ウサギの声色
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目が覚めて知らない場所で驚いた。起き上がらず頭だけを動かし薄目で辺りを見回す。ここは一体どこなんだ。
「氷帝の部室だ」
まだ何も言ってないのに、幸村の疑問に答えるように上から声が降ってきた。そばの椅子に跡部が座っていて何かパソコン作業をしていた。部室だ、と言われて今一度部屋じゅうを見回してみる。立海の部室とはまるで違う室内だった。壁も用度品も何もかも。極めつけに、今幸村が横になっていたソファなんてとてつもなくふかふかだった。ここは本当に部室なのだろうか、とは立海の連中だったら誰もが思うだろう。それくらいのギャップがありすぎた。おかげですっかり目が覚めた。ゆっくりと幸村は起き上がる。
「……えーと、何だっけ」
「お前が突然コートのど真ん中でぶっ倒れて、駆け寄った俺達にただの寝不足だから心配するなと答えた」
「俺が?そんなこと言ったっけ」
自己防衛本能的なものだろうか。無意識のうちにそうしたと思われる。あまり大ごとにしたくなかった、ただそれだけの気持ちで。
「なんだろ。気圧のせいかな。こんなこと今までなかったのにな」
実際のところ、今朝から少し体調に違和感を感じていた。いつもより空気が冷えていて乾燥してるな、とは思ったが、あまり気にしないようにしていた。せっかくの氷帝との練習試合なのに、休みたくなんかなかった。
「ついでに救急車を呼ぼうとした柳をお前は全力で止め、少し寝たら平気だから先に帰ってくれと言ったきりそのままコートの上で寝だした」
「え、そうなの」
「ジローに負けず劣らずの爆睡状態だったから仕方なく樺地にここまで運ばせた」
「……ごめん、全然覚えてないや」
「全く無責任な奴だな」
はあ、と跡部は軽く嘆息する。
「ウチの部員も立海の連中もとっくに帰ったぜ。残っていても出来ることが無ぇしな。真田には土下座の勢いで謝られた。それだけが良い気分だな」
跡部だけがここに残り、仲間達は早々に帰ったと言う。幸村の身は、今日も送迎車で帰るつもりの跡部が送ることになった。迎えの車に眠っている幸村を無理矢理押し込んで自宅に勝手に送り届けるのでも良かったのだが、救急車沙汰になりかけたところをあんなに必死に止める気力があったのなら、そこまで重大じゃないと判断した。なので起きるまで待っていた。
「跡部、ごめんね、その……色々と迷惑かけて」
「全くだぜ」
今度は大袈裟に溜息を吐くと、跡部はぱたんとパソコンを閉じた。当然のことだが、2人の試合も中断になり勝敗をつけるどころじゃなかった。
「問題ないのなら、さっさと帰るぜ」
「うん」
肩身を狭くして幸村は跡部に続く。本当に心から申し訳ない気持ちでいっぱいになる。練習試合をやりたくて、予定を合わせてもらったのにこんなことになってしまうなんて。
氷帝の正門前には大きな黒い車が停まっていた。車に乗るなり跡部は携帯を操作し出した。しきりに指を動かし何か文字を打ち込んでいる。
「お前を送っていく前に1つ寄ってもいいか」
「うん。ていうかもうその辺の駅とかでいいよ。電車で帰るから、俺」
「バァカ。真田の野郎に“くれぐれもよろしく頼む”だなんて言われてるんだぜ?それでお前をその辺に捨てていったりでもしたら、また面倒なことになるだろうが」
「平気だよ。真田にも誰にも言わないから」
「うるせーな、いいから黙って乗ってろ」
跡部は幸村を軽く睨むとまた携帯へ目を落とす。口は悪いけれど面倒見はいいんだと思う。だからもう幸村は何も言わなかった。
幸村と会話しながらも跡部はずっと携帯を弄っていた。誰かとメッセージのやり取りをしているようだ。これから寄るところに居る人物となのか。横顔を見て何となく思った。病院で会った時の彼と、どことなく雰囲気が近かったから。
「ねぇ。これから寄るところってもしかしてあの子がいるの?」
「だったら何だ」
「いや別に。もしそのことで連絡取り合ってるんなら電話しちゃえばいいのにって思っただけ。あ、俺に聞かれたくない内容なら無理か」
「そういうんじゃねぇよ」
「じゃあ電話したら?」
「……こうじゃなきゃ、会話のキャッチボールができねぇんだよ」
「どういう意味?」
跡部は携帯を制服の胸ポケットにしまうと、今までずっと姿勢が良かったのにシートに身を預けるように深く座った。どうやらやり取りはちょうど終わったらしい。
「失声症を知ってるか」
「……ごめん、もう1回言って」
聞き慣れない言葉が出て、幸村は即座に脳内変換することができなかった。けれど跡部は「予想通りの反応だから別にいい」と言って、腕と足を組んで瞳を閉じた。数秒してまた目を開いた彼の横顔を幸村はじっと見ていた。
「あいつとはイギリスで知り合った。もうかれこれ10年以上前になるな」
「え、ちょっと待ってよ。どうして急にイギリスが出てくるのさ」
「俺はイギリスで生まれ育った」
「……そうだったの?すごいね」
初耳だった。テニスの強さは知っているけど、跡部のプライベートな面は“お金持ちのお坊ちゃん”という程度の知識しか幸村にはなかった。本当に、彼とは接点が乏しいことを改めて知る。
「琴璃は生まれは日本だが、親が海外勤務になった関係で渡英してきた。元々俺の母親とあいつの母親が親友で、あいつの家族がイギリスに来ると決まった時に母が俺の家の近くの物件を仲介してやった。週末になるとあいつは母親に連れられてしょっちゅううちに遊びに来ていた」
じゃあ本当に恋人じゃなかったんだ。やけに親密感があるように幸村の瞳には映ったけど、その理由は幼馴染だからということだ。幸村は口を挟まずに1人納得した。
「通う学校は俺とは違うところを選んだがどうやらあいつに友人は少なかったようだった。転入生が日本人ってだけで浮いてたんだろうな。代わりにあいつはウサギを飼っていてこよなく愛していた。いつもうちに来る時は一緒に連れてきていた」
「へぇ。だからあんなにウサギが大好きなんだね」
「Year 5の時だった」
日本でいう小学5年のことか。考えながら、幸村は跡部の話を聞き続ける。
「その日は朝から暗くて、琴璃が母親に連れられてうちに来た頃には今にも降りそうな空だった。琴璃は庭でウサギを散歩させて遊んでいた。だが次第に雨が降り出し、しかもどんどん強くなっていった。このままだと風邪をひくというのに、結構な大降りになっても琴璃は呑気に花壇の花を眺めていた。早く来いと言ってもウサギを抱きながらふらふら散歩してやがった。あの時俺はなかなか来ない琴璃に苛ついていた。だからもう一度呼んだ時、多少語気が荒くなったのも自覚している。その俺の声に驚いた琴璃は思わずウサギを抱えていた手を離しちまった。ウサギもまたびっくりして駆け出した。最悪なことに公道の方へ。さらにそこへタイミング悪く一台のバルク車がやって来て、あっという間に走り去った。本当に一瞬すぎた。あんな小さくて軽いウサギ1羽、運転手は撥ねたことにも気づいちゃいなかっただろうな」
「……それって」
跡部は変わらず真っ直ぐ前を見ていた。でもきっと、見つめているのは前の座席ではなくて当時のことを思い出している。
「目の前でペットが轢き殺されたわけだが、琴璃は一切泣きもしなかった。泣くでも喚くでもなく、急いで駆け寄って、何をするかと思えば路上に飛び散ったウサギの破片を拾い出した。“くっつけなくちゃ”、と言いながら道路に座り込んで、雨に流されていくウサギの一部をひたすらかき集めていた」
跡部は顔色ひとつ変えずに淡々と話すから、幸村の平常心はより一層奪われてゆく。最早想像できるレベルじゃない。
「琴璃の母親のほうが大騒ぎだった。琴璃が千切れた赤い塊を拾って、“もういっこがない”と見せてきたものがウサギの片耳だったからな。母親はその場で卒倒した。無理もない。俺でさえたまにあの惨状を夢に見る。洒落にならないくらいの悪夢だぜ」
「……うん。そうだろうね」
かろうじてそれしか言えなかった。あの跡部でさえ、と言えるほど彼のことを知っているわけではないが、幸村が知っている限りは大抵のことでは動じない男だと思っている。狼狽えたり慌てるような姿を想像できないが故に、知られざる彼の一面を見た気がしてうまく言葉が出てこなかった。
同じように琴璃にも。あんなに優しく笑う子が、まさかこんな過去を抱えていた。その時の彼女の気持ちはどんなだっただろうか。想像するには計り知れないほどの様々な感情があったと思う。人を見た目で判断した自分を戒めたくなった。
「きっと、本人は気が動転していたんだろうね」
「予期せぬことが起こると人間は想定外な行動をとる。あの時あいつはペットが死んだ悲しみを感じるよりも、轢かれてバラバラになったウサギを元通りにしようと必死だったんだ。10歳そこらじゃ、あの一瞬で死んだと認識できなかったんだろうな」
或いは、最悪の結末になってしまったことを、幼かった琴璃は受け入れられなかったのかもしれない。
「あの日のことがまるで無かったかのように、琴璃のほうからは何も言ってこない。言わないどころか、あの日を境にあいつは一言も喋らなくなった。ウサギ好きなのは今でも変わらないが、死んだペットのことに関して触れることはない。もしかしたら、精神的ショックであの日のことだけを忘れちまってるのかもしれねぇな。周りの大人達もそう思った。だから琴璃の前ではあの日のことに触れないようにしている」
そこまで話して跡部は僅かに視線を落とす。ゆっくりとその長い足を組み直した。一方の幸村は微動だにせず、瞬きもほとんどせずに跡部の横顔をじっと見つめていた。
「俺は中等部からこっちに来ているがあいつは変わらず向こうの学校に進学した。あいつの親が、あまり必要以上に環境を変えたくないと思ったんだろう。とはいえ、琴璃の母親は娘がまた喋れるようになってほしいと願っている。少し前に、日本に信頼のおける心療内科医を見つけた。それで帰国が決まりあいつは先月帰ってきた。今は氷帝に通いつつ通院の日々を送っている」
「そうだったんだ」
「だからお前、あいつに何故喋れないのかだなんてふざけたこと聞くなよ」
「聞かないよ」
こんな話を聞いた後に、まさか言えるわけがない。琴璃は喋らないのではなくて喋れなかった。自分とはぜんぜん違うものだけど、彼女も心にトゲを抱えていた。事実を知って幸村は胸が締めつけられる。
「クラスの人たちとか、先生にも話してあるの?彼女の事情」
「言うわけねぇだろうが」
幸村の問いに、跡部は何言ってんだコイツという目で答える。
「学校関係者で知る者は、俺の他に理事長と担任ぐらいだ。他の奴らには“声帯の病”で通してる。琴璃の母親がそうさせた。娘を偏見な目で見られたくないからだろう。イギリスと違って日本は、隠れて弱い者のことを揶揄するような馬鹿がいるからな」
物事をはっきり言う外国の文化と日本はまた少し違い、複雑でデリケートな問題が発生しやすい。
「俺には、話してくれて良かったの?適当に言っとけば信じちゃってたよ、きっと」
「お前は――病を患う者の気持ちを知っているからな」
表情を変えずに跡部は淡々と言った。相変わらずの愛想の無さだった。
だけど幸村は嬉しかった。
こんな時にそう思うのは不謹慎かもしれないけど、跡部景吾が自分のことをそんなふうに思ってくれてることが、なんだか意外で嬉しくて、跡部っていい奴だな、と思った。
「氷帝の部室だ」
まだ何も言ってないのに、幸村の疑問に答えるように上から声が降ってきた。そばの椅子に跡部が座っていて何かパソコン作業をしていた。部室だ、と言われて今一度部屋じゅうを見回してみる。立海の部室とはまるで違う室内だった。壁も用度品も何もかも。極めつけに、今幸村が横になっていたソファなんてとてつもなくふかふかだった。ここは本当に部室なのだろうか、とは立海の連中だったら誰もが思うだろう。それくらいのギャップがありすぎた。おかげですっかり目が覚めた。ゆっくりと幸村は起き上がる。
「……えーと、何だっけ」
「お前が突然コートのど真ん中でぶっ倒れて、駆け寄った俺達にただの寝不足だから心配するなと答えた」
「俺が?そんなこと言ったっけ」
自己防衛本能的なものだろうか。無意識のうちにそうしたと思われる。あまり大ごとにしたくなかった、ただそれだけの気持ちで。
「なんだろ。気圧のせいかな。こんなこと今までなかったのにな」
実際のところ、今朝から少し体調に違和感を感じていた。いつもより空気が冷えていて乾燥してるな、とは思ったが、あまり気にしないようにしていた。せっかくの氷帝との練習試合なのに、休みたくなんかなかった。
「ついでに救急車を呼ぼうとした柳をお前は全力で止め、少し寝たら平気だから先に帰ってくれと言ったきりそのままコートの上で寝だした」
「え、そうなの」
「ジローに負けず劣らずの爆睡状態だったから仕方なく樺地にここまで運ばせた」
「……ごめん、全然覚えてないや」
「全く無責任な奴だな」
はあ、と跡部は軽く嘆息する。
「ウチの部員も立海の連中もとっくに帰ったぜ。残っていても出来ることが無ぇしな。真田には土下座の勢いで謝られた。それだけが良い気分だな」
跡部だけがここに残り、仲間達は早々に帰ったと言う。幸村の身は、今日も送迎車で帰るつもりの跡部が送ることになった。迎えの車に眠っている幸村を無理矢理押し込んで自宅に勝手に送り届けるのでも良かったのだが、救急車沙汰になりかけたところをあんなに必死に止める気力があったのなら、そこまで重大じゃないと判断した。なので起きるまで待っていた。
「跡部、ごめんね、その……色々と迷惑かけて」
「全くだぜ」
今度は大袈裟に溜息を吐くと、跡部はぱたんとパソコンを閉じた。当然のことだが、2人の試合も中断になり勝敗をつけるどころじゃなかった。
「問題ないのなら、さっさと帰るぜ」
「うん」
肩身を狭くして幸村は跡部に続く。本当に心から申し訳ない気持ちでいっぱいになる。練習試合をやりたくて、予定を合わせてもらったのにこんなことになってしまうなんて。
氷帝の正門前には大きな黒い車が停まっていた。車に乗るなり跡部は携帯を操作し出した。しきりに指を動かし何か文字を打ち込んでいる。
「お前を送っていく前に1つ寄ってもいいか」
「うん。ていうかもうその辺の駅とかでいいよ。電車で帰るから、俺」
「バァカ。真田の野郎に“くれぐれもよろしく頼む”だなんて言われてるんだぜ?それでお前をその辺に捨てていったりでもしたら、また面倒なことになるだろうが」
「平気だよ。真田にも誰にも言わないから」
「うるせーな、いいから黙って乗ってろ」
跡部は幸村を軽く睨むとまた携帯へ目を落とす。口は悪いけれど面倒見はいいんだと思う。だからもう幸村は何も言わなかった。
幸村と会話しながらも跡部はずっと携帯を弄っていた。誰かとメッセージのやり取りをしているようだ。これから寄るところに居る人物となのか。横顔を見て何となく思った。病院で会った時の彼と、どことなく雰囲気が近かったから。
「ねぇ。これから寄るところってもしかしてあの子がいるの?」
「だったら何だ」
「いや別に。もしそのことで連絡取り合ってるんなら電話しちゃえばいいのにって思っただけ。あ、俺に聞かれたくない内容なら無理か」
「そういうんじゃねぇよ」
「じゃあ電話したら?」
「……こうじゃなきゃ、会話のキャッチボールができねぇんだよ」
「どういう意味?」
跡部は携帯を制服の胸ポケットにしまうと、今までずっと姿勢が良かったのにシートに身を預けるように深く座った。どうやらやり取りはちょうど終わったらしい。
「失声症を知ってるか」
「……ごめん、もう1回言って」
聞き慣れない言葉が出て、幸村は即座に脳内変換することができなかった。けれど跡部は「予想通りの反応だから別にいい」と言って、腕と足を組んで瞳を閉じた。数秒してまた目を開いた彼の横顔を幸村はじっと見ていた。
「あいつとはイギリスで知り合った。もうかれこれ10年以上前になるな」
「え、ちょっと待ってよ。どうして急にイギリスが出てくるのさ」
「俺はイギリスで生まれ育った」
「……そうだったの?すごいね」
初耳だった。テニスの強さは知っているけど、跡部のプライベートな面は“お金持ちのお坊ちゃん”という程度の知識しか幸村にはなかった。本当に、彼とは接点が乏しいことを改めて知る。
「琴璃は生まれは日本だが、親が海外勤務になった関係で渡英してきた。元々俺の母親とあいつの母親が親友で、あいつの家族がイギリスに来ると決まった時に母が俺の家の近くの物件を仲介してやった。週末になるとあいつは母親に連れられてしょっちゅううちに遊びに来ていた」
じゃあ本当に恋人じゃなかったんだ。やけに親密感があるように幸村の瞳には映ったけど、その理由は幼馴染だからということだ。幸村は口を挟まずに1人納得した。
「通う学校は俺とは違うところを選んだがどうやらあいつに友人は少なかったようだった。転入生が日本人ってだけで浮いてたんだろうな。代わりにあいつはウサギを飼っていてこよなく愛していた。いつもうちに来る時は一緒に連れてきていた」
「へぇ。だからあんなにウサギが大好きなんだね」
「Year 5の時だった」
日本でいう小学5年のことか。考えながら、幸村は跡部の話を聞き続ける。
「その日は朝から暗くて、琴璃が母親に連れられてうちに来た頃には今にも降りそうな空だった。琴璃は庭でウサギを散歩させて遊んでいた。だが次第に雨が降り出し、しかもどんどん強くなっていった。このままだと風邪をひくというのに、結構な大降りになっても琴璃は呑気に花壇の花を眺めていた。早く来いと言ってもウサギを抱きながらふらふら散歩してやがった。あの時俺はなかなか来ない琴璃に苛ついていた。だからもう一度呼んだ時、多少語気が荒くなったのも自覚している。その俺の声に驚いた琴璃は思わずウサギを抱えていた手を離しちまった。ウサギもまたびっくりして駆け出した。最悪なことに公道の方へ。さらにそこへタイミング悪く一台のバルク車がやって来て、あっという間に走り去った。本当に一瞬すぎた。あんな小さくて軽いウサギ1羽、運転手は撥ねたことにも気づいちゃいなかっただろうな」
「……それって」
跡部は変わらず真っ直ぐ前を見ていた。でもきっと、見つめているのは前の座席ではなくて当時のことを思い出している。
「目の前でペットが轢き殺されたわけだが、琴璃は一切泣きもしなかった。泣くでも喚くでもなく、急いで駆け寄って、何をするかと思えば路上に飛び散ったウサギの破片を拾い出した。“くっつけなくちゃ”、と言いながら道路に座り込んで、雨に流されていくウサギの一部をひたすらかき集めていた」
跡部は顔色ひとつ変えずに淡々と話すから、幸村の平常心はより一層奪われてゆく。最早想像できるレベルじゃない。
「琴璃の母親のほうが大騒ぎだった。琴璃が千切れた赤い塊を拾って、“もういっこがない”と見せてきたものがウサギの片耳だったからな。母親はその場で卒倒した。無理もない。俺でさえたまにあの惨状を夢に見る。洒落にならないくらいの悪夢だぜ」
「……うん。そうだろうね」
かろうじてそれしか言えなかった。あの跡部でさえ、と言えるほど彼のことを知っているわけではないが、幸村が知っている限りは大抵のことでは動じない男だと思っている。狼狽えたり慌てるような姿を想像できないが故に、知られざる彼の一面を見た気がしてうまく言葉が出てこなかった。
同じように琴璃にも。あんなに優しく笑う子が、まさかこんな過去を抱えていた。その時の彼女の気持ちはどんなだっただろうか。想像するには計り知れないほどの様々な感情があったと思う。人を見た目で判断した自分を戒めたくなった。
「きっと、本人は気が動転していたんだろうね」
「予期せぬことが起こると人間は想定外な行動をとる。あの時あいつはペットが死んだ悲しみを感じるよりも、轢かれてバラバラになったウサギを元通りにしようと必死だったんだ。10歳そこらじゃ、あの一瞬で死んだと認識できなかったんだろうな」
或いは、最悪の結末になってしまったことを、幼かった琴璃は受け入れられなかったのかもしれない。
「あの日のことがまるで無かったかのように、琴璃のほうからは何も言ってこない。言わないどころか、あの日を境にあいつは一言も喋らなくなった。ウサギ好きなのは今でも変わらないが、死んだペットのことに関して触れることはない。もしかしたら、精神的ショックであの日のことだけを忘れちまってるのかもしれねぇな。周りの大人達もそう思った。だから琴璃の前ではあの日のことに触れないようにしている」
そこまで話して跡部は僅かに視線を落とす。ゆっくりとその長い足を組み直した。一方の幸村は微動だにせず、瞬きもほとんどせずに跡部の横顔をじっと見つめていた。
「俺は中等部からこっちに来ているがあいつは変わらず向こうの学校に進学した。あいつの親が、あまり必要以上に環境を変えたくないと思ったんだろう。とはいえ、琴璃の母親は娘がまた喋れるようになってほしいと願っている。少し前に、日本に信頼のおける心療内科医を見つけた。それで帰国が決まりあいつは先月帰ってきた。今は氷帝に通いつつ通院の日々を送っている」
「そうだったんだ」
「だからお前、あいつに何故喋れないのかだなんてふざけたこと聞くなよ」
「聞かないよ」
こんな話を聞いた後に、まさか言えるわけがない。琴璃は喋らないのではなくて喋れなかった。自分とはぜんぜん違うものだけど、彼女も心にトゲを抱えていた。事実を知って幸村は胸が締めつけられる。
「クラスの人たちとか、先生にも話してあるの?彼女の事情」
「言うわけねぇだろうが」
幸村の問いに、跡部は何言ってんだコイツという目で答える。
「学校関係者で知る者は、俺の他に理事長と担任ぐらいだ。他の奴らには“声帯の病”で通してる。琴璃の母親がそうさせた。娘を偏見な目で見られたくないからだろう。イギリスと違って日本は、隠れて弱い者のことを揶揄するような馬鹿がいるからな」
物事をはっきり言う外国の文化と日本はまた少し違い、複雑でデリケートな問題が発生しやすい。
「俺には、話してくれて良かったの?適当に言っとけば信じちゃってたよ、きっと」
「お前は――病を患う者の気持ちを知っているからな」
表情を変えずに跡部は淡々と言った。相変わらずの愛想の無さだった。
だけど幸村は嬉しかった。
こんな時にそう思うのは不謹慎かもしれないけど、跡部景吾が自分のことをそんなふうに思ってくれてることが、なんだか意外で嬉しくて、跡部っていい奴だな、と思った。