ウサギの声色
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「……流石に遅ぇな」
跡部は腕時計に目を落とす。もうすぐ30分が経とうとしているが、琴璃が戻ってくる気配は未だない。
これ以上幸村と2人でいるのも時間を持て余すだけだ。特に話題もなければ、一応は敵対するテニス強豪校なので必要以上に馴れ合うつもりもない。何故か幸村はフレンドリーにしてくるけど、とにかく野郎2人でいるのももう飽きた。
「見てくるから待ってろ」
幸村にそう言って跡部は立ち上がった。通路を進み雑貨店の入り口付近に行くと琴璃がいた。1人ではなく、自分らと同じくらいの男といた。そう思えたのは相手も学生服姿だったからだ。誰だアイツは、と思いながら跡部は琴璃に近づく。少し離れているところからでも見えた琴璃の表情は、誰がどう見ても困っている顔つきをしていた。反対に、隣にいる男は楽しげに顔を歪ませていた。
「すごいねー、それ氷帝学園の制服でしょ?氷帝ってめっちゃ頭いいんでしょ?どれくらい勉強したの?試験難しかった?」
よく喋る男だな、とうんざりしながら跡部はずんずんと琴璃のもとへ進んでいく。
「ねぇ、試験ってどんな感じだった?」
「テメェの頭じゃ到底受からねぇだろうよ」
背後から遠慮なく話しかけた。跡部の姿を見た瞬間、男は飛び上がるほどに驚き、小さく呻きながらそそくさと消えていった。
「大丈夫か」
琴璃はこくんと頷く。ほっとしたような、でも少し罰が悪そうな顔。跡部に迷惑をかけたと思ってすっかり意気消沈してしまっている。別に琴璃が悪いわけじゃない。さっきの馬鹿が言い寄ってきたせいであってお前が喋れないからという理由ではない。そう伝えてもどうせ、琴璃は謝罪をしてくる。だからやめた。言うべき時といちいち伝えないほうが賢明な場面がある。今は後者だ。
「アイツを送る前に、先にお前の家にまわってやろうか」
幸村のいる方に目を向けながら跡部は言った。だが跡部の提案に琴璃は首を横に振った。ここから家の方角に引き返す方が時間がかかることは琴璃も分かっている。これ以上迷惑をかけたくないとも感じている。感情を言葉で表現できないからこそ、優しい彼女が何を慮っているのかを想像するのは跡部にとっては容易いものだ。けれどやっぱり、彼女の声で、ちゃんと音になった気持ちを聞きたいと微かに感じている自分がいるのも事実だった。
何故、あんな返答をしたのか。
幸村を自宅まで送り届け東京へ引き返す車内で。跡部はさっきの幸村とのやりとりを思い返していた。
“また話せる日が来るよ”と言われたことに対して自分は曖昧な返答をした。素直に同調できなかったことが今になって疑問に浮かぶ。自分だって琴璃がまた話せるようになって欲しいと切実に思っている。そこに嘘偽りはない。ただ、それは大前提な上で別の感情も胸の中に抱えていた。無事にいつかは声を発せるようになったとして、琴璃は、果たして自分に何を言うのだろうか。感謝、謝罪、あるいは――そのどちらでもない言葉。例えば否定的なそれ。予想だにできないことを告げられるのではないかと心の奥底でひっそり思っている。あの日から、ずっと。
視線だけ左隣の彼女へ向ける。幸村が降りて車内は2人になっても今日の琴璃はいつものふうではなかった。さっき店で迷惑かけたことをまだ反省している。これじゃあ家に帰るまで悄気たままだ。だから跡部は話を振った。
「今日は何を手に入れたんだ?」
さっきの買い物のことを跡部は言っている。話しかけられて琴璃は一瞬ハッとしたが、すぐに顔を緩めて紙袋の中から購入品を取り出す。跡部に見せてきたパステルカラーのルームソックスは、相変わらずのウサギのデザインだった。
「随分と今日は遠慮したんだな」
幸村もいたことだし、跡部のカードだったから、琴璃はどれかひとつだけを買おうと悩んでいた。じっくり悩んでいたところをどこぞの男に絡まれ、制服で氷帝の生徒だと知られ、色々と言い寄られていたのである。話せないと自分の意思表示さえできない。だから通院も琴璃1人で行かせることは躊躇われる。今日みたいに何が起こるか分からない。琴璃の親に付き添いの役目をすると言ったのは跡部自らだった。やっぱりまだ、どこかで、後ろめたかった。そんな感情を持つことはこれまでの人生の中で初めてだった。
――あの日あの時あのタイミングで琴璃を呼ばなければ。
彼女は驚いたりなんかしなかった。ウサギを抱えていた手を離すことはなかったしウサギが死ぬこともなかった。気を抜くと、そんな負の気持ちが頭をもたげる。悪夢を呼びつけるかのようにあの日の記憶の中に引き摺り込まれそうになる。瞼の裏では、少女の可愛らしいワンピースがウサギの血で真っ赤に染まったのを今でもまだ覚えている。
幸村には打ち明けなかったけれど、あの日は特別な日だった。あの惨劇が起きた日は琴璃の誕生日でもあった。琴璃が学校でうまく馴染めていなかったから、跡部の家がささやかに祝ってやろうと取り計らったのだった。嬉しそうに母親に手を引かれ、跡部家の使用人達に可愛がられて、ケーキを食べてプレゼントを貰う、そんな予定のはずだったのに。実際に贈られたのは悪夢のような記憶と悲しい結果だった。反対に失くしたのは自分の声と家族同然に思っていたペット。皮肉にもなりようがないものだった。
話せなくなってからも琴璃は時々家に遊びに来ていたが、やがて跡部は日本の学校へ通うためにイギリスを発った。あの時は、琴璃を置き去りにしたような複雑な気持ちにもなったのを覚えている。尚更罪悪感が色濃くなったことも。
後悔なんかせず、選択に迷うこともなく、いつだって堂々と立ち振る舞う。それでいて何でも手にしているのが跡部景吾だと誰もが思っている。そんな、一部分だけを切り取って皆が跡部のことを羨んだりするけれど。実際はそんなんじゃない。当然に他の人間と同様に血が通ってる。忘れられないくらいの記憶もあれば、消したい過去だって存在する。琴璃は自分を恨んでいるのではないか。そんな、恐れにも似た懸念と隣り合わせの気持ちを胸の奥に棲まわせている。跡部のそんな心情を幸村はまだそこまでは見破ってはいないようだった。だが指摘された通り責任を感じているのは当たりだ。琴璃が喋れなくなって間も無くして日本 に来てしまったから、自分に懐いていた彼女は独りになってその後どんな学生生活を送っていたのか分からない。でもきっと、楽しい日々ではなかったと推測できるから。どうしても、罪悪感は拭いきれない。
やがて琴璃は眺めていた戦利品を大事そうにしまうと、今度はiPadを鞄から取り出した。キーボード設定にして、開いた白紙のページに何やら打ち込みだした。
“お友達とゆっくり話せた?”
誰の話かと思ったら。そういえば幸村は琴璃に名乗っていなかった。勝手に跡部の友人というカテゴリにされている。
「誰が友達だ」
“ちがうの?”
「知り合いってところだな」
琴璃はくすくすと音にない声で笑う。笑いながらまた手を動かした。
“そのわりにはうれしそうだった”
「あん?」
“なんか生き生きしてたよ”
そんなつもりは毛頭ない。むしろうんざりしていたほうが強いと言うのに。琴璃には、跡部の姿は幸村に友交的に映っていたらしい。彼女は人の気持ちを読むことに長けているから本当にそうだったのだろう。少なくとも、嫌がってはいなかったということか。まだ納得できないけれど、そこまで煙たく思っちゃいないらしい。
“あの人なんて言うの”
「幸村」
琴璃はふぅん、という顔をした。口元が微かに動いた。幸村くん、と復唱していた。
“ちょっとふしぎな人だね”
「不思議というか、どこか掴めないのは確かだな。よくあれで立海の部長が務まっていると思うぜ」
“ユキムラクンは、テニス上手?”
「俺ほどではねぇな」
即答した跡部にまたしても琴璃は静かに笑った。きっとそう答えると思っていたのだろう。跡部の思考をよく分かっている。こうして日本で久しぶりに会っても彼女の空気感はそのままだった。幼い頃からずっとそうだ。喋れなくなっても、雰囲気はずっと変わらない。
ならば今跡部がひっそり抱えているこの罪悪感も琴璃には読まれているのだろか。知っていて、なんでもないように接するのだろうか。琴璃は本当はどう思っているのだろうか。知りたくて、でもやっぱり知りたくない。
彼女の本当の気持ちを知るのが、蓋を開けるのが、こんなにも気になっていて、またそれと同じくらいに警戒しているのだ。
跡部は腕時計に目を落とす。もうすぐ30分が経とうとしているが、琴璃が戻ってくる気配は未だない。
これ以上幸村と2人でいるのも時間を持て余すだけだ。特に話題もなければ、一応は敵対するテニス強豪校なので必要以上に馴れ合うつもりもない。何故か幸村はフレンドリーにしてくるけど、とにかく野郎2人でいるのももう飽きた。
「見てくるから待ってろ」
幸村にそう言って跡部は立ち上がった。通路を進み雑貨店の入り口付近に行くと琴璃がいた。1人ではなく、自分らと同じくらいの男といた。そう思えたのは相手も学生服姿だったからだ。誰だアイツは、と思いながら跡部は琴璃に近づく。少し離れているところからでも見えた琴璃の表情は、誰がどう見ても困っている顔つきをしていた。反対に、隣にいる男は楽しげに顔を歪ませていた。
「すごいねー、それ氷帝学園の制服でしょ?氷帝ってめっちゃ頭いいんでしょ?どれくらい勉強したの?試験難しかった?」
よく喋る男だな、とうんざりしながら跡部はずんずんと琴璃のもとへ進んでいく。
「ねぇ、試験ってどんな感じだった?」
「テメェの頭じゃ到底受からねぇだろうよ」
背後から遠慮なく話しかけた。跡部の姿を見た瞬間、男は飛び上がるほどに驚き、小さく呻きながらそそくさと消えていった。
「大丈夫か」
琴璃はこくんと頷く。ほっとしたような、でも少し罰が悪そうな顔。跡部に迷惑をかけたと思ってすっかり意気消沈してしまっている。別に琴璃が悪いわけじゃない。さっきの馬鹿が言い寄ってきたせいであってお前が喋れないからという理由ではない。そう伝えてもどうせ、琴璃は謝罪をしてくる。だからやめた。言うべき時といちいち伝えないほうが賢明な場面がある。今は後者だ。
「アイツを送る前に、先にお前の家にまわってやろうか」
幸村のいる方に目を向けながら跡部は言った。だが跡部の提案に琴璃は首を横に振った。ここから家の方角に引き返す方が時間がかかることは琴璃も分かっている。これ以上迷惑をかけたくないとも感じている。感情を言葉で表現できないからこそ、優しい彼女が何を慮っているのかを想像するのは跡部にとっては容易いものだ。けれどやっぱり、彼女の声で、ちゃんと音になった気持ちを聞きたいと微かに感じている自分がいるのも事実だった。
何故、あんな返答をしたのか。
幸村を自宅まで送り届け東京へ引き返す車内で。跡部はさっきの幸村とのやりとりを思い返していた。
“また話せる日が来るよ”と言われたことに対して自分は曖昧な返答をした。素直に同調できなかったことが今になって疑問に浮かぶ。自分だって琴璃がまた話せるようになって欲しいと切実に思っている。そこに嘘偽りはない。ただ、それは大前提な上で別の感情も胸の中に抱えていた。無事にいつかは声を発せるようになったとして、琴璃は、果たして自分に何を言うのだろうか。感謝、謝罪、あるいは――そのどちらでもない言葉。例えば否定的なそれ。予想だにできないことを告げられるのではないかと心の奥底でひっそり思っている。あの日から、ずっと。
視線だけ左隣の彼女へ向ける。幸村が降りて車内は2人になっても今日の琴璃はいつものふうではなかった。さっき店で迷惑かけたことをまだ反省している。これじゃあ家に帰るまで悄気たままだ。だから跡部は話を振った。
「今日は何を手に入れたんだ?」
さっきの買い物のことを跡部は言っている。話しかけられて琴璃は一瞬ハッとしたが、すぐに顔を緩めて紙袋の中から購入品を取り出す。跡部に見せてきたパステルカラーのルームソックスは、相変わらずのウサギのデザインだった。
「随分と今日は遠慮したんだな」
幸村もいたことだし、跡部のカードだったから、琴璃はどれかひとつだけを買おうと悩んでいた。じっくり悩んでいたところをどこぞの男に絡まれ、制服で氷帝の生徒だと知られ、色々と言い寄られていたのである。話せないと自分の意思表示さえできない。だから通院も琴璃1人で行かせることは躊躇われる。今日みたいに何が起こるか分からない。琴璃の親に付き添いの役目をすると言ったのは跡部自らだった。やっぱりまだ、どこかで、後ろめたかった。そんな感情を持つことはこれまでの人生の中で初めてだった。
――あの日あの時あのタイミングで琴璃を呼ばなければ。
彼女は驚いたりなんかしなかった。ウサギを抱えていた手を離すことはなかったしウサギが死ぬこともなかった。気を抜くと、そんな負の気持ちが頭をもたげる。悪夢を呼びつけるかのようにあの日の記憶の中に引き摺り込まれそうになる。瞼の裏では、少女の可愛らしいワンピースがウサギの血で真っ赤に染まったのを今でもまだ覚えている。
幸村には打ち明けなかったけれど、あの日は特別な日だった。あの惨劇が起きた日は琴璃の誕生日でもあった。琴璃が学校でうまく馴染めていなかったから、跡部の家がささやかに祝ってやろうと取り計らったのだった。嬉しそうに母親に手を引かれ、跡部家の使用人達に可愛がられて、ケーキを食べてプレゼントを貰う、そんな予定のはずだったのに。実際に贈られたのは悪夢のような記憶と悲しい結果だった。反対に失くしたのは自分の声と家族同然に思っていたペット。皮肉にもなりようがないものだった。
話せなくなってからも琴璃は時々家に遊びに来ていたが、やがて跡部は日本の学校へ通うためにイギリスを発った。あの時は、琴璃を置き去りにしたような複雑な気持ちにもなったのを覚えている。尚更罪悪感が色濃くなったことも。
後悔なんかせず、選択に迷うこともなく、いつだって堂々と立ち振る舞う。それでいて何でも手にしているのが跡部景吾だと誰もが思っている。そんな、一部分だけを切り取って皆が跡部のことを羨んだりするけれど。実際はそんなんじゃない。当然に他の人間と同様に血が通ってる。忘れられないくらいの記憶もあれば、消したい過去だって存在する。琴璃は自分を恨んでいるのではないか。そんな、恐れにも似た懸念と隣り合わせの気持ちを胸の奥に棲まわせている。跡部のそんな心情を幸村はまだそこまでは見破ってはいないようだった。だが指摘された通り責任を感じているのは当たりだ。琴璃が喋れなくなって間も無くして
やがて琴璃は眺めていた戦利品を大事そうにしまうと、今度はiPadを鞄から取り出した。キーボード設定にして、開いた白紙のページに何やら打ち込みだした。
“お友達とゆっくり話せた?”
誰の話かと思ったら。そういえば幸村は琴璃に名乗っていなかった。勝手に跡部の友人というカテゴリにされている。
「誰が友達だ」
“ちがうの?”
「知り合いってところだな」
琴璃はくすくすと音にない声で笑う。笑いながらまた手を動かした。
“そのわりにはうれしそうだった”
「あん?」
“なんか生き生きしてたよ”
そんなつもりは毛頭ない。むしろうんざりしていたほうが強いと言うのに。琴璃には、跡部の姿は幸村に友交的に映っていたらしい。彼女は人の気持ちを読むことに長けているから本当にそうだったのだろう。少なくとも、嫌がってはいなかったということか。まだ納得できないけれど、そこまで煙たく思っちゃいないらしい。
“あの人なんて言うの”
「幸村」
琴璃はふぅん、という顔をした。口元が微かに動いた。幸村くん、と復唱していた。
“ちょっとふしぎな人だね”
「不思議というか、どこか掴めないのは確かだな。よくあれで立海の部長が務まっていると思うぜ」
“ユキムラクンは、テニス上手?”
「俺ほどではねぇな」
即答した跡部にまたしても琴璃は静かに笑った。きっとそう答えると思っていたのだろう。跡部の思考をよく分かっている。こうして日本で久しぶりに会っても彼女の空気感はそのままだった。幼い頃からずっとそうだ。喋れなくなっても、雰囲気はずっと変わらない。
ならば今跡部がひっそり抱えているこの罪悪感も琴璃には読まれているのだろか。知っていて、なんでもないように接するのだろうか。琴璃は本当はどう思っているのだろうか。知りたくて、でもやっぱり知りたくない。
彼女の本当の気持ちを知るのが、蓋を開けるのが、こんなにも気になっていて、またそれと同じくらいに警戒しているのだ。