No waltz without you.
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税関や出国の手続きを済ませ、時間になるまでラウンジで寛いでいた。今、周りには誰も居ない。跡部ただ1人きりで、窓の向こうの青い空を眺めていた。
その時携帯が震えた。もうすぐ出発だというのにどこのどいつだ。無視してやろうかと思ったが画面に表示された発進相手の名を確認し、跡部は出ることに決めた。
「お、つながった。そろそろ行くん?琴璃ちゃんは?」
いつもの関西弁が耳に届く。少し眠たげなようなのでひょっとしたら夜勤明けなのかもしれない。
「今日は大学の授業があるから来ねぇよ」
「そうなん?最後なのに?本当はお見送り来てほしかったんとちゃうの?」
「俺が来なくていいと言った」
「あー成る程」
何も説明せずとも忍足は理解したようだった。琴璃に見送りを断ったのは故意だということが。
「いっそ連れてってまえば良かったんに」
「あぁん?」
「もう就活も終わってんのやろ?大学のほうは、理事長に話つけとけば単位とかどうにでもなるんとちゃう?出張の期間めいっぱいは無理でも、あの子の社会人生活が始まるまではまだ時間もあるんやし。それまで一緒に連れてったらええのにって、思ったんやけどなぁ」
「バァカ。んなことしてあいつが喜ぶと思うかよ」
忍足の提案を跡部は一笑に伏した。
「アイツだって暇じゃねぇ。大学の授業も花屋のバイトも友人との付き合いもある。内定先とのやり取りだってあるだろうし、それ以外の交流も持ってる。アイツにはアイツの世界がある。なのに、俺を中心にして振り回したら元も子もねぇだろが」
自分の一存で琴璃を日本から離すなんて許されない。仮に万が一、彼女が一緒に行きたいと言い出したら少しは考えたかもしれないけれど、それでも、跡部は琴璃を仕事の都合に巻き込むなんて真似はしたくなかった。
「ほー」
「なんだよその間抜けな声は」
「や、別に」
忍足は適当に言葉を濁したが、随分と変わったもんだと電話の向こうで感心していた。自分の知ってる旧友は、なかなか強引に物事をおし進めて、常に自分のメリットばかりを優先するようなタイプだったのに。今じゃ昔のような唯我独尊の面影がまるで無い。大人になってからでも人は変わるのだ。それも、完璧と言われているような人間であっても。そばにいる人によって、こんなにも。
忍足の知っている限りでは、跡部は過去に付き合っていた女に出張の日程を教えるなんてことすらしていなかった。知らぬうちに日本を発ち、帰ってくる日も教えない。そらもうひどい扱いしてたなぁ、とうっすら思い出す。とは言えあの時の彼も今より若かったし、今ほどあらゆる力を持ってはいなかった。だからと言ってプライベートに仕事の忙しさを影響させたりはしないのだが、なかなか辛辣な扱い方だった。所詮は、本気ではなかったということだ。それもあってか、最近の彼の態度には驚かされる。彼が今まで付き合っていた女と比べるのは失礼と思いながらも、琴璃を大切にしているのは明々白々だった。
「人って変わるもんやなあ。いや、もしかして琴璃ちゃんがすごいんかな?」
「何をごちゃごちゃ言ってやがる。それより用件はなんだ」
「え、せやから行ってらっしゃいのラブコール。…………わ、ちょ、黙らんといて、冗談やから待ってぇな跡部さん、切らんといて」
「いちいち言うことが気色悪いんだよ、テメェは」
「ええやんけ、別に。その鬱陶しいのも1年お預けになるんやで。寂しく」
「ならねぇよ」
忍足の言葉を綺麗に遮って跡部はため息交じりに答える。どうせ、放っておいたところでコイツは時々電話をかけてきそうな気がするなと思った。
氷帝を卒業して各々の道に進んでも、どんなに忙しくなっても、どうしてか忍足とは繋がりが絶えなかった。彼以外の他の友人達とも会わないわけではないが、わりとコンスタントに会っているのはコイツくらいだろうか。研修医で日々忙しいはずなのに。そんなことを言ったら、自分だってなかなかの多忙な生活を送っているのだが。
結局のところ、会おうという意思があれば時間なんていくらでも作れるのだと実感する。たしかに1年間は物理的に体が離れ離れになってしまう。けれどどれだけ離れていても、文明の利器によっていつでも顔は見れるし声も聞ける。琴璃と接触するための手段はいくらでもある。日本だろうが英国だろうが、1日は同じ24時間なことに変わりはない。その中で、愛する彼女にどれだけ時間をとれるのかは自分次第なのだ。
そうは言っても、今以上に制限のある生活になるのは明白だ。何かあった時にリアルタイムで応えてやることは今より難しくなることは間違いない。彼女と同じ日本に居る忍足には、この先何かと借りを作るかもしれない。だから万一の時の為に。静かに跡部は言った。
「たまにでいい。アイツのこと気にかけてやってくれ」
これには流石に忍足も予想だにしていなかった。自分の知っている跡部景吾という男は、人に何かを頼るようなことをしない。だけど忍足は納得した。そして、同時にあの日のことを思い出す。
「やっぱそうか」
それは琴璃と初めて会い、彼女の家でタコ焼きを食べた日のことだった。忍足は跡部に命ぜられて一緒にスーパーへお供することになったのだけれど、最初はてっきり彼女と自分を2人きりに残しておくのを嫌悪したのかと思った。
「あん時、俺も一緒にスーパー連れてかされる展開になったやん?けど、あれは別に俺と琴璃ちゃんを部屋に2人きりにさせるのが嫌とか、そういうわけじゃないんやな」
跡部はあの時、忍足を残しておくと琴璃に余計なことを喋るだろうから一緒に着いてこいと言った。だが実際のところはそうではなかった。1人でスーパーに行ってもスムーズに買い物を終えられる自信がなかったから同行させたのである。買い方が分からない、だなんてそんな格好悪いことを素直に言うわけがない。
単純に買い物についてきてほしかったからという理由だけであって、忍足を警戒して琴璃から引きはがそうという気持ちは微塵もなかった。
「跡部は、琴璃ちゃんと俺が一緒におっても気にならんのやろ?せやから俺、跡部にめっちゃ信頼されとるんかなと思ってたん。けど、そもそもそんな心配せんでもええんやな。だってあの子、最初っから跡部のことしか見とらんもん。あれは他の男になんて1000%目移りせんわ」
琴璃とはあの日が初対面だったが、忍足は感じ取った。この子、滅茶苦茶跡部のこと好きなんやなぁ、と。彼女が見せてくる態度と表情ですぐに分かった。
そして、跡部本人もそれを確信している。琴璃が自分以外の男に惚れる可能性は皆無だと。琴璃が他の男と2人きりでいっしょに居ようが、そんなことは跡部にとって何ら気にならない。流石に素性の知れないヤツと密室にするのは嫌悪するだろうが、少なくとも忍足のような旧知の間柄の人間が彼女と会っていても構わない。自分抜きでどこで会おうが、そこに関しては一切不安や警戒を感じていないのだ。
「せやから今も、俺に琴璃ちゃんのこと気にかけてなんて頼むんやろ?」
「相変わらず人の思惑を読むのが得意だよな、忍足先生は」
「いや、そんなんちゃうて。琴璃ちゃんが分かりやすい性格しとるだけや、ほんまに。わろてまうくらい分かりやすすぎやで、あの子。俺を見る時と跡部に話しかける時の、あの大きいお目目の輝き方の違い見た?全然ちゃうで?あそこまで変わるか?普通」
忍足は人の心を読むことにわりと長けている。そうでない者が見たら琴璃の表情の変化に気が付かないだろうが、忍足には明確だった。自分と跡部に対する琴璃の接し方の差が充分に見て取れたのだ。
「お前の名誉を挽回してやるわけでもねぇが」
「ん?」
「お前のことを信頼しているというのもあながち嘘じゃない。じゃなきゃこんなこと頼んだりしねぇよ」
誰でもいいというわけじゃない。跡部にとって忍足は気を許せる存在であるから、不在時の恋人のことをこんなふうに頼めるのだ。そして、そんな彼はわざわざ面と向かって“頼りにしている”だなんて言うわけがない。そういう男だということもまた、忍足はよく知っている。
「まぁ、そやね。けど、俺があの子に出来ることなんて、たまーにメシご馳走したるくらいやで?でもって、絶対に俺に弱音とか言わんやろうしなぁ。せやからこまめに電話してやり。ちゃんとメンタルケアしてやらなあかんで」
「余計なお世話だ」
電話越しに関西人らしいお節介をもらいながら、跡部は今日までのことを思い出していた。結局というかやっぱりというか、琴璃は跡部に最後まで寂しいとは言わなかった。あんなに辛そうに、目に涙を溜めて唇を噛んで必死に堪えていても。何1つマイナスな感情を言おうとはしなかった。脆いけど、強い女だと思った。
きっと彼女は弱音を誰に対しても言わない。跡部が次に日本に戻ってくるその時まで我慢を貫き通すだろう。でもそこで潰れてしまわないかは大いに懸念である。恋人がそばにいない寂しさを埋められる代わりになるものなど存在しないと自負している。
「まぁ、気ぃつけて行ってきて。お土産ぎょーさん頼むわ。日持ちする食べ物とか、めっちゃ大歓迎やで」
「貧乏くせぇこと言ってんじゃねぇ」
搭乗案内のアナウンスが聞こえた。間もなく時間だという合図を受け、跡部は立ち上がり目的のゲートのほうへ歩き出す。忍足との通話を切るとそのまま携帯の電源ごと落とそうとした。その時1件のメッセージがきていることに気付く。琴璃からだった。中身を確認するとスタンプが1つ。いつも彼女がよく送ってくるキャラクターだった。両手を振ってにこにこしている。名前なんて知らないが、琴璃にどこか似ていて可愛いとは思っていた。思わず口元を緩めながら跡部は携帯を操作する。彼女は今、大学の講義の真っ最中だろうから電話することは叶わない。最後に声を聞きたかったけれど、そんなことしたら折角見送りを断った意味がなくなる。1秒でも彼女が涙を流す時間を減らすために。そのために、断ったのだから。
琴璃は今このキャラクターのように笑っているのだろうか。せめて泣いていなければいいと願いながら、跡部は彼女にしか告げることのない、使い古された愛の言葉を返信しておいた。
その時携帯が震えた。もうすぐ出発だというのにどこのどいつだ。無視してやろうかと思ったが画面に表示された発進相手の名を確認し、跡部は出ることに決めた。
「お、つながった。そろそろ行くん?琴璃ちゃんは?」
いつもの関西弁が耳に届く。少し眠たげなようなのでひょっとしたら夜勤明けなのかもしれない。
「今日は大学の授業があるから来ねぇよ」
「そうなん?最後なのに?本当はお見送り来てほしかったんとちゃうの?」
「俺が来なくていいと言った」
「あー成る程」
何も説明せずとも忍足は理解したようだった。琴璃に見送りを断ったのは故意だということが。
「いっそ連れてってまえば良かったんに」
「あぁん?」
「もう就活も終わってんのやろ?大学のほうは、理事長に話つけとけば単位とかどうにでもなるんとちゃう?出張の期間めいっぱいは無理でも、あの子の社会人生活が始まるまではまだ時間もあるんやし。それまで一緒に連れてったらええのにって、思ったんやけどなぁ」
「バァカ。んなことしてあいつが喜ぶと思うかよ」
忍足の提案を跡部は一笑に伏した。
「アイツだって暇じゃねぇ。大学の授業も花屋のバイトも友人との付き合いもある。内定先とのやり取りだってあるだろうし、それ以外の交流も持ってる。アイツにはアイツの世界がある。なのに、俺を中心にして振り回したら元も子もねぇだろが」
自分の一存で琴璃を日本から離すなんて許されない。仮に万が一、彼女が一緒に行きたいと言い出したら少しは考えたかもしれないけれど、それでも、跡部は琴璃を仕事の都合に巻き込むなんて真似はしたくなかった。
「ほー」
「なんだよその間抜けな声は」
「や、別に」
忍足は適当に言葉を濁したが、随分と変わったもんだと電話の向こうで感心していた。自分の知ってる旧友は、なかなか強引に物事をおし進めて、常に自分のメリットばかりを優先するようなタイプだったのに。今じゃ昔のような唯我独尊の面影がまるで無い。大人になってからでも人は変わるのだ。それも、完璧と言われているような人間であっても。そばにいる人によって、こんなにも。
忍足の知っている限りでは、跡部は過去に付き合っていた女に出張の日程を教えるなんてことすらしていなかった。知らぬうちに日本を発ち、帰ってくる日も教えない。そらもうひどい扱いしてたなぁ、とうっすら思い出す。とは言えあの時の彼も今より若かったし、今ほどあらゆる力を持ってはいなかった。だからと言ってプライベートに仕事の忙しさを影響させたりはしないのだが、なかなか辛辣な扱い方だった。所詮は、本気ではなかったということだ。それもあってか、最近の彼の態度には驚かされる。彼が今まで付き合っていた女と比べるのは失礼と思いながらも、琴璃を大切にしているのは明々白々だった。
「人って変わるもんやなあ。いや、もしかして琴璃ちゃんがすごいんかな?」
「何をごちゃごちゃ言ってやがる。それより用件はなんだ」
「え、せやから行ってらっしゃいのラブコール。…………わ、ちょ、黙らんといて、冗談やから待ってぇな跡部さん、切らんといて」
「いちいち言うことが気色悪いんだよ、テメェは」
「ええやんけ、別に。その鬱陶しいのも1年お預けになるんやで。寂しく」
「ならねぇよ」
忍足の言葉を綺麗に遮って跡部はため息交じりに答える。どうせ、放っておいたところでコイツは時々電話をかけてきそうな気がするなと思った。
氷帝を卒業して各々の道に進んでも、どんなに忙しくなっても、どうしてか忍足とは繋がりが絶えなかった。彼以外の他の友人達とも会わないわけではないが、わりとコンスタントに会っているのはコイツくらいだろうか。研修医で日々忙しいはずなのに。そんなことを言ったら、自分だってなかなかの多忙な生活を送っているのだが。
結局のところ、会おうという意思があれば時間なんていくらでも作れるのだと実感する。たしかに1年間は物理的に体が離れ離れになってしまう。けれどどれだけ離れていても、文明の利器によっていつでも顔は見れるし声も聞ける。琴璃と接触するための手段はいくらでもある。日本だろうが英国だろうが、1日は同じ24時間なことに変わりはない。その中で、愛する彼女にどれだけ時間をとれるのかは自分次第なのだ。
そうは言っても、今以上に制限のある生活になるのは明白だ。何かあった時にリアルタイムで応えてやることは今より難しくなることは間違いない。彼女と同じ日本に居る忍足には、この先何かと借りを作るかもしれない。だから万一の時の為に。静かに跡部は言った。
「たまにでいい。アイツのこと気にかけてやってくれ」
これには流石に忍足も予想だにしていなかった。自分の知っている跡部景吾という男は、人に何かを頼るようなことをしない。だけど忍足は納得した。そして、同時にあの日のことを思い出す。
「やっぱそうか」
それは琴璃と初めて会い、彼女の家でタコ焼きを食べた日のことだった。忍足は跡部に命ぜられて一緒にスーパーへお供することになったのだけれど、最初はてっきり彼女と自分を2人きりに残しておくのを嫌悪したのかと思った。
「あん時、俺も一緒にスーパー連れてかされる展開になったやん?けど、あれは別に俺と琴璃ちゃんを部屋に2人きりにさせるのが嫌とか、そういうわけじゃないんやな」
跡部はあの時、忍足を残しておくと琴璃に余計なことを喋るだろうから一緒に着いてこいと言った。だが実際のところはそうではなかった。1人でスーパーに行ってもスムーズに買い物を終えられる自信がなかったから同行させたのである。買い方が分からない、だなんてそんな格好悪いことを素直に言うわけがない。
単純に買い物についてきてほしかったからという理由だけであって、忍足を警戒して琴璃から引きはがそうという気持ちは微塵もなかった。
「跡部は、琴璃ちゃんと俺が一緒におっても気にならんのやろ?せやから俺、跡部にめっちゃ信頼されとるんかなと思ってたん。けど、そもそもそんな心配せんでもええんやな。だってあの子、最初っから跡部のことしか見とらんもん。あれは他の男になんて1000%目移りせんわ」
琴璃とはあの日が初対面だったが、忍足は感じ取った。この子、滅茶苦茶跡部のこと好きなんやなぁ、と。彼女が見せてくる態度と表情ですぐに分かった。
そして、跡部本人もそれを確信している。琴璃が自分以外の男に惚れる可能性は皆無だと。琴璃が他の男と2人きりでいっしょに居ようが、そんなことは跡部にとって何ら気にならない。流石に素性の知れないヤツと密室にするのは嫌悪するだろうが、少なくとも忍足のような旧知の間柄の人間が彼女と会っていても構わない。自分抜きでどこで会おうが、そこに関しては一切不安や警戒を感じていないのだ。
「せやから今も、俺に琴璃ちゃんのこと気にかけてなんて頼むんやろ?」
「相変わらず人の思惑を読むのが得意だよな、忍足先生は」
「いや、そんなんちゃうて。琴璃ちゃんが分かりやすい性格しとるだけや、ほんまに。わろてまうくらい分かりやすすぎやで、あの子。俺を見る時と跡部に話しかける時の、あの大きいお目目の輝き方の違い見た?全然ちゃうで?あそこまで変わるか?普通」
忍足は人の心を読むことにわりと長けている。そうでない者が見たら琴璃の表情の変化に気が付かないだろうが、忍足には明確だった。自分と跡部に対する琴璃の接し方の差が充分に見て取れたのだ。
「お前の名誉を挽回してやるわけでもねぇが」
「ん?」
「お前のことを信頼しているというのもあながち嘘じゃない。じゃなきゃこんなこと頼んだりしねぇよ」
誰でもいいというわけじゃない。跡部にとって忍足は気を許せる存在であるから、不在時の恋人のことをこんなふうに頼めるのだ。そして、そんな彼はわざわざ面と向かって“頼りにしている”だなんて言うわけがない。そういう男だということもまた、忍足はよく知っている。
「まぁ、そやね。けど、俺があの子に出来ることなんて、たまーにメシご馳走したるくらいやで?でもって、絶対に俺に弱音とか言わんやろうしなぁ。せやからこまめに電話してやり。ちゃんとメンタルケアしてやらなあかんで」
「余計なお世話だ」
電話越しに関西人らしいお節介をもらいながら、跡部は今日までのことを思い出していた。結局というかやっぱりというか、琴璃は跡部に最後まで寂しいとは言わなかった。あんなに辛そうに、目に涙を溜めて唇を噛んで必死に堪えていても。何1つマイナスな感情を言おうとはしなかった。脆いけど、強い女だと思った。
きっと彼女は弱音を誰に対しても言わない。跡部が次に日本に戻ってくるその時まで我慢を貫き通すだろう。でもそこで潰れてしまわないかは大いに懸念である。恋人がそばにいない寂しさを埋められる代わりになるものなど存在しないと自負している。
「まぁ、気ぃつけて行ってきて。お土産ぎょーさん頼むわ。日持ちする食べ物とか、めっちゃ大歓迎やで」
「貧乏くせぇこと言ってんじゃねぇ」
搭乗案内のアナウンスが聞こえた。間もなく時間だという合図を受け、跡部は立ち上がり目的のゲートのほうへ歩き出す。忍足との通話を切るとそのまま携帯の電源ごと落とそうとした。その時1件のメッセージがきていることに気付く。琴璃からだった。中身を確認するとスタンプが1つ。いつも彼女がよく送ってくるキャラクターだった。両手を振ってにこにこしている。名前なんて知らないが、琴璃にどこか似ていて可愛いとは思っていた。思わず口元を緩めながら跡部は携帯を操作する。彼女は今、大学の講義の真っ最中だろうから電話することは叶わない。最後に声を聞きたかったけれど、そんなことしたら折角見送りを断った意味がなくなる。1秒でも彼女が涙を流す時間を減らすために。そのために、断ったのだから。
琴璃は今このキャラクターのように笑っているのだろうか。せめて泣いていなければいいと願いながら、跡部は彼女にしか告げることのない、使い古された愛の言葉を返信しておいた。