ウサギの声色
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いつもの中央ロビーで琴璃が来るのを待っている。だが、たまたま家の者から電話がかかってきたので跡部は外に出て通話をしていた。その間ほんの数分足らず。戻ってみると琴璃の姿があった。診察を終え、次の予約を取り終えたところに横から妙な男に話しかけられていた、まさしくその瞬間を跡部は目撃したのだ。
相手が病院の関係者じゃないことくらい、遠くからでも分かる。まず身なりがそうではない。次に、あんな下心丸出しの笑い方を患者相手に病院の関係者はしないだろう。
琴璃はまた知らない男に何か言い寄られている。跡部はすぐに分かった。ちょっと目を離しただけなのにこれだ。病院内であっても身の保障はしてくれないというのかと、呆れ半分な気持ちになる。彼女のように、口がきけないとどうしても弱者になってしまう。それを相手の男は知ってか知らずか分からないが、跡部の気配に気づくことなく流暢に話し続けている。
「でさ、もしよかったらこの後時間あったりする?」
「あるわけねぇだろうが」
前回と同じく、一言だけで追っ払った。男は跡部を見ると全速力で逃げていった。あんなに動けるのなら患者であるわけがない。じゃあ一体なんなんだとは思わない。2度と会うことのない人間に興味は一切ない。
前回も今回の男も、跡部の存在に気づくや否や、逃げ出すように去ってゆく。勝ち目がないとすぐに分かるのか、何も言わずに脱兎の如く。“いい虫除け役”になっている自分に呆れ返りそうになった。跡部はふと琴璃に視線を向ける。ほらまた。そうやってびくびくした表情でこっちを見るなよ。彼女が明らかに自分の顔色を窺っているのが分かった。
「難しいと思うが、あまり俺以外の人間に慣れるなよ」
そう言って跡部は舌打ちをした。それを聞いた琴璃の肩がビクっと跳ねた。彼女の身を案じて言っているつもりの言葉だったのに、まるで制圧しているような意味を纏ってしまった。
いつもそうだ。普段はどこかふわふわしているような性格なのに、琴璃はいつもどこか、跡部に対してびくびくしている。自分に怒られるのが怖いんだろうと跡部は思う。またあの時みたいに怒鳴られるのが怖いんだろう。あの時も、跡部が急に声をあげたからびっくりしてウサギを逃した。彼女の記憶の中に、ウサギの死が残っているのかは定かではないけれど、きっと自分に怒られたことは覚えているのだろう。もしかしたら琴璃は、心の根底では跡部のことを恐れているのかもしれない。もしくは恨んでいるのかもしれないし、或いはそのどちらでもないのかも。嫌われたもんだな、といっそ開き直りたくなる。そんなふうに簡単に片付けられる感情ならいいのに。
「帰るぞ」
なるべく平生に、普段通りのトーンで言う。彼女にはすぐに心の乱れを見破られてしまうから。別にただ、普通にしてればいい。それだけなのにやけに喉の奥が渇いた。何を言えば、何を伝えれば彼女の不安を払拭できるのか分からない。琴璃は喋れないが自分は問題なく言葉を発せられるのに、それができない。今のこんな自分を他の誰かが見たら一体どんな顔をするだろうか。
予想通り、車に乗っても琴璃はずっと窓の方を眺めていた。別に俯いたりしてるわけでもないけれど、それが落ち込んでいるのだとすぐに分かる。会わなかった期間があったとは言えそれなりに付き合いは長い。だから今琴璃の気持ちが沈んでいるのは容易く読めた。
跡部は何か言おうと思って、けれど、何を言おうか考えてしまった。帰りの車内で話しかけてくるのは大概彼女の方からだからだ。いつも、跡部のほうが受け身だった。喋れないけれどいつも琴璃が話題を振ってくる。なのに今日は何も伝えようとしてこない。話す内容はいつも、なんてことのない日常の話。授業のこと、今欲しいもの、明日のこと。過去のことや声にまつわる話なんて一切出てこない。だから跡部も言わない。
でも今のこの沈黙は重苦しいと感じた。
「今日はやけに大人しいじゃねぇか」
声が出なくとも、本来彼女はわりとお喋りな方なのだ。幸村と3人で帰った日こそ、彼女は静かだったけれど、筆談或いは電子機を用いてあれこれ他愛無いことを話してくるのが常だった。
琴璃は問いかけてきた跡部の方を見つめる。いつものようにiPadを出して文字を打ち込み始めた。
“怒ってる?”
「なんでそうなるんだよ」
“こないだも、こんなことがあったから”
こないだのこんなこととは、幸村と3人でカフェに行った時に変な男に付き纏われたことを言っている。こないだも今日も、1人で対処できなかったことを琴璃は申し訳なく感じているのだ。
「こないだも今日のも、別にお前に非があるわけじゃねぇだろ」
跡部の返答を聞いても、琴璃は浮かない顔をしていた。そりゃそうだけど。彼女もそう思ってはいるものの腑に落ちない様子だった。
それにしても、こんなに何度も知らない男どもから声をかけられるのもどうなのか。理由の1つに琴璃は容姿が整っている方だからだと思う。けどそれを差し置いても、やたらと絡まれやすい。最初に病院で幸村と会った時でさえ、琴璃を口説いているのかと思った。正体が幸村と気づくまでは、跡部はまたどこぞの馬鹿が彼女に言い寄っているのかと思ったくらいだった。
「相手の奴らも、お前のことを騙しやすいと思ってるんじゃねぇの」
“わたし、そんなにバカっぽい?”
「んなこと言ってねえだろうが」
必死そうな目で彼女は跡部を見る。馬鹿っぽいと思われるのはどうやら心外らしい。その表情がまるで弱々しいウサギみたいで、跡部は思わず笑った。
「今度はウサギの魔除けでも買ったらどうだ?」
“そんなのぜったいかわいくない。ていうかそんなウサギのグッズ売ってない”
琴璃は笑いながらも跡部に抗議してきた。どうやら冗談が通じたらしい。さっきよりも幾分表情は穏やかになった。少し笑って、また画面に目を落とす。しばし何かを考えてから彼女の指が動いた。何かを打ち込んで、またすぐにその指が止まった。打ち終わったのかと思ったのに、琴璃は一向に画面を見せてこない。跡部は上からちらりと覗き込んだ。
“もし 私がしゃべれたら、”
そこで文章は止まっていた。それを見た跡部もまた止まってしまった。呼吸するのも思わず止めてしまうほどに。
日本に来て、跡部と再会してまだそんなに経ってはいないけれど、琴璃が自らのことを語ったことなんてこれまで一度もなかった。病に関することなんて全くもって触れることはなかった。本人が言わないから周りも聞けなかった。腫れ物に触るようなつもりじゃないけれど、その方が琴璃にとって良いと大人達も判断したのだ。医者とのカウンセリングもどこまで過去のことに突っ込んだ話をしているのか跡部は知らない。琴璃が言わないから、どうしても聞けなかった。そんな中で今、何の前触れもなく己のことに触れようとしている。息を呑むに決まってる。
跡部は琴璃が再び文字を打ち込むのを待った。じっと腕を組んで前を向いたまま、けれど気持ちは早るばかり。
もし喋れたのなら。お前はどうしたいんだ。俺に何を言おうと思っているんだ。知りたいし、できることなら叶えてやるつもりだった。彼女がこれからどんなことを言うのであっても受け止めるつもりだった。
だが、言葉は続くことはなかった。
跡部の隣で琴璃は静かにdeleteキーを押して、文字を全て消してしまった。そして、そのままぱたんとiPadを畳んだ。
まさか盗み見ていただなんて言えないから、跡部は何も反応しなかった。けれど続きがとてつもなく知りたかった。喉から手が出るほどに、知りたかった。だが琴璃は手元から窓の外に視線を移している。もう話す気はゼロになったということだ。
彼女が言おうとしてやめてしまったのは、何か不都合なことがあるから。だから続きを言えなかった。そうとしか考えられない。じゃあその不都合って何なんだ。それは俺にあるのか、そうではないのか。それだけでも知りたかったのに、彼女が再び文字を紡ぐことはなかった。
不意に、くいっと制服の袖を引っ張られる。
「どうした?」
琴璃は自身の座っている側の窓ガラスを指差す。外気との温度差で曇ったガラスに彼女が指で描いた何かがあった。文字ではなさそうだ。
「なんだそれは」
琴璃は謎の物体の隣に文字を書く。“にんじん”。このイラストの正体らしい。へんてこな楕円形のものは、どう見ても跡部には人参に見えなかった。
「これがか?お前、絵心ねぇな」
琴璃はムッとした顔をする。でも楽しそうだった。その隣に今度はウサギらしき物体を描き始める。その様子を、跡部はぼんやりと眺めていた。視線に気づくことなく、彼女は口元を綻ばせて新たな謎の物体を描いている。機嫌は良さそうだ。
だからもう、それで良かった。彼女が楽しそうだから、もうあれこれ考えるのが馬鹿馬鹿しくなった。喋らなくともこうして笑ってくれるのにそれ以上を望むのは、ただの独りよがりなのかもしれないから。
相手が病院の関係者じゃないことくらい、遠くからでも分かる。まず身なりがそうではない。次に、あんな下心丸出しの笑い方を患者相手に病院の関係者はしないだろう。
琴璃はまた知らない男に何か言い寄られている。跡部はすぐに分かった。ちょっと目を離しただけなのにこれだ。病院内であっても身の保障はしてくれないというのかと、呆れ半分な気持ちになる。彼女のように、口がきけないとどうしても弱者になってしまう。それを相手の男は知ってか知らずか分からないが、跡部の気配に気づくことなく流暢に話し続けている。
「でさ、もしよかったらこの後時間あったりする?」
「あるわけねぇだろうが」
前回と同じく、一言だけで追っ払った。男は跡部を見ると全速力で逃げていった。あんなに動けるのなら患者であるわけがない。じゃあ一体なんなんだとは思わない。2度と会うことのない人間に興味は一切ない。
前回も今回の男も、跡部の存在に気づくや否や、逃げ出すように去ってゆく。勝ち目がないとすぐに分かるのか、何も言わずに脱兎の如く。“いい虫除け役”になっている自分に呆れ返りそうになった。跡部はふと琴璃に視線を向ける。ほらまた。そうやってびくびくした表情でこっちを見るなよ。彼女が明らかに自分の顔色を窺っているのが分かった。
「難しいと思うが、あまり俺以外の人間に慣れるなよ」
そう言って跡部は舌打ちをした。それを聞いた琴璃の肩がビクっと跳ねた。彼女の身を案じて言っているつもりの言葉だったのに、まるで制圧しているような意味を纏ってしまった。
いつもそうだ。普段はどこかふわふわしているような性格なのに、琴璃はいつもどこか、跡部に対してびくびくしている。自分に怒られるのが怖いんだろうと跡部は思う。またあの時みたいに怒鳴られるのが怖いんだろう。あの時も、跡部が急に声をあげたからびっくりしてウサギを逃した。彼女の記憶の中に、ウサギの死が残っているのかは定かではないけれど、きっと自分に怒られたことは覚えているのだろう。もしかしたら琴璃は、心の根底では跡部のことを恐れているのかもしれない。もしくは恨んでいるのかもしれないし、或いはそのどちらでもないのかも。嫌われたもんだな、といっそ開き直りたくなる。そんなふうに簡単に片付けられる感情ならいいのに。
「帰るぞ」
なるべく平生に、普段通りのトーンで言う。彼女にはすぐに心の乱れを見破られてしまうから。別にただ、普通にしてればいい。それだけなのにやけに喉の奥が渇いた。何を言えば、何を伝えれば彼女の不安を払拭できるのか分からない。琴璃は喋れないが自分は問題なく言葉を発せられるのに、それができない。今のこんな自分を他の誰かが見たら一体どんな顔をするだろうか。
予想通り、車に乗っても琴璃はずっと窓の方を眺めていた。別に俯いたりしてるわけでもないけれど、それが落ち込んでいるのだとすぐに分かる。会わなかった期間があったとは言えそれなりに付き合いは長い。だから今琴璃の気持ちが沈んでいるのは容易く読めた。
跡部は何か言おうと思って、けれど、何を言おうか考えてしまった。帰りの車内で話しかけてくるのは大概彼女の方からだからだ。いつも、跡部のほうが受け身だった。喋れないけれどいつも琴璃が話題を振ってくる。なのに今日は何も伝えようとしてこない。話す内容はいつも、なんてことのない日常の話。授業のこと、今欲しいもの、明日のこと。過去のことや声にまつわる話なんて一切出てこない。だから跡部も言わない。
でも今のこの沈黙は重苦しいと感じた。
「今日はやけに大人しいじゃねぇか」
声が出なくとも、本来彼女はわりとお喋りな方なのだ。幸村と3人で帰った日こそ、彼女は静かだったけれど、筆談或いは電子機を用いてあれこれ他愛無いことを話してくるのが常だった。
琴璃は問いかけてきた跡部の方を見つめる。いつものようにiPadを出して文字を打ち込み始めた。
“怒ってる?”
「なんでそうなるんだよ」
“こないだも、こんなことがあったから”
こないだのこんなこととは、幸村と3人でカフェに行った時に変な男に付き纏われたことを言っている。こないだも今日も、1人で対処できなかったことを琴璃は申し訳なく感じているのだ。
「こないだも今日のも、別にお前に非があるわけじゃねぇだろ」
跡部の返答を聞いても、琴璃は浮かない顔をしていた。そりゃそうだけど。彼女もそう思ってはいるものの腑に落ちない様子だった。
それにしても、こんなに何度も知らない男どもから声をかけられるのもどうなのか。理由の1つに琴璃は容姿が整っている方だからだと思う。けどそれを差し置いても、やたらと絡まれやすい。最初に病院で幸村と会った時でさえ、琴璃を口説いているのかと思った。正体が幸村と気づくまでは、跡部はまたどこぞの馬鹿が彼女に言い寄っているのかと思ったくらいだった。
「相手の奴らも、お前のことを騙しやすいと思ってるんじゃねぇの」
“わたし、そんなにバカっぽい?”
「んなこと言ってねえだろうが」
必死そうな目で彼女は跡部を見る。馬鹿っぽいと思われるのはどうやら心外らしい。その表情がまるで弱々しいウサギみたいで、跡部は思わず笑った。
「今度はウサギの魔除けでも買ったらどうだ?」
“そんなのぜったいかわいくない。ていうかそんなウサギのグッズ売ってない”
琴璃は笑いながらも跡部に抗議してきた。どうやら冗談が通じたらしい。さっきよりも幾分表情は穏やかになった。少し笑って、また画面に目を落とす。しばし何かを考えてから彼女の指が動いた。何かを打ち込んで、またすぐにその指が止まった。打ち終わったのかと思ったのに、琴璃は一向に画面を見せてこない。跡部は上からちらりと覗き込んだ。
“もし 私がしゃべれたら、”
そこで文章は止まっていた。それを見た跡部もまた止まってしまった。呼吸するのも思わず止めてしまうほどに。
日本に来て、跡部と再会してまだそんなに経ってはいないけれど、琴璃が自らのことを語ったことなんてこれまで一度もなかった。病に関することなんて全くもって触れることはなかった。本人が言わないから周りも聞けなかった。腫れ物に触るようなつもりじゃないけれど、その方が琴璃にとって良いと大人達も判断したのだ。医者とのカウンセリングもどこまで過去のことに突っ込んだ話をしているのか跡部は知らない。琴璃が言わないから、どうしても聞けなかった。そんな中で今、何の前触れもなく己のことに触れようとしている。息を呑むに決まってる。
跡部は琴璃が再び文字を打ち込むのを待った。じっと腕を組んで前を向いたまま、けれど気持ちは早るばかり。
もし喋れたのなら。お前はどうしたいんだ。俺に何を言おうと思っているんだ。知りたいし、できることなら叶えてやるつもりだった。彼女がこれからどんなことを言うのであっても受け止めるつもりだった。
だが、言葉は続くことはなかった。
跡部の隣で琴璃は静かにdeleteキーを押して、文字を全て消してしまった。そして、そのままぱたんとiPadを畳んだ。
まさか盗み見ていただなんて言えないから、跡部は何も反応しなかった。けれど続きがとてつもなく知りたかった。喉から手が出るほどに、知りたかった。だが琴璃は手元から窓の外に視線を移している。もう話す気はゼロになったということだ。
彼女が言おうとしてやめてしまったのは、何か不都合なことがあるから。だから続きを言えなかった。そうとしか考えられない。じゃあその不都合って何なんだ。それは俺にあるのか、そうではないのか。それだけでも知りたかったのに、彼女が再び文字を紡ぐことはなかった。
不意に、くいっと制服の袖を引っ張られる。
「どうした?」
琴璃は自身の座っている側の窓ガラスを指差す。外気との温度差で曇ったガラスに彼女が指で描いた何かがあった。文字ではなさそうだ。
「なんだそれは」
琴璃は謎の物体の隣に文字を書く。“にんじん”。このイラストの正体らしい。へんてこな楕円形のものは、どう見ても跡部には人参に見えなかった。
「これがか?お前、絵心ねぇな」
琴璃はムッとした顔をする。でも楽しそうだった。その隣に今度はウサギらしき物体を描き始める。その様子を、跡部はぼんやりと眺めていた。視線に気づくことなく、彼女は口元を綻ばせて新たな謎の物体を描いている。機嫌は良さそうだ。
だからもう、それで良かった。彼女が楽しそうだから、もうあれこれ考えるのが馬鹿馬鹿しくなった。喋らなくともこうして笑ってくれるのにそれ以上を望むのは、ただの独りよがりなのかもしれないから。