21話:ヒミツは歪む

「……俺の部屋遠くないか?」
「それの文句は掃除士さんに言って欲しいですねぇ」

 予定外で来るから行けないんですよー? 続けてそう言われた神崎さんは不服そうだったけど、それをこれ以上訴えるなどということはしなかった。

「そういえば、相谷さんって橋下さんの部屋の色知ってるんですか?」
「えっと、にせ……に……なんだっけ……」
「似紅色ですね。悪くはないんですけど、ちょっとねぇ」
「似紅……」

 聞きなれない言葉が、神崎さんの口から走る。赤だというのは何となく分かるけど、悪くはないけどちょっと、と言われてしまうと少々躊躇してしまう。橋下さんは似紅色というのが不服だったようだけれど、同じような理由なのだろうか?

「橋下さん、その色嫌がってましたけど……」
「まあ、それはそうでしょうね」
「……どうしてですか?」

 案内人さんの「そう思うのは当然」とでも言いたげな様に、僕は僅かな疑問を持った。質問を提示した僕のことを横目で確認したかと思うと、案内人さんは口角をあげた。

「相谷さんは、自分の部屋の色を見た時どう思いました?」

 ここで急に僕の話になるとは思っていなかったせいで、すぐにまともな言葉が出てこずに考える時間が必要になってしまった。僕はあの部屋に入った時、どう思ったのだったのだったか……。思いつくのは、想像していたよりも比較的簡単だった。

「特別嫌いじゃなかったですけど……」
「そうですか。なら良かった」

 その質問に深い意味はなかったのか、結構あっさりとことは終わってしまう。はぐらかされてしまったような気がしなくもないが、僕の考えすぎだったかも知れない。

「相谷さんみたいな感想を全員が思ってくれれば、一番いいんですけど。ねぇ神崎さん」
「俺に振らないでくれ……」

 そういえば、神崎さんの部屋の色は相思鼠らしかったけど、最初はあの色ではなかったのだろうか? 無理やりついていってしまったも同じだけれど、それにしてはあっさりと見させてくれたような気がしたのである。聞いても答えてくれる気は余りしないけど、それでも気になってしまうのは教えてくれないからこそなのかも知れない。

「相谷さんちょっと、行き過ぎです」

 案内人さんに腕を鷲掴みにされてはじめて気づく。橋下さんの部屋である126号室、いつの間にかそれを優に通り過ぎてしまっていたのだ。
 橋下さんの部屋を目的としていたのに、部屋番号を目の前にした途端、どういうわけか思わず息を呑んでしまう。本当に橋下さんは部屋には居ないのだろうか? そんな疑問は勿論あった。
 しかし、その思いとは裏腹な感情は確かに存在している。

「橋下さん? 開けますよ?」

 あの人ともう一度会うには、少し胆力が必要であるような、そんな気がした。

「……やっぱり居ませんねぇ」

 一足先に部屋の中を確認した案内人さんの口からは、そんな言葉が漏れていた。僕らに見えないようにしているのかどうなのか、顔だけ覗き入れているお陰で、部屋の色はまだ確認が出来ない。

「部屋見ます?」
「か、勝手に見るのはちょっと……」
「ああ、許可は取ってるのでその辺りは大丈夫ですよ」

 そういうお約束ですから。続けて、案内人さんはそう口にした。そう言われても、お約束というのが尚更よく分からなかった。本当にそうだとしても、本人が居ないというのに勝手に覗き見るというのは憚れるというものだ。果たしてどうするのが正解なのか、僕は思わず神崎さんの顔を覗いてしまう。僕の視線に気付いたのか、神崎さんはようやく思考を巡らせたらしく、何もない空間を見つめた。

「……許可取ってるってのが本当なら、別にいいんじゃないか?」
「私のこと信用してないって言ってるように聞こえるんですけど。バレて面倒になるような嘘はつきませんよ」

 どうしますか? 案内人さんは、再び僕に訪ねてきた。どうやら、今度こそ僕の意見を言わなければならないらしい。

「似紅色っていうのは、少し興味があります……」

 もう少し人数が多ければ、例えば仮に意見を聞かれたとしても、言わなくて済む確率が上がるのに。そう思わざるを得なかった。それくらい、僕は意見を口にすることを躊躇った。

「じゃあ、開けますね」

 この少し冷めた心情というのは、ここに来た時の記憶が混合していた僕そのままであるなら、恐らくは抱かなかっただろう。
 それはつまり、僕が気付くよりも前に既に僕は僕を取り戻しつつあったということだったのかもしれない。最も、そんなことは憶測に過ぎないが。

「凄いな……」

 視界に入ったのは、この空間では見ることが無かった色だ。あの神崎さんが声を漏らすほどに、嫌らしく辺りに蔓延していた。彼が言っていたとおり、そこは赤一面に溢れていた。
 少し薄暗く、でも何処か見覚えがあるその色。それは、あの時の夕の空によく似ていた。

 ……あの時の、というのは一体いつの話だろう? 何か黒く淀んだ存在が、頭の中を乱舞する。僕は思わず眉を歪めた。
 ここに来る少し前、僕は一体何をしてたんだっただろうか? 思い出すにはどうにも胆力が必要で、今のところ何か残像のようなモノが頭に過る程度が精一杯だ。
 しかしそれはあくまでも、ここに来る直前に僕の身に何が起きたのかという部分だけに限る。どうして僕は、記憶を置いてここに来たのか? その答えは驚くほどに容易に検討がついた。
 僕は恐らく、思い出す必要性がないものを全ておいていきたかった。だから記憶があろうが無かろうが、別にどうだってよかったのだ。

「……神崎さん」

 気付けば僕は、隣にいる某人の名前を口にしていた。実に耳障りがよかったにも関わらず、出来ればもう口にはしたくないと思ってしまう。それくらい今の状況はおかしいのだという事実をしっかりと、認識してしまった時。

「僕って、どうしてここに来たんだと思います?」

 到底答えなんて返ってくるはずのない人物に、そんな問いを投げかけてしまっていたのである。
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