01話:ホワイト

 目の前に広がる、何色にも染まることをしない白という存在に包まれた空間が、どうしてか知らない間に僕の周りを取り巻いていたらしい。
 辺り一面が白で埋め尽くされた世界で、僕は何をするでもなくその場に立ち尽くしている。今、一体どういう状況に自分が置かれているのか、それを自分の中で解決するには、余りにも情報が少な過ぎる景色だった。

「……ここ、どこだろう」

 今までいたであろ世界とは明らかに違うと分かるその場所に、当然ながら疑問を展開した。どうして僕は、こんな何もないところにいるのだろう。どう見ても非現実的なこの状況は、実は夢だったりするのだろうか? 静寂に呑まれたこの空間の中、僕しかいないはずなのに、何かが蠢いている気がするのは恐らくは気のせいだと思いたい。僅かながらに取り戻した思考のせいで、余り考えたくないことまで考えてしまう。いるはずのない何か、認識してはいけないようなモノがすぐ側にいるような気がして、僕は思わず息を呑んだ。
 しかしそれは正しく、ここに長居してはいけないと本能的な部分からの警告のようで、思わず辺りを見回した。ここに居続けてしまったら、僕はもう戻れないんじゃないだろうか。この白一色の景色が視界に入る度に、そう思ってしまう。
 僕は、何かに駆られるようにして自然と足を動かした。遠くに見える地平線のようなものと、その地平線へと向かうようにして地面に書かれている、等間隔の細長い線のお陰で、地面の在処だけは分かるのが救いだった。知らない場所をひとりで歩くというのはかなりの不安要素ではあるけれど、少し歩けば何かあるかも知れない。今は目に見えないだけで、何かがあるかも知れない。そんな微かな期待は、僕を動かすのには十分だった。
 目的地があるわけでは当然無く、とりあえず自分が向いていた方へと歩き出す。タイルを踏みしめるような擦れた音が僅かに聞こえてくるのが、僕が動いているということの証ではあったけれど、それ以外は特に何もなかった。歩いても歩いても、見えるのは白。この、僕だけが色づいているというのがおかしいんじゃないかと思える程のこの空間に、普通なら自然と焦りと共に恐怖に似た何かを覚えるのかも知れない。
 不安というものは確かにある。でも、それとこれとは話が別で、僕は至って冷静だった。

「……何もないな」

 何もないただの白い空間。これがいつか、色を持つ僕を白く染め上げてしまうのではないか。そう思ってしまったばっかりか、僕の足は自然と止まっていた。

「……ここに来る前、何してたっけ」

 この言葉は、決して今置かれている状況に混乱しているから出たものではない。いざ考えようとすると、何にも出てこない。まるで僕のどこかに穴が開いてしまったかのように、僕の記憶がどこかに落ちてなくなってしまった。そんな感覚だった。
 この白という何にも染まっていない色が、まるで今の僕の空っぽな状態を表しているかのような気さえしてしまう。それくらい、今の僕には自分が何者なのかを示せる記憶というものが、何一つ残っていない。それは、自分の名前も例外ではなかった。
 視線が、思わず地面に落ちるた。恐らくは今までにないくらいの落胆だった。考える力があるのだから完全に記憶がないというわけではないのだろう。しかし、ここに来る前に何をしていたのかも分からないというのは、些か不気味と呼ぶにふさわしい。
 人間というのは単純なもので、そう思ってしまえば他のことなんて考えられなくなってしまう。何をするでもなくその場に立ち尽くしていると、何か、何処か遠くのほうから音が反響するのが分かった。それが人の足音だと分かるよりも早く、僕は既にその音の方向に視線を向けていた。少しずつ近づいてくるそれの正体が分かるのには、ほんの少しだけ時間が必要だった。
 それは思いのほか近く、その何かが目の前まで来るのにはそう時間はかからない。それまでの間、僕は近づいてくるそれをずっと見ていることしか出来ないでいた。残り数歩といったところだろうか。そこまで近づかれても尚、僕はなにか行動を起こすということをしなかった。
 目の前にまで来た優しく微笑むとある存在は、僕に向かってこう口にする。

『やあ、探したよ。見つかって良かった』

 黒いスーツに身を包み、ハットを被ったひとりの男の人。年齢は四十代くらいだろうか?

『迷っているのかな?』

 そう問われた僕は、特に不信感を抱くこともなく当たり前のように口を動かす。

「どこも真っ白だから、どうしたらいいか分からなくて……」
『そうなんだよねぇ……。殆どのニンゲンが、ここで途方に暮れるんだ。ワタシが見つけられなかったら消えてしまうというのに』

 本当に困ったよ。そう言いながらため息を溢す男の人だが、どうも言っている意味が理解しがたい。ここで途方に暮れる? 消えてしまう? 途方に暮れるというのは確かにそうだけれど、それなら僕以外の誰かもここに来たことがあるのだろうか? それに、消えてしまうというのが一番気がかりだった。
 疑問を隠せない僕の表情に気付いたのか、男の人は僕に向かってさっきと同じような笑みを浮かべた。

『……それはそうと、キミはここに来る前のことを何か覚えているかな?』

 その言葉に、僕は内心ドキリとした。特別悪いことなんてしていないはずなのに、僅かに目を伏せてしまう。

「いや、何も……」
『そうか……ああいや、そのことだったら気にしなくて大丈夫さ。よくあるんだ』
「よく……?」
『ああ、まあ……わりと、かな? それより、ここは余り長居するところでもないから、場所を移動しようか』

 僕の疑問を曖昧にかわした男の人は、胸ポケットに刺さっているひとつのペンを取り出す。おもむろにキャップを外し、本来なら到底書くことの出来ない空中に、なんと線のようなものを書き始めた。今まで何も無かったただの白い空間に、彼が書いたのであろう小さな長方形が浮かび上がっていく。
 驚嘆したままただ眺めているだけの僕をよそに、男の人が空中に書かれたそれに触れると、徐々にモノとして形成していくのがよく分かった。それが一体何を形作ろうとしているのかが分かった時、僕は目を丸くした。
 そこに現れたのは、ひとつの大きな扉。ただの黒い線で出来た長方形ではなく、まるで最初からそこに存在していたかのように、何処かへと繋がる扉としてそこに現れたのだ。さながら、それはまるでマジック……いや魔法のようで、今自分が置かれている状況を忘れてしまう程に心躍ってしまうのが分かる。
 そんな僕のことなんて気付いていないかのようにして、男の人は一貫して笑みを溢していた。

『さあ、コチラへどうぞ。……お客様?』

 その言葉が終わったと同時に開かれた扉。その扉の先は、先が何も視えない程にとても眩しく、思わず片目をつぶり手で覆ってしまう程だ。僕は僅かに後ろに仰け反りながらも、まるで何かに導かれるかのように足を運んでいく。はじめて会った男の人の言うことを疑うということはしなかったのか? この先にあるものの不安とかちゃんと考えなかったのか? そんな声が傍から聞こえてきそうな程に、僕の行動は自然だった。どうしてこう、導かれるまま足を進めてしまったのか。そんなことを聞かれても、ちゃんとした答えを出すことは恐らく出来ない。これが例えば、記憶をちゃんと持っていたとしてもだ。
 ただ単に、僕はその先に行かなければならなかった。そんな曖昧な確信が、僕の足を動かした。ただそれだけのこと。
 僕は、ほんの一瞬だけ今までいた白い空間を横目に入れる。どうしてか名残惜しいだなんていう感情が僕の中に生まれてしまっていたことに、この時の僕は多分気付いていない。

 ――彼らが扉に足を運び終えると、扉は彩られた光と共に跡形もなく消えてしまう。その突如現れた扉にはとある文言が書かれているプレートがぶら下がっていたのだが、きっと、それを見る余裕なんてあの時の彼には無いに等しかったのだろう。
 誰もいなくなった空間に、カタリと何かが地面に落ちた音がする。その犯人は、扉に吊るされていたプレート。

 そのプレートには、『time out』という文字が書かれていた。
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