝心なことが聞けない。
そのままやりきれない気持ちで彼女の家を後にした。扉の閉まる音がやたらと冷たく聞こえた。
===============================================================
母親同士が友人関係という勝手設定でお送りします。(琴璃の母はスパイじゃないです/当たり前)
※琴璃の父親が登場しませんが、居ないというわけではありません。あんまりモブキャラを登場させるとややこしくなると思ったので端折っただけです。
琴璃は無事に再び声を取り戻した。けれど、だからと言ってすぐに診療が終わるわけではない。精神的なもので生じたことだから、多少時間をかけてもゆっくりと向き合うべきだと琴璃の主治医は言った。だから今日も先週と変わらず跡部は病院まで付き添っている。
変わったことといえば、送り迎えをするたびに琴璃から「ごめんね」をもらう。跡部はそれが好ましく思わない。送迎の役目が煩わしいだなんてちっとも思ってないのに、話せるようになった琴璃はいつも跡部にその言葉を告げる。もっと言ってほしい言葉があるのに、毎回真っ先に謝られるのが些か不愉快だった。
ふと思う。喋れるようになったと言うことは、彼女の頭の中では記憶に何らかの変化が起こっているのだろうか。でも、琴璃の毎度の「ごめんね」は過去のことに謝罪をしているわけではない。それでも跡部の目には彼女がどこか意味深に映る。
本当に、思い出したのだろうか。だがそれを聞くことは許されない気がした。せっかく蓋をしたものが溢れてきそうな、あまり良くない感じがした。だから今日もこれと言って大したことは話さなかった。
家の前に着き車が停車すると、ちょうどそこへ琴璃の母親が中から出てきた。車の存在に気づいた母親は門を開けると道路沿いまで出迎えにきた。琴璃も母の姿に気づき窓越しから手を振ると、同じように向こうも手を振り返してきた。
「おかえりなさい。いつもありがとね」
琴璃の母親はそう言って跡部に微笑みかけると、「よかったらお茶でも飲んでいかない?」と言ってきたので跡部は誘いに乗ることにした。
出された紅茶の入ったティーカップになんとなく見覚えがあった。確かうちにもこの銘柄のものがあったはずだ。彼女は自分の母親と友人感関係であるから食器の趣味もどことなく似ているのだ。跡部が日本の琴璃の家にあがるのは、送迎のみを抜くと今回がまだ2回目だった。最初は先月の話。琴璃が日本に来てこっちの病院に通う話になった時だった。イギリスにいた時もそれほど彼女の家には行かず、跡部の屋敷で遊ぶことが多かった。互いに成長した今は当然もう、“遊ぶ”、だなんてことも無くなってしまったが。
琴璃の家は、跡部の家のような屋敷と呼べるほどの規模の広さではなく、ごく普通の一軒家だ。だが家の規模は普通であっても、いわゆる“一般家庭”よりは少し裕福な家庭である。日本と英国の2カ所に棲家を構えているし、親はそれなりに世界を相手にするような役職についている。その、数多のグローバルな仕事のどこかで自分達の母親同士は出会ったらしかった。
「ねぇ琴璃、また向こうの学校に戻りたい?」
「え?」
唐突に、母からそんなことを聞かれた琴璃はきょとんとした顔をした。
「話せるようになったから、向こうでできたお友達にまた会いたいんじゃないかなって。お話したいんじゃないの?」
「……そうだけど」
イギリスの学校で出来た友人は琴璃の帰国を惜しんでくれた。でも琴璃にとっては決して、離れ難いというわけではなかった。喋れなかったという理由を差し置いてもやはり、どうも馴染めなかった節がある。再会できたらそりゃ嬉しいけれど、でも、本音はそうじゃない。
琴璃が答えに逡巡するその様子を跡部は黙って見ていた。そして、彼女を見つめながら微かだが緊張をしていた。琴璃がなんと返答するのか。彼女が答えるのを待つ時の面持ちと言ったら多分、これまでにない真剣なものだったと思う。
やがて琴璃の唇がゆっくり開く。その瞬間ほど、こんなにも気を張ったのは久しぶりだった。
「まだ、日本にいたいな。氷帝学園でも楽しくやっていけそうだし」
琴璃は少し控えめに笑いながら答えた。聞いた跡部は心の中でひっそりと安堵する。日本での生活を続けたいという意思表示を彼女の口から聞けたことで、緩やかに張り詰めていた気持ちが解けてゆく。もしも“イギリスに戻りたい”と彼女が言ってたら、この気持ちはどうなっていたかわからない。
「そっか。ならそうしようね」
琴璃の母親もまた、応えるように微笑みながら言った。だがその態度にどこかよそよそしさの影が見えた。跡部にでさえ判ったのだから、娘だってとっくにそれに気がついている。怪訝な顔をして琴璃は問う。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか、あったのお母さん。何か隠してる感じ」
言い当てられたのが予想外だったのか思わず母親は目を泳がせた。だが一呼吸おくと、カップから手を離し彼女は口を開く。
「ごめんね、隠してるとかそう言うつもりじゃないんだけど。本当のことを話すと、向こうの支署からまた戻ってこないかってお話をもらって」
「……イギリスでまた働かないかってこと?」
「そういうこと。日本に帰ってくる前にお母さんの引き継ぎを担当した人が体調を崩して、当分お休みすることになっちゃったんだって」
元々は琴璃のために一時的に日本に戻ってきたわけで、彼女の仕事は順風満帆だった。それを無理に切り上げて帰国したようなものだった。琴璃の親もまた、跡部の親のように世界を相手にするような働きをしている。そこまで各国を頻繁に飛び回ったりはしていないが、間違いなく才のある人である。彼女のことを必要としている組織はたくさんあるのだ。
「でも、大人の都合に巻き込むつもりはないから安心してね」
「でもお母さんはそのお仕事をやりたいんでしょう?戻ってきてほしいって言ってくれてるなら行くべきじゃない?」
「娘以上に大切なものなんてないのよ。こうしてまたお話ができるようになったんだから、何もあなたが我慢する必要ないの」
きっと向こうの職場はすぐにでも母には戻ってきてほしいのだと思う。それは琴璃にも分かっている。どんな仕事内容なのかよく分からなくても、色々と大人の事情を潜り抜けて娘の自分を優先してくれたことも。ならば無事に声が戻った今、琴璃の選ぶ選択はひとつだった。
「我慢なんてしてないよ。だからお母さんはしたいことをしてよ。大丈夫だよ、私。別に1人でも全然大丈夫」
「まさかあなた、1人でこっちで暮らすっていうの?」
イギリスの職場に戻ることを後押ししてくれるのなら、母親はてっきり琴璃もついてきてくれるのだと思っていたらしい。でも、琴璃は自分だけで日本に残ると言う。そんな新たな選択肢を挙げられて母親はわかりやすく面食らった。
「お母さんが向こうに戻るにしても、琴璃だけおいてくなんてできないわよ」
「だって、私はもう少し病院に通うようだし、せめて今年度は氷帝学園に在籍してたいから」
「うん、そうね。だからやっぱりお母さん行かない」
「でも、それじゃあ……」
母親が娘を大事にする気持ちと、娘が母の仕事を応援したい気持ちが衝突している。どちらも正論だからこそ、話の収拾がつかない。そのやりとりを跡部はただ黙ってずっと聞いていた。家庭の論判に口を出すつもりなど毛頭ない。
困った顔をして琴璃は母親を見つめる。だが母親はもうこの話を終わりにしたいようでカップをかたし始めた。キッチンに向かう母の後ろ姿をじっと目で追う琴璃。その揺れる瞳が、不意に跡部の方に向けられた。向けられたのはわずか一瞬だった。たまたま目が合った、という表現が正しいのかもしれないが、せつなそうな顔が跡部には“助けて”と訴えているようにも見えた。
跡部が黙って立ち上がると、それに気づいた琴璃の母親は見送るためリビングへまた戻ってきた。
「景吾くん、なんだか空気を悪くしちゃってごめんね。いつもありがとね。またいつでも寄ってね」
「差し支えなければ、ひとつ提案を聞いてもらえますか」
「え?」
「琴璃を1人で残すことが懸念材料ならば、通院と今学期の学生生活が終了するまで琴璃はうちで預かります」
「そんな、いいのよ気を遣わないで。ごめんね、私がこんな話聞かせたからよね」
「俺の母親がここにいたとしても、きっと俺と同じ提案をしたと思いますよ」
「でも、もうこれ以上……」
「“これ以上迷惑をかけられない”と言うのなら、それこそ強硬手段にかかると思います。あの人だったら」
多分、
「俺はそこまで強引なことをしませんが琴璃と話してみてください。どちらも不幸にならない提案だと思うので」
「……ありがとね」
跡部の言葉を聞いて、琴璃の母親は今日会って一番の安堵の表情を浮かべた。やはりこの提案は願ったりなのだろう。
リビングを出て玄関へ向かう跡部の背中に弱々しく声がかった。
「けーくん、……ごめんね」
跡部はゆっくりと振り向く。八の字に眉を下げた琴璃が申し訳なさそうに立っていた。今日2度目の意味の分からないごめんねを浴びせられ、思わず舌打ちしそうになったがどうにか堪えた。
「お前はいつも俺に謝ってばかりだな」
「え」
「感謝はされても、謝罪をされる覚えはねぇっつってんだよ。あとはうまく話し合えよ」
「うん。ありがとう」
なのに、琴璃の表情はちっとも晴れやかじゃなかった。母親とはまるで対照的に、彼女は寂しく笑うのだった。本当にこの提案はお前を救ったのかと疑いたくなるほどに、もの悲しく無理やりに口元だけを上げていた。跡部はこれで良かったのかと聞きたかったのに、でもやっぱりできなくてその言葉を呑み込んだ。いつもそうだ。いつも、肝心なことが聞けない。
そのままやりきれない気持ちで彼女の家を後にした。扉の閉まる音がやたらと冷たく聞こえた。
===============================================================
母親同士が友人関係という勝手設定でお送りします。(琴璃の母はスパイじゃないです/当たり前)
※琴璃の父親が登場しませんが、居ないというわけではありません。あんまりモブキャラを登場させるとややこしくなると思ったので端折っただけです。
1/1ページ