08話:消えない月の話
「あいつ、随分と眠そうだな……」
その言葉の矛先にいるルシアンという人物は、受付の奥底で座りながらも眠っていた。屍のようにとでも言ったら良いのだろうか、理由は分からないが疲れ果てているようで、誰が見てもそれは明らかだった。
普通、勤務時間に寝てようものなら怒られても文句は言えないだろうが、あそこまで堂々と眠りこけているのを目の当たりにしてしまうと、最早注意をする人物は誰もいない。貴族の御曹司だから……と単に言いにくいだけなのかもしれないが、僕個人としても、別に咎めようなどとは思ってはいなかった。
「な、何かあったんですかね?」言いながら、僕は受付の席へと座る。
「なんだ、お前も知らないのか?」
「僕が来た時からああでしたけど……」
僕が今話をしている彼は、レナルドという人物である。レナルドとも一応付き合いが長く、かれこれ十年来の仲になるだろう。ルシアンよりも年上で、僕からすると近所のお兄さんといったところだろうか。
「そういうレナルドだって、今忙しいんじゃないですか?」
「俺は研究員じゃないからいいんだよ」
レナルドが勤めているのはの図書館ではない。街の北に位置する、星学の研究所の管理をしているのだ。
三年ほど前、研究所を統括していた父が病で亡くなりその後を継がざるを得なくなったようだが、あくまでも形だけと言い張って止まず、何を聞いても研究者として働いているというわけでもないと答えが返ってくる。しかしルシアンによると、レナルドは研究者としての資格は持っているのだそうだ。
「鮮紅月(せんこうづき)が起きるからって、誰もかれも浮かれててばかりだ。戻りたくもないね」
呆れたように頬杖をつくレナルドさんは、ひとつの自然現象の名前を口にする。余り詳しくは知らないが、なんでも鮮紅月というのは、その日一日だけ太陽が昇ることなく月が空に居座り続ける現象のことなのだそうだ。しかしそれだけだったら、鮮紅という名前は付かなかっただろう。その名前がついた理由は、どうやら日が変わるその瞬間に月が紅く染まり、それと同時に世界の色も変わることに所以するらしい。
元々十年に一度だったらしいその現象は、月の周期が時と共に変動したことにより今となってはそれが起こるのは五十年に一度となったようである。つまり、この鮮紅月を人生で二回見られる可能性は限りなく低いということだ。研究者が浮かれるのも当然だろう。
「いつ頃なんでしたっけ、それ」ただの好奇心による質問を、僕はレナルドさんに投げかけた。
「ああ、確か……」
研究所の誰かが言っていたのを聞いたのか、それともレナルド自ら調べ上げたのか。研究者ではないと言っておきながら、答えは比較的早く返ってきたような印象だった。
「二か月後の、五月十八日だったな」
レナルドは、少し遠くの未来を指定する。その言葉を聞いて、僕はどういうわけか唾をのんでしまった。
鮮紅月という馴染みのない名前は、僕を僅かに浮世離れした気持ちにさせた。
「……へぇ、そうなんですね」
「聞いておいてなんだその反応は」どうやら、レナルドは僕の反応が気に食わないようだった。
「ああいや……」
確かに言われてみれば、聞いておきながらリアクションが薄かったかもしれない。もう少しちゃんとした反応をした方が良かったか、そうは言っても僕はオーバーなリアクションをするようなタイプでもないのだが。
僕はどうにも、星学には余り関心がないようである。
「なんていうか、随分先だなって」
「そりゃまあ、研究員たちが勝手に騒いでるだけだからな」
「一緒に騒がないんですか? 同じ研究者なのに……」
「あんな研究馬鹿たちと一緒にするなよ。それに、俺は別に研究者じゃない」
研究者の資格は持ってるはずなのに、その言い分は通用するのだろうか? そう疑問に思った時だった。
「よく言うよ」一体いつの間に起きていたのか、ルシアンが話に割って入ってきた。
あからさまに気だるげにため息をつき、頭に手をやりながら片目だけで僕たちのことを視界に入れる。その様子を見ていると、今が勤務中であるということを忘れてしまいそうだ。
「半年も前から鮮紅月についての本借りまくってるんだから、一番はしゃいでるのレナルドでしょ」
「それは俺が読むんじゃなくて、研究員の奴らが……」ルシアンの言葉に、レナルドは少々目を泳がせていた。
「だったら研究費で買えばいいのに、自分が持ってると都合が悪いから借りてるんじゃないの?」
ルシアンは、この時ばかりはどういうわけかやけに突っかかってきた。いつものそれと言われればそうかも知れないし、睡眠の邪魔をされたと思われている場合もあるが、そこまで言わなくても……というのが正直な感想だった。
確かにこの前、月の満ち欠けと人々の感情の変化がどうなどという本を手に立ち読みしていたのを見かけたが、僕はこれ以上レナルドに何かを言うつもりは毛頭ない。
「……文句あるのか?」
「ぼ、僕はなにも言ってませんけど……?」
何故か僕に詰め寄ってきたレナルドは、ばつが悪そうにすぐにそっぽを向いた。この話はここで終わると思っていたのだが、どうやらレナルドは言い足りないらしかった。
「研究員の資格をはく奪されたらたまったもんじゃないからな。やることはやってるんだ。文句言われる筋合いはないな」
「あ、そう。せいぜい頑張ってね」
「いちいち腹立つな……」低い声でレナルドが言った。
二人して同じようなタイミングでため息をつき、一旦話は収束する。性格が似ているとまでは言わないが、お互い本質的な部分はどこか似ているのかも知れない。
「それより、お前今日はなんでそんなに眠そうなんだよ。……いや、眠そうなのはいつもか」誰もが聞きたいであろう、しかし誰も聞かないことをレナルドさんは簡単に口にした。
「なんだっていいでしょ。レナルドと違って、やること沢山あるんだよ」
「とてもそうには見えないけどな」
ルシアンはわざと突っかかっているのか、しかしレナルドさんはそれを簡単に躱していった。実際、図書館の次期館長になるのだろうから暇ということはないのだろうが、ルシアンが忙しい状態になっているというのが、僕にはどうにも想像が出来なかった。全く失礼な話ではあるが。
「……なに?」僕の視線が気にくわなかったのか、今度はルシアンが僕に悪態をついた。
「な、なんで二人して僕に当たるの?」
全くもって解せないが、ルシアンはそれだけ言うと顔を伏せて目を閉じたまま動かなくなってしまった。どうやら本当に寝ようとしているらしい。いつもは文句を言いながらちゃんと仕事はしているのに、今日ばかりはそうではなかった。本来なら僕が文句の一つでも言うべきなのかも知れないが、生憎そんな小言を言うような人間でも無い。最もレナルドさんなら言うかもしれないが、ルシアンのその様子を見てレナルドさんも呆れるばかりで、それ以上のことは言わなかった。
しかし本当に、どうしてそんなに眠気に負けているのだろうか? 何か言えないことでもあるのかも知れないが、どちらにしても、その理由は僕には到底分からない。
その言葉の矛先にいるルシアンという人物は、受付の奥底で座りながらも眠っていた。屍のようにとでも言ったら良いのだろうか、理由は分からないが疲れ果てているようで、誰が見てもそれは明らかだった。
普通、勤務時間に寝てようものなら怒られても文句は言えないだろうが、あそこまで堂々と眠りこけているのを目の当たりにしてしまうと、最早注意をする人物は誰もいない。貴族の御曹司だから……と単に言いにくいだけなのかもしれないが、僕個人としても、別に咎めようなどとは思ってはいなかった。
「な、何かあったんですかね?」言いながら、僕は受付の席へと座る。
「なんだ、お前も知らないのか?」
「僕が来た時からああでしたけど……」
僕が今話をしている彼は、レナルドという人物である。レナルドとも一応付き合いが長く、かれこれ十年来の仲になるだろう。ルシアンよりも年上で、僕からすると近所のお兄さんといったところだろうか。
「そういうレナルドだって、今忙しいんじゃないですか?」
「俺は研究員じゃないからいいんだよ」
レナルドが勤めているのはの図書館ではない。街の北に位置する、星学の研究所の管理をしているのだ。
三年ほど前、研究所を統括していた父が病で亡くなりその後を継がざるを得なくなったようだが、あくまでも形だけと言い張って止まず、何を聞いても研究者として働いているというわけでもないと答えが返ってくる。しかしルシアンによると、レナルドは研究者としての資格は持っているのだそうだ。
「鮮紅月(せんこうづき)が起きるからって、誰もかれも浮かれててばかりだ。戻りたくもないね」
呆れたように頬杖をつくレナルドさんは、ひとつの自然現象の名前を口にする。余り詳しくは知らないが、なんでも鮮紅月というのは、その日一日だけ太陽が昇ることなく月が空に居座り続ける現象のことなのだそうだ。しかしそれだけだったら、鮮紅という名前は付かなかっただろう。その名前がついた理由は、どうやら日が変わるその瞬間に月が紅く染まり、それと同時に世界の色も変わることに所以するらしい。
元々十年に一度だったらしいその現象は、月の周期が時と共に変動したことにより今となってはそれが起こるのは五十年に一度となったようである。つまり、この鮮紅月を人生で二回見られる可能性は限りなく低いということだ。研究者が浮かれるのも当然だろう。
「いつ頃なんでしたっけ、それ」ただの好奇心による質問を、僕はレナルドさんに投げかけた。
「ああ、確か……」
研究所の誰かが言っていたのを聞いたのか、それともレナルド自ら調べ上げたのか。研究者ではないと言っておきながら、答えは比較的早く返ってきたような印象だった。
「二か月後の、五月十八日だったな」
レナルドは、少し遠くの未来を指定する。その言葉を聞いて、僕はどういうわけか唾をのんでしまった。
鮮紅月という馴染みのない名前は、僕を僅かに浮世離れした気持ちにさせた。
「……へぇ、そうなんですね」
「聞いておいてなんだその反応は」どうやら、レナルドは僕の反応が気に食わないようだった。
「ああいや……」
確かに言われてみれば、聞いておきながらリアクションが薄かったかもしれない。もう少しちゃんとした反応をした方が良かったか、そうは言っても僕はオーバーなリアクションをするようなタイプでもないのだが。
僕はどうにも、星学には余り関心がないようである。
「なんていうか、随分先だなって」
「そりゃまあ、研究員たちが勝手に騒いでるだけだからな」
「一緒に騒がないんですか? 同じ研究者なのに……」
「あんな研究馬鹿たちと一緒にするなよ。それに、俺は別に研究者じゃない」
研究者の資格は持ってるはずなのに、その言い分は通用するのだろうか? そう疑問に思った時だった。
「よく言うよ」一体いつの間に起きていたのか、ルシアンが話に割って入ってきた。
あからさまに気だるげにため息をつき、頭に手をやりながら片目だけで僕たちのことを視界に入れる。その様子を見ていると、今が勤務中であるということを忘れてしまいそうだ。
「半年も前から鮮紅月についての本借りまくってるんだから、一番はしゃいでるのレナルドでしょ」
「それは俺が読むんじゃなくて、研究員の奴らが……」ルシアンの言葉に、レナルドは少々目を泳がせていた。
「だったら研究費で買えばいいのに、自分が持ってると都合が悪いから借りてるんじゃないの?」
ルシアンは、この時ばかりはどういうわけかやけに突っかかってきた。いつものそれと言われればそうかも知れないし、睡眠の邪魔をされたと思われている場合もあるが、そこまで言わなくても……というのが正直な感想だった。
確かにこの前、月の満ち欠けと人々の感情の変化がどうなどという本を手に立ち読みしていたのを見かけたが、僕はこれ以上レナルドに何かを言うつもりは毛頭ない。
「……文句あるのか?」
「ぼ、僕はなにも言ってませんけど……?」
何故か僕に詰め寄ってきたレナルドは、ばつが悪そうにすぐにそっぽを向いた。この話はここで終わると思っていたのだが、どうやらレナルドは言い足りないらしかった。
「研究員の資格をはく奪されたらたまったもんじゃないからな。やることはやってるんだ。文句言われる筋合いはないな」
「あ、そう。せいぜい頑張ってね」
「いちいち腹立つな……」低い声でレナルドが言った。
二人して同じようなタイミングでため息をつき、一旦話は収束する。性格が似ているとまでは言わないが、お互い本質的な部分はどこか似ているのかも知れない。
「それより、お前今日はなんでそんなに眠そうなんだよ。……いや、眠そうなのはいつもか」誰もが聞きたいであろう、しかし誰も聞かないことをレナルドさんは簡単に口にした。
「なんだっていいでしょ。レナルドと違って、やること沢山あるんだよ」
「とてもそうには見えないけどな」
ルシアンはわざと突っかかっているのか、しかしレナルドさんはそれを簡単に躱していった。実際、図書館の次期館長になるのだろうから暇ということはないのだろうが、ルシアンが忙しい状態になっているというのが、僕にはどうにも想像が出来なかった。全く失礼な話ではあるが。
「……なに?」僕の視線が気にくわなかったのか、今度はルシアンが僕に悪態をついた。
「な、なんで二人して僕に当たるの?」
全くもって解せないが、ルシアンはそれだけ言うと顔を伏せて目を閉じたまま動かなくなってしまった。どうやら本当に寝ようとしているらしい。いつもは文句を言いながらちゃんと仕事はしているのに、今日ばかりはそうではなかった。本来なら僕が文句の一つでも言うべきなのかも知れないが、生憎そんな小言を言うような人間でも無い。最もレナルドさんなら言うかもしれないが、ルシアンのその様子を見てレナルドさんも呆れるばかりで、それ以上のことは言わなかった。
しかし本当に、どうしてそんなに眠気に負けているのだろうか? 何か言えないことでもあるのかも知れないが、どちらにしても、その理由は僕には到底分からない。