No waltz without you.
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
朝から大学の講義を受けて、昼に友人と会う。午後からはバイトにラストまで入り、陽が沈み切ってから家路に着く。今日もいつも通り、その予定だった。だが朝の早い時間に携帯に届いた休講の報せ。その数分後には友人から体調不良で休むとのメール。じゃあバイトに1日出ようかな、と思って店長に連絡したら、急で悪いが明日出てほしいから代わりに今日は休んでくれて構わない、と連絡がきた。携帯を握ったまま、琴璃は暫く立ち尽くしてしまった。
予定のキャンセルがこんなにも重なることはない。最初のうちは、部屋の掃除や片づけに夢中になっていた。でも部屋の中は1日使うほど散らかっているわけでもなかった。近々にレポート提出も期限の迫った課題も無い。昼になってもちっともお腹は空かなくて、何かを胃に入れる気分になれなかった。
予定を詰めて日々忙しくすることで、毎日前を向いて過ごしていられたのに。何も無くなってしまったせいで虚無感と孤独に襲われる。ぴんと張り詰めていた糸が切れたような感覚だった。
午後はどうやって凌ごうか。目的もなく外出するのでも良いけれど、“暇”であることに変わりはない。出掛けたところで、何か夢中になれるものに出会えなければ頭の中はまたいろいろと考え事が巡りだす。
結局、外には出かけず家の中に居た。幸か不幸か、無理矢理難しい本を読んでいるうちにあっという間に時間は経ってしまった。今の季節は陽の傾きが早い。気づけば夕刻になっていた。太陽が沈んでゆくのを見ているだけで悲しい気持ちになる。どうして今日はこんなにも苦しいのだろうか。考える時間ができてしまったせいだと思った。ちょっと感傷にふけったくらいで今すごく、つらい。大丈夫だと思ってみても、耐えろと自分に言い聞かせても、今は何も通用してくれない。
どうしよう。涙がこぼれそうになる。琴璃はそっと両手で顔を覆った。深く長い溜息を吐いて大丈夫だと言い聞かせる。気持ちは沈んだままでも、明日になればまた忙しない日常に戻れる。だから、なんとか今日を乗り越えれば、きっと。
そんな、気持ちが沈んでいるさ中だった。突然テーブルの上にあった携帯が震えた。タイミングの良すぎる着信に思わず出かけた涙も引っ込んだ。琴璃は微かに震える手で電話を取る。
「もしもし。どうしたんですか?」
「なんだ、随分と素気ない応対だな。忙しいのか?」
琴璃の第一声を聞くなり、電話の向こうで跡部は笑った。
「いえ、こんな時間にどうしたのかなぁって。まだそっちは夜明け前ですよね?」
「お前の様子が気になった」
自分が落ち込んでいる時にかけてきてくれたのは、ただの偶然なのか。それとも奇跡だったりするのか。琴璃は、後者だったらいいなと願う。奇跡が起きて、こんなにつらい時に電話をかけてきてくれたんだと思いたかった。そして、願わくばもう一度そんな奇跡が起きてくれないだろうかと思ってしまった。今すぐに跡部に会えたらいいのに。そう願ってしまった途端、こんなふうに我慢している自分が急に馬鹿らしくなった。今までずっと、本当の感情に蓋をしていた。自分は寂しくなんかないと、そんなくだらない嘘をついていた。別に永遠のお別れでもない。会えなくても死ぬわけじゃない。死ぬわけじゃないけど、それでも、寂しくて恋しい気持ちはどうしたって止まらない。
周りの人間は誰も、感情を押し殺すことをすすめちゃいない。知り合った忍足もジローも、大学の友達も、きっと琴璃が弱音を吐いたら親身になって聞いてくれるはずだ。それでも、意地でも弱音を言わなかったのは心配かけたくなかったのもあるし、これくらいで音を上げる自分が許せなかった。
電話から一旦顔を離し、すーはーと大きく深呼吸する。本当は、泣いたってしょうがないことも分かってる。こんなことを言ったところで無駄なことも分かってる。心配かけてしまうのも、こっちの我儘だってことも、全部。
「琴璃?」
「景ちゃん、わたし」
でも、止められなかった。
「さびしいです」
自分の声が震えているのが分かった。それ以外に物音は聞こえず、怖いくらいに辺りは静かだった。電話の向こうも同じく。まるで今この瞬間だけ時間が止まったかのような気がした。初めて音になって零れた本音だった。
「やっと言ったな」
「え……」
「お前は寂しいと口にしたところで、どうせ無駄だとか、言っても意味がないだとか思ってるだろ。けどな、無駄な感情なんてのはこの世にひとつも無ぇんだよ」
静かで穏やかで、どこかあやすような口調だった。聞いてるうちにこみ上げるものがあった。今以上に視界が歪む。電話の向こうに気付かれないように、琴璃は息を殺すようにして泣いた。いろんな感情がぐるぐると頭の中を旋回している。つらい、苦しい、恋しい。言葉にすると、こんなにも実感するということを思い知らされた。
「俺も、お前がそばにいなくて寂しかった」
「……そういうこと、景ちゃんが言うの、なんか変なかんじ。ていうか、なんで過去形なんですか」
琴璃は気を取り直して跡部に話をふる。無理矢理にでも笑い話に持っていこうと思った。こうでもしなきゃ、立ち直れない気がした。
「こっちはもう真冬の寒さですよ。もしかしたら明日雪が降るかもなんて予報で出てました」
まだ11月の半ばだというのに今年は急に寒さが訪れた。例年よりも早く寒気が降りてきたとかで、今日も特別冷え込んでいた。
「俺が日本を発ったのはまだ夏になる前だったからな」
「もう半年経っちゃったんですね」
だけどそれは、言い換えれば“まだ”あと半年残っているということ。もともと“早くて”1年だと跡部は言った。海外赴任の期間はきっちり1年間だとは約束されているわけじゃないから伸びる可能性も充分あり得る。それを考えた瞬間、また胸がずんと重たくなった。今日はつらいことばかりに思考がいってしまう。心が弱っていると、悪い方向へばかり考えがちになる。もっと楽しいことに目を向けなくては。折角電話をかけてきてくれたんだから、元気な私を見せないと。
「来月はクリスマスだから、最近は街じゅうにイルミネーションとかツリーがあって綺麗ですよ。近くの公園にも、すっごく小さいけどイルミネーションがあるんです。生垣の道がすごいきらきらしてて、つい遠回りしてそこ通っちゃいます」
アパートからすぐの場所に、70平米ほどの小さな公園がある。小さくても緑が多く、動物の形をした植木のトピアリーなどがあり、それらには電飾が巻かれていた。琴璃は最近見つけたその場所をよく通っていた。遠回りにはなるが、脇道で人通りが少ないし好都合だった。
「こいつのモデルは何なんだ。犬か?」
「えっと、クマだって誰かが言ってたけど」
「随分と鼻の高い熊だな。あぁ、隣のは分かる。耳が長いから兎だろう?」
「そうですけど……」
電話の向こうで、まるで見ているかのように跡部が言う。確かに、熊の隣には彼の言う通り兎の造形物が存在する。それを何故知っているのか。イギリスに居る彼が。
「お前はこんな場所を夜に1人きりで通るのか」
「え」
「街灯が少なくてわりと暗い。こんな所を1人でうろついてるのは感心しねぇな。もっと大通りを歩け。この1本向こうの道のほうが栄えていてひと気も多い」
「……だって、イルミネーション、見たかったから」
「そんなもの、これからいくらでも見せてやる」
どうやって、と聞こうとした時。電話の向こうで音がした。それが門扉を開く音だとすぐに分かったのは、毎日琴璃が聞いている音だから。少々錆びついているのもあって、軋むような独特な音がするのだ。あれ、と言う間もなく次いで聞こえてきたのは規則的な足音だった。無論、跡部のものだ。壁に囲まれた空間のせいか若干音が反射して聞こえる。まるで階段をのぼっているようなこの音も琴璃はよく知っている。毎朝毎晩上り下りしているから。この建物の音ととても似ている。
「景ちゃん。今、どこにいるんですか」
琴璃の質問に跡部は答えなかった。代わりにタイミングよくインターホンが鳴った。
「誰か来たみたいだぜ?」
跡部の声に弾かれたように琴璃は立ち上がる。いつもならちゃんとモニターを見て相手が誰なのかを確認するのだけれど、今はわき目も降らず玄関へと向かう。慌てたせいで、今朝掃除して積み重ねておいた雑誌の束を蹴っ飛ばした。でも今はそんなことちっとも気にならなかった。ドアノブを掴み凄い勢いで押し開いた。
――奇跡が本当に起きた。そう思った瞬間だった。
「おい、ちゃんと誰が来たか確認したのか?」
目の前の跡部は半分笑って半分呆れた顔をしていた。
黒いチェスターコートを羽織り、手には携帯が握られている。光る画面には“通話中”と“琴璃”の文字が表示されていた。跡部は通話を切るとコートのポケットに携帯をしまった。
琴璃の混乱は止まらない。怪訝な表情を崩せないまま跡部を凝視する。そんな彼女を余所に、彼は口を開く。
「英国 でしか処理できないものは全て終わらせた。あとの作業は日本 でやっても差し支えない。ま、またじきに渡英することはあるだろうが、今回のような期間は当分無ぇな」
「でも、だって……帰ってくるのに最低でも1年はかかるって、最初言ってましたよ?」
「そうだな。俺は確かにお前にそう言ったな。けど、お前と離れて向こうで1人になって、わりと早いタイミングで疑問が浮かんだ」
「……どんな?」
「“最低1年”だなんて概算、一体誰が見積りやがったんだと。俺の仕事ぶりをそんな適当な数字で決めつけられて、誰がテメェらの言う通りにしてやるかって思った。だから半分にしてやった」
目途がたつまで最低でも1年かかると関係者に言われて頭にきた。だからその半分で終わらせて帰ってきたのだと、跡部は笑いながらあっさりと言うのだった。そんなことって、あるのかと思った。琴璃は開いた口が塞がらない。だってもう、こんな近くにいる。手を伸ばせば届く距離に。
「まぁ、言うならばお前に会いたいが為に全ての仕事を前倒しにしてきたってことだな。つまりこれは、お前の手柄でもあるんだぜ?」
「……そんなわけ、ないじゃないですか」
きっと大変だったはずなのに。跡部がわざと面白可笑しく言うから、琴璃はもう泣かなかった。泣きそうになりながらも、多少無理矢理でも笑ってみせた。奇跡よ起きてと思ったけど。まさか本当に、目の前に突然愛する人が現れて笑いかけてくれるだなんて。夢でも見てるんじゃないか。その疑問は口にも出てしまっていた。
「夢なのかな」
「なら、確かめてみろ」
ほら、というふうに跡部は両手を広げた。
「ただいま、琴璃」
やっぱり、泣かないなんて無理だった。溢れるものを抑えられないまま琴璃は1歩2歩と跡部のそばへ近寄る。手が届いた。感触も、香りも体の温かさも、夢なんかじゃなくて本物だった。
「おかえりなさい」
ちゃんと確信できたから、思い切りその腕に飛び込んだ。
予定のキャンセルがこんなにも重なることはない。最初のうちは、部屋の掃除や片づけに夢中になっていた。でも部屋の中は1日使うほど散らかっているわけでもなかった。近々にレポート提出も期限の迫った課題も無い。昼になってもちっともお腹は空かなくて、何かを胃に入れる気分になれなかった。
予定を詰めて日々忙しくすることで、毎日前を向いて過ごしていられたのに。何も無くなってしまったせいで虚無感と孤独に襲われる。ぴんと張り詰めていた糸が切れたような感覚だった。
午後はどうやって凌ごうか。目的もなく外出するのでも良いけれど、“暇”であることに変わりはない。出掛けたところで、何か夢中になれるものに出会えなければ頭の中はまたいろいろと考え事が巡りだす。
結局、外には出かけず家の中に居た。幸か不幸か、無理矢理難しい本を読んでいるうちにあっという間に時間は経ってしまった。今の季節は陽の傾きが早い。気づけば夕刻になっていた。太陽が沈んでゆくのを見ているだけで悲しい気持ちになる。どうして今日はこんなにも苦しいのだろうか。考える時間ができてしまったせいだと思った。ちょっと感傷にふけったくらいで今すごく、つらい。大丈夫だと思ってみても、耐えろと自分に言い聞かせても、今は何も通用してくれない。
どうしよう。涙がこぼれそうになる。琴璃はそっと両手で顔を覆った。深く長い溜息を吐いて大丈夫だと言い聞かせる。気持ちは沈んだままでも、明日になればまた忙しない日常に戻れる。だから、なんとか今日を乗り越えれば、きっと。
そんな、気持ちが沈んでいるさ中だった。突然テーブルの上にあった携帯が震えた。タイミングの良すぎる着信に思わず出かけた涙も引っ込んだ。琴璃は微かに震える手で電話を取る。
「もしもし。どうしたんですか?」
「なんだ、随分と素気ない応対だな。忙しいのか?」
琴璃の第一声を聞くなり、電話の向こうで跡部は笑った。
「いえ、こんな時間にどうしたのかなぁって。まだそっちは夜明け前ですよね?」
「お前の様子が気になった」
自分が落ち込んでいる時にかけてきてくれたのは、ただの偶然なのか。それとも奇跡だったりするのか。琴璃は、後者だったらいいなと願う。奇跡が起きて、こんなにつらい時に電話をかけてきてくれたんだと思いたかった。そして、願わくばもう一度そんな奇跡が起きてくれないだろうかと思ってしまった。今すぐに跡部に会えたらいいのに。そう願ってしまった途端、こんなふうに我慢している自分が急に馬鹿らしくなった。今までずっと、本当の感情に蓋をしていた。自分は寂しくなんかないと、そんなくだらない嘘をついていた。別に永遠のお別れでもない。会えなくても死ぬわけじゃない。死ぬわけじゃないけど、それでも、寂しくて恋しい気持ちはどうしたって止まらない。
周りの人間は誰も、感情を押し殺すことをすすめちゃいない。知り合った忍足もジローも、大学の友達も、きっと琴璃が弱音を吐いたら親身になって聞いてくれるはずだ。それでも、意地でも弱音を言わなかったのは心配かけたくなかったのもあるし、これくらいで音を上げる自分が許せなかった。
電話から一旦顔を離し、すーはーと大きく深呼吸する。本当は、泣いたってしょうがないことも分かってる。こんなことを言ったところで無駄なことも分かってる。心配かけてしまうのも、こっちの我儘だってことも、全部。
「琴璃?」
「景ちゃん、わたし」
でも、止められなかった。
「さびしいです」
自分の声が震えているのが分かった。それ以外に物音は聞こえず、怖いくらいに辺りは静かだった。電話の向こうも同じく。まるで今この瞬間だけ時間が止まったかのような気がした。初めて音になって零れた本音だった。
「やっと言ったな」
「え……」
「お前は寂しいと口にしたところで、どうせ無駄だとか、言っても意味がないだとか思ってるだろ。けどな、無駄な感情なんてのはこの世にひとつも無ぇんだよ」
静かで穏やかで、どこかあやすような口調だった。聞いてるうちにこみ上げるものがあった。今以上に視界が歪む。電話の向こうに気付かれないように、琴璃は息を殺すようにして泣いた。いろんな感情がぐるぐると頭の中を旋回している。つらい、苦しい、恋しい。言葉にすると、こんなにも実感するということを思い知らされた。
「俺も、お前がそばにいなくて寂しかった」
「……そういうこと、景ちゃんが言うの、なんか変なかんじ。ていうか、なんで過去形なんですか」
琴璃は気を取り直して跡部に話をふる。無理矢理にでも笑い話に持っていこうと思った。こうでもしなきゃ、立ち直れない気がした。
「こっちはもう真冬の寒さですよ。もしかしたら明日雪が降るかもなんて予報で出てました」
まだ11月の半ばだというのに今年は急に寒さが訪れた。例年よりも早く寒気が降りてきたとかで、今日も特別冷え込んでいた。
「俺が日本を発ったのはまだ夏になる前だったからな」
「もう半年経っちゃったんですね」
だけどそれは、言い換えれば“まだ”あと半年残っているということ。もともと“早くて”1年だと跡部は言った。海外赴任の期間はきっちり1年間だとは約束されているわけじゃないから伸びる可能性も充分あり得る。それを考えた瞬間、また胸がずんと重たくなった。今日はつらいことばかりに思考がいってしまう。心が弱っていると、悪い方向へばかり考えがちになる。もっと楽しいことに目を向けなくては。折角電話をかけてきてくれたんだから、元気な私を見せないと。
「来月はクリスマスだから、最近は街じゅうにイルミネーションとかツリーがあって綺麗ですよ。近くの公園にも、すっごく小さいけどイルミネーションがあるんです。生垣の道がすごいきらきらしてて、つい遠回りしてそこ通っちゃいます」
アパートからすぐの場所に、70平米ほどの小さな公園がある。小さくても緑が多く、動物の形をした植木のトピアリーなどがあり、それらには電飾が巻かれていた。琴璃は最近見つけたその場所をよく通っていた。遠回りにはなるが、脇道で人通りが少ないし好都合だった。
「こいつのモデルは何なんだ。犬か?」
「えっと、クマだって誰かが言ってたけど」
「随分と鼻の高い熊だな。あぁ、隣のは分かる。耳が長いから兎だろう?」
「そうですけど……」
電話の向こうで、まるで見ているかのように跡部が言う。確かに、熊の隣には彼の言う通り兎の造形物が存在する。それを何故知っているのか。イギリスに居る彼が。
「お前はこんな場所を夜に1人きりで通るのか」
「え」
「街灯が少なくてわりと暗い。こんな所を1人でうろついてるのは感心しねぇな。もっと大通りを歩け。この1本向こうの道のほうが栄えていてひと気も多い」
「……だって、イルミネーション、見たかったから」
「そんなもの、これからいくらでも見せてやる」
どうやって、と聞こうとした時。電話の向こうで音がした。それが門扉を開く音だとすぐに分かったのは、毎日琴璃が聞いている音だから。少々錆びついているのもあって、軋むような独特な音がするのだ。あれ、と言う間もなく次いで聞こえてきたのは規則的な足音だった。無論、跡部のものだ。壁に囲まれた空間のせいか若干音が反射して聞こえる。まるで階段をのぼっているようなこの音も琴璃はよく知っている。毎朝毎晩上り下りしているから。この建物の音ととても似ている。
「景ちゃん。今、どこにいるんですか」
琴璃の質問に跡部は答えなかった。代わりにタイミングよくインターホンが鳴った。
「誰か来たみたいだぜ?」
跡部の声に弾かれたように琴璃は立ち上がる。いつもならちゃんとモニターを見て相手が誰なのかを確認するのだけれど、今はわき目も降らず玄関へと向かう。慌てたせいで、今朝掃除して積み重ねておいた雑誌の束を蹴っ飛ばした。でも今はそんなことちっとも気にならなかった。ドアノブを掴み凄い勢いで押し開いた。
――奇跡が本当に起きた。そう思った瞬間だった。
「おい、ちゃんと誰が来たか確認したのか?」
目の前の跡部は半分笑って半分呆れた顔をしていた。
黒いチェスターコートを羽織り、手には携帯が握られている。光る画面には“通話中”と“琴璃”の文字が表示されていた。跡部は通話を切るとコートのポケットに携帯をしまった。
琴璃の混乱は止まらない。怪訝な表情を崩せないまま跡部を凝視する。そんな彼女を余所に、彼は口を開く。
「
「でも、だって……帰ってくるのに最低でも1年はかかるって、最初言ってましたよ?」
「そうだな。俺は確かにお前にそう言ったな。けど、お前と離れて向こうで1人になって、わりと早いタイミングで疑問が浮かんだ」
「……どんな?」
「“最低1年”だなんて概算、一体誰が見積りやがったんだと。俺の仕事ぶりをそんな適当な数字で決めつけられて、誰がテメェらの言う通りにしてやるかって思った。だから半分にしてやった」
目途がたつまで最低でも1年かかると関係者に言われて頭にきた。だからその半分で終わらせて帰ってきたのだと、跡部は笑いながらあっさりと言うのだった。そんなことって、あるのかと思った。琴璃は開いた口が塞がらない。だってもう、こんな近くにいる。手を伸ばせば届く距離に。
「まぁ、言うならばお前に会いたいが為に全ての仕事を前倒しにしてきたってことだな。つまりこれは、お前の手柄でもあるんだぜ?」
「……そんなわけ、ないじゃないですか」
きっと大変だったはずなのに。跡部がわざと面白可笑しく言うから、琴璃はもう泣かなかった。泣きそうになりながらも、多少無理矢理でも笑ってみせた。奇跡よ起きてと思ったけど。まさか本当に、目の前に突然愛する人が現れて笑いかけてくれるだなんて。夢でも見てるんじゃないか。その疑問は口にも出てしまっていた。
「夢なのかな」
「なら、確かめてみろ」
ほら、というふうに跡部は両手を広げた。
「ただいま、琴璃」
やっぱり、泣かないなんて無理だった。溢れるものを抑えられないまま琴璃は1歩2歩と跡部のそばへ近寄る。手が届いた。感触も、香りも体の温かさも、夢なんかじゃなくて本物だった。
「おかえりなさい」
ちゃんと確信できたから、思い切りその腕に飛び込んだ。