夏がはじまる
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昨夜は1時間くらいしか眠れなかった。朝ご飯はそんなに食べれなかったし、ずっと炎天下の中にいたのに水分を取ることを気にしてなかった。倒れた原因に思い当たることがありすぎて。自分の不甲斐なさにうんざりするしかなかった。
朦朧としてたのはあの倒れる前の一瞬で、その後はずっと意識はあった。目眩を感じた琴璃はジローの背中に豪快に倒れ込んで彼を押し潰したのだ。自分が倒れたと自覚したのはその直後。先輩をクッション代わりにしてしまった、と思ったのも覚えてる。それともう1つ。跡部が、自分の名を呼んだのもなんとなく覚えている。それがちょっと怖かったのも。その後琴璃は樺地におんぶされて部室まで運んでもらった。そばにいた宍戸が、こりゃ熱中症だな、と言って氷嚢を作ってくれた。横になってろ、とも言われたのでそれを頭に乗せて皆が終わるまでソファでじっとしていた。
やがて今日の日程は終えたらしく、誰かの話し声が聞こえて目を覚ました。30分くらいは眠っていたらしい。レギュラー陣がぞろぞろ部室に戻ってきて、みんな琴璃のことを心配してくれた。いちいちすいませんと謝る琴璃に優しい言葉をかけてくれた。あの日吉でさえも、無言で私物の冷却シートを渡してくれたのだ。
頭がまだちょっと痛いけど大分気分は良くなった。ゆるゆると帰る支度をし始める。
「じゃな、琴璃。気をつけて帰れよ。つっても、車じゃ気をつけることねーか」
「へ……?」
そんな意味深なことを言って岳人たちは帰っていった。残されたのは琴璃だけ。車って、何ですか。
「お前は俺が送っていく」
疑問に答えるかのように跡部が部室に入ってきた。皆より一足遅かったのは手塚と少し話し込んでいたからだ。言うだけ言って、着替えるためにロッカールームへ姿を消したが程なくして戻ってきた。琴璃は慌てて跡部に詰め寄る。
「いやあの、もう大丈夫です。歩けますから、1人で帰ります」
「いいから支度しろ」
「あの、でも本当にご迷惑かかりますから」
「うるせぇ。もう迷惑かけてんだよ」
ばっさりと、琴璃の意見を切り捨てる。そうはっきり言われると琴璃は何も言えなくなってしまう。もうとっくに迷惑かけてるのは事実だから。少し俯く琴璃。それを見て跡部は小さく舌打ちをする。
「帰るまでにもしまた倒れでもしてみろ。お前は俺にまた迷惑をかけることになる。これ以上迷惑かけたくないと思ってるのなら、お前が無事家に帰るのを見届けさせろ」
有無を言わせない圧力で言われて。これ以上は何も言えない空気。大人しく琴璃は荷物を片付け始めた。その間、跡部は窓の外を見ながら腕を組んで壁に寄りかかっていた。自分はもういつでも帰れるらしく琴璃を待っている。
そういえば、今更だけど今日初めてちゃんと跡部を見た。朝からずっと避けてたのに、色々あったせいで琴璃は忘れてしまっていた。案外普通に会話が出来るもんだ。あんなこと、したくせに。
「なんで……あんなことしたんですか」
昨日のキスのことを言っている。お陰で昨夜は不二のことを考えなくて済んだけど。また違う衝撃で琴璃の頭の中は埋め尽くされてしまった。そう、実際のところ昨日の寝不足は不二ではなくてこの男のせいだったのだ。
「何だ。謝れってか?」
跡部は鼻で笑ってそう言う。少しも悪びれた様子はない。
「俺は謝らないぜ。お前が、キスをしたくなる顔をしてたのが悪い」
「……何ですか、それ」
したかったからした。だから俺は悪くない、と言いたいのか。なんて勝手な人なんだと思った。自分が不二を好きなのを知ってたくせに、それでもキスができるのか。キスをしたいと思わせる顔とは、どんなものなのか。この人の考えていることは分からない。こっちは1つも納得してないのにその余裕は何だと思う。でも、これ以上歯向かうと自分の身の保障が気になってくる。昨日とまた同じ展開になりかねないので、琴璃は言いたいことを呑み込んだ。
「お前が気になってるのはそんなことじゃねぇだろ」
「え?」
「お前は倒れたから試合の結果をまだ知らないだろう?」
琴璃の記憶ではセットカウント3-0で跡部が勝っていた。そこまでは覚えている。
「……どうなったんですか」
「俺が勝った」
やはり、あのまま試合は跡部が主導権を握ったままだった。まさか不二にセットを全く取らせなかったというのか。それが少し信じられない。
「勝っていた。中断直前までは」
「中断?」
跡部はカーテンを少し開けて外を見せる。夏の夕刻にしては空の色が暗い。雨が降っていた。
「夕立で中断になった。だからノーゲームだ」
「そう、だったんですか」
「残念だったな、アイツが勝つところを見れなくて。ま、あのまま試合ができたとしても俺が勝ったがな」
「……別に。私は最初から不二さんを応援してないです。私は氷帝で、不二さんは敵だから」
「でもアイツのことが好きなんだろう」
急所を突かれて言葉に詰まる。好きだけど。もう、好きではない。好きになってはいけない、が正しいのか。
不二には彼女がいてその子をとても大切にしている。あの時ほんの僅かに話してだけで分かる。琴璃を見て占いを信じる女の子について話してたけど、あれは自分越しに彼女のことを思い浮かべていたのだろう。ずん、と気持ちが沈んでいく。どうでもいいと思えるようになってもそれは単なる強がりだった。一時的なものでしかない。心にはまだ不二が棲みついている。
「そういう顔をするな。またされたいのか」
不意に跡部の手が伸びてきて琴璃の顎に添えられた。そのまま上を向かされる。深い青の瞳と目が合った。見つめられると動けなくなってしまう。昨日と同じく彼の綺麗な顔が近付いてくる。抵抗したいのに、何かの魔法にかかったように逆らえない。けれど、一瞬だけ笑ったかと思うと跡部は琴璃から離れた。
「さて。もう歩けるよな。支度は済んだか」
「は、い」
びっくりした。まさかこういう展開に慣れてないから。琴璃の心臓は煩くて仕方ない。でも、それを何とか悟られずに鞄を手にして立ち上がる。部室を出ようとする跡部の後に大人しく従った。1人で帰れます、なんて言ったって最初から聞き入ってもらえないことくらい分かっていた。
外の世界はまあまあの雨が降っていた。夕立のピークは超えただろうが雨足はそこまで弱くない。跡部も琴璃も傘を持っていなかった。
琴璃は暗たげな空を見上げた。絶えず降り続く雨。このまま、雨に濡れて行くのも良いかもしれない。この行き場のない気持ちごと綺麗さっぱり洗い流してくれないだろうか。何かの小説か映画だったか忘れたけど、昔見たそれにそんなシーンがあった。ただの格好つけと思ってたけど、今の自分なら凄く分かる気がする。このまま頭から足の先までずぶ濡れになってしまいたい。そんなふうに思いたい日もある。一歩踏み出すと足下でぱしゃん、と音がした。更にもう一歩。進もうとしたのにそれは出来なかった。
「濡れるだろうが」
ドラマの世界みたいなことを考えていたら跡部に腕を掴まれた。頭上の雨が止んだ。隣で跡部がビニール傘を広げている。
「傘、どうしたんですか」
「ジローのロッカーから飛び出していた」
「勝手に使っていいんですか?」
「借りるんだ、ちゃんと返せば問題ないだろう。ま、無造作にロッカーに突っ込まれてたから本人も気にしちゃいないだろうがな」
多分ジローはこの傘の存在なんて忘れている。それは琴璃も思った。いつもロッカーの中がとんでもない汚さで跡部に怒られていたけれど。皮肉にもこんな形で役に立つとはな、と跡部が笑う。それよりも琴璃は、この人にビニール傘は果てしなく似合わないな、とひっそり思った。
もう誰も居ないコートを横切る。さっきまでここで皆が試合していた。ここに不二も居た。自分も同じように居た。同じ空間に居て1つの試合を通して彼を見つめていた。でも、もうそれもないだろう。いずれまた不二とは大会で会うとしても、彼の試合を一心に見つめることはないから。
―――もう、忘れよう。不二のことなんか。
琴璃はきっとそんなことを考えているんだろう。それくらい想像がつく。馬鹿なやつだな、と跡部は思った。無理矢理忘れようとして、それが逆に自分を苦しめている。今日明日で綺麗に片付けられるほどの軽い気持ちじゃなかったのなら、すぐに立ち直るなんて無理だ。そんな器用な女じゃない。
隣を歩く琴璃に目をやる。その頬に雫が見えた。目尻から一筋、重力に従って下へ流れてゆく。跡部は手を伸ばして琴璃の頬を拭う。
「わ、びっくりした」
だが、涙に見えたがそれはただの雨粒だった。
「泣いているのかと思った」
「……泣きませんよ、これくらいで」
ひどく抑揚のない声。そう言うくせに彼女は悲しげな顔だった。ただの強がりなんだと、跡部にはとっくに見透かされている。
そういう顔だって言ってんだよ。無理をして取り繕う琴璃を見るたび衝動に駆られる。
傷つけたくないのに、どうかしている。
朦朧としてたのはあの倒れる前の一瞬で、その後はずっと意識はあった。目眩を感じた琴璃はジローの背中に豪快に倒れ込んで彼を押し潰したのだ。自分が倒れたと自覚したのはその直後。先輩をクッション代わりにしてしまった、と思ったのも覚えてる。それともう1つ。跡部が、自分の名を呼んだのもなんとなく覚えている。それがちょっと怖かったのも。その後琴璃は樺地におんぶされて部室まで運んでもらった。そばにいた宍戸が、こりゃ熱中症だな、と言って氷嚢を作ってくれた。横になってろ、とも言われたのでそれを頭に乗せて皆が終わるまでソファでじっとしていた。
やがて今日の日程は終えたらしく、誰かの話し声が聞こえて目を覚ました。30分くらいは眠っていたらしい。レギュラー陣がぞろぞろ部室に戻ってきて、みんな琴璃のことを心配してくれた。いちいちすいませんと謝る琴璃に優しい言葉をかけてくれた。あの日吉でさえも、無言で私物の冷却シートを渡してくれたのだ。
頭がまだちょっと痛いけど大分気分は良くなった。ゆるゆると帰る支度をし始める。
「じゃな、琴璃。気をつけて帰れよ。つっても、車じゃ気をつけることねーか」
「へ……?」
そんな意味深なことを言って岳人たちは帰っていった。残されたのは琴璃だけ。車って、何ですか。
「お前は俺が送っていく」
疑問に答えるかのように跡部が部室に入ってきた。皆より一足遅かったのは手塚と少し話し込んでいたからだ。言うだけ言って、着替えるためにロッカールームへ姿を消したが程なくして戻ってきた。琴璃は慌てて跡部に詰め寄る。
「いやあの、もう大丈夫です。歩けますから、1人で帰ります」
「いいから支度しろ」
「あの、でも本当にご迷惑かかりますから」
「うるせぇ。もう迷惑かけてんだよ」
ばっさりと、琴璃の意見を切り捨てる。そうはっきり言われると琴璃は何も言えなくなってしまう。もうとっくに迷惑かけてるのは事実だから。少し俯く琴璃。それを見て跡部は小さく舌打ちをする。
「帰るまでにもしまた倒れでもしてみろ。お前は俺にまた迷惑をかけることになる。これ以上迷惑かけたくないと思ってるのなら、お前が無事家に帰るのを見届けさせろ」
有無を言わせない圧力で言われて。これ以上は何も言えない空気。大人しく琴璃は荷物を片付け始めた。その間、跡部は窓の外を見ながら腕を組んで壁に寄りかかっていた。自分はもういつでも帰れるらしく琴璃を待っている。
そういえば、今更だけど今日初めてちゃんと跡部を見た。朝からずっと避けてたのに、色々あったせいで琴璃は忘れてしまっていた。案外普通に会話が出来るもんだ。あんなこと、したくせに。
「なんで……あんなことしたんですか」
昨日のキスのことを言っている。お陰で昨夜は不二のことを考えなくて済んだけど。また違う衝撃で琴璃の頭の中は埋め尽くされてしまった。そう、実際のところ昨日の寝不足は不二ではなくてこの男のせいだったのだ。
「何だ。謝れってか?」
跡部は鼻で笑ってそう言う。少しも悪びれた様子はない。
「俺は謝らないぜ。お前が、キスをしたくなる顔をしてたのが悪い」
「……何ですか、それ」
したかったからした。だから俺は悪くない、と言いたいのか。なんて勝手な人なんだと思った。自分が不二を好きなのを知ってたくせに、それでもキスができるのか。キスをしたいと思わせる顔とは、どんなものなのか。この人の考えていることは分からない。こっちは1つも納得してないのにその余裕は何だと思う。でも、これ以上歯向かうと自分の身の保障が気になってくる。昨日とまた同じ展開になりかねないので、琴璃は言いたいことを呑み込んだ。
「お前が気になってるのはそんなことじゃねぇだろ」
「え?」
「お前は倒れたから試合の結果をまだ知らないだろう?」
琴璃の記憶ではセットカウント3-0で跡部が勝っていた。そこまでは覚えている。
「……どうなったんですか」
「俺が勝った」
やはり、あのまま試合は跡部が主導権を握ったままだった。まさか不二にセットを全く取らせなかったというのか。それが少し信じられない。
「勝っていた。中断直前までは」
「中断?」
跡部はカーテンを少し開けて外を見せる。夏の夕刻にしては空の色が暗い。雨が降っていた。
「夕立で中断になった。だからノーゲームだ」
「そう、だったんですか」
「残念だったな、アイツが勝つところを見れなくて。ま、あのまま試合ができたとしても俺が勝ったがな」
「……別に。私は最初から不二さんを応援してないです。私は氷帝で、不二さんは敵だから」
「でもアイツのことが好きなんだろう」
急所を突かれて言葉に詰まる。好きだけど。もう、好きではない。好きになってはいけない、が正しいのか。
不二には彼女がいてその子をとても大切にしている。あの時ほんの僅かに話してだけで分かる。琴璃を見て占いを信じる女の子について話してたけど、あれは自分越しに彼女のことを思い浮かべていたのだろう。ずん、と気持ちが沈んでいく。どうでもいいと思えるようになってもそれは単なる強がりだった。一時的なものでしかない。心にはまだ不二が棲みついている。
「そういう顔をするな。またされたいのか」
不意に跡部の手が伸びてきて琴璃の顎に添えられた。そのまま上を向かされる。深い青の瞳と目が合った。見つめられると動けなくなってしまう。昨日と同じく彼の綺麗な顔が近付いてくる。抵抗したいのに、何かの魔法にかかったように逆らえない。けれど、一瞬だけ笑ったかと思うと跡部は琴璃から離れた。
「さて。もう歩けるよな。支度は済んだか」
「は、い」
びっくりした。まさかこういう展開に慣れてないから。琴璃の心臓は煩くて仕方ない。でも、それを何とか悟られずに鞄を手にして立ち上がる。部室を出ようとする跡部の後に大人しく従った。1人で帰れます、なんて言ったって最初から聞き入ってもらえないことくらい分かっていた。
外の世界はまあまあの雨が降っていた。夕立のピークは超えただろうが雨足はそこまで弱くない。跡部も琴璃も傘を持っていなかった。
琴璃は暗たげな空を見上げた。絶えず降り続く雨。このまま、雨に濡れて行くのも良いかもしれない。この行き場のない気持ちごと綺麗さっぱり洗い流してくれないだろうか。何かの小説か映画だったか忘れたけど、昔見たそれにそんなシーンがあった。ただの格好つけと思ってたけど、今の自分なら凄く分かる気がする。このまま頭から足の先までずぶ濡れになってしまいたい。そんなふうに思いたい日もある。一歩踏み出すと足下でぱしゃん、と音がした。更にもう一歩。進もうとしたのにそれは出来なかった。
「濡れるだろうが」
ドラマの世界みたいなことを考えていたら跡部に腕を掴まれた。頭上の雨が止んだ。隣で跡部がビニール傘を広げている。
「傘、どうしたんですか」
「ジローのロッカーから飛び出していた」
「勝手に使っていいんですか?」
「借りるんだ、ちゃんと返せば問題ないだろう。ま、無造作にロッカーに突っ込まれてたから本人も気にしちゃいないだろうがな」
多分ジローはこの傘の存在なんて忘れている。それは琴璃も思った。いつもロッカーの中がとんでもない汚さで跡部に怒られていたけれど。皮肉にもこんな形で役に立つとはな、と跡部が笑う。それよりも琴璃は、この人にビニール傘は果てしなく似合わないな、とひっそり思った。
もう誰も居ないコートを横切る。さっきまでここで皆が試合していた。ここに不二も居た。自分も同じように居た。同じ空間に居て1つの試合を通して彼を見つめていた。でも、もうそれもないだろう。いずれまた不二とは大会で会うとしても、彼の試合を一心に見つめることはないから。
―――もう、忘れよう。不二のことなんか。
琴璃はきっとそんなことを考えているんだろう。それくらい想像がつく。馬鹿なやつだな、と跡部は思った。無理矢理忘れようとして、それが逆に自分を苦しめている。今日明日で綺麗に片付けられるほどの軽い気持ちじゃなかったのなら、すぐに立ち直るなんて無理だ。そんな器用な女じゃない。
隣を歩く琴璃に目をやる。その頬に雫が見えた。目尻から一筋、重力に従って下へ流れてゆく。跡部は手を伸ばして琴璃の頬を拭う。
「わ、びっくりした」
だが、涙に見えたがそれはただの雨粒だった。
「泣いているのかと思った」
「……泣きませんよ、これくらいで」
ひどく抑揚のない声。そう言うくせに彼女は悲しげな顔だった。ただの強がりなんだと、跡部にはとっくに見透かされている。
そういう顔だって言ってんだよ。無理をして取り繕う琴璃を見るたび衝動に駆られる。
傷つけたくないのに、どうかしている。