25話:ヒミツの攻防戦

 一度目の定期考査が終わって数日後の今日、僕は非常に落ち着きが無かった。何故なら、放課後に一人で図書室に来るという奇行を起こしてしまったからだ。一階の下駄箱の近くまで進み、あともう少しのところで図書室だというのに、どうにも辿り着くのに時間が必要だった。近くに来ておいて辺りを行ったり来たりとぐずぐずしていたのだ。
 もういっそこのまま帰ってしまおうかとも何度も思ったのだけれど、それでは授業が終わって真っ先に来た意味がなくなってしまう。意を決してようやく図書室の扉に手をかけたのは、一階に来ておおよそ五分以上が経ってからのことだった。一体何のために早く来たのかもう訳が分からない。
 恐る恐る扉を開け、中を覗き込むようにして見渡していく。確かふたりくらいが入っていったような気がするけど、その人たちは特別僕とは無関係の人たちだった。

(……やっぱり帰ろうかな)

 目的の人物がいないということに圧され、早くも心が折れそうになった時のことだ。

「入らないの?」
「わわっ……!」

 聞き覚えのある人物の声が後ろから聞こえてきたお陰で、思わず間抜けな声が出てしまった。犯人は宇栄原さんである。後ろから、少し遅れて神崎さんもやってきたのが見えた。

「ごめんごめん。相谷君がひとりで来るなんて珍しいなと思って」

 宇栄原さんは、少し申し訳なさそうに眉を下げながらも、呆気にとられている僕を図書室へと促していく。もしかして僕の知らないところでずっと見ていたのかも知れないと思うと、自然と顔に熱が溜まっていくのがよく分かったが、そんなことはお構いなしだった。
 適当な席を取る宇栄原さんに続いて、神崎さんが向かいの椅子に座った。僕はといえば、相変わらず挙動に落ち着きがなかった。一先ず宇栄原さんの隣の席に荷物を置く。もし橋下さんが来るのならいつもは神崎さんの隣のはずだから、そうなるのはある意味では当然だった。

(せ、折角来たんだし……言わないと意味ないか……)

 いっそ逃げ出したい気持ちをなんとか抑え、僕は口を開いた。

「う、宇栄原さん……」

 僕が口を開くことになった原因は、宇栄原さんだ。当の本人は、ただの世間話であるかのように僕の方を向いた。そして、あろうことか神崎さんまでも僕の方へと顔を向けた。僕から話しかけるなんてことは今の今まで無かったわけだから、おおかた珍しかったのだろう。
 その……と一度躊躇したものの、ここまで来たらもうどうにでもなれという気持ちが上回る。最早やけくそだった。

「僕が勉強教えて下さいって言ったら、どうします?」

 突然の意に、当然宇栄原さんは面を食らっているようだった。

「……ええっと、そう来るか。なるほど……」

 困惑と同時に必死に僕の言葉を呑み込んでいく宇栄原さんの、次に続く言葉を僕はただただ待ち続けていた。自分で言っておいてなんだけれど、とてもじゃないがこのままダッシュで図書室を去ってしまいたいくらいに、僕の心臓は落ち着きが無かった。

「でも相谷君って、特別成績が悪いわけじゃないよね?」

 一度話を整理をしたいと顔に書いてある通り、宇栄原さんはまずひとつの疑問を提示した。この時点で、宇栄原さんが僕の成績について既に何か情報を手に入れているということは、あのデカデカと貼り出されていたテスト順位の紙を見たのだろう。
 どうして僕が宇栄原さんにこんなことを頼まないといけないのかということに関しては、かなり悩んだ。それはもう、悩み過ぎて連日寝不足になるくらいにである。

「これ以上落ちると困るので……色々と……。あ、いや別に本当にやってほしいわけじゃないですけど……」
「んー……」

 宇栄原さんは、難色を示しているというよりは急にこんなことを言い出す僕の意図を探しているようだった。
 聞いてみた理由は当然ある。一応特待生という扱いでこの学校に入っている手前、これ以上成績を落とすわけにはいかないのだ。宇栄原さんの言う通り、世間一般的に見たら僕の成績は特別悪いわけではないだろう。現に、あの張り紙に名前が載っているくらいの成績なのだから、寧ろいい成績であると言っても差し支えはないのかもしれない。しかしそれでも、このままでは落としかねないという危惧があった。特待生ギリギリの成績というわけではないものの、もう少し順位は上げておかなければ、この先が不安で仕方がなかったのである。
 そうは言っても、別に同じ学校に通っている人物などではなく、例えば塾という選択肢もあるだろうし、自分でどうにかする方法だってあるはずだ。でも僕は、お金がかかるようなことを伯父さんに提案なんてことはしたくない。それと、自分でやってこの順位である以上、ここから先成績が上がる可能性はそう高くはないのである。それなら、自分より成績のいい人物に聞いてみたほうが話が早いのだ。
 ここまで来るとただの僕のエゴでしかないのだけれど、やはり金銭に関わる負担をこれ以上お世話になっている二人にかけるわけにはいかない。自分で何とかするのは勿論だけど、誰かに教示を乞うくらいのことは別に構わなかった。最も、そこに至るまでにはどうにも胆力が必要だったけど、それはまぁ、想像の範囲内である。
 僕の相手をすることで宇栄原さんの負担が増えるのならまるで意味がないのだけれど、それならそれですぐに断ってくれるだろう。宇栄原さんはそういう人だと思って、僕はこの人に聞いているのだ。
 宇栄原さんは、相変わらず思案することを止めはしない。一体何がそんなに引っかかっているのか、この時点で僕はまだよく分かっていなかった。

「そこにおれより成績のいい人がいるのに、どうしておれに聞くの?」

 宇栄原さんが更に提示したのは、学年二位の人物がすぐそこに居るにも拘らず、どうしてそれを自分に頼むのかということだった。
 特に何をするでもなく、頬杖をついたまま僕らの話をただただ聞いていた神埼さんと目が合ってしまう。思わず表情筋が強張ってしまったのを必死に振るい取るように、僕は質問に答えた。

「誰が教え上手かどうかの区別くらいはつきます……」
「だってさ」
「あ、そう……」

 宇栄原さんに急に話をふられた神崎さんは、それだけ言うとすぐに目を逸らした。その様子は、さながら少し不貞腐れたようにも見えた。しかしこう言うのもなんだけれど、無口が無口に勉強を教えてもらうというのはお互い中々に難易度が高く、争いこそ起きないだろうが、生産性は余り高くなさそうだったのだ。無論、反射的な僕の感情が少し上乗せされてはいるが。

「……それともう一つだけ。学年を飛び越えてわざわざおれを選ぶっていうのには、何か他に意味があったりする?」

 その言葉に、僕は心なしかどきりとした。つまり宇栄原さんは橋下さんのことを言っているのだろう。あの人も順位がかなり上で、比べるのもなんだけれど、宇栄原さんより順位が上なのである。

「な、ないです。なにも……」

 全くないといったら、正直なところ嘘かも知れない。でも、その嘘に値する気持ちが今一つ見当たらなかった。……橋下さんがどう、ということは毛頭ないのだが。
 ふうん……と、宇栄原さんが口にしたのはから返事に近かった。

「人に教えたことないから余り自信ないけど、おれでいいならいいよ」

 宇栄原さんは思いのほかあっさりと引き下がり、それ以上踏み込んだ質問をすることはなく僕に肯定の意を示した。少しだけ肩の荷が下りたような心持ちになったのは、どうやら僕の気のせいではないようだ。
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