愛しさが背中を押す時
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水曜日は基本的にテニス部はオフである。まっすぐ帰る日もあれば、岳人やジローなんかに巻き込まれてどこかへ寄り道する日もある。でも今日は、家を出る前に姉から「今日は道草したらあかんで」と凄まれた。結構ドスのきいた声だった。これはマジやな、と思ったから、大人しくどこにも寄らずに帰ってきた。
もうすぐ午後の4時になろうとする頃合。ピンポン、と高らかにインターホンが鳴る。覗いたモニターには予想通り琴璃の姿が映っていた。ボタンを操作し1階の中央エントランスを解錠してやる。間もなくして2度目の呼出音が鳴ったので、忍足は玄関扉を開ける。
「いらっしゃい」
「こんにちは。あの、恵里奈ちゃん今大学から帰ってるらしいんだけど、電車が人身事故になっちゃったみたいで少し時間がかかるみたいなの」
嘘やな、と思った。昨晩のやりとりからして、わざと遅れて登場するつもりなんだろう。
「それで、先に家入っててって言われたんだけど……やっぱり出直したほうがいいかな?」
「え、なんで?あがったらええやん」
「だって、そしたら2人になっちゃうでしょ?その……彼女に申し訳ないなって」
「ん?誰の?」
「侑士くんの」
琴璃の話の意味がいまいち分からず、忍足は黙ってしまった。それでも琴璃は申し訳なさそうに話し続ける。
「自分以外の女の人と2人だけで同じ空間にいるの、きっと彼女さんは嫌だと思うし。バレなきゃいい話だけど、侑士くんも後ろめたいって感じてたらなんか悪いから」
「はぁ……えっと」
「も、もちろん侑士くんが私をそんなふうに思ってないってことは分かってるんだけど」
喋りながら目の前で琴璃の顔がコロコロと変わる。焦ったりしょげたり忙しい子やな。彼女の言動を観察しながらも、なんとなく推理する。要するに琴璃は、自分が忍足の家にあがることで2人きりになってしまうのが申し訳ない、と感じているらしい。そこまでは分かった。でも誰に。彼女って、誰だ。はて、と思った。こないだ確かに琴璃と“彼女”の話題になった。彼女がいるのかと聞かれて、“いる”と答えたけれど。そしてその正体まで教えたはずだけど。それがどうしてこうなるというのだ。
――もしかして。
「……琴璃ちゃん」
もしかしなくとも、ちゃんと伝わってないんじゃないか。琴璃は本当に、自分にはちゃんとした生身の恋人がいるのだと思い込んでいる。だから今、2人になることで忍足の“彼女”に申し訳ないと気を遣っているのだ。成程だから今日の彼女は無駄に余所余所しいのか。頭を掻きながら忍足は1人で解決と納得をした。彼女は完全に誤解している。ならば。ちょっと笑かしたろか。そんなふうに思いながら、言った。
「俺の恋人なら、今、おるで」
「え?」
「琴璃ちゃんにも紹介したるわ」
「え、そんな、だ、大丈夫だよ侑士くん」
何やらもごもご言う琴璃に構わず、忍足は自分の部屋に行ってテニスラケットを手にし、再度琴璃のところへ戻ってきた。
「ほい」
「……ラケットだよ」
「そ。俺が今、恋人さながらに大事にしとるもんです。夏に大会があって、それで実質的に引退やからな」
寂しいやっちゃなぁ。笑いながら呑気に言った。だが琴璃は一向になんの反応も見せない。固まって、口を半開きにして、突っ立ったままでいる。時差でもあるのかと思った。
「琴璃ちゃん?」
そろそろと、忍足は琴璃の顔を覗きこむ。自分より頭2つ分ほどは小さい彼女の目が、真っ赤になっていた。思わず忍足は狼狽える。涙ぐんでいるはないか。流石にそれは予想していなかった。
「え、あの琴璃ちゃん」
「私、鈍くさくてパッとしないけど……あんまり、歳上をからかったら駄目だよ」
琴璃はそう言って、忍足のことを睨んできた。でも、ちっとも迫力なんかなかった。瞳が潤んでると余計にあどけなさが増す。歳上というワードの説得力が容易く霞んでしまう。けれど今はそんなことを考えてる場合ではない。
「すまん、悪かった。ごめんな」
修羅場や。堪忍してくれと思った。そして、もの凄く姉を恨んだ。あいつはどこで油売ってんのや。早う帰って来んかい。いや、でもせめて琴璃が回復してからにしてくれと思った。泣かせたなんてバレたら間違いなく締め上げられる。
「大丈夫?」
「……うん。私こそ急にごめんなさい」
「や、悪いの俺やから。気にせんといて」
微妙な空気が広がりつつある。こういう時、冷静にはなれるがうまい言葉が見つからない。先の先を読みすぎて、彼女の欲している言葉がうまく見つからなかった。ひとまず、このまま互いに突っ立ったままでいるのも忍びない。
「えーと。とりあえず、あがる?」
「うん。お邪魔します」
今度は素直に琴璃は家にあがってくれた。そのまま恵里奈の部屋に促そうとしたのだが、
「あの、これ」
「うん?」
手にしていた箱を差し出されたのでその場で開けると、中にはシフォンケーキ1ホールが入っていた。ふわりと甘くて優しい匂いが漂ってくる。
「おー、うまそう」
「私が焼いたんだけど、良かったら」
「おおきに。そしたら切り分けよか。そろそろ帰って来ると思うし、姉ちゃんのも準備しといたるかな」
「ありがとう」
ようやく琴璃は笑った。ほっとした。今さらになってチクリと心が痛んだ。格好つけて、俺の恋人はテニスですだなんて言うんじゃなかった。冗談が通じなかった結果、無茶苦茶格好悪い。
「琴璃ちゃん、後ろのそこ、食器棚やから。開けて皿3枚出してくれん?」
「はい」
そばに立った時、ふと彼女の腕に目がいく。白く細い彼女の腕には傷を縫った痕があった。その周りの皮膚も変色している。本屋で会った時、琴璃は長袖だったから気付けなかったのだ。こないだ見せてくれた後頭部の縫合痕よりも痛々しいし、目立つ。恐らく頭の小さな傷より、厄介に残ると思う。
思わず掴んでしまった。
「侑士くん?」
いきなりのことでびっくりする琴璃。
「女の子が、そないな傷作ったらあかんな」
真剣な目で言った。事故を起こしたヤツに少なからず怒りが湧いた。怒ったところでどうしようもないのだけど。何も悪くない琴璃がこんな目にあったのだと再認識して、腹の底が穏やかじゃなくなる。忍足の視線の行方に気づいた琴璃は控えめに笑って見せた。
「あ、これ……やっぱり目立つよね」
「……琴璃ちゃん、あんな――」
「ただいまー、琴璃ー、来てるー?ぶじー?」
そこへ恵里奈が帰ってきた。途端に騒がしくなる。まだ、彼女との話は終わっていないのに、やむ無くそこで打ち切るしかなかった。
「……無事って、何やねん」
恵里奈にシバかれることもなく、忍足は自室で1人琴璃のシフォンケーキを味わっていた。2人は恵里奈の部屋で過ごしている。何が楽しいんだか、女同士できゃっきゃとはしゃぐ声がドアを閉めていても漏れてくる。あの様子じゃ勉強はしてないだろうなと思った。
シフォンケーキはふわふわでとても美味しかった。口の中に優しい甘さが広がってくる。味わいながら今になって忍足は、琴璃を悲しませたことの罪悪感に苛まれた。あのたった一瞬の、悲しげに歪んだ表情が脳裏から離れない。
もうすぐ午後の4時になろうとする頃合。ピンポン、と高らかにインターホンが鳴る。覗いたモニターには予想通り琴璃の姿が映っていた。ボタンを操作し1階の中央エントランスを解錠してやる。間もなくして2度目の呼出音が鳴ったので、忍足は玄関扉を開ける。
「いらっしゃい」
「こんにちは。あの、恵里奈ちゃん今大学から帰ってるらしいんだけど、電車が人身事故になっちゃったみたいで少し時間がかかるみたいなの」
嘘やな、と思った。昨晩のやりとりからして、わざと遅れて登場するつもりなんだろう。
「それで、先に家入っててって言われたんだけど……やっぱり出直したほうがいいかな?」
「え、なんで?あがったらええやん」
「だって、そしたら2人になっちゃうでしょ?その……彼女に申し訳ないなって」
「ん?誰の?」
「侑士くんの」
琴璃の話の意味がいまいち分からず、忍足は黙ってしまった。それでも琴璃は申し訳なさそうに話し続ける。
「自分以外の女の人と2人だけで同じ空間にいるの、きっと彼女さんは嫌だと思うし。バレなきゃいい話だけど、侑士くんも後ろめたいって感じてたらなんか悪いから」
「はぁ……えっと」
「も、もちろん侑士くんが私をそんなふうに思ってないってことは分かってるんだけど」
喋りながら目の前で琴璃の顔がコロコロと変わる。焦ったりしょげたり忙しい子やな。彼女の言動を観察しながらも、なんとなく推理する。要するに琴璃は、自分が忍足の家にあがることで2人きりになってしまうのが申し訳ない、と感じているらしい。そこまでは分かった。でも誰に。彼女って、誰だ。はて、と思った。こないだ確かに琴璃と“彼女”の話題になった。彼女がいるのかと聞かれて、“いる”と答えたけれど。そしてその正体まで教えたはずだけど。それがどうしてこうなるというのだ。
――もしかして。
「……琴璃ちゃん」
もしかしなくとも、ちゃんと伝わってないんじゃないか。琴璃は本当に、自分にはちゃんとした生身の恋人がいるのだと思い込んでいる。だから今、2人になることで忍足の“彼女”に申し訳ないと気を遣っているのだ。成程だから今日の彼女は無駄に余所余所しいのか。頭を掻きながら忍足は1人で解決と納得をした。彼女は完全に誤解している。ならば。ちょっと笑かしたろか。そんなふうに思いながら、言った。
「俺の恋人なら、今、おるで」
「え?」
「琴璃ちゃんにも紹介したるわ」
「え、そんな、だ、大丈夫だよ侑士くん」
何やらもごもご言う琴璃に構わず、忍足は自分の部屋に行ってテニスラケットを手にし、再度琴璃のところへ戻ってきた。
「ほい」
「……ラケットだよ」
「そ。俺が今、恋人さながらに大事にしとるもんです。夏に大会があって、それで実質的に引退やからな」
寂しいやっちゃなぁ。笑いながら呑気に言った。だが琴璃は一向になんの反応も見せない。固まって、口を半開きにして、突っ立ったままでいる。時差でもあるのかと思った。
「琴璃ちゃん?」
そろそろと、忍足は琴璃の顔を覗きこむ。自分より頭2つ分ほどは小さい彼女の目が、真っ赤になっていた。思わず忍足は狼狽える。涙ぐんでいるはないか。流石にそれは予想していなかった。
「え、あの琴璃ちゃん」
「私、鈍くさくてパッとしないけど……あんまり、歳上をからかったら駄目だよ」
琴璃はそう言って、忍足のことを睨んできた。でも、ちっとも迫力なんかなかった。瞳が潤んでると余計にあどけなさが増す。歳上というワードの説得力が容易く霞んでしまう。けれど今はそんなことを考えてる場合ではない。
「すまん、悪かった。ごめんな」
修羅場や。堪忍してくれと思った。そして、もの凄く姉を恨んだ。あいつはどこで油売ってんのや。早う帰って来んかい。いや、でもせめて琴璃が回復してからにしてくれと思った。泣かせたなんてバレたら間違いなく締め上げられる。
「大丈夫?」
「……うん。私こそ急にごめんなさい」
「や、悪いの俺やから。気にせんといて」
微妙な空気が広がりつつある。こういう時、冷静にはなれるがうまい言葉が見つからない。先の先を読みすぎて、彼女の欲している言葉がうまく見つからなかった。ひとまず、このまま互いに突っ立ったままでいるのも忍びない。
「えーと。とりあえず、あがる?」
「うん。お邪魔します」
今度は素直に琴璃は家にあがってくれた。そのまま恵里奈の部屋に促そうとしたのだが、
「あの、これ」
「うん?」
手にしていた箱を差し出されたのでその場で開けると、中にはシフォンケーキ1ホールが入っていた。ふわりと甘くて優しい匂いが漂ってくる。
「おー、うまそう」
「私が焼いたんだけど、良かったら」
「おおきに。そしたら切り分けよか。そろそろ帰って来ると思うし、姉ちゃんのも準備しといたるかな」
「ありがとう」
ようやく琴璃は笑った。ほっとした。今さらになってチクリと心が痛んだ。格好つけて、俺の恋人はテニスですだなんて言うんじゃなかった。冗談が通じなかった結果、無茶苦茶格好悪い。
「琴璃ちゃん、後ろのそこ、食器棚やから。開けて皿3枚出してくれん?」
「はい」
そばに立った時、ふと彼女の腕に目がいく。白く細い彼女の腕には傷を縫った痕があった。その周りの皮膚も変色している。本屋で会った時、琴璃は長袖だったから気付けなかったのだ。こないだ見せてくれた後頭部の縫合痕よりも痛々しいし、目立つ。恐らく頭の小さな傷より、厄介に残ると思う。
思わず掴んでしまった。
「侑士くん?」
いきなりのことでびっくりする琴璃。
「女の子が、そないな傷作ったらあかんな」
真剣な目で言った。事故を起こしたヤツに少なからず怒りが湧いた。怒ったところでどうしようもないのだけど。何も悪くない琴璃がこんな目にあったのだと再認識して、腹の底が穏やかじゃなくなる。忍足の視線の行方に気づいた琴璃は控えめに笑って見せた。
「あ、これ……やっぱり目立つよね」
「……琴璃ちゃん、あんな――」
「ただいまー、琴璃ー、来てるー?ぶじー?」
そこへ恵里奈が帰ってきた。途端に騒がしくなる。まだ、彼女との話は終わっていないのに、やむ無くそこで打ち切るしかなかった。
「……無事って、何やねん」
恵里奈にシバかれることもなく、忍足は自室で1人琴璃のシフォンケーキを味わっていた。2人は恵里奈の部屋で過ごしている。何が楽しいんだか、女同士できゃっきゃとはしゃぐ声がドアを閉めていても漏れてくる。あの様子じゃ勉強はしてないだろうなと思った。
シフォンケーキはふわふわでとても美味しかった。口の中に優しい甘さが広がってくる。味わいながら今になって忍足は、琴璃を悲しませたことの罪悪感に苛まれた。あのたった一瞬の、悲しげに歪んだ表情が脳裏から離れない。