19話:事後報告

 特に用も無かったのに長居しすぎてしまったという後悔の念が、おれの足を自然と速くさせる。この時、夕陽によって延びていく影が厭らしい程に黒く見えていたのは、恐らく気のせいだ。
 ひとりで帰るのは別に珍しいことじゃ無いはずなのに、この落ち着きの無さと言ったらない。妙な胸騒ぎがおれの五感を奪っていく感覚がどうにも消えないまま、今日がもう数十時間が経過している。気を抜いてしまえば、このまま何もせずに数日の時が過ぎてしまうんじゃないかとさえ思う。そうなってしまったらもう終わりだろう。
 そんな心持ちに拍車をかける出来事が、この後起こるということを知っていたとするなら、また違ったのかも知れないが。

 違和感を覚えたのは、家にたどり着く凡そ五分前のこと。鞄から僅かに生温い感覚が上着を伝ってきたのだ。それが自分の体温から来るものではないというのがすぐに分かった理由は、ただひとつ。
 鞄のファスナーの隙間から、光の粒が漏れ出していたからである。
 一体どういう了見なのか、どうしてこうもおれの意思に関係なくことが発生するのだろう? いっそ、何も知らないふりをして無視してこのまま家に帰ってやりたいところだ。
 ……それが本当に出来るような性格だったら、もう少し生きやすい人生を過ごせていたのかも知れない。

「何処からだ……?」

 こんなことを気にする気力なんて既にある訳がないというのに、どうもおれの身体は動きたがりのようだ。無意識に辺りを見回してみるも、見覚えのあるただの道が広がっているだけで特別変化は見当たらない。
 実はこの現象は、一度起きたことがある。しかも最近だ。
 総計に決断を下そうとした自分の心を一旦落ち着かせ、思考を巡らせる。

「栞持ってるの、中条さんとあともう一人居たよな……?」

 思い返しているのは、『おれが手にした栞を持っている人物』だ。中条さんはともかくとして、栞を手にしている人物はもう一人存在する。この状況で中条さん以外の人物が浮かぶという理由はただひとつ。

『拓真さあ』
『……なに』
『ここ最近図書館行った?』

 とある会話を某人と交わした僅か二日後だったからということだ。
 こういう時の嫌な予感というものはよく当たるというもので、気付けはおれは地面を強く踏みしめていた。それとほぼ同時に携帯を取り出し拓真との連絡を試みたが、どうやら望みは薄いらしい。
 一体どこに向かえばいいのかということは、考えなくても既に答えは出ている。ここからどう行けばより早くそこまでたどり着けるのかは知らないが、とにかく走るしか他無かった。
 図書館に向かうのは一体何年振りか。そもそも入ったことがあっただろうか? それくらい曖昧で不確定な知識しかないが、こうなったらもう迷わないことを願わざるを得ない。確かこの先、左に曲がって真っ直ぐ進むと、図書館のすぐそばにあるひとりの女子生徒が亡くなった道路があるはずだ。これは夏休みが来る前の話だが、おれはよく覚えている。最もおれは、その女子高生というのに会ったことは無いが。
 ようやくその道路が間近に迫った時のことだ。おれは見逃さなかった。『その女子高生が亡くなったとされる道路を、黒い何かが横切った』ということを。
 それをみた瞬間一層心臓の動きが早くなったのを感じたが、それがどうしてなのかはよく分からない。嫌な状況が頭を過ったせいもあっただろうが、それすらもよく分からなかったし、そんなことを考える暇なんていうものは無かった。
 出来れば、全部おれの気のせいで考えすぎであればどんなに良かったかと今でも思うが、現実はそうもいかない。時間軸が巻き戻るというのはあり得ないのだ。
 ……道路に見える、赤黒く落ちた色。何かに引きずられたかのように掠れているそれ。一体いつから走るのを止めていたのか、肩で呼吸をしながらゆっくり、ゆっくりと歩を進めていった。どうしてここまで息がし辛いのかも、もうよく分からない。生唾を呑み込むだけで精一杯だ。

 目の前に転がっていた、神崎 拓真という人物を見るまでは。

「拓真……」

 ようやく出てきた言葉は、たったそれだけだった。

 いっそ来なければ良かったかも知れないというのが、正直なところだ。
 だが、おれが第一発見者で良かったとも思っている。
 拓真をひとりにしなければよかっただけの話なのに、それが出来なかった。
 せめてもっと早く来ることは出来なかったのかと、自分を責めた。
 しかし、おれが居たからといってこの状況は回避できたのかも分からない。断言が出来ない。

 信号が点滅する。赤から青に変わる歩行者用の信号機は、無機質なただの傍観者に過ぎない。その傍観者とおれとの間。つまり横断歩道ということになるが、ゆっくりと、何かが揺らめているのを感じた。感じたというより、視えていたという方がより正確だろう。
 目の前に形を作っていく何かが一体なんなのか、捉えるのに時間を要してしまっていた。少しずつ視えてくる、何かの形。人……学生服を着た女性だろうか?
 既に残暑も過ぎているというのに、頬に汗が伝う。もしその正体が、おれの思い浮かんだ名前の人物だとするなら……いや、そんなことがあり得るのか? それは余りにも軽率な考え過ぎて、言葉を出すのにどうしても迷いが生じてしまう。
 しかしこの状況だと、その考え以外に辿り着く道が存在しない。

「雅間、さん……?」

 目の前にいる当人であろう名前を口にするのに、どうしても時間が必要だった。
 これは、一番考えてはいけないであろう最悪の事態。あくまでも推測で、ひとつの考えとして提示したモノとしての認識だ。

 七月に交通事故で無くなった雅間 梨絵という人物が、神崎 拓真を殺そうとした?

 ――信号が、朱く点滅している。
 一体いつの間に居なくなったのか、ずっと認識していたはずの目の前にいた何かは、おれの視界には映っていない。
 遠くから救急の音が聞こえてきているような、そんな気がした。
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