忘れ咲き
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次の日から幸村は琴璃の教室に来なくなった。いつもだったら琴璃がクラスの子とお昼を食べ終わった頃合いに彼は姿を見せるのに。絶対に昨日のことと関係してると思った。もういいや、と言った時の彼の顔が忘れられない。全てを諭したような、無気力にも近い彼の瞳が見ていてとても寂しかった。
「私、何かしたのかな」
琴璃は独り言のように呟くけど、隣の柳に聞いてほしいという思いがぼんやりと込められていた。だから彼は返事をする。
「気になるなら放課後にでも会いに行ったらどうだ?あいつはテニス部に属してるぞ」
「テニス部……」
それはこの間知った事実。幸村はテニスをする。昔は琴璃も彼のラケットに触れたことがあるらしい。忘れ去った記憶の中で彼はどんなふうにテニスをしていたのだろうか。進路の選択肢に選ぶほどだからすごくテニスの実力があるんだろうとは思った。そしてその話を彼から公園で聞いた時、ぼんやりと何かが脳裏に蘇った。でも、思い出しそうで、やっぱり思い出せなかった。
放課後になって、柳の勧めもあり琴璃はテニスコートへ足を運ぶ。離れた所から幸村のテニスをしてるところを見ていた。初めて見る、彼がプレーしている姿。いつも穏やかに映っていた彼が、あんなふうに力強く球を打ち返す姿に惹きつけられる。彼は左右に走って難なく球を打ち返している。絶対に自分の後ろを抜かせることはなかった。対戦相手の部員は息荒々しげに走り回っているのに、幸村の表情には苦しさなんて全く見えなかった。
単純に、純粋に。テニスをしている彼が、すごいと思った。見とれてしまった。瞬きするのも忘れてしまうほど、コートの中でまるで踊るようにテニスをする幸村に目を奪われてしまった。マッチポイントは幸村のリターンエースで決まり、ギャラリーが大きく沸いた。琴璃が見ている限り、相手には1ポイントも取らせなかったと思う。
対戦相手から視線を外した幸村がコート外に立っていた琴璃の存在に気づく。一瞬驚いたような顔を見せた後にそばまでやって来た。
「どうしたの?もしかして俺の試合してる所見てた?」
「あ、うん。テニス、すごいね」
今の今まで目が離せないくらいに見とれていたのに大した感想が言えなかった。言葉にするとなると案外難しいものだ。でもプロを目指してる人に向かって、“すごいね”レベルの感想はどうなのかと思う。けれど幸村は琴璃の言葉にありがとうと言って微笑んでくれた。
「あ、あのね、また一緒にあの公園に行ける日、あったりする?」
「うん?急にどうしたんだい」
「うん……あの、何ていうか、こないだ連れてってくれた時は懐かしいなって気持ちで終わっちゃったから。次は、もっと気を張らせて行きたいなって。ほら、もしかしたら、何か発見があって思い出せることがあるかもしれないし」
焦る気持ちが自然と早口になってしまう。そんな琴璃を幸村はじっと見つめる。
「今度は私もっと、注意深くしてみるから――」
「琴璃。無理しないでいいよ」
「え」
「もう、俺を思い出すことに気を取られないで。せっかく立海に来て新しい環境に慣れてきたところなんだから。俺のことより新しくできた友達と親交深めなよ」
それは別に嫌味のような言い方ではなく、今の幸村の、心からの琴璃に対する気持ちだった。だって、そうだ。友人関係も勉強環境も新しく構築する時だって言うのに、昔のことでいつまでも縛りつけていたら可哀想だ。彼女を自分の都合で振り回すことより、新しくできた仲間と一緒にいて笑うほうがいい。数日経って冷静になれたからそう思うようになった。
「……なんで、そんなこと言うの」
「琴璃?」
「思い出すまで一緒にいようよって、幸村くんが言ってくれたんだよ。私嬉しかったんだよ。何も思い出せないのにそう言ってくれて」
「……そっか。ごめん」
「幸村くんのこと思い出せないと、私は許してもらえないの?」
「許すとか、そんなのあるわけないだろ」
「でも、こないだからなんとなく素っ気ないふうになったのが伝わるよ」
それは思い当たるものがあるから幸村も否定しなかった。やはり未練的なものは発した言葉の節々に少なからず表れてしまったようで。幸村は普通のテンションで言ったつもりでも、どこか違和感が出ていたらしい。そんな些細な変化でさえも琴璃は読み取ったのだ。
もういいと言ったくせに、琴璃が手の届かないところへ行ってしまいそうな感じがして。それが少し寂しかった。なんだか分からないけど置いてかれたような錯覚を幸村は覚えた。でも、最初から琴璃は自分の手の中にいるわけでも自分を置いていくような距離感にいるわけでもなかった。それなのに、そんなことを思う。昔から愛着のあったお気に入りの本を開いて読んでいたところに、いきなり横から掻っ攫われた感覚と少しだけ似ていた。まだ俺が読んでいるのに次々と人が割り込んで持っていってしまうような、どこか虚しさを覚える気持ち。多分、本と同じように琴璃も独り占めしたかったんだと思う。だけど琴璃は“物”じゃない。彼女にも心がある。その心の中にいつかは特別な相手だってできる。それが、他の誰でもなく俺であってほしい。そう願ってしまったら、気持ちと裏腹な言葉が出てしまった。もういいやなんて、本心じゃない。
「さっき幸村くんのテニス見てて、なんだか……懐かしい感じがした」
「うん」
「私が小さかった頃も、テニスをする子がいたような気がしたの」
ぽつぽつ琴璃が話し出す。話しながら、頭の中で切り取られたワンシーンのようにぼんやり蘇る。幼い琴璃がベンチに座っていると、ひとりの男の子があらわれる。もういいや。そう呟いて琴璃の隣に座る。テニススクールでボロ負けしたらしい。悔しくてやるせなくて、それでもちゃんとその日も琴璃に会いに公園に来た。目を真っ赤にさせながら現れたその子に琴璃はびっくりする。いつも穏やかなその子が泣いてるのなんて想像つかなかったから琴璃までもがオロオロしてしまう。初めて、こんな弱っている彼を見て胸が苦しくなった。彼のつらい気持ちが伝染して琴璃も泣きそうに顔を歪ませた。そんな秋の夕暮れ時。思い出なのか夢なのか、曖昧な記憶だった。
「それが、俺だよ」
目の前の幸村が、あの時泣いていた男の子と重なる気がした。背丈とか声の低さとか、どれもあの子と全く違うのに。どこか懐かしい、そんな気がした。
「嫌だったら言って」
「何を?」
「今からキミを抱きしめる」
予想外すぎることを言われて琴璃は言葉を返せなかった。そのまま動かず、たっぷり10秒間くらい見つめ合ってしまう。再び幸村が、どう?、と聞いてきた。
「嫌じゃ、ないけど……」
「けど?」
「それはあまりにも急すぎて……その、心の準備が」
「そっか、そうだよね。ごめん」
幸村は少し申し訳なさそうに笑う。別に、琴璃が拒否したことに落ち込んでも怒っても動揺してもいない。空気が気まずくなったりもしなかった。あんまり彼女を困らせちゃいけないな、と思う。けど、これで簡単に引き下がりたくはない。
「じゃあ、触れてもいい?」
「……うん」
了承を得た幸村は琴璃に一歩近づいて、そして、忙しなくまばたきをする彼女の頭をそっと撫でた。
「会いに来てくれてありがとう、琴璃。俺やっぱり今もキミが好きだよ」
琴璃は何も言わなかった。代わりに真っ赤になって目を見開いて口を半開きにしている。その顔に、何か書いてあるのが俺には読めたよ。心のなかで幸村は思った。
俺のことが好きだって。そう顔に書いてあるよ。
教えてあげたかった。そこへテニスコートのほうから声が聞こえてくる。野太く響く真田の声が幸村の名を呼んでいる。
「じゃあ戻るね」
「あ……うん」
タイミング悪いなあ、と苦笑いしながら、幸村はコートのほうへ戻っていった。残された琴璃は相変わらず真っ赤な顔で、去っていく幸村の後ろ姿をずっと見つめていた。その背が見えなくなるまで、ずっと。
「私、何かしたのかな」
琴璃は独り言のように呟くけど、隣の柳に聞いてほしいという思いがぼんやりと込められていた。だから彼は返事をする。
「気になるなら放課後にでも会いに行ったらどうだ?あいつはテニス部に属してるぞ」
「テニス部……」
それはこの間知った事実。幸村はテニスをする。昔は琴璃も彼のラケットに触れたことがあるらしい。忘れ去った記憶の中で彼はどんなふうにテニスをしていたのだろうか。進路の選択肢に選ぶほどだからすごくテニスの実力があるんだろうとは思った。そしてその話を彼から公園で聞いた時、ぼんやりと何かが脳裏に蘇った。でも、思い出しそうで、やっぱり思い出せなかった。
放課後になって、柳の勧めもあり琴璃はテニスコートへ足を運ぶ。離れた所から幸村のテニスをしてるところを見ていた。初めて見る、彼がプレーしている姿。いつも穏やかに映っていた彼が、あんなふうに力強く球を打ち返す姿に惹きつけられる。彼は左右に走って難なく球を打ち返している。絶対に自分の後ろを抜かせることはなかった。対戦相手の部員は息荒々しげに走り回っているのに、幸村の表情には苦しさなんて全く見えなかった。
単純に、純粋に。テニスをしている彼が、すごいと思った。見とれてしまった。瞬きするのも忘れてしまうほど、コートの中でまるで踊るようにテニスをする幸村に目を奪われてしまった。マッチポイントは幸村のリターンエースで決まり、ギャラリーが大きく沸いた。琴璃が見ている限り、相手には1ポイントも取らせなかったと思う。
対戦相手から視線を外した幸村がコート外に立っていた琴璃の存在に気づく。一瞬驚いたような顔を見せた後にそばまでやって来た。
「どうしたの?もしかして俺の試合してる所見てた?」
「あ、うん。テニス、すごいね」
今の今まで目が離せないくらいに見とれていたのに大した感想が言えなかった。言葉にするとなると案外難しいものだ。でもプロを目指してる人に向かって、“すごいね”レベルの感想はどうなのかと思う。けれど幸村は琴璃の言葉にありがとうと言って微笑んでくれた。
「あ、あのね、また一緒にあの公園に行ける日、あったりする?」
「うん?急にどうしたんだい」
「うん……あの、何ていうか、こないだ連れてってくれた時は懐かしいなって気持ちで終わっちゃったから。次は、もっと気を張らせて行きたいなって。ほら、もしかしたら、何か発見があって思い出せることがあるかもしれないし」
焦る気持ちが自然と早口になってしまう。そんな琴璃を幸村はじっと見つめる。
「今度は私もっと、注意深くしてみるから――」
「琴璃。無理しないでいいよ」
「え」
「もう、俺を思い出すことに気を取られないで。せっかく立海に来て新しい環境に慣れてきたところなんだから。俺のことより新しくできた友達と親交深めなよ」
それは別に嫌味のような言い方ではなく、今の幸村の、心からの琴璃に対する気持ちだった。だって、そうだ。友人関係も勉強環境も新しく構築する時だって言うのに、昔のことでいつまでも縛りつけていたら可哀想だ。彼女を自分の都合で振り回すことより、新しくできた仲間と一緒にいて笑うほうがいい。数日経って冷静になれたからそう思うようになった。
「……なんで、そんなこと言うの」
「琴璃?」
「思い出すまで一緒にいようよって、幸村くんが言ってくれたんだよ。私嬉しかったんだよ。何も思い出せないのにそう言ってくれて」
「……そっか。ごめん」
「幸村くんのこと思い出せないと、私は許してもらえないの?」
「許すとか、そんなのあるわけないだろ」
「でも、こないだからなんとなく素っ気ないふうになったのが伝わるよ」
それは思い当たるものがあるから幸村も否定しなかった。やはり未練的なものは発した言葉の節々に少なからず表れてしまったようで。幸村は普通のテンションで言ったつもりでも、どこか違和感が出ていたらしい。そんな些細な変化でさえも琴璃は読み取ったのだ。
もういいと言ったくせに、琴璃が手の届かないところへ行ってしまいそうな感じがして。それが少し寂しかった。なんだか分からないけど置いてかれたような錯覚を幸村は覚えた。でも、最初から琴璃は自分の手の中にいるわけでも自分を置いていくような距離感にいるわけでもなかった。それなのに、そんなことを思う。昔から愛着のあったお気に入りの本を開いて読んでいたところに、いきなり横から掻っ攫われた感覚と少しだけ似ていた。まだ俺が読んでいるのに次々と人が割り込んで持っていってしまうような、どこか虚しさを覚える気持ち。多分、本と同じように琴璃も独り占めしたかったんだと思う。だけど琴璃は“物”じゃない。彼女にも心がある。その心の中にいつかは特別な相手だってできる。それが、他の誰でもなく俺であってほしい。そう願ってしまったら、気持ちと裏腹な言葉が出てしまった。もういいやなんて、本心じゃない。
「さっき幸村くんのテニス見てて、なんだか……懐かしい感じがした」
「うん」
「私が小さかった頃も、テニスをする子がいたような気がしたの」
ぽつぽつ琴璃が話し出す。話しながら、頭の中で切り取られたワンシーンのようにぼんやり蘇る。幼い琴璃がベンチに座っていると、ひとりの男の子があらわれる。もういいや。そう呟いて琴璃の隣に座る。テニススクールでボロ負けしたらしい。悔しくてやるせなくて、それでもちゃんとその日も琴璃に会いに公園に来た。目を真っ赤にさせながら現れたその子に琴璃はびっくりする。いつも穏やかなその子が泣いてるのなんて想像つかなかったから琴璃までもがオロオロしてしまう。初めて、こんな弱っている彼を見て胸が苦しくなった。彼のつらい気持ちが伝染して琴璃も泣きそうに顔を歪ませた。そんな秋の夕暮れ時。思い出なのか夢なのか、曖昧な記憶だった。
「それが、俺だよ」
目の前の幸村が、あの時泣いていた男の子と重なる気がした。背丈とか声の低さとか、どれもあの子と全く違うのに。どこか懐かしい、そんな気がした。
「嫌だったら言って」
「何を?」
「今からキミを抱きしめる」
予想外すぎることを言われて琴璃は言葉を返せなかった。そのまま動かず、たっぷり10秒間くらい見つめ合ってしまう。再び幸村が、どう?、と聞いてきた。
「嫌じゃ、ないけど……」
「けど?」
「それはあまりにも急すぎて……その、心の準備が」
「そっか、そうだよね。ごめん」
幸村は少し申し訳なさそうに笑う。別に、琴璃が拒否したことに落ち込んでも怒っても動揺してもいない。空気が気まずくなったりもしなかった。あんまり彼女を困らせちゃいけないな、と思う。けど、これで簡単に引き下がりたくはない。
「じゃあ、触れてもいい?」
「……うん」
了承を得た幸村は琴璃に一歩近づいて、そして、忙しなくまばたきをする彼女の頭をそっと撫でた。
「会いに来てくれてありがとう、琴璃。俺やっぱり今もキミが好きだよ」
琴璃は何も言わなかった。代わりに真っ赤になって目を見開いて口を半開きにしている。その顔に、何か書いてあるのが俺には読めたよ。心のなかで幸村は思った。
俺のことが好きだって。そう顔に書いてあるよ。
教えてあげたかった。そこへテニスコートのほうから声が聞こえてくる。野太く響く真田の声が幸村の名を呼んでいる。
「じゃあ戻るね」
「あ……うん」
タイミング悪いなあ、と苦笑いしながら、幸村はコートのほうへ戻っていった。残された琴璃は相変わらず真っ赤な顔で、去っていく幸村の後ろ姿をずっと見つめていた。その背が見えなくなるまで、ずっと。