ウサギの声色

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1週間なんてあっという間だ。
今日も診察の日。長く続くリノリウムの床をまっすぐと歩く。でもその足取りは明らかに先週のものとは異なっていた。あれほど毎週虚ろげに向かっていたはずのここまでの道程も、今日はなんとも思わない。
自分の番になって、診察室に通されるといつものように主治医に体調の変化を聞かれる。特に異常ないです、とだけ幸村は淡々と答えた。
「どうしたんだい。なんだか、こう言っちゃあ失礼だけど先週の君とまるで違うね」
主治医も、今日の幸村はどこか違うのを感じ取ったらしく、顔を覗き込みながら問いかけてきた。この間と何がどう違うのかを、幸村自身もはっきりと説明できない。でも間違いなく過去の自分よりは健やかになっているのがわかる。そうなったきっかけもちゃんと理解している。
「とある子が、俺に大丈夫だって言ってくれたんです。ただそれだけなのにすごく自分の中に大きく響いて。……いろんな人からの大丈夫よりもその子からの大丈夫が特別に感じて。あとは、自分の気持ちを否定しないであげて、って。それで、もう少し自分のことを大事にしてあげようって思ったら、なんか気持ちが軽くなったっていうのかな。こう、どういう面持ちなのかとか聞かれるとうまく答えられないんですけど、とにかく彼女から大丈夫って言ってもらえた先週の日から、少しだけかもしれないけど前向きになれた気がするんです」
「そっか。じゃあその子が君に勇気をくれたわけだね」
「そう、いうことになります」
つい、力説してしまった。急に恥ずかしくなった幸村は主治医から目を逸らしてやや控えめに返事をした。
彼女の言う通り、いつしか本音に気づかないふりをして虚勢を張っていた。それはとても精神的に疲れることだとわかった。
だから、もっと自分に素直になろう。わけもなく嫌になってしまう時も、落ちぶれてテニスのことすら考えたくない時も全て自分、幸村精市なのだから。これは俺であって俺じゃない。そんなふうに否定したらいけないんだ。逃げたくなったり恐怖を感じるのは弱さじゃない。そのことに気づけたから、今はこんなにも精神が安定している。“病は気から”ってのは満更でもないんだなと思った。嘘みたいに肩が軽いし前向きでいられている。思い込みは人を弱くするということを、幸村は身を持って思い知ったのだった。
「先生。これから俺にできることってなんですか」
「この先も、今みたいに自分のことを信じてあげることだよ」
医者はそう言って紙を1枚見せてきた。目の前に広げられた紙面には、素人にはよく分からない記号や英語の表記がずらりと並んでいた。どれひとつとして幸村には理解できなかったけど、自分に関するということだけは分かった。
「検査結果は全て異常なし。ここ数週間、よく頑張ったね」
「……へ……」
「どうしても、また数値が上がったり再検査にひっかかる時は来るかもしれないけれど、今みたいに自分をしっかり持ってあげていれば何も怖がる必要はない」
主治医はそう言って柔らかく笑う。幸村は泣きそうになった。この間、琴璃の前で泣いた時はなんの予兆もなかったけど、心の底から嬉しさと安堵感を覚えた今は、込み上げる何かを感じていた。
でも、幸村はもう涙を流すことはなかった。ぐっと膝の上で握り拳を作って、深い深いため息を吐いた。
病は消えた。良かった。俺は、見えない敵に勝ったんだ。
「その子に感謝だね」
「はい」
これまでにたくさんの人たちに心配をかけてきた。家族、テニス部の仲間、クラスメート、スクールのコーチ。間違いなく今日の報せに喜んでくれるだろう。だけどその誰よりも、幸村は1番に彼女に教えたいと思った。診察室から出た幸村は時間を確認してハッとした。もう午後6時を過ぎようとしている。この間、琴璃と待合室でばったり会ったのはもっと早い時間帯だった。もしかしたらもう彼女は、今日の診療を終えて帰ってしまったかもしれない。
琴璃の連絡先を幸村は知らない。跡部に電話をしてみようか。でもなんて言おう。事情を話せば繋いでくれるだろうけど、それだと1番に伝えるのが彼女ではなくなってしまう。
とりあえず幸村は1階の待合ロビーに向かった。まだもしかしたら残っているかもしれない。エレベーターが来るのを待つ時間さえ惜しくて階段を駆け降りた。最終受付時間を過ぎたせいか、ロビー周りはそこまで混雑していなかった。だけど彼女の姿は見つからない。一心不乱で入り口側の方まで走りながらも彼女の姿を探す。
どうしても伝えたい。会いたい。ありがとうと言いたい。
まだ、どうか帰らないで。
そう願った時に、不意に氷帝学園の制服を着た後ろ姿が視界に入り込んできた。
琴璃ちゃん!」
病院だということをすっかり忘れて幸村は叫んでいた。ハッとしたが時すでに遅く、周りの人が自分のことを見ている。当然、琴璃も幸村を見る。表情がびっくりしていた。そのまま、どうしたのという表情で近寄ってきた。目の前まで琴璃が来ると、幸村は彼女の両手をいきなりギュッと掴んだ。その行動にさらに彼女は驚いた顔をする。
「ありがとう、キミのおかげだよ。検査結果、異常無しだった。運動の制限も特に言われなかった。これからは我慢しないでテニスしていいって」
言いながら幸村はさらに強く琴璃の両手を握った。嬉しさが隠せない。病に勝った喜びと、テニスを楽しめる嬉しさと、それから彼女に対する感謝の気持ち。
こんなにプラスな感情で心が埋め尽くされることがあっただろうか。それくらいに気持ちは今、昂っている。
「キミの言ってくれたこと、これからはちゃんと守る。自分の気持ちを大切にするから。心が苦しんでいるのに見て見ぬ振りなんて、もう絶対にしないから」
言いながら、幸村は思わず握っている琴璃の両手を自分の方へ引き寄せる。反動で彼女はわずかによろめいてしまった。
「あ、ごめん」
ずっと興奮しっぱなしで握り続けていたことを忘れていた。気づいた幸村は手を離す。だが、離した手を今度はまた琴璃が握ってきたのだ。幸村の両手をきゅっと掴んで、そして。
「え?」
今さっき幸村がしたように自身の胸の高さまで上げると、琴璃はにっこりと笑った。その笑顔にどきりと幸村の心臓がはねた。どうしたの、と照れながらも聞く、その瞬間だった。目の前の彼女の唇が動いた。
「おめでとう」
高すぎず低すぎず、ただただ普通の声色だった。だけど幸村には心臓を揺さぶるくらいの威力があった。耳に飛び込んできた祝福を意味する言葉。発信源は周囲にいる他の患者でも病院関係者でもなく、間違いなく目の前の彼女のもの。先週彼女がくれた“大丈夫”も幸村の心を救ってくれたけど、今の言葉もじんと心の奥深くにまで染み込んでくる。温かい何かに包まれているような感覚を覚えた。
「……キミは、こんな可愛い声をしていたんだね」
幸村はくしゃりと笑う。琴璃もまた同じように。目の前で見つめ合って、笑い合う。幸せを噛み締めるって、こういうことなんだ。
「おめでとう」
「ありがとう」
もう一度くれた彼女の祝福に、最大限の笑顔で、最大限の感謝を込めて幸村は返事をした。



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