39 rose bouquets
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結婚式がどうとか言っていたからてっきりウェディング関係のバイトかと思っていたが。実際はそうではなかった。着いた先を見て跡部は理解した。
「成る程。ここで働いているのか」
花屋だった。オフィスビルの1階にテナントとして入っているようで、そこまでこぢんまりとはしていない。近くにはわりと大きな駅もある。琴璃は店向かいにある駐車場に車を停めた。ほぼ直滑降に。もはや敷地内にたどり着いたのだから何か起ころうと問題はないので跡部は何も言わなかった。命がけのドライブがようやく終わった。
「あ、そうです。大学の講義が早く終わる日に。でも……あの、本当にここで良かったですか?駅は歩いてすぐですけど」
「別に構わない。その駅からあまりかからないからな」
結局、好きではない電車に乗る羽目になるのだが、もうこれ以上コイツに運転させるのは無理だと判断したので致し方ない。
「すみません、あんまり役に立たずで」
「いや、役に立てるぜ、お前」
「え?」
「ちょうど花を必要とする日を控えている」
何とも偶然だったが、近々個人的な用で花束を必要とする日があった。別に自宅もしくは職場のそばで注文するのでも良かったがこれも何かの縁だろう。最後の最後でひやりとさせられたが、今日の機転はなかなかのものだったし、彼女ならしっかり成し遂げると、そう思える。
「来週なんだが、頼めるか」
「はい!」
跡部からの頼みにまた忠犬のように全身で喜んでいる。尻尾があるのなら間違いなく大振り状態である。単純なヤツだと思った。元気を取り戻した琴璃は嬉々として跡部を店内に案内する。
「店長戻りました」
「はいご苦労さま。あら、いらっしゃいませ」
年配の女性が1人で店番をしていた。跡部に会釈して作業をしに店内奥に消えてゆく。あまりに予想外だった。免許取りたての学生に運転を許した上司は一体どんな奴かと思っていたのだが。あの様子だと、おそらく琴璃のほうから運転を買って出たのだろう。じゃなきゃあの程度の技量で都内の大通りを走ろうなんて思わない。いや、だがコイツはそこまで考えちゃいねぇな、と考え直した。
冬でも店内は生花のためにひんやりとした温度を保っていた。琴璃はレジカウンターのほうにまわるとその上に伝票とペンを取り出した。
「どんな感じのが良いですか?」
「薔薇を、そうだな……40本。色は全て赤」
「かしこまりました。用途はお祝いですかね?」
「まぁそんなところだな」
ではここに、と説明して琴璃は跡部に連絡先の欄の記入を促す。跡部が伝票に書くその様子を、琴璃は食い入るように見つめてしまう。
「お兄さん、字、お綺麗ですね……」
恐ろしく綺麗な字だった。跡部景吾。このお兄さんの名前を琴璃は今、初めて知った。今まで全てが完璧に格好良かったけれど、果たして名前まで格好良いではないか。この隣に書き込むのは少し気が引けるのだが、琴璃は受取日時や金額を記入してゆく。綺麗な文字の隣に少々歪な丸っこい字体が並んだ。
「お嬢さんはそういう字を書くんだな」
頭上で跡部の声がした。見られている。しかも少し笑っている。すごく恥ずかしい。
「お嬢さんなんて、あの、なんか照れます」
「俺はお前の名前を知らないからな」
「え……あ、そうでしたっけ?」
そう言えば名乗っていなかったかも。本当に今更だった。今の今まで、2人はお互いに名前を知らなかったのだ。
「なんか今更ですけど、藤白です。よろしくお願いします」
ちょうど、伝票の受付欄に自分の苗字を書いたところだったからそこを指差す。1枚捲って控えを跡部に両手で渡した。
「下の名前は?」
「え?……琴璃、ですけど」
琴璃から伝票を受け取った跡部はニヤリと笑う。
「そうか。では琴璃、よろしく頼んだぜ。来週のこれぐらいの時間に受け取りに来る」
そう言って店から出るべく入口の方へ向かう。見送るために琴璃もあとをついて行く。
「あの、なんで、下の名前聞いたんですか」
自動ドアが開き外の空気が入り込んでくる。室内よりうんと冷えていた。ここに着いた頃はまだほんのり夕焼け色が残っていたのに、今はすっかり暗がりの世界になっている。扉から出る前に跡部が振り向く。
「呼ばれるなら、苗字よりも名前のほうが良いだろ?」
最後に余裕の笑みを浮かべてそう言った後、彼は夜の街の中へ消えていった。自動ドアが閉まってもしばらく琴璃は立ち尽くしたままでいた。顔が熱い。自分の名前を呼ばれてあんなにドキドキしたのは初めてだ。あんな、低くて甘い声で呼ばれるだなんて。彼にしてみれば何てことなく呼んだんだろうけど。
「……反則すぎる」
琴璃はもう一度伝票を眺めた。両手で持って、その4文字をしっかりと見つめる。跡部景吾の文字を何度も。次に会う時はお兄さんではなく跡部さんと呼べる。なんだかそれが嬉しい。知っていることは名前しかないけれど、彼はまた来週ここに来る。その日にバイトが入っていたかを直ぐに確認したくて店内のカレンダーを見た。でもその時気がつく。来週って。
「……25日だ」
浮かれていた気持ちが、ゆっくりと現実に引き戻されてゆくのを感じた。お祝い事だと言っていたけれど、とんでもなく鈍感じゃない限り分かる。そして自分はそこまで馬鹿じゃない。だってその日は特別な日。そんな日に、あんな量の薔薇の花束を入り用とするなんて。数分前の熱気はとうに冷めてしまった。そのまま微動だにせず、琴璃は暫くカレンダーと伝票を交互に見つめていた。店長に声をかけられるまで、何度も何度も、ずっと。
「成る程。ここで働いているのか」
花屋だった。オフィスビルの1階にテナントとして入っているようで、そこまでこぢんまりとはしていない。近くにはわりと大きな駅もある。琴璃は店向かいにある駐車場に車を停めた。ほぼ直滑降に。もはや敷地内にたどり着いたのだから何か起ころうと問題はないので跡部は何も言わなかった。命がけのドライブがようやく終わった。
「あ、そうです。大学の講義が早く終わる日に。でも……あの、本当にここで良かったですか?駅は歩いてすぐですけど」
「別に構わない。その駅からあまりかからないからな」
結局、好きではない電車に乗る羽目になるのだが、もうこれ以上コイツに運転させるのは無理だと判断したので致し方ない。
「すみません、あんまり役に立たずで」
「いや、役に立てるぜ、お前」
「え?」
「ちょうど花を必要とする日を控えている」
何とも偶然だったが、近々個人的な用で花束を必要とする日があった。別に自宅もしくは職場のそばで注文するのでも良かったがこれも何かの縁だろう。最後の最後でひやりとさせられたが、今日の機転はなかなかのものだったし、彼女ならしっかり成し遂げると、そう思える。
「来週なんだが、頼めるか」
「はい!」
跡部からの頼みにまた忠犬のように全身で喜んでいる。尻尾があるのなら間違いなく大振り状態である。単純なヤツだと思った。元気を取り戻した琴璃は嬉々として跡部を店内に案内する。
「店長戻りました」
「はいご苦労さま。あら、いらっしゃいませ」
年配の女性が1人で店番をしていた。跡部に会釈して作業をしに店内奥に消えてゆく。あまりに予想外だった。免許取りたての学生に運転を許した上司は一体どんな奴かと思っていたのだが。あの様子だと、おそらく琴璃のほうから運転を買って出たのだろう。じゃなきゃあの程度の技量で都内の大通りを走ろうなんて思わない。いや、だがコイツはそこまで考えちゃいねぇな、と考え直した。
冬でも店内は生花のためにひんやりとした温度を保っていた。琴璃はレジカウンターのほうにまわるとその上に伝票とペンを取り出した。
「どんな感じのが良いですか?」
「薔薇を、そうだな……40本。色は全て赤」
「かしこまりました。用途はお祝いですかね?」
「まぁそんなところだな」
ではここに、と説明して琴璃は跡部に連絡先の欄の記入を促す。跡部が伝票に書くその様子を、琴璃は食い入るように見つめてしまう。
「お兄さん、字、お綺麗ですね……」
恐ろしく綺麗な字だった。跡部景吾。このお兄さんの名前を琴璃は今、初めて知った。今まで全てが完璧に格好良かったけれど、果たして名前まで格好良いではないか。この隣に書き込むのは少し気が引けるのだが、琴璃は受取日時や金額を記入してゆく。綺麗な文字の隣に少々歪な丸っこい字体が並んだ。
「お嬢さんはそういう字を書くんだな」
頭上で跡部の声がした。見られている。しかも少し笑っている。すごく恥ずかしい。
「お嬢さんなんて、あの、なんか照れます」
「俺はお前の名前を知らないからな」
「え……あ、そうでしたっけ?」
そう言えば名乗っていなかったかも。本当に今更だった。今の今まで、2人はお互いに名前を知らなかったのだ。
「なんか今更ですけど、藤白です。よろしくお願いします」
ちょうど、伝票の受付欄に自分の苗字を書いたところだったからそこを指差す。1枚捲って控えを跡部に両手で渡した。
「下の名前は?」
「え?……琴璃、ですけど」
琴璃から伝票を受け取った跡部はニヤリと笑う。
「そうか。では琴璃、よろしく頼んだぜ。来週のこれぐらいの時間に受け取りに来る」
そう言って店から出るべく入口の方へ向かう。見送るために琴璃もあとをついて行く。
「あの、なんで、下の名前聞いたんですか」
自動ドアが開き外の空気が入り込んでくる。室内よりうんと冷えていた。ここに着いた頃はまだほんのり夕焼け色が残っていたのに、今はすっかり暗がりの世界になっている。扉から出る前に跡部が振り向く。
「呼ばれるなら、苗字よりも名前のほうが良いだろ?」
最後に余裕の笑みを浮かべてそう言った後、彼は夜の街の中へ消えていった。自動ドアが閉まってもしばらく琴璃は立ち尽くしたままでいた。顔が熱い。自分の名前を呼ばれてあんなにドキドキしたのは初めてだ。あんな、低くて甘い声で呼ばれるだなんて。彼にしてみれば何てことなく呼んだんだろうけど。
「……反則すぎる」
琴璃はもう一度伝票を眺めた。両手で持って、その4文字をしっかりと見つめる。跡部景吾の文字を何度も。次に会う時はお兄さんではなく跡部さんと呼べる。なんだかそれが嬉しい。知っていることは名前しかないけれど、彼はまた来週ここに来る。その日にバイトが入っていたかを直ぐに確認したくて店内のカレンダーを見た。でもその時気がつく。来週って。
「……25日だ」
浮かれていた気持ちが、ゆっくりと現実に引き戻されてゆくのを感じた。お祝い事だと言っていたけれど、とんでもなく鈍感じゃない限り分かる。そして自分はそこまで馬鹿じゃない。だってその日は特別な日。そんな日に、あんな量の薔薇の花束を入り用とするなんて。数分前の熱気はとうに冷めてしまった。そのまま微動だにせず、琴璃は暫くカレンダーと伝票を交互に見つめていた。店長に声をかけられるまで、何度も何度も、ずっと。