That day was dreamy
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「目覚めはどうだ?琴璃チャンよぉ」
「あ、は、はい……おかげさまで」
帰宅した跡部は今日もスーツ姿だった。仕事だから昨日ほどフォーマルさは無いが、とにかく言えることは毎度のことながら何を着てもしっかりと格好良いのである。
とはいえ今日はぼーっと見とれている場合ではない。今、彼の家にいるという事実は本当はあってはならないことだからだ。加えて琴璃はパーティが終わってからのことを恐ろしいくらい覚えていない。怒られやしないだろうかとドキドキしながら跡部の顔色を伺うように見る。
「跡部さん、あの……昨日私、何か失敗したりしてないですよね?」
「だとしたら最後だな」
「…………何か、やらかしましたか」
「お前、本当に覚えてねぇのか?」
聞きながら跡部は、視線を琴璃の瞳から首元へと移し、そして軽く笑った。
「いっそ痕でも残してやっとけば良かったか?」
「は」
「まぁいい。別に大きな問題は無かった。とりあえず、昨日はお前のお陰で無事に終えることができた」
「ほんとですか!……良かったあ」
跡部の言葉を聞いて琴璃はぱっと顔を晴らす。この間みたいに、また飼主に褒められた犬のように喜んでいる。
「お前の荷物はあれで全部だな」
入口付近に先ほどのメイドが立っていて大きめの紙袋を持っていた。それを指して跡部が言うが、自分の鞄は今この手に持っている。それ以外に荷物は無い。彼女が持つ紙袋の中身を覗き込むと洋服らしきものが入っており、正体は昨日のドレスだった。昨日着たばかりなのにもうクリーニングが完了している。もう1つ別の荷物は箱型で、「こちらは靴です」とメイドが言う。
よく分からずにいると跡部がそれらの荷物を受け取り、ついてくるよう琴璃に言った。
「荷物が多いから送ってやる。流石にこの量を1人で持ち帰るのは煩わしいだろ」
「えっと……あの、昨日私が着たドレスですよね、これ」
「これはお前のものだ」
「そんな!いや、これはいくらなんでもいただけませんよ」
「昨日付き合わせたからその報酬とでも思え」
「でもこんな、高いもの」
総額いくらなんだか想像もつかないけど、簡単に貰っていいものではない。おそらく琴璃のバイト代じゃ数ヶ月掛けても買えやしない。
「ごちゃごちゃ言わねぇで素直にもらっておけ。自分じゃそうそう買わないだろう」
「ありがとうございます……」
「いつかまた着れる日が来るといいな?」
そんな日は訪れるだろうか。ただ、昨夜のようなセレブ人だらけのパーティなんてものには、この先普通に生きてたら遭遇しないと思った。
部屋を出ると引くくらい長くて広い廊下が待ち受けていた。すれ違う跡部家の使用人達が琴璃達に、「行ってらっしゃいませ」「お気をつけて」と言ってお辞儀をしてくる。一瞬日本なのかと疑うくらい、この場所が異空間のように見えた。まだ夢を見てるんじゃないかとさえ思ってしまう。昨日からずっとこんな感じだ。琴璃は思わずこめかみあたりを押さえる。その様子を見た跡部に、「二日酔いか」と聞かれたので全力で否定した。
「いくらなんでもあの量で翌日まで残ったりしねぇか」
跡部がそう言って笑うのを見て、胸がきゅっとした。お酒を飲んでからのことを全然覚えてない。でも、目が覚めてここにいたということは彼がちゃんと介抱してくれたということ。そんな大切なことを全く覚えてないなんて。自分の間抜けさをちょっと悔やんだ。
「お嬢様にお土産が――」
声と足音がして振り向くと、先ほどのメイドが2人を追いかけてきていた。琴璃は彼女から口の開いた紙袋を手渡された。そこから溢れるバターの香りに思わずうっとりする。焼き立てです、とにっこり笑う彼女。
「朝食のブリオッシュをお気に召していただいたようなので、シェフに申し伝えたところ喜んで新たに焼いてくれました」
「あ、あ、あ、ありがとうございます……」
メイドにしみじみと言いながら琴璃は受け取った紙袋を胸に抱く。パンで泣きそうになってやがる、と呆れるのは跡部だけだった。横目で2人のやり取りを見ていると、琴璃はメイドにレシピまで貰っていた。あんな僅かな時間でよくここまで今日初めてあった人間と打ち解けられるものだ。でもそんな性格だから昨夜も役に立ってくれたのである。
「おい。そろそろ行くぞ」
「うあ、はい」
和やかな空気がいつまでも続きそうだったので頃合を見て琴璃の腕を掴み歩かせた。
外に出て屋敷の全貌が明らかになって改めて思い知ったこと。跡部の家はとんでもない広さだった。昨夜の邸宅もなかなかのセレブ感だった。だが、彼の家はそれ以上の規模だった。普通の家の庭にはまずプールなんて存在しない。石畳の道がどこかヨーロッパ風を感じさせる。遠くに広い庭園があるのも見えた。琴璃は車に乗っても、助手席から見送りしてくれている使用人達にいつまでも手を振っていた。やがて彼女達も見えなくなり、きちんと前を向いて座るとぽつりと呟いた。
「いいなあ」
「あん?」
「なんか、メイドさんってちょっと憧れなんです。制服が可愛いのもそうですけど、家事がお仕事っていいなって思いませんか?」
「全く」
「そ、そうですか」
その感覚は跡部には理解しがたかった。他人の家の掃除なんて憧れる要素は1つもない。とはいえそれは語弊で、人の世話をするというその仕事自体に関しては評価している。ハウスキーピングなんてものは、自分が出来ない数少ないことの1つだからだ。それに、琴璃が自分の家の使用人達を見てそんなふうに思ったのならそれは素晴らしいことだと思った。
「実は家事代行のバイトっていうのがあるのを知って、最近探してたんです。これから少し就活で時間が取りづらくなってきそうで、それなら決まった時間じゃなくても働けるのがいいかなって。お掃除して日当が出るのもあるみたいで、そういうのがあったらいいなあって。あのメイドさん方を見てたら尚更やりたいなぁって思ったんです。もともと掃除は好きな方なので」
「今のバイトは融通が利かないのか」
「花屋さんは夕方から閉店までの時間に入ることが多いんですけど、これからは就活で夜までかかっちゃう日が増えそうなんです……」
普段なら、大学が終わってその足でバイトに向かっていたが、これからはそれが難しくなりそうだと気づいてしまった。就活にどれくらい力を入れるかにもよるが、間違いなく今のようにはいかなくなる。
「店長に相談したら、来れる時だけ来るのでも良いし、いっそ落ち着くまでお休みしていいよ、とは言ってもらえたんですけど……さすがにバイトしないとお金無くなっちゃうし。かと言ってあんまり親にお金頼むことしたくないし。なので自分で出勤の時間帯を決められるお仕事を探してみたら、家事代行っていうのに惹かれて探してました」
要するに、琴璃は時間の融通が利いて、そこそこ割りの良い仕事を探しているというわけだ。
帰りに駅前で求人誌買おうかなあ、とぼやく琴璃を横目で見ながら、随分と忙しい生活を送ってるんだな、と跡部は思った。まぁ、分刻みのスケジュールもざらにある自分に言われたくは無いだろうが。将来を決める企業探しと、今の生活を支えるためのバイト探しを同時進行しているようだが、コイツがそんなに器用にこなせるようには見えない。それに琴璃の話を聞いている感じではどちらも中途半端な雰囲気だった。こんなんじゃ、下手すりゃどちらも決まらないんじゃないかと思う。
「紹介してやろうか」
「え?」
「お前の要望に適したバイトを俺は知ってるぜ」
「……ほんとですか?」
「まだ時間があるならこのままその場所に連れて行ってやる。俺はまた午後から社に戻るようだから、あまり時間をかけて見せてやれないが」
「ぜひ!」
琴璃の顔が一気にぱっと明るくなる。また見えない尻尾を大振りしている。単純なヤツ。だが見ていて気分は良い。
今朝既にホテル気分を味わったのもありいくらか免疫はついたと思っていたが、そんなわけなかった。
跡部に連れられて、琴璃は今、1棟のマンションの前に居る。高級で、高層で、常人はまず住めることができない物件なのは見ただけで分かる。本当にこんなところに琴璃の望む家事手伝いのバイトがあるんだろうか。
駐車場は通常地下なのだが、そんなに長居しないということで跡部は車を正面出入口のロータリーに停めた。広いエントランスホールを抜けるとそこに待ち構えている噴水とホテルのようなロビー。目を奪われながらも必死に跡部についてゆく。大理石の廊下を抜けてエレベーター乗り場まで来る。だが跡部はそれには乗らず、さらに奥の、セキュリティをもう1つ抜けたエレベーター乗り場へ促した。カードキーを取り出し操作する。
「表側のエレベーターよりこっちを使え。こっちのは高層階専用だ。階は35だ」
「は、はい」
辛うじて返事はできているがそれ以上の言葉が出てこない。混乱寸前の頭のままぐんぐん地上から上へ運ばれてゆく。そしてやはり、案内された場所は追い討ちをかけるような部屋だった。
「はわ……」
琴璃が見ていた求人案内誌の家事代行バイトは、少なくともこんなセレブな物件を取り扱ってはいなかった。こういう場所はまさしく先ほどの跡部の家に仕えていた“ちゃんとした”メイドが相応しいのではないのだろうか。想像の範疇を超えすぎていてうまく反応できない。そんな琴璃の動揺を意に介すことなく跡部が言う。
「基本的に掃除くらいだな。炊事洗濯は必要ない。殆ど散らかることが無いから週に1度で充分だろう」
「……それだけで良いんですか?」
「来るのはお前の都合がつく時間帯で構わない。どうする」
「よろしくお願いします!」
こんな夢のような待遇願ってもない。何人家族か知らないけれど、掃除だけでいいのなら自分でもできそうだ。そう思った。
「でもあの、ここのお家の方にご挨拶しないで勝手に決めちゃって大丈夫ですか?」
「何言ってやがる。たった今、お前から挨拶されたぜ?」
跡部はニヤリと笑ったかと思うと、胸ポケットからさっきのカードキーを取り出し琴璃に向かって差し出してきた。
「よろしく頼むぜ?ハウスキーパーさんよ」
「あ、は、はい……おかげさまで」
帰宅した跡部は今日もスーツ姿だった。仕事だから昨日ほどフォーマルさは無いが、とにかく言えることは毎度のことながら何を着てもしっかりと格好良いのである。
とはいえ今日はぼーっと見とれている場合ではない。今、彼の家にいるという事実は本当はあってはならないことだからだ。加えて琴璃はパーティが終わってからのことを恐ろしいくらい覚えていない。怒られやしないだろうかとドキドキしながら跡部の顔色を伺うように見る。
「跡部さん、あの……昨日私、何か失敗したりしてないですよね?」
「だとしたら最後だな」
「…………何か、やらかしましたか」
「お前、本当に覚えてねぇのか?」
聞きながら跡部は、視線を琴璃の瞳から首元へと移し、そして軽く笑った。
「いっそ痕でも残してやっとけば良かったか?」
「は」
「まぁいい。別に大きな問題は無かった。とりあえず、昨日はお前のお陰で無事に終えることができた」
「ほんとですか!……良かったあ」
跡部の言葉を聞いて琴璃はぱっと顔を晴らす。この間みたいに、また飼主に褒められた犬のように喜んでいる。
「お前の荷物はあれで全部だな」
入口付近に先ほどのメイドが立っていて大きめの紙袋を持っていた。それを指して跡部が言うが、自分の鞄は今この手に持っている。それ以外に荷物は無い。彼女が持つ紙袋の中身を覗き込むと洋服らしきものが入っており、正体は昨日のドレスだった。昨日着たばかりなのにもうクリーニングが完了している。もう1つ別の荷物は箱型で、「こちらは靴です」とメイドが言う。
よく分からずにいると跡部がそれらの荷物を受け取り、ついてくるよう琴璃に言った。
「荷物が多いから送ってやる。流石にこの量を1人で持ち帰るのは煩わしいだろ」
「えっと……あの、昨日私が着たドレスですよね、これ」
「これはお前のものだ」
「そんな!いや、これはいくらなんでもいただけませんよ」
「昨日付き合わせたからその報酬とでも思え」
「でもこんな、高いもの」
総額いくらなんだか想像もつかないけど、簡単に貰っていいものではない。おそらく琴璃のバイト代じゃ数ヶ月掛けても買えやしない。
「ごちゃごちゃ言わねぇで素直にもらっておけ。自分じゃそうそう買わないだろう」
「ありがとうございます……」
「いつかまた着れる日が来るといいな?」
そんな日は訪れるだろうか。ただ、昨夜のようなセレブ人だらけのパーティなんてものには、この先普通に生きてたら遭遇しないと思った。
部屋を出ると引くくらい長くて広い廊下が待ち受けていた。すれ違う跡部家の使用人達が琴璃達に、「行ってらっしゃいませ」「お気をつけて」と言ってお辞儀をしてくる。一瞬日本なのかと疑うくらい、この場所が異空間のように見えた。まだ夢を見てるんじゃないかとさえ思ってしまう。昨日からずっとこんな感じだ。琴璃は思わずこめかみあたりを押さえる。その様子を見た跡部に、「二日酔いか」と聞かれたので全力で否定した。
「いくらなんでもあの量で翌日まで残ったりしねぇか」
跡部がそう言って笑うのを見て、胸がきゅっとした。お酒を飲んでからのことを全然覚えてない。でも、目が覚めてここにいたということは彼がちゃんと介抱してくれたということ。そんな大切なことを全く覚えてないなんて。自分の間抜けさをちょっと悔やんだ。
「お嬢様にお土産が――」
声と足音がして振り向くと、先ほどのメイドが2人を追いかけてきていた。琴璃は彼女から口の開いた紙袋を手渡された。そこから溢れるバターの香りに思わずうっとりする。焼き立てです、とにっこり笑う彼女。
「朝食のブリオッシュをお気に召していただいたようなので、シェフに申し伝えたところ喜んで新たに焼いてくれました」
「あ、あ、あ、ありがとうございます……」
メイドにしみじみと言いながら琴璃は受け取った紙袋を胸に抱く。パンで泣きそうになってやがる、と呆れるのは跡部だけだった。横目で2人のやり取りを見ていると、琴璃はメイドにレシピまで貰っていた。あんな僅かな時間でよくここまで今日初めてあった人間と打ち解けられるものだ。でもそんな性格だから昨夜も役に立ってくれたのである。
「おい。そろそろ行くぞ」
「うあ、はい」
和やかな空気がいつまでも続きそうだったので頃合を見て琴璃の腕を掴み歩かせた。
外に出て屋敷の全貌が明らかになって改めて思い知ったこと。跡部の家はとんでもない広さだった。昨夜の邸宅もなかなかのセレブ感だった。だが、彼の家はそれ以上の規模だった。普通の家の庭にはまずプールなんて存在しない。石畳の道がどこかヨーロッパ風を感じさせる。遠くに広い庭園があるのも見えた。琴璃は車に乗っても、助手席から見送りしてくれている使用人達にいつまでも手を振っていた。やがて彼女達も見えなくなり、きちんと前を向いて座るとぽつりと呟いた。
「いいなあ」
「あん?」
「なんか、メイドさんってちょっと憧れなんです。制服が可愛いのもそうですけど、家事がお仕事っていいなって思いませんか?」
「全く」
「そ、そうですか」
その感覚は跡部には理解しがたかった。他人の家の掃除なんて憧れる要素は1つもない。とはいえそれは語弊で、人の世話をするというその仕事自体に関しては評価している。ハウスキーピングなんてものは、自分が出来ない数少ないことの1つだからだ。それに、琴璃が自分の家の使用人達を見てそんなふうに思ったのならそれは素晴らしいことだと思った。
「実は家事代行のバイトっていうのがあるのを知って、最近探してたんです。これから少し就活で時間が取りづらくなってきそうで、それなら決まった時間じゃなくても働けるのがいいかなって。お掃除して日当が出るのもあるみたいで、そういうのがあったらいいなあって。あのメイドさん方を見てたら尚更やりたいなぁって思ったんです。もともと掃除は好きな方なので」
「今のバイトは融通が利かないのか」
「花屋さんは夕方から閉店までの時間に入ることが多いんですけど、これからは就活で夜までかかっちゃう日が増えそうなんです……」
普段なら、大学が終わってその足でバイトに向かっていたが、これからはそれが難しくなりそうだと気づいてしまった。就活にどれくらい力を入れるかにもよるが、間違いなく今のようにはいかなくなる。
「店長に相談したら、来れる時だけ来るのでも良いし、いっそ落ち着くまでお休みしていいよ、とは言ってもらえたんですけど……さすがにバイトしないとお金無くなっちゃうし。かと言ってあんまり親にお金頼むことしたくないし。なので自分で出勤の時間帯を決められるお仕事を探してみたら、家事代行っていうのに惹かれて探してました」
要するに、琴璃は時間の融通が利いて、そこそこ割りの良い仕事を探しているというわけだ。
帰りに駅前で求人誌買おうかなあ、とぼやく琴璃を横目で見ながら、随分と忙しい生活を送ってるんだな、と跡部は思った。まぁ、分刻みのスケジュールもざらにある自分に言われたくは無いだろうが。将来を決める企業探しと、今の生活を支えるためのバイト探しを同時進行しているようだが、コイツがそんなに器用にこなせるようには見えない。それに琴璃の話を聞いている感じではどちらも中途半端な雰囲気だった。こんなんじゃ、下手すりゃどちらも決まらないんじゃないかと思う。
「紹介してやろうか」
「え?」
「お前の要望に適したバイトを俺は知ってるぜ」
「……ほんとですか?」
「まだ時間があるならこのままその場所に連れて行ってやる。俺はまた午後から社に戻るようだから、あまり時間をかけて見せてやれないが」
「ぜひ!」
琴璃の顔が一気にぱっと明るくなる。また見えない尻尾を大振りしている。単純なヤツ。だが見ていて気分は良い。
今朝既にホテル気分を味わったのもありいくらか免疫はついたと思っていたが、そんなわけなかった。
跡部に連れられて、琴璃は今、1棟のマンションの前に居る。高級で、高層で、常人はまず住めることができない物件なのは見ただけで分かる。本当にこんなところに琴璃の望む家事手伝いのバイトがあるんだろうか。
駐車場は通常地下なのだが、そんなに長居しないということで跡部は車を正面出入口のロータリーに停めた。広いエントランスホールを抜けるとそこに待ち構えている噴水とホテルのようなロビー。目を奪われながらも必死に跡部についてゆく。大理石の廊下を抜けてエレベーター乗り場まで来る。だが跡部はそれには乗らず、さらに奥の、セキュリティをもう1つ抜けたエレベーター乗り場へ促した。カードキーを取り出し操作する。
「表側のエレベーターよりこっちを使え。こっちのは高層階専用だ。階は35だ」
「は、はい」
辛うじて返事はできているがそれ以上の言葉が出てこない。混乱寸前の頭のままぐんぐん地上から上へ運ばれてゆく。そしてやはり、案内された場所は追い討ちをかけるような部屋だった。
「はわ……」
琴璃が見ていた求人案内誌の家事代行バイトは、少なくともこんなセレブな物件を取り扱ってはいなかった。こういう場所はまさしく先ほどの跡部の家に仕えていた“ちゃんとした”メイドが相応しいのではないのだろうか。想像の範疇を超えすぎていてうまく反応できない。そんな琴璃の動揺を意に介すことなく跡部が言う。
「基本的に掃除くらいだな。炊事洗濯は必要ない。殆ど散らかることが無いから週に1度で充分だろう」
「……それだけで良いんですか?」
「来るのはお前の都合がつく時間帯で構わない。どうする」
「よろしくお願いします!」
こんな夢のような待遇願ってもない。何人家族か知らないけれど、掃除だけでいいのなら自分でもできそうだ。そう思った。
「でもあの、ここのお家の方にご挨拶しないで勝手に決めちゃって大丈夫ですか?」
「何言ってやがる。たった今、お前から挨拶されたぜ?」
跡部はニヤリと笑ったかと思うと、胸ポケットからさっきのカードキーを取り出し琴璃に向かって差し出してきた。
「よろしく頼むぜ?ハウスキーパーさんよ」