セレスティアルブルー
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朝からいい天気だったのに夕方になる頃には黒い雲が立ち込めてきた。夏らしく急激に変わりやすい。
跡部景吾という男は常に忙しい人間だから一日中何もしないでいるなんて無理だ。でも今は合宿中なので家のことや学校の業務からは開放されている。だからそれなりに時間ができた。結局、煩い千石の相手もしてやったし、何処ぞの命知らずからの挑戦も受けて打ちのめしてやった。その後忍足に捕まって、夏休みの課題が終わらんとか泣き付かれたが無視をした。跡部はこの合宿に入る前にとっくに終わらせているから関係ないのだ。
「へーっ、跡部は課題全部終わらせてきたんだ」
わざとらしくも聞こえる、幸村の珍しそうな口調。というかコイツは地獄耳かと思った。
「俺様があんなふうに追い込まれて喪失するように見えるか?」
忍足を見ながら吐き捨てるように言う。
「ううん、そんなのキングのキミに似合わないもん」
「分かってりゃいい」
会議室の、1番前の席に座っていたら知らないうちに幸村が後ろに座っていた。明日のスケジュール説明のために選手たちは招集されたわけだがまだそんなに人は居ない。明日の練習は午前中だけ。午後に簡単な閉会式だとか、良く分からない関係者からの有り難いお言葉を控えるだけなのに。めんどくせぇな、と思いつつこの会議室にやってきていた。忍足はここにも夏休みの課題プリントを持ち込んで必死にやっている。それを幸村は、がんばれー、とか言いながら眺めていた。手伝う気はないらしい。
開始までまだ10分以上あったので選手の半分ほどしか集っていなかった。まだ陽は沈んでないものの急に広がってきた雨雲のせいで外は暗かった。そのうち降ってくるだろうと思いながら窓の向こうを眺めていたら案の定窓ガラスに水滴が落ちてきた。夏らしい、局地的な大雨。雷までもが鳴っている。窓に叩きつける雨と防風でガタガタと音が鳴る。稲光も頻度が増えてきた。結構激しい荒れ模様だ。
忍足が、もうアカン、とかボヤいた、直後だった。突然部屋が暗くなる。
「停電か」
誰かが言った。恐らく近くで落雷があったのだ。電気が切れても人が居るから静かにはならなかった。むしろ少し騒がしい。皆がなんだどうしたと騒いでいる。誰かが無謀にも様子を見てくると言って動いたが、暗くて見えないせいで豪快に転んでいた。エアコンも切れて次第に蒸し暑さを感じ始める。不快指数が次第に上がってゆく。外はたった数分前よりもずっと暗く、黒い空になっている。そこへ、小さな明かりが現れた。真田がアウトドア用のペンライトを持っていた。
「へぇ。真田、ずいぶん準備いいね」
「外泊先では何が起こるか分からんからな」
親父みたいなことを言って、室内に非常照明などが無いか見回しに行った。他の者たちはすることがないので大人しくその場で待つ。跡部ももともと座ってた場所から全く動かず、ただ灯りが復旧するのを待つことにした。
「藤白は大丈夫だろうか」
意外な名前が手塚の口から出た。青学2人は跡部らの斜め後ろに座っていた。
「何、手塚、琴璃がどうかしたの?」
「ここに向かう前にこの下の多目的室にいたんだが、眼鏡ケースを忘れてきたのを思い出してな。取りに戻ろうとしたらちょうど藤白とすれ違って、自分が行くから先に会議室に行ってくれと言われたんだが」
じゃあ琴璃は今、1人きり。この暗闇の中で。
これがどういうことなのか。理解するのは跡部だけだった。
「ぬ、おい跡部!何をする」
「借りるぜ」
借りる、というよりか半ば強引に真田からライトを奪って跡部はこの部屋から出ていく。廊下も恐ろしく暗い世界だった。非常灯はどうなってやがる、と疑いたくなるほど何も見えなかった。1階に降りると奥の方から物音と数人の話声が聞こえた。どうやら復旧作業をしているらしい。だがそっちとは反対方向の、突き当りの部屋を目指す。
「琴璃」
ドアを開けて呼んでみても返事はなかった。跡部は室内を照らす。
「琴璃、おい。居るんなら返事しろ」
「へ……あ、とべさん」
暗闇の中で何かが動いた。光を向けるとテーブルの下で何かがもぞもぞ動いた。
「大丈夫か」
「……あんまり」
「だろうな」
琴璃はテーブルの脚にしがみついていた。この前と同じように目を固く瞑って。地震じゃないのに何故そんな所にいるのか。テーブルの下に身を寄せているのを見て跡部は訝しがる。多分、気が動転してよく分からない行動に出たのだろう。
と、その時持っていたライトが消えた。琴璃は何も反応しなかった。もともと見えていないのだから驚くこともない。こんな時に電池切れなんて起こしやがって。跡部は小さく舌打ちをする。ちゃんと点検しておけ、という思いを込めて。でもそんな小さい音でも琴璃は聞こえていた。目を閉じた分、聴覚がいつもよりも研ぎ澄まされている。
「あ、跡部さん、どこ」
「こっちだ。手を伸ばせ」
だいぶ暗闇に目が慣れてきた。おかげで頼りなく伸ばされた琴璃の腕を掴むことができた。琴璃は一瞬びっくりして小さな悲鳴を漏らす。引き上げて椅子に座らせようとした、が、
「どうした」
「や、なんか、腰が抜けちゃって」
「立ち上がれないのか」
「すみません……」
仕方なく跡部もその場に腰を下ろす。ちょうど側に壁がある場所。もたれ掛かって琴璃を腕の中に引っ張り込んだ。
後ろ抱きにして床に座り、壁に寄りかかる。相変わらず華奢なので簡単に引き込めた。
「あの、すみません」
「何が」
「一度ならず二度までも……」
相当気にしているらしい。最後のほうは声が小さくて雨音にかき消された。そんなこといちいち気にするな、という思いを込めて琴璃の頭に手を置く。
「お前は、こういう時にはすぐ素直になれるんだな」
明るい時では、跡部の言葉に違うだのそんなことないだのと否定してくるくせに。今はまるで借りてきた猫のように身体を縮めてじっとしている。ぴったりと跡部に身を預けて、左手は跡部のシャツを掴んでいた。その行動に跡部は不思議な満足感を覚える。反対の手はどうした、と思った。よく見ると琴璃は何かを持っている。薄暗くてよく見えないので取り上げてみた。それは眼鏡ケースだった。
「あ」
「今、お前を守ってやれるのはコイツじゃねぇな」
適当に、投げるようにテーブルの上に置いた。
なんとなく気に入らなかった。大事そうに持っているのが。そんなものを抱きしめたって意味がないのに。だったらもっと助けに来た自分に抱きつけばいい。それを思った瞬間と、次の雷が落ちるのが同時だった。
「ひゃ!」
劈くような音。それは今までで1番大きくて派手な雷鳴だった。そして、同じように稲妻が跡部の心の中にも落ちたような感覚になる。ほんの僅かに自分が抱いた感情に気付いて笑いたくなった。ただの眼鏡ケースにそんなことを思うなんて。自分の心の狭さを笑い飛ばしたくなる。
ベランダから落ちた琴璃を連れ帰った時、手塚も不二も揃って“うちの”琴璃と言っていた。そのことを不意に思い出す。琴璃が暗いところが苦手なことも知らないで言えたことか。そんなふうに思ってしまう自分がいた。
「俺様も大概だな」
言葉にしながら鼻で笑った。本当に、らしくない。
「お前、雷も駄目なのか?」
「得意では、ありません……」
「ちょっと待ってろ」
カーテンを閉めてやろうかと思って立ち上がろうとしたのに。
「や、だめ」
思い切り腕を引っ張られた。
「すいません、もうちょっと、よろしければ、ここで待ってていただいて……」
琴璃が必死になって跡部の腕を掴む。この世の終わりかというような必死ぶり。その様子を見て跡部は声にならない笑いを漏らす。
「そういう時は、私から離れないで、って言うんだよ」
可愛い言い方ができない。でも、可愛い女だなと思った。
最初は可愛くない女だと、全く正反対のことを思っていたのに。でもそれはお互い様で。あんなに嫌いに近い態度をとってた琴璃も、もう今は跡部に抱く感情は全く正反対のものになっている。
雨がまた強くなった。跡部は両手で抱きしめてやる。それに応えるように琴璃が必死に腕を回す。こんな熱い抱擁をしているのに本人は自覚していない。それがおかしくて跡部は密かに笑った。今は緊急事態だから琴璃にとって不可抗力みたいなものだから。でもこれがもし、助けに来たのが手塚や真田だったら同じように琴璃は相手を抱きしめるのだろうか。暗闇ですることがないからくだらない仮定の話を想像する。柄にもない、と自分でも思う。あんまり面白くないものだ。自分で想像しておいて変な気分にさせられるだけのものだった。
外ではもう何度目かの雷が落ちた。そのたびに琴璃の体が小さく震える。それなりに我慢しているんだろうがやっぱり怖いらしい。それでもさっきよりは落ち着いてきた気がする。
「お前から甘い匂いがする」
それはほんのりと。雨の匂いに紛れて漂ってきた。さっきから、ずっと。
「え?あ……飴舐めてるからかな?」
琴璃が腕の中で身じろぎする。
「日中、山吹の子と出掛けてきたんですけど、可愛い雑貨のお店を見つけたんです。そこに宝石みたいなお菓子がいっぱい売ってたんですよ」
そう言って、琴璃は斜めがけにしている自分の鞄の中に手を入れた。心なしか声が少し弾む。目が見えないので手の感覚で何かを探している。取り出したのは掌に乗るサイズの瓶だった。
「これです。ね、綺麗でしょ」
「バァカ。こんな暗い中じゃ分からねぇよ」
「あ、そっか。……うーん、じゃあ後で見てみてください。すごい綺麗なんですよ。青くて、でも透明で。跡部さんの瞳みたい」
口元が少し笑っている。怖いくせに。でもその時のことを思い出して嬉しそうにしている。跡部はそんなこと言われると思ってもなかったから、琴璃の顔をじっと見つめた。もう目が暗闇に慣れたからなんとなく分かる。彼女はこっちを向いて目を閉じて、微笑んでいる。キスでもしてほしいのか、と思ってしまう。
「跡部さんも、舐めます?」
琴璃の口の中でカラコロと音がしている。その様子がこの薄暗い中ではとても扇情的に映る。
「そうだな。頂くとしよう」
それを聞いて琴璃は瓶を開けようとしたのに。何故かその手を掴まれる。瓶は落としさえしなかったが、手の中からするりと抜けた。跡部がそれをキャッチする。琴璃にはそれが見えてないから分からないけど、跡部が自分で開けるのかと思った。だからじっとしていた。でも次の瞬間、唇を塞がれた。温かくて柔らかい何かに。何かと思った直後にもっと柔らかいものが口内に割り入ってくる。飴が口から零れそうになる。でも跡部の舌が絡んで放さない。執拗に深い口づけが続く。琴璃は何も抗えない。好き勝手にさせられているのに苦しくはなかった。むしろ気持ちがいいと、感じてしまう。もう、されるがままだった。最後に口内で飴がからん、と鳴って唇が開放された。
琴璃は何が何だか分からなくて思わず目を開けた。タイミングよく電気も復旧した。眩しくてよく見えない。しばらくたって目が慣れた頃、すぐ目の前にニヤリと笑っている跡部が居る。綺麗な青い瞳が、すぐそこに。
「まぁまぁだな」
そう言った跡部の口の中で何かがからん、と音を鳴らした。
「へ……」
「見つけたぞ跡部!貴様勝手、に……」
真田が部屋に飛び込んできた。跡部を追ってきたらしい。さっきまで暗かったのに。明かりがついて1分も経たぬうちに何故かここに居る。
「なんだアイツは、野生動物か」
そんな真田は凄んで登場したものの一瞬にして硬直した。
跡部しか居ないのかと思っていたらその彼が琴璃と抱き合っているのだから。わなわなと唇を震わせ見る見る顔が赤くなる。そして琴璃も自分がどういう状態かようやく理解した。もの凄い勢いで跡部の腕から逃れると立ち上がる。衝撃からかもう腰は治っていた。
「し、しつれいします!」
あっという間にこの部屋から出ていってしまった。
助けにきてやったのに置き去りにしていくとはどういう女だ。ただ1人、平常心でそんなことを思う。にしてもこの男も、ベストなタイミングで登場したもんだ。そう思いながら真っ赤で立ち尽くす真田を見る。
「ったく、テメェは本当に空気が読めねぇやつだな」
「お、お前、今し方まで何を……!」
「何勝手に赤くなってんだよ、ムッツリ野郎」
紅潮する真田に何かを投げた。突然の行為だったが瞬時に真田は反応してキャッチする。
「何だこれは」
「手塚のもんだとよ。返しといてくれ」
そう言って跡部は部屋を後にした。取り乱したままの真田ひとりだけが残された。
跡部景吾という男は常に忙しい人間だから一日中何もしないでいるなんて無理だ。でも今は合宿中なので家のことや学校の業務からは開放されている。だからそれなりに時間ができた。結局、煩い千石の相手もしてやったし、何処ぞの命知らずからの挑戦も受けて打ちのめしてやった。その後忍足に捕まって、夏休みの課題が終わらんとか泣き付かれたが無視をした。跡部はこの合宿に入る前にとっくに終わらせているから関係ないのだ。
「へーっ、跡部は課題全部終わらせてきたんだ」
わざとらしくも聞こえる、幸村の珍しそうな口調。というかコイツは地獄耳かと思った。
「俺様があんなふうに追い込まれて喪失するように見えるか?」
忍足を見ながら吐き捨てるように言う。
「ううん、そんなのキングのキミに似合わないもん」
「分かってりゃいい」
会議室の、1番前の席に座っていたら知らないうちに幸村が後ろに座っていた。明日のスケジュール説明のために選手たちは招集されたわけだがまだそんなに人は居ない。明日の練習は午前中だけ。午後に簡単な閉会式だとか、良く分からない関係者からの有り難いお言葉を控えるだけなのに。めんどくせぇな、と思いつつこの会議室にやってきていた。忍足はここにも夏休みの課題プリントを持ち込んで必死にやっている。それを幸村は、がんばれー、とか言いながら眺めていた。手伝う気はないらしい。
開始までまだ10分以上あったので選手の半分ほどしか集っていなかった。まだ陽は沈んでないものの急に広がってきた雨雲のせいで外は暗かった。そのうち降ってくるだろうと思いながら窓の向こうを眺めていたら案の定窓ガラスに水滴が落ちてきた。夏らしい、局地的な大雨。雷までもが鳴っている。窓に叩きつける雨と防風でガタガタと音が鳴る。稲光も頻度が増えてきた。結構激しい荒れ模様だ。
忍足が、もうアカン、とかボヤいた、直後だった。突然部屋が暗くなる。
「停電か」
誰かが言った。恐らく近くで落雷があったのだ。電気が切れても人が居るから静かにはならなかった。むしろ少し騒がしい。皆がなんだどうしたと騒いでいる。誰かが無謀にも様子を見てくると言って動いたが、暗くて見えないせいで豪快に転んでいた。エアコンも切れて次第に蒸し暑さを感じ始める。不快指数が次第に上がってゆく。外はたった数分前よりもずっと暗く、黒い空になっている。そこへ、小さな明かりが現れた。真田がアウトドア用のペンライトを持っていた。
「へぇ。真田、ずいぶん準備いいね」
「外泊先では何が起こるか分からんからな」
親父みたいなことを言って、室内に非常照明などが無いか見回しに行った。他の者たちはすることがないので大人しくその場で待つ。跡部ももともと座ってた場所から全く動かず、ただ灯りが復旧するのを待つことにした。
「藤白は大丈夫だろうか」
意外な名前が手塚の口から出た。青学2人は跡部らの斜め後ろに座っていた。
「何、手塚、琴璃がどうかしたの?」
「ここに向かう前にこの下の多目的室にいたんだが、眼鏡ケースを忘れてきたのを思い出してな。取りに戻ろうとしたらちょうど藤白とすれ違って、自分が行くから先に会議室に行ってくれと言われたんだが」
じゃあ琴璃は今、1人きり。この暗闇の中で。
これがどういうことなのか。理解するのは跡部だけだった。
「ぬ、おい跡部!何をする」
「借りるぜ」
借りる、というよりか半ば強引に真田からライトを奪って跡部はこの部屋から出ていく。廊下も恐ろしく暗い世界だった。非常灯はどうなってやがる、と疑いたくなるほど何も見えなかった。1階に降りると奥の方から物音と数人の話声が聞こえた。どうやら復旧作業をしているらしい。だがそっちとは反対方向の、突き当りの部屋を目指す。
「琴璃」
ドアを開けて呼んでみても返事はなかった。跡部は室内を照らす。
「琴璃、おい。居るんなら返事しろ」
「へ……あ、とべさん」
暗闇の中で何かが動いた。光を向けるとテーブルの下で何かがもぞもぞ動いた。
「大丈夫か」
「……あんまり」
「だろうな」
琴璃はテーブルの脚にしがみついていた。この前と同じように目を固く瞑って。地震じゃないのに何故そんな所にいるのか。テーブルの下に身を寄せているのを見て跡部は訝しがる。多分、気が動転してよく分からない行動に出たのだろう。
と、その時持っていたライトが消えた。琴璃は何も反応しなかった。もともと見えていないのだから驚くこともない。こんな時に電池切れなんて起こしやがって。跡部は小さく舌打ちをする。ちゃんと点検しておけ、という思いを込めて。でもそんな小さい音でも琴璃は聞こえていた。目を閉じた分、聴覚がいつもよりも研ぎ澄まされている。
「あ、跡部さん、どこ」
「こっちだ。手を伸ばせ」
だいぶ暗闇に目が慣れてきた。おかげで頼りなく伸ばされた琴璃の腕を掴むことができた。琴璃は一瞬びっくりして小さな悲鳴を漏らす。引き上げて椅子に座らせようとした、が、
「どうした」
「や、なんか、腰が抜けちゃって」
「立ち上がれないのか」
「すみません……」
仕方なく跡部もその場に腰を下ろす。ちょうど側に壁がある場所。もたれ掛かって琴璃を腕の中に引っ張り込んだ。
後ろ抱きにして床に座り、壁に寄りかかる。相変わらず華奢なので簡単に引き込めた。
「あの、すみません」
「何が」
「一度ならず二度までも……」
相当気にしているらしい。最後のほうは声が小さくて雨音にかき消された。そんなこといちいち気にするな、という思いを込めて琴璃の頭に手を置く。
「お前は、こういう時にはすぐ素直になれるんだな」
明るい時では、跡部の言葉に違うだのそんなことないだのと否定してくるくせに。今はまるで借りてきた猫のように身体を縮めてじっとしている。ぴったりと跡部に身を預けて、左手は跡部のシャツを掴んでいた。その行動に跡部は不思議な満足感を覚える。反対の手はどうした、と思った。よく見ると琴璃は何かを持っている。薄暗くてよく見えないので取り上げてみた。それは眼鏡ケースだった。
「あ」
「今、お前を守ってやれるのはコイツじゃねぇな」
適当に、投げるようにテーブルの上に置いた。
なんとなく気に入らなかった。大事そうに持っているのが。そんなものを抱きしめたって意味がないのに。だったらもっと助けに来た自分に抱きつけばいい。それを思った瞬間と、次の雷が落ちるのが同時だった。
「ひゃ!」
劈くような音。それは今までで1番大きくて派手な雷鳴だった。そして、同じように稲妻が跡部の心の中にも落ちたような感覚になる。ほんの僅かに自分が抱いた感情に気付いて笑いたくなった。ただの眼鏡ケースにそんなことを思うなんて。自分の心の狭さを笑い飛ばしたくなる。
ベランダから落ちた琴璃を連れ帰った時、手塚も不二も揃って“うちの”琴璃と言っていた。そのことを不意に思い出す。琴璃が暗いところが苦手なことも知らないで言えたことか。そんなふうに思ってしまう自分がいた。
「俺様も大概だな」
言葉にしながら鼻で笑った。本当に、らしくない。
「お前、雷も駄目なのか?」
「得意では、ありません……」
「ちょっと待ってろ」
カーテンを閉めてやろうかと思って立ち上がろうとしたのに。
「や、だめ」
思い切り腕を引っ張られた。
「すいません、もうちょっと、よろしければ、ここで待ってていただいて……」
琴璃が必死になって跡部の腕を掴む。この世の終わりかというような必死ぶり。その様子を見て跡部は声にならない笑いを漏らす。
「そういう時は、私から離れないで、って言うんだよ」
可愛い言い方ができない。でも、可愛い女だなと思った。
最初は可愛くない女だと、全く正反対のことを思っていたのに。でもそれはお互い様で。あんなに嫌いに近い態度をとってた琴璃も、もう今は跡部に抱く感情は全く正反対のものになっている。
雨がまた強くなった。跡部は両手で抱きしめてやる。それに応えるように琴璃が必死に腕を回す。こんな熱い抱擁をしているのに本人は自覚していない。それがおかしくて跡部は密かに笑った。今は緊急事態だから琴璃にとって不可抗力みたいなものだから。でもこれがもし、助けに来たのが手塚や真田だったら同じように琴璃は相手を抱きしめるのだろうか。暗闇ですることがないからくだらない仮定の話を想像する。柄にもない、と自分でも思う。あんまり面白くないものだ。自分で想像しておいて変な気分にさせられるだけのものだった。
外ではもう何度目かの雷が落ちた。そのたびに琴璃の体が小さく震える。それなりに我慢しているんだろうがやっぱり怖いらしい。それでもさっきよりは落ち着いてきた気がする。
「お前から甘い匂いがする」
それはほんのりと。雨の匂いに紛れて漂ってきた。さっきから、ずっと。
「え?あ……飴舐めてるからかな?」
琴璃が腕の中で身じろぎする。
「日中、山吹の子と出掛けてきたんですけど、可愛い雑貨のお店を見つけたんです。そこに宝石みたいなお菓子がいっぱい売ってたんですよ」
そう言って、琴璃は斜めがけにしている自分の鞄の中に手を入れた。心なしか声が少し弾む。目が見えないので手の感覚で何かを探している。取り出したのは掌に乗るサイズの瓶だった。
「これです。ね、綺麗でしょ」
「バァカ。こんな暗い中じゃ分からねぇよ」
「あ、そっか。……うーん、じゃあ後で見てみてください。すごい綺麗なんですよ。青くて、でも透明で。跡部さんの瞳みたい」
口元が少し笑っている。怖いくせに。でもその時のことを思い出して嬉しそうにしている。跡部はそんなこと言われると思ってもなかったから、琴璃の顔をじっと見つめた。もう目が暗闇に慣れたからなんとなく分かる。彼女はこっちを向いて目を閉じて、微笑んでいる。キスでもしてほしいのか、と思ってしまう。
「跡部さんも、舐めます?」
琴璃の口の中でカラコロと音がしている。その様子がこの薄暗い中ではとても扇情的に映る。
「そうだな。頂くとしよう」
それを聞いて琴璃は瓶を開けようとしたのに。何故かその手を掴まれる。瓶は落としさえしなかったが、手の中からするりと抜けた。跡部がそれをキャッチする。琴璃にはそれが見えてないから分からないけど、跡部が自分で開けるのかと思った。だからじっとしていた。でも次の瞬間、唇を塞がれた。温かくて柔らかい何かに。何かと思った直後にもっと柔らかいものが口内に割り入ってくる。飴が口から零れそうになる。でも跡部の舌が絡んで放さない。執拗に深い口づけが続く。琴璃は何も抗えない。好き勝手にさせられているのに苦しくはなかった。むしろ気持ちがいいと、感じてしまう。もう、されるがままだった。最後に口内で飴がからん、と鳴って唇が開放された。
琴璃は何が何だか分からなくて思わず目を開けた。タイミングよく電気も復旧した。眩しくてよく見えない。しばらくたって目が慣れた頃、すぐ目の前にニヤリと笑っている跡部が居る。綺麗な青い瞳が、すぐそこに。
「まぁまぁだな」
そう言った跡部の口の中で何かがからん、と音を鳴らした。
「へ……」
「見つけたぞ跡部!貴様勝手、に……」
真田が部屋に飛び込んできた。跡部を追ってきたらしい。さっきまで暗かったのに。明かりがついて1分も経たぬうちに何故かここに居る。
「なんだアイツは、野生動物か」
そんな真田は凄んで登場したものの一瞬にして硬直した。
跡部しか居ないのかと思っていたらその彼が琴璃と抱き合っているのだから。わなわなと唇を震わせ見る見る顔が赤くなる。そして琴璃も自分がどういう状態かようやく理解した。もの凄い勢いで跡部の腕から逃れると立ち上がる。衝撃からかもう腰は治っていた。
「し、しつれいします!」
あっという間にこの部屋から出ていってしまった。
助けにきてやったのに置き去りにしていくとはどういう女だ。ただ1人、平常心でそんなことを思う。にしてもこの男も、ベストなタイミングで登場したもんだ。そう思いながら真っ赤で立ち尽くす真田を見る。
「ったく、テメェは本当に空気が読めねぇやつだな」
「お、お前、今し方まで何を……!」
「何勝手に赤くなってんだよ、ムッツリ野郎」
紅潮する真田に何かを投げた。突然の行為だったが瞬時に真田は反応してキャッチする。
「何だこれは」
「手塚のもんだとよ。返しといてくれ」
そう言って跡部は部屋を後にした。取り乱したままの真田ひとりだけが残された。