たぶんずっと

※モブ(インタビュアー)との会話あります。










 頭を、撫でられた。くしゃりと軽く髪を乱すと、その手は満足したように離れていった。ぐっすりと深い夢の中でふわふわしていた意識が少し現実へと近づく。しかしこの短すぎる触れ合いは、むしろ心地よい眠りへと落としていくようだった。
 ふっと笑うような柔らかい空気を感じて、一瞬浮上した意識は落ちていく。ただ、頭を撫でられたこと。それは夢の中の出来事として記憶に確かに刻まれたのだった。
















「あ……早いね、廉。おはよ」
「聖、おはよう。起こしたか?」
「んーん、今起きたとこ。今日も一日撮影って言ってたよな、遅くなりそう?」
「あー…多分な。子役のシーン優先で、俺らメインは後回しだからな」
「刑事ものだっけ?」
「ああ…迷子が今回の事件の鍵、撮れるシーンはなるべく撮って……まあスムーズにいっても深夜だろ。先寝てろ」
「あはは、長丁場だね〜、俺より早く出て俺より遅く帰るなんて。まあ言われなくても先に寝てるよ」


 じゃあ、行ってらっしゃい。
 おう、行ってくる。

 そんなやり取りをして、南條は北原を送り出した。バタンと閉じたドアにお見送りを阻まれる。あーあ、と諦めて南條は部屋へと戻った。物音に気づいてすぐに部屋を出たからまだ部屋着のままだ、早く着替えよう。身支度を整えながらスケジュールも確認、今日は雑誌の撮影とインタビューだけだ。
 北原と、南條。二人はいわゆる恋人と呼ばれる仲である。学生時代から始まった関係はまだ続いていて、当時を懐かしく感じる今はとうとう同じマンションの一室に帰る生活を送っている。

 ──そんな、『ただいま』と『おかえり』のやり取りにようやく慣れてきた頃。その挨拶が交わせない日が続くようになってきた。

 原因は、二人の職業にある。芸能人、それぞれの仕事の時間が噛み合わないことはざらで、ロケで地方へ行けばそもそも会えなくなることもある。最初のうちはそれほどでもなかったが、売れてきた今はオフが重なることもほとんどなくなっていた。特に北原の、件のドラマの撮影が始まってからというもの、同じところに住んでいるのに顔を合わせない日もあるくらいだ。


「……今日は、まだラッキーかな」


 朝から廉に会えた。

 と、小さな幸せを感じながら、まあ一緒に住んでるんだけどね、と自嘲気味に笑った。忙しいのはありがたいこと、しかし一緒に住んでいる今よりも別々の建物に住んでいたあの頃の方がいつも隣にいたような気がする。
 そんな過去を懐かしんでも仕方ない。今は今、テレビや雑誌などの媒体越しに見る北原の姿というのもなかなか面白いものだ。今撮影中のドラマのオンエアはいつだろうか、また聞いておこう。
 冷蔵庫を開ける。ひんやりとした空気が顔に当たる。朝食は何にしようか、ああ、昨日の残りの米と卵があるからそれでいいか。取り出した茶碗を電子レンジの中に押し込める、500W、ご飯温め、スタート。その間にやかんに水を入れ、火にかける。目覚ましのコーヒーか、インスタントの味噌汁か。あんまりコーヒーの気分じゃないから味噌汁にしとこうかな、戸棚を開けて一袋取り出す。最後の一個、今日の帰りにでも買ってこようか、他にも何か買うものがあれば。
 ピロリンとメロディが鳴る。レンチンって言うけどうちのはチンとは言わないよな、なんてくだらないことを考えながら取り出して、ラップを外したら卵を割り入れる。朝食は卵かけご飯だ、醤油を垂らせば上出来。料理をしないわけではないが、仕事もあるのに朝っぱらからやるのは面倒臭い。
 お椀に味噌汁の具を入れて、味噌を絞り出す。次はフリーズドライのにしようかな、味噌も一緒で楽だし。ぼんやりと考え事をしていると、カタカタと湯が沸く音が聞こえてきた。それを注いで、箸で軽くかき混ぜる。
 いただきます。一人で食事を摂るのは慣れっこだ。学生時代も朝はほとんど一人だった。むやみやたらに早い奴と寝坊気味の奴の間の早めの時間、静かで混まない良いタイミングを狙って。
 ごちそうさまでした。食器を持って立ち上がる。さっと洗って干してから、二つ並んだ歯ブラシの青みがかった緑の方を取る。歯磨き粉もそろそろ無くなりそうだな、と軽く振って絞り出す。廉のこだわりのやつだから同じの買ってくるか、と商品名を記憶しながら。
 口をゆすいで、歯ブラシを戻す。顔を拭いて、時計を見上げると。


「あ…そろそろか。……行ってきます」


 なんとなく習慣づいた挨拶を、返ってこないと知っていながらぽつりと呟いて。ガチャリと閉めたドアの音がやけに耳に残った。













「南條さんは、朝起きて一番にすることってなんですか?」
「朝は、着替えかな。だらしない格好でうろつくの、あんまり好きじゃないんですよねえ」
「なるほど…確かに、だらしない格好の南條さんは想像できませんね。朝食はきちんと摂る派ですか?」
「日によって。お腹が空いていれば食べるし、そうじゃなきゃ食べなかったり」
「今日は?」
「食べてきましたよ、そこそこお腹空いてたので」
「へえ〜、何食べたんですか?」
「あはは、大したものじゃないですよ。テキトーに残り物とか」
「そうなんですね。南條さんは一人暮らしですか?」
「まあ…そうですねえ」
「ああ〜…一人で食事って、寂しくありませんか?」


 雑誌のインタビュー、テーマは『ミステリアスな南條聖の素顔に迫る?!』だ。俺的にはそんなテーマにされるような奴の受け答えを真に受けるのはピュアっ子って思うけど、と内心笑いながら。学生時代にも答えたような質問にまた答えつつ、新たな質問にも雑談のように答えていた。

 ── 一人で食事って、寂しくありませんか?

 不意を突くような質問が、頭の中でこだまする。寂しくありませんか、って。寂しくありませんよ、って。答えようとした喉が引きつった。一人で食事なんて、慣れっこだ。昼や夜は誰かと一緒になることも多いが、朝食は一人が基本だ。たまに北原に作ってやったり、逆に北原が作って待っていたり、そういうこともあるとは言え、ほとんどが一人。だから。
 寂しくなんて、ない。
 他の質問と比べるとほんの一瞬だけ不自然な間を空けて、南條は答えた。


「──考えたこと、ないですね」















「ただいま」

 ただいま、なんとなく自分の声が返ってきた気がした。ただ単に、静かな部屋に響いただけだけれども。買ってきたものを仕分けてそれぞれの場所にしまう。インスタントの味噌汁は戸棚、歯磨き粉はそこの歯ブラシの隣、トイレットペーパーはトイレの上の棚。ついでに惣菜も買ってきたから、今日は手抜きだ。
 米くらいは炊こう。シャカシャカとリズミカルに米を研ぐ。廉は食事はどうしてくるのかな、とりあえず二人分買ってきたけど。米も二人分、朝の分まで。
 テキトーにテレビをつけて、音声をぼんやり聞いて、米が炊けるのを待つ。ああ、今度特番のドラマがあるから、そろそろ台詞でも読んどこうかな。ただテレビを眺めているだけなのももったいなく思えてきて、台本を取ってきた。
 パラリとめくり、テーブルに広げる。小児科病院が舞台の、感動もの。南條は看護師の役だ。患者である主人公が家族を恋しがって泣いているところに、優しく語りかける台詞が始まり。


「『君は一人じゃない、僕たちがついてるよ。寂しくなったらいつでもおいで』」


 ピーッ。
 台詞を評価するようなタイミングで炊飯器が完了を告げた。米が炊けたらしい、台本を閉じて立ち上がる。しゃもじで底から掘り返すようにかき混ぜれば炊きたての良い香りが辺りに広がった。あいつは炊きたてのご飯なんて最近食べてないだろうな、と考えながら、今朝干したままの茶碗を取ってそれによそう。
 いただきます。また一人の挨拶をする。最後に一緒に食事をしたのはいつだっけ、こないだの休息日は俺が朝早かったからなあ、あいつも夜は別の仕事だったし。なんとなく味気ない惣菜を口に運ぶ。どちらかといえばおいしい、という感じ。
 ガヤガヤとテレビの音を聞く。特に北原が出演しているものの放送はなかったはずだ。ふと見遣る、あ、天花寺。さすがは梨園の貴公子、一番見かけるなあ、へえ今度ゴシック歌舞伎やるんだ。記憶に留めるだけで特に行く気はない。
 ごちそうさまでした。一人分の食器を片付けるのは楽だ、あと一人分くらい増えてもどうってことないけれど。半分残した惣菜は皿に移し、ラップをかけて冷蔵庫へ、パックはゴミ箱へ。メモを残しておこう、『廉へ 惣菜あるからそれ食べな』。すれ違いがちな生活リズムを少しだけでも合わせるため、二人で買ったホワイトボードにメッセージを残す。あ、追記、『米は炊飯器の中。残ったらしまっといて』。
 そろそろシャワーでも浴びようかな、歯ブラシを置きながら時計を見上げる。あいつが帰ってくるのはまだまだ先になりそうだ。着替えとタオルを持って風呂場へ向かう。たまには湯船に浸かりたい気もするが、それを待つ気分ではないから今日もシャワー。
 ぷつぷつとボタンを外して、脱いだシャツをそのまま洗濯機の中へと放り込む。明日の朝に回そうかな、と予定を組み立てながら風呂場の中へ。コックを捻り、パチャパチャと手に当てる。お湯に変わったのを確認して、熱めのシャワーを浴びた。
 体を洗いながら、ぼんやりと考える。一緒に食事もしてなければ、もちろんこっちもご無沙汰なんだよなあ、と。最後に触れ合ったのはいつだっけ、多分食事よりももっと前。お互い仕事仕事で夜遅かったり朝が早かったり、寝室が別々なことも手伝って、単純に肌の温もりを感じることさえもしばらくしていない。
 寮生活の学生時代と違って急に気分が盛り上がっても困らないけど、そもそものんびりできないんじゃ仕方ないなあ、とうっかりため息が漏れた。
 体を拭いて、部屋着に着替える。まだ寝るには早いから、台本を読み込むとしよう。役作りのプランも立てないと。心優しい看護師ねえ、裏も表もなんにもない、あいつが聞いたら笑いそうな役。パラパラとめくってザッと目を通す、時々声に出して読みながら。

 酷く長い時間のように感じた。今日は早くに仕事が終わったからのんびり買い物してきたが、それでも帰宅は早かった。真面目に台本を読み込むのにも飽きてきた、他にすることもないからもう寝てしまおう。どうせ、あいつが帰ってくるのは当分先だ。終わるのも遅ければ、ロケ地やスタジオも少し離れたところらしい。とっくに終電なんかなくなった頃、タクシーで帰ってくるのだろう。
 一人部屋のベッドに、横になる。
 あいつは今頃なにしてるのかな、とか。犯人追っかけてたりして、もうお子さまは帰ってなきゃいけない時間だからそろそろメインだろう、監督と演出プラン話し合ってるのかな、このシーンはこういう感じで、とか。役者仲間とも話を弾ませているかもしれない、今度一段落ついたら飲み行こう、とか。廉と共演したことはあるけど、役で会話したことはまだないなあ、とか。
 目を閉じて、夢と現実の狭間でうつらうつらと考えているうちに、南條は眠りに就いた。

 夢を歩く。ふわふわと、上も下も定まらないような感覚で。どれくらいそうしていたかわからない、ほんの数分のようにも感じられるし、もう何十時間もそうしているような気もする。時折撫でられるような心地よい感触がして、そのたびに宙へと浮かんだ。
 くしゃりと、頭を撫でられるような。大きくて体温の高い手のひらに撫でられる、よく知った感覚。何度も求めそうになってしまった恋しい温もりが、離れていく。


「──廉?」


 と、いうことを、繰り返されたら。
 一回目は夢心地だった。しかしこれのためにはドアを開けて入らなければならない、無音で行うのは不可能だ。犯人が誰かというのは考えるまでもないことで、起きてしまったからには引きとめない手はない。そういうわけで、立ち去ろうとしていく無言の背中に声をかける。
 振り返った、暗い部屋では表情が見えない。だけどきっと目を見開いているのだろう。ポンポン、と自分の隣を叩きながら。


「寂しいの? 一緒に寝てく?」


 あはは、と笑い声付きで。北原がドスドスと歩いてくる。やっぱり顔は見えないけれど、たぶん眉間にシワが寄ってる。


「聖…テメー、いつから起きてたんだよ。有罪」
「あっは、さっき。ちなみに俺的には、バタンバタンドア開けて頭撫でられてったら起きない方が図太過ぎって思うけど?」
「んなうるさくしてねーだろーが」
「あいにく俺は繊細なんだよねえ、お前と違って。で、寂しいの?」


 暗闇に慣れた目が、北原の顔を認識する。想像通り、眉間にシワが寄っている。
 北原の手が伸びてきた。ぐしゃぐしゃと髪を乱される。うわ、と声を上げてもお構いなしだ。ドカッと乗り上げられたベッドが軋んで揺れる。素直だよなあ、と余裕で微笑んでいられたのは束の間、息ができないくらいにギュウッとキツく抱きしめられた。


「う、ちょ、れん、苦しいんだけど」
「うるせー黙ってろ」
「も、すこし、やさしくやれって。おとなしく収まっててやるから」
「……」
「うん、いい子。甘えん坊な廉くんのしたいようにしな? あっはは」
「じゃあこのまま寝る」
「暑苦しいなあ」
「ア? したいようにしていいんだろ、文句言ったら有罪だ」
「はいはい」


 あ、困った。顔が引き締まらない。

 ゆるゆるした顔を隠すように、分厚い胸板にすり寄せる。どうせよく見えないだろうけど。充電、なんてクサイカップルみたいなことを考える。ああでも、確かに充電だ。ただの休息では満たされない、エネルギーのような何かが生まれてくる。
 すり、北原が南條の頭に顔を寄せた。すりすりと柔らかい髪の感触を楽しむようなことをして、それから額にキスを落とされる。

「言っとくけどな」

 静かな声が呟いた。

「あれ、毎日やってる」

 動揺を隠せない声を絞り出した。

「え…、そうなの?」









 アラームよりも早い時間、南條は目を覚ました。動揺を与えた無責任な声はぐっすりと、今もまだ眠っている。なんだかんだ体温が心地よくてしっかり眠れたが、あんなことを毎日されてたことには気がついていなかった。だったらそのまま寝てけばいいのに、と思いつつ、何も知らずに目覚めからあの顔が飛び込んできたら心臓に悪そうだとも思った。
 今日もまた、別々の仕事だ。北原は相変わらずドラマの撮影、南條は現場の顔合わせと稽古。疲れ、溜まってるんだろうな。身も心もタフな奴だけど、と口元を緩めながら頭を撫でる。あ、起きた。隣の部屋で北原のアラームが鳴っているような音がする。


「おはよ、廉」
「…はよ……」
「寝ぼけてる? もう朝だよ、起きな。たまには一緒に朝食でもどう?」
「食う」
「じゃあ起きて顔洗ってきな。あとアラーム鳴ってるんじゃない?」
「ん…とめてくる」


 まだ完全には起きていないような声に、また笑みがこぼれる。ああ、とても良い朝だ。立ち上がって着替え始めた背中を、夜と同じくらい強く抱きしめられる。


「うわ、廉、」
「充電、させろ」
「お前自分の力考えろって」
「アァ? まだ足んねーくらいだろーが」
「お前、俺を抱き潰す気? 息が苦しいんだけど……一回離してくれる?」


 渋々、といった風に腕の力が緩む。
 ──たまに、だから。一応、こんな甘ったるいのは俺的には胸焼けものだけど、まあ、たまにだから。
 くるんと体を反転させて。


「寂しくなったら」


 ──きっと、あの台詞はこんな気持ち。

 ぎゅう、と背中に回した腕に力を込める。宙にあった腕が背中に回される。正面から向かい合って、ハグ。やっぱり胸焼けものだ、けど、まあたまには甘いものも食べたくなるよな、と誰にでもなく言い訳のようなことを考えながら、近くにあった額に唇を寄せる。


「いつでもおいで」


 強くなった腕の力にクスッと笑って、甘えん坊だなあとからかった。テメーもだろ、と言う声は聞こえないふり。
 それからしばらく、よし、とかなんとか言って出て行く背中を眺めながら、部屋着を脱いで着替え始める。昨日といいだらしない格好見せてばっかりだなあ、仕方ないけど。少し反省しつつ、一つ決めた。

 ──今朝はちゃんと、料理しようかな。

 と。

2/2ページ