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けれど、ナンパ男は想像以上にしつこかった。
「とんだイカレ野郎だな、アレは」
あれからもう5分以上歩いてるのに2人の後をまだついてくる。男もヤケなのかそれともただ暇なのか。とにかく諦めが悪い。跡部は小さく溜め息を吐いた。
「お前、どこに向かうつもりだったんだ?」
聞かれた琴璃は向かおうとしてた駅名を答える。本当はさっきいた駅から電車で移動してバイトに行くつもりだったのに。抱きついている跡部の腕にちょうど腕時計がされていたので時間を見ると、もう遅刻確定の時刻だった。にしても値段の高そうな時計だ。遅刻のショックが薄らぐくらい驚いた。よく聞くセレブや著名人なんかが身に着けているブランドのそれ。この人本当に何者なんだろうか。
「ならちょうどいい。その方面なら途中で通るから降ろしてやる」
「え?……あの、おっしゃる意味が」
「これからそっちに向かうから、そこまで乗せてやるって言ってんだよ」
ただ適当に歩いてるものかと琴璃は思っていたがそうではなかった。男を撒く為に多少の遠回りはしたが、跡部はちゃんと自身の車を停めている駐車場に向かっていた。これ以上適当に歩いても時間が惜しい。
だが、跡部の提案に琴璃は言葉を詰まらせる。ほっとするかと思いきや、返答に窮しているような表情をしていた。
「どうした?」
「あの、それは大変ありがたいのですが」
「何だよ」
「お気持ちは嬉しいんですが、見ず知らずの人の車に乗せてもらうわけにはいかないです」
何を言うかと思えば。跡部は思わず笑った。
「ハッ、見ず知らずの男の腕に飛びついてきたくせに。面白いヤツだな、お前」
「あ、そ、そうですよね。本当にもう、あの時は咄嗟の行動でして……すみません」
「お前が断るなら別にそれで構わない。どうするかはお前の勝手だからな。まぁ、その後はどうなるかなんざ知らねぇが」
ちらりと琴璃は後ろを見た。やっぱりまだ、ついて来ている。
「……やっぱりお願いします」
琴璃のその言葉を聞いて跡部の足取りが少し速まった。まだ琴璃の腰にまわされた腕は解かないまま。街のど真ん中を謎の格好良い人と腕を組んで闊歩している。すれ違う人が振り向く。当然皆、自分ではなく跡部のことを見ているのだ。人が立ち止まって振り返るほどの魅力的な容姿。けどそれは外見的なものだけじゃなくて見えないオーラみたいなものも纏っている。隣にいる琴璃でもそれが分かる。隣だから強烈すぎて、ほぼ呑まれかけているが。
やがてオフィスビル群の立ち並ぶ通りまできた。その中の、わりと大きめの立体駐車場に到着する。
「これ、ですか」
琴璃の足が止まる。跡部がキーを操作して反応した車を見て息を呑んだ。車に全く詳しくない琴璃でも知っている高級車。正面にスリーポインテッドスターのエンブレム。もうこの人は只者ではないんだと確信する。ここにきて急に謎の緊張感に襲われた。
「えと、じゃあ、……失礼します」
見たことはあったけど当然乗ったこともない高級車にびくびくしながら乗り込んだ。車のエンジンがかかる。内装のあちこちに次々と蒼白い光が点く。
「よ、よろしくお願いします」
緊張気味に挨拶する琴璃。だが車は動く気配がない。何だろ、と隣を見ると跡部が自分の顔をじっと見つめているではないか。
「あ、あの」
若干薄暗い駐車場と車内の中。それでも彼の瞳が青いのが分かる。その瞳が、ゆっくりと琴璃の方へ近付いてきた。
次いで彼の手が琴璃の頬に向かって伸びてくる。もうあと数センチで触れそうになる、その寸前。
「なに!」
思わず声を上げた。だが伸びてきた手は、琴璃の頬の更に向こうに伸ばされた。
「シートベルト。俺が捕まるだろうが」
びっくりした。跡部が引っ張った助手席側のシートベルトを琴璃は慌てて掴む。おたおたしながらしっかりと締めた。
「あ、あ、ごめんなさい」
「フン、何勘違いしてんだよ」
「いや、あの」
取り乱す琴璃を余所に今度こそ滑らかに車は動き出す。ここまで執念深く追ってきた男をあっという間に置き去りにする。ヘッドライトに照らされた時に、ちらりと見えた顔が随分と間抜けだった。
「あの!本当にすみませんでした」
車が駐車場を出るや早速琴璃は謝り倒す。
「ほんとは予定とか、ありましたよね」
「あぁ」
「あああの、お詫びさせてください。私のせいなんで、出来ることなら何でもします」
少し青ざめた顔で謝る琴璃。こんなことになって、こんなふうに無関係の人を巻き込んでしまって。今さら顔色が優れなくなっている。心底反省しているのは跡部にも伝わった。
「別にいい」
「で、でも」
「ガキに解決できるようなものじゃねぇから、どっちにしたってお前に出来ることは無い」
この後の会合は取りやめだ。時間的に無理がある。街中をぐるぐる歩いていた時にそう判断したので、あの時跡部は歩きながらリスケの連絡を入れておいた。
「そう、ですか」
分かりやすく肩を落として琴璃は助手席で大人しくなる。一気に空気が悪くなった。
「お前はどうなんだ。予定だとあと20分くらいで着くが、間に合うのか?」
「私は……いいんです。バイトなんですけど少しなら遅れても大丈夫なんで」
「バイト?あぁ、成る程。バイト先に向かっているところにあの変な野郎に目をつけられたってわけか。にしても未成年にも見境無ぇんだな、あの野郎は」
「未成年?」
「お前、まだ高校生だろ?」
「ち、違いますよ!私もう成人してます!」
よっぽど子供扱いされたのが嫌だったのか。琴璃は自分のバッグを乱暴に漁り、そして何かを取り出して跡部のほうに突き出した。
「ほら!」
ちょうど赤信号になったので跡部は琴璃の見せてきたものを目に入れる。大学の学生証だった。
「つっても学生じゃねぇか。ついこないだまで高校生だったわけだろ」
反論して見せてくるものが学生証とは。成人していると言ってきたわりに大して変わらねぇじゃねぇか、と跡部は思う。しかも琴璃は現在大学3年だから、高校を卒業したのはそこまで昔のことではない。運転中だから彼女の名前も学部も良く見えなかった。けれど、記された個人情報に薄くかかるように印字されている“帝”のデザインに見覚えがあった。これで彼女が全くの無関係というわけではなくなった。1パーセントくらいは、繋がりができただろうか。
「なかなか懐かしいものを持ってるじゃねぇか、お前」
「え?」
「ま、どっちにしたってガキなのは変わらねぇだろ。ナンパしてきたあの馬鹿には、お前がどう映ったかは知らねぇがな」
跡部はそう言って鼻で笑う。道は僅かに混んでいたが、高速を使ってもどうせ変わらないからそのまま一般道を進む。また信号に引っかかった時、跡部はさっきよりちゃんと琴璃のほうを見た。
「あの……何でしょうか」
急に見られて困っている彼女の瞳は、自分とは違って黒味がかった茶色の眼をしていた。一般的な日本人の色。けれどその瞳の中は澄んでいて、素直に綺麗だと思った。彼女が若いから故なのかは分からない。別に、そこまで自分と大きく年齢差が開いてるわけでもないのだが。とにかく淀みなんて少しもなく真っ直ぐだった。きっと、今みたいにさっきの阿呆な男を見つめたんだろう。そして向こうはまんまと勘違いをした。本人はそんなつもりがないというのに。自覚が無いのも危ないもんだな、と跡部は内心で思う。
「とにかく、今日のことを教訓にするなら今後はもっと緊張感持って歩くことだな」
琴璃は返す言葉が無かった。その通りだと思ったのだ。ガキなのかは一先ず置いといて、自分のせいでこうなったのは紛れもない事実。名前も知らない人にナンパ男をやりすごしてもらい目的地まで送ってもらっている。自分とそこまで歳が離れているふうには見えないけど、彼は自分よりずっと“大人”なのだ。そして、決定的に違うのはやっぱり、彼の言う“ガキ”っぽさが自分にはまだあるんだと思う。ナンパされた時にあの場ではっきりと嫌だという態度を見せて、それでもしつこいならそばにあった交番にでも駆け込めば良かったのに。自分に出来たことはあったはずなのに。
「すみません」
感謝の気持ちは顔を隠し、今は申し訳なさいっぱいになった。車は間もなく駅前のそばまで来ていた。
「そんなツラでこれから人前に立つのか?」
彼女のバイトが何なのかなんて知らないけど。おおかた接客業だろう。学生のバイトなんてたかが知れてる。と、そんなふうに思っても、跡部はこれまでの人生でバイトなんて経験がないから想像の範囲だが。学生時代に仲が良かった部活仲間のバイト遍歴を思い出すと、彼らはどれも接客販売の類いだった。だから他人と接する仕事なのはまず間違いない。
「学生だろうがなんだろうが、自分の都合を他人にぶつけるなよ。そんな暗いツラした店員から接客されたいと客は思うか?」
「……思いません」
「だったら着くまでに切り替えろ」
また、その通りなことを言われた。真っ当なことを言われたけど突き放すようなきつい口調ではない。素っ気ないわけでもない。初対面なのに、この人は私のために言ってくれた。それが分かるから琴璃はもう落ち込んだりはしなかった。彼の言う通りこの顔ではお店に立てない。そう思ったから。
「ほら、着いたぜ」
「あ、はいっ」
駅のロータリーに車は停車する。シートベルトを外し、降りる前に琴璃は身体ごと跡部に向ける。彼の予定を潰したお詫びは出来ないけれど、助けてもらったら心からお礼を言うことはできる。それができなきゃ“ガキ”よりも下に成り下がってしまう。
「どうもありがとうございます。お兄さんのお陰で本当に助かりました」
「そうかよ」
しっかりと、彼の青い目を見て告げる。
「ほんとのほんとに、ありがとうございました!」
彼女の瞳にまた英気が蘇った。そして人波が溢れ始めた駅の中へ紛れていく。今どき珍しいヤツだな。何をもってしてそう思ったのか分からないけど、マイペースなんだかそそっかしいんだか良く分からない女だった。そっとアクセルを踏むと滑らかに車は動き出す。駅周辺には夕暮れ時もあってか人の流れが多くなってきていた。ミラー越しに駅前を見た時には彼女の姿はもうなかった。
「とんだイカレ野郎だな、アレは」
あれからもう5分以上歩いてるのに2人の後をまだついてくる。男もヤケなのかそれともただ暇なのか。とにかく諦めが悪い。跡部は小さく溜め息を吐いた。
「お前、どこに向かうつもりだったんだ?」
聞かれた琴璃は向かおうとしてた駅名を答える。本当はさっきいた駅から電車で移動してバイトに行くつもりだったのに。抱きついている跡部の腕にちょうど腕時計がされていたので時間を見ると、もう遅刻確定の時刻だった。にしても値段の高そうな時計だ。遅刻のショックが薄らぐくらい驚いた。よく聞くセレブや著名人なんかが身に着けているブランドのそれ。この人本当に何者なんだろうか。
「ならちょうどいい。その方面なら途中で通るから降ろしてやる」
「え?……あの、おっしゃる意味が」
「これからそっちに向かうから、そこまで乗せてやるって言ってんだよ」
ただ適当に歩いてるものかと琴璃は思っていたがそうではなかった。男を撒く為に多少の遠回りはしたが、跡部はちゃんと自身の車を停めている駐車場に向かっていた。これ以上適当に歩いても時間が惜しい。
だが、跡部の提案に琴璃は言葉を詰まらせる。ほっとするかと思いきや、返答に窮しているような表情をしていた。
「どうした?」
「あの、それは大変ありがたいのですが」
「何だよ」
「お気持ちは嬉しいんですが、見ず知らずの人の車に乗せてもらうわけにはいかないです」
何を言うかと思えば。跡部は思わず笑った。
「ハッ、見ず知らずの男の腕に飛びついてきたくせに。面白いヤツだな、お前」
「あ、そ、そうですよね。本当にもう、あの時は咄嗟の行動でして……すみません」
「お前が断るなら別にそれで構わない。どうするかはお前の勝手だからな。まぁ、その後はどうなるかなんざ知らねぇが」
ちらりと琴璃は後ろを見た。やっぱりまだ、ついて来ている。
「……やっぱりお願いします」
琴璃のその言葉を聞いて跡部の足取りが少し速まった。まだ琴璃の腰にまわされた腕は解かないまま。街のど真ん中を謎の格好良い人と腕を組んで闊歩している。すれ違う人が振り向く。当然皆、自分ではなく跡部のことを見ているのだ。人が立ち止まって振り返るほどの魅力的な容姿。けどそれは外見的なものだけじゃなくて見えないオーラみたいなものも纏っている。隣にいる琴璃でもそれが分かる。隣だから強烈すぎて、ほぼ呑まれかけているが。
やがてオフィスビル群の立ち並ぶ通りまできた。その中の、わりと大きめの立体駐車場に到着する。
「これ、ですか」
琴璃の足が止まる。跡部がキーを操作して反応した車を見て息を呑んだ。車に全く詳しくない琴璃でも知っている高級車。正面にスリーポインテッドスターのエンブレム。もうこの人は只者ではないんだと確信する。ここにきて急に謎の緊張感に襲われた。
「えと、じゃあ、……失礼します」
見たことはあったけど当然乗ったこともない高級車にびくびくしながら乗り込んだ。車のエンジンがかかる。内装のあちこちに次々と蒼白い光が点く。
「よ、よろしくお願いします」
緊張気味に挨拶する琴璃。だが車は動く気配がない。何だろ、と隣を見ると跡部が自分の顔をじっと見つめているではないか。
「あ、あの」
若干薄暗い駐車場と車内の中。それでも彼の瞳が青いのが分かる。その瞳が、ゆっくりと琴璃の方へ近付いてきた。
次いで彼の手が琴璃の頬に向かって伸びてくる。もうあと数センチで触れそうになる、その寸前。
「なに!」
思わず声を上げた。だが伸びてきた手は、琴璃の頬の更に向こうに伸ばされた。
「シートベルト。俺が捕まるだろうが」
びっくりした。跡部が引っ張った助手席側のシートベルトを琴璃は慌てて掴む。おたおたしながらしっかりと締めた。
「あ、あ、ごめんなさい」
「フン、何勘違いしてんだよ」
「いや、あの」
取り乱す琴璃を余所に今度こそ滑らかに車は動き出す。ここまで執念深く追ってきた男をあっという間に置き去りにする。ヘッドライトに照らされた時に、ちらりと見えた顔が随分と間抜けだった。
「あの!本当にすみませんでした」
車が駐車場を出るや早速琴璃は謝り倒す。
「ほんとは予定とか、ありましたよね」
「あぁ」
「あああの、お詫びさせてください。私のせいなんで、出来ることなら何でもします」
少し青ざめた顔で謝る琴璃。こんなことになって、こんなふうに無関係の人を巻き込んでしまって。今さら顔色が優れなくなっている。心底反省しているのは跡部にも伝わった。
「別にいい」
「で、でも」
「ガキに解決できるようなものじゃねぇから、どっちにしたってお前に出来ることは無い」
この後の会合は取りやめだ。時間的に無理がある。街中をぐるぐる歩いていた時にそう判断したので、あの時跡部は歩きながらリスケの連絡を入れておいた。
「そう、ですか」
分かりやすく肩を落として琴璃は助手席で大人しくなる。一気に空気が悪くなった。
「お前はどうなんだ。予定だとあと20分くらいで着くが、間に合うのか?」
「私は……いいんです。バイトなんですけど少しなら遅れても大丈夫なんで」
「バイト?あぁ、成る程。バイト先に向かっているところにあの変な野郎に目をつけられたってわけか。にしても未成年にも見境無ぇんだな、あの野郎は」
「未成年?」
「お前、まだ高校生だろ?」
「ち、違いますよ!私もう成人してます!」
よっぽど子供扱いされたのが嫌だったのか。琴璃は自分のバッグを乱暴に漁り、そして何かを取り出して跡部のほうに突き出した。
「ほら!」
ちょうど赤信号になったので跡部は琴璃の見せてきたものを目に入れる。大学の学生証だった。
「つっても学生じゃねぇか。ついこないだまで高校生だったわけだろ」
反論して見せてくるものが学生証とは。成人していると言ってきたわりに大して変わらねぇじゃねぇか、と跡部は思う。しかも琴璃は現在大学3年だから、高校を卒業したのはそこまで昔のことではない。運転中だから彼女の名前も学部も良く見えなかった。けれど、記された個人情報に薄くかかるように印字されている“帝”のデザインに見覚えがあった。これで彼女が全くの無関係というわけではなくなった。1パーセントくらいは、繋がりができただろうか。
「なかなか懐かしいものを持ってるじゃねぇか、お前」
「え?」
「ま、どっちにしたってガキなのは変わらねぇだろ。ナンパしてきたあの馬鹿には、お前がどう映ったかは知らねぇがな」
跡部はそう言って鼻で笑う。道は僅かに混んでいたが、高速を使ってもどうせ変わらないからそのまま一般道を進む。また信号に引っかかった時、跡部はさっきよりちゃんと琴璃のほうを見た。
「あの……何でしょうか」
急に見られて困っている彼女の瞳は、自分とは違って黒味がかった茶色の眼をしていた。一般的な日本人の色。けれどその瞳の中は澄んでいて、素直に綺麗だと思った。彼女が若いから故なのかは分からない。別に、そこまで自分と大きく年齢差が開いてるわけでもないのだが。とにかく淀みなんて少しもなく真っ直ぐだった。きっと、今みたいにさっきの阿呆な男を見つめたんだろう。そして向こうはまんまと勘違いをした。本人はそんなつもりがないというのに。自覚が無いのも危ないもんだな、と跡部は内心で思う。
「とにかく、今日のことを教訓にするなら今後はもっと緊張感持って歩くことだな」
琴璃は返す言葉が無かった。その通りだと思ったのだ。ガキなのかは一先ず置いといて、自分のせいでこうなったのは紛れもない事実。名前も知らない人にナンパ男をやりすごしてもらい目的地まで送ってもらっている。自分とそこまで歳が離れているふうには見えないけど、彼は自分よりずっと“大人”なのだ。そして、決定的に違うのはやっぱり、彼の言う“ガキ”っぽさが自分にはまだあるんだと思う。ナンパされた時にあの場ではっきりと嫌だという態度を見せて、それでもしつこいならそばにあった交番にでも駆け込めば良かったのに。自分に出来たことはあったはずなのに。
「すみません」
感謝の気持ちは顔を隠し、今は申し訳なさいっぱいになった。車は間もなく駅前のそばまで来ていた。
「そんなツラでこれから人前に立つのか?」
彼女のバイトが何なのかなんて知らないけど。おおかた接客業だろう。学生のバイトなんてたかが知れてる。と、そんなふうに思っても、跡部はこれまでの人生でバイトなんて経験がないから想像の範囲だが。学生時代に仲が良かった部活仲間のバイト遍歴を思い出すと、彼らはどれも接客販売の類いだった。だから他人と接する仕事なのはまず間違いない。
「学生だろうがなんだろうが、自分の都合を他人にぶつけるなよ。そんな暗いツラした店員から接客されたいと客は思うか?」
「……思いません」
「だったら着くまでに切り替えろ」
また、その通りなことを言われた。真っ当なことを言われたけど突き放すようなきつい口調ではない。素っ気ないわけでもない。初対面なのに、この人は私のために言ってくれた。それが分かるから琴璃はもう落ち込んだりはしなかった。彼の言う通りこの顔ではお店に立てない。そう思ったから。
「ほら、着いたぜ」
「あ、はいっ」
駅のロータリーに車は停車する。シートベルトを外し、降りる前に琴璃は身体ごと跡部に向ける。彼の予定を潰したお詫びは出来ないけれど、助けてもらったら心からお礼を言うことはできる。それができなきゃ“ガキ”よりも下に成り下がってしまう。
「どうもありがとうございます。お兄さんのお陰で本当に助かりました」
「そうかよ」
しっかりと、彼の青い目を見て告げる。
「ほんとのほんとに、ありがとうございました!」
彼女の瞳にまた英気が蘇った。そして人波が溢れ始めた駅の中へ紛れていく。今どき珍しいヤツだな。何をもってしてそう思ったのか分からないけど、マイペースなんだかそそっかしいんだか良く分からない女だった。そっとアクセルを踏むと滑らかに車は動き出す。駅周辺には夕暮れ時もあってか人の流れが多くなってきていた。ミラー越しに駅前を見た時には彼女の姿はもうなかった。