夏がはじまる
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心が落ち込もうがエスカレーターは止まることがない。目的のフロアに着いたちょうどその時、制服のポケットから振動を感じた。
「はい、もしもし」
「琴璃お前、部室の鍵持ってるか?樺地に1本預けようと思ったら誰も在り処を知らねぇ」
「え……あ、あれ?部長ですか?」
慌てて電話に出たので誰からなのかを確認しなかった。一度スマホから顔を離して画面を確認すると、そこにはばっちり『跡部部長』と表示されている。
「あーん?俺様の番号を登録してねぇのかよ、お前は」
「すいません、よく見てなくて……えっと鍵……あ、私持ってきちゃってます」
部室の鍵はスペアが1つあって、普段は琴璃が持っている。帰りの時間によってはレギュラーの誰かに預けて行くのだがすっかり忘れて持ってきてしまっていた。
「そしたら私、明日早くに行くようにしますんで」
すいませんともう一度言った。けれど返事がない。電話はまだ繋がっている。
「部長?」
「今どこに居る」
「へ」
「答えろ」
「……この間の、百貨店の中のスポーツショップに来てます。宍戸先輩のテープ、在庫切れで注文してたやつを受け取りに来ました」
「今から行く。そこから動くな」
そして一方的に切られた。琴璃の気のせいかもしれないけど、なんとなく、あんまり機嫌が良さそうじゃなかった。そんなに鍵を持って帰ってしまったのが不味かったか。今から取りに来なきゃならないほど、何か事件でも起きたのだろうか。とりあえず用事を済ませて、下のフロアまで降りることにした。きっとこの前のように車を地下に停めて来るだろうから。この前は連れてきてもらうのにどれくらい時間がかかっただろうか。分からないけれど跡部がここに来るまでまだ時間はあるだろう。ただ立っててもどうしようもないので同じフロアに入っているカフェに入ることにした。琴璃は窓際の空いていたテーブル席に座った。周りはやっぱり浴衣姿の女の子たちが多い。カップルも居る。幸いに不二たちの姿はなかった。今の自分に笑って挨拶できる自信がなかったから、居なくて良かったと思う。
「……良かった」
ぼーっと、頼んだアイスティーを飲んでいた。沈んだレモンをストローでくるくる回す。琴璃の反対側の席にいる女の子たちは、鮮やかな浴衣を着てスマホで写真を撮り合っている。みんな楽しそうだ。これから花火を見るんだからそりゃそうか。いいな、花火。いいな、夏祭り。またちょっと、弱気になりかけている。
「ったく、お前はどこでもふらふらするのが得意だな」
「……びっくりした」
声がして、顔を上げると跡部が居た。琴璃の目の前の席に座ったので慌ててメニュー表を見せる。コーヒーと一言言ったので店員を呼んでアイスコーヒーを注文した。
「場所、よく分かりましたね」
「暗い女が1人で居るのが見えると思ったら知ってる顔だった」
「あ、そうですか……」
琴璃は鞄から部室の鍵を取り出す。
「わざわざここまで来てもらっちゃってすいません。鍵、これです」
「そんなものはどうでもいい」
「え、でも、鍵が必要でここまで来てくれたんじゃないんですか?」
跡部はテーブルに置かれた鍵をポケットに仕舞うと視線を琴璃に戻す。
「俺に来てほしくないのならあんな泣きそうな声で喋るな」
「……そんな、」
そんなつもりは無かった。泣きたいなんて全く思ってないのに。自分の声はそんなに情けなかっただろうか。自覚がない。でも、確かにあの時心細かった。心が寂しかった。だから跡部が来てくれてホッとしたのは事実。普段は会話をあまりしないのに琴璃が必要とする時はいつもそばに居てくれる。やっぱりこの人は優しい。その優しさが、この前の時のように傷心した琴璃に滲透する。
やがて頼んだコーヒーが来た。そのまま下がろうとする店員を琴璃は呼び止めた。
「すいません、日替わりケーキとアイスティーのおかわりお願いします」
跡部からの呆れた視線に琴璃は、なんかお腹空いちゃったんで、と笑って答えた。
「さっき不二さんが居たんです、彼女と」
「そうか」
「最初びっくりしちゃったけど2人とも楽しそうで。お似合いだなって思いました。きっとこれから花火見に行くんだろうな、って」
失恋したての時みたいに少し寂しそうに笑う琴璃。跡部の好きな笑顔じゃない。でもその陰りは一瞬だけだった。琴璃は姿勢を正して真っ直ぐに跡部を見つめる。
「なんかもう、どうでも良くなりました。いつまでもクヨクヨしてらんないなって。こんなことに頭使ってる場合じゃないんです、私。来月はまた大会があるし、その前に夏休みも始まるし」
気持ち、普段より早口になっている。半分は本音で半分は自分に言い聞かせているのだろう。跡部は琴璃の一人語りを黙って聞いていた。
「部長が来てくれて良かったです。じゃなきゃ私、泣いてたかもしれません」
「今なら泣いてもいいぜ」
「今、ですか?」
「俺の前以外では泣くなと言っただろうが。今ならば、お前の目の前に俺が居る」
「……泣きませんよ、もう」
もう泣くもんか。まだちょっと辛いけど、悲しいけど。泣くほどにまでもう堕ちてない。1人だったら分からなかったけどもうそんな心配は要らない。跡部が来てくれたから。
「それに、こんなところで泣いたら部長が私を泣かせてるのかと思われます」
「それもそうだな」
「……良いんです、これで。正直ショックだったけど」
だが未練はまだゼロになってないらしい。跡部は別にそれで良いと思う。全く無かったものになんて出来ないのだから。人の記憶も感情も、本人以外が介入して正しく操作することは出来ない。でも琴璃が忘れたいと思っているのなら。寂しさから開放してやりたいとは思う。
ちょうど、頼んだケーキとアイスティーが来た。日替わりケーキは苺のタルトだった。
「いただきまーす」
甘いものを目の前に笑顔になる琴璃。普段だったら、単純な奴だと呆れるのに今日はほっとした。少しは琴璃の精神が落ち着いている証拠だ。
「俺はお前の失恋話が聞きたくてここへ来たわけじゃねぇんだがな」
「……でもさっき、泣いてもいいって言いました」
「泣いても良いが、過去のことを掘り返して感傷に浸ることは許してないぜ」
「別に。そんなふうにうじうじしませんもん」
跡部が案ずるよりも琴璃はわりと普通に過ごしている。何となくあまりいい予感がしなくて迎えに来たが、杞憂に終わったのなら別にそれでいい。
「部長、ありがとうございます。手のかかるマネージャーですみません」
琴璃はにっこりと笑って最後に残っていた苺にフォークを刺した。それは彼女が見せる、久しぶりの心からの笑顔だった。跡部は何も言わなかった。言わない代わりに苺が刺さったフォークを持った彼女の手を掴む。それを自分のほうへと引き寄せ、
「あー!イチゴ!」
あろうことか、その苺を食べてしまった。琴璃は間抜けにもう何も刺さっていないフォークを握っているだけ。何もなくなった皿を見つめて琴璃が呟く。
「最後に食べようと取っといたのに……」
「最後だと?苦手だから避けていたんじゃねぇのか」
「違いますよ、好きだから最後に食べたかったんです!あーあ……」
「そんなに凹むことかよ」
「最後の楽しみだったのに。ひどい」
いつまでも恨めしく跡部を見ている琴璃。その本気の顔を見たから、たかが苺だろ、と出かけた言葉を飲み込んだ。食べ物の恨みは怖いのだと、目で訴えてくる。
「代償としてお前の願い事を聞いてやろう」
「へ?」
「書いたんだろう、この前短冊に。星なんかに願わなくとも俺様が叶えてやるよ」
それは、いつも試合前に相手に見せているような自信と余裕の笑みだった。苺の代償に願い事を叶えてくれるのだと。そんなこと言われるとはまさか思わなくて琴璃は息を呑む。忍足の言ったとおり、やはり彼はお星様なんかよりずっと頼りになりそうだ。
「短冊には……花火を見たいって書きました」
跡部はあの時、琴璃の書いた短冊を覗き見たから知っている。本当はそんな願いじゃなかった。でも言わない。琴璃が今、1番に叶えてほしい願いがそれなんだろうから。花火を見たいだなんて。これまた平凡なことを願うヤツだな。
「お安い御用ですよ、お嬢さん」
そう言って、跡部は伝票を持って立ち上がる。
「行くぞ」
「え、あの」
何処へですか、と琴璃は聞きたかったけど、颯爽と歩いてゆく跡部の後をついて行くしかなかった。
「はい、もしもし」
「琴璃お前、部室の鍵持ってるか?樺地に1本預けようと思ったら誰も在り処を知らねぇ」
「え……あ、あれ?部長ですか?」
慌てて電話に出たので誰からなのかを確認しなかった。一度スマホから顔を離して画面を確認すると、そこにはばっちり『跡部部長』と表示されている。
「あーん?俺様の番号を登録してねぇのかよ、お前は」
「すいません、よく見てなくて……えっと鍵……あ、私持ってきちゃってます」
部室の鍵はスペアが1つあって、普段は琴璃が持っている。帰りの時間によってはレギュラーの誰かに預けて行くのだがすっかり忘れて持ってきてしまっていた。
「そしたら私、明日早くに行くようにしますんで」
すいませんともう一度言った。けれど返事がない。電話はまだ繋がっている。
「部長?」
「今どこに居る」
「へ」
「答えろ」
「……この間の、百貨店の中のスポーツショップに来てます。宍戸先輩のテープ、在庫切れで注文してたやつを受け取りに来ました」
「今から行く。そこから動くな」
そして一方的に切られた。琴璃の気のせいかもしれないけど、なんとなく、あんまり機嫌が良さそうじゃなかった。そんなに鍵を持って帰ってしまったのが不味かったか。今から取りに来なきゃならないほど、何か事件でも起きたのだろうか。とりあえず用事を済ませて、下のフロアまで降りることにした。きっとこの前のように車を地下に停めて来るだろうから。この前は連れてきてもらうのにどれくらい時間がかかっただろうか。分からないけれど跡部がここに来るまでまだ時間はあるだろう。ただ立っててもどうしようもないので同じフロアに入っているカフェに入ることにした。琴璃は窓際の空いていたテーブル席に座った。周りはやっぱり浴衣姿の女の子たちが多い。カップルも居る。幸いに不二たちの姿はなかった。今の自分に笑って挨拶できる自信がなかったから、居なくて良かったと思う。
「……良かった」
ぼーっと、頼んだアイスティーを飲んでいた。沈んだレモンをストローでくるくる回す。琴璃の反対側の席にいる女の子たちは、鮮やかな浴衣を着てスマホで写真を撮り合っている。みんな楽しそうだ。これから花火を見るんだからそりゃそうか。いいな、花火。いいな、夏祭り。またちょっと、弱気になりかけている。
「ったく、お前はどこでもふらふらするのが得意だな」
「……びっくりした」
声がして、顔を上げると跡部が居た。琴璃の目の前の席に座ったので慌ててメニュー表を見せる。コーヒーと一言言ったので店員を呼んでアイスコーヒーを注文した。
「場所、よく分かりましたね」
「暗い女が1人で居るのが見えると思ったら知ってる顔だった」
「あ、そうですか……」
琴璃は鞄から部室の鍵を取り出す。
「わざわざここまで来てもらっちゃってすいません。鍵、これです」
「そんなものはどうでもいい」
「え、でも、鍵が必要でここまで来てくれたんじゃないんですか?」
跡部はテーブルに置かれた鍵をポケットに仕舞うと視線を琴璃に戻す。
「俺に来てほしくないのならあんな泣きそうな声で喋るな」
「……そんな、」
そんなつもりは無かった。泣きたいなんて全く思ってないのに。自分の声はそんなに情けなかっただろうか。自覚がない。でも、確かにあの時心細かった。心が寂しかった。だから跡部が来てくれてホッとしたのは事実。普段は会話をあまりしないのに琴璃が必要とする時はいつもそばに居てくれる。やっぱりこの人は優しい。その優しさが、この前の時のように傷心した琴璃に滲透する。
やがて頼んだコーヒーが来た。そのまま下がろうとする店員を琴璃は呼び止めた。
「すいません、日替わりケーキとアイスティーのおかわりお願いします」
跡部からの呆れた視線に琴璃は、なんかお腹空いちゃったんで、と笑って答えた。
「さっき不二さんが居たんです、彼女と」
「そうか」
「最初びっくりしちゃったけど2人とも楽しそうで。お似合いだなって思いました。きっとこれから花火見に行くんだろうな、って」
失恋したての時みたいに少し寂しそうに笑う琴璃。跡部の好きな笑顔じゃない。でもその陰りは一瞬だけだった。琴璃は姿勢を正して真っ直ぐに跡部を見つめる。
「なんかもう、どうでも良くなりました。いつまでもクヨクヨしてらんないなって。こんなことに頭使ってる場合じゃないんです、私。来月はまた大会があるし、その前に夏休みも始まるし」
気持ち、普段より早口になっている。半分は本音で半分は自分に言い聞かせているのだろう。跡部は琴璃の一人語りを黙って聞いていた。
「部長が来てくれて良かったです。じゃなきゃ私、泣いてたかもしれません」
「今なら泣いてもいいぜ」
「今、ですか?」
「俺の前以外では泣くなと言っただろうが。今ならば、お前の目の前に俺が居る」
「……泣きませんよ、もう」
もう泣くもんか。まだちょっと辛いけど、悲しいけど。泣くほどにまでもう堕ちてない。1人だったら分からなかったけどもうそんな心配は要らない。跡部が来てくれたから。
「それに、こんなところで泣いたら部長が私を泣かせてるのかと思われます」
「それもそうだな」
「……良いんです、これで。正直ショックだったけど」
だが未練はまだゼロになってないらしい。跡部は別にそれで良いと思う。全く無かったものになんて出来ないのだから。人の記憶も感情も、本人以外が介入して正しく操作することは出来ない。でも琴璃が忘れたいと思っているのなら。寂しさから開放してやりたいとは思う。
ちょうど、頼んだケーキとアイスティーが来た。日替わりケーキは苺のタルトだった。
「いただきまーす」
甘いものを目の前に笑顔になる琴璃。普段だったら、単純な奴だと呆れるのに今日はほっとした。少しは琴璃の精神が落ち着いている証拠だ。
「俺はお前の失恋話が聞きたくてここへ来たわけじゃねぇんだがな」
「……でもさっき、泣いてもいいって言いました」
「泣いても良いが、過去のことを掘り返して感傷に浸ることは許してないぜ」
「別に。そんなふうにうじうじしませんもん」
跡部が案ずるよりも琴璃はわりと普通に過ごしている。何となくあまりいい予感がしなくて迎えに来たが、杞憂に終わったのなら別にそれでいい。
「部長、ありがとうございます。手のかかるマネージャーですみません」
琴璃はにっこりと笑って最後に残っていた苺にフォークを刺した。それは彼女が見せる、久しぶりの心からの笑顔だった。跡部は何も言わなかった。言わない代わりに苺が刺さったフォークを持った彼女の手を掴む。それを自分のほうへと引き寄せ、
「あー!イチゴ!」
あろうことか、その苺を食べてしまった。琴璃は間抜けにもう何も刺さっていないフォークを握っているだけ。何もなくなった皿を見つめて琴璃が呟く。
「最後に食べようと取っといたのに……」
「最後だと?苦手だから避けていたんじゃねぇのか」
「違いますよ、好きだから最後に食べたかったんです!あーあ……」
「そんなに凹むことかよ」
「最後の楽しみだったのに。ひどい」
いつまでも恨めしく跡部を見ている琴璃。その本気の顔を見たから、たかが苺だろ、と出かけた言葉を飲み込んだ。食べ物の恨みは怖いのだと、目で訴えてくる。
「代償としてお前の願い事を聞いてやろう」
「へ?」
「書いたんだろう、この前短冊に。星なんかに願わなくとも俺様が叶えてやるよ」
それは、いつも試合前に相手に見せているような自信と余裕の笑みだった。苺の代償に願い事を叶えてくれるのだと。そんなこと言われるとはまさか思わなくて琴璃は息を呑む。忍足の言ったとおり、やはり彼はお星様なんかよりずっと頼りになりそうだ。
「短冊には……花火を見たいって書きました」
跡部はあの時、琴璃の書いた短冊を覗き見たから知っている。本当はそんな願いじゃなかった。でも言わない。琴璃が今、1番に叶えてほしい願いがそれなんだろうから。花火を見たいだなんて。これまた平凡なことを願うヤツだな。
「お安い御用ですよ、お嬢さん」
そう言って、跡部は伝票を持って立ち上がる。
「行くぞ」
「え、あの」
何処へですか、と琴璃は聞きたかったけど、颯爽と歩いてゆく跡部の後をついて行くしかなかった。