ハジマリノオト



 ──ピチョン。


 雫が、落ちた。ステージの幕開けだ。
 音楽は常に共に──降り注ぐ雨の音、髪を撫でつける風の音、靴がステージに触れる音、ターンに翻るジャケットの音。全身が音楽を奏でる、この体は音楽だ。ステップが飛沫を跳ね上げる、指先が雫を放つ、髪から雨粒が滴り落ちる。

 今だ、飛び立とう。

 この広い空へ、切り取られた狭い世界から、限りなく続くこの空の彼方へ。

 誰のためにも踊っていなかった。誰の評価も求めちゃいなかった。内から溢れ出すこの衝動おんがくを押さえつける術など知らず、産声を上げて生まれるダンスを抱き上げるだけ。お前はどんな子だい、さあ、俺の体を貸そう。自由に、彼が彼女が、この手をこの足をこの全てを動かすままに。
 なににも囚われず踏むステップのなんと軽やかなことか、口遊むメロディーのなんと美しいことか! けれど、籠の中で奏でるハーモニーも──籠の中でなければ──好きだった。
 もう一度、遊びたい、と。そう願って近づいた夢は叶わないのかもしれない。離された手を掴んで、次に離したのはこっちの方だった。伝統という鳥籠は狭く、広い空を知っている自分にとってはつらいだけだったのだ。仲間と離れたいわけじゃない、けれど仲間を連れて飛び立つ気もない。鳥籠を守る番人に、どうして抜け出そうと言えようか。
 願わくば、いつかまた──頬を伝う雫が熱いのか冷たいのか、わからなかった。自由な空と引き換えに、何を失ったのか。この空は本当に自由なのか、眼に映っているより先にも空は続いているのか。疑うよりも信じたい、きっと続いている。
 哀しい物語にはしたくなかった。仲間を傷つけて手に入れたのは天使の羽じゃない。けれど、罪の色に染まったこの翼は、自由に羽ばたける大きな翼だ。羽ばたくたびに軋むこの痛みを忘れることはないだろう。いつか、癒えるのか。いや、抱えて生きていこう。
 このミュージカルに、観客はいらない。ただただこの心を歌えばいい、踊ればいい──自由を歌うためだけのミュージカル。

 ──俺は、肩書きが欲しくて演っているわけじゃない。

 拍手のように降り注ぐ雨が心地よかった。音楽ミュージカルは、常に共に。お前はどんな歌を味わせてくれる? お前の奏でる旋律は熱い? それとも、冷たい? 俺の物語を紡ぐステップは飛ぶようか、跳ねるようか、落ちるようか。どんな香りがする? 甘く華やかな香りか、どんよりと湿気た匂いか。
 突き動かされるのは、この心だけでいい。他の誰の心も動かさない独りよがりなミュージカルは、それでも自身にとっては確かにミュージカルで、おそらく他人にとっては雨の中でただ踊り狂っているだけのようにも見えるのだろう。それで、いい。どうせ誰も見ていない、それに、もう何も気にする必要はないのだから。
 ああ、自由だ。腕を思い切り伸ばしても何にもぶつからない、ジャンプをすればそのまま飛び立てる。己の心だけに従い、全て自由に、それこそが愛するミュージカルの原点。

 さあ、遊ぼうか。

 自分の心に応える。感覚を研ぎ澄まし、全ての現象をミュージカルへと変換する。爪先で水を跳ね飛ばし、リズミカルなステップを踏んだらお次はターン、好きなものだけを組み合わせて、飛び立つ──俺は自由だと、罪の色で描いたミュージカル。俺のためだけの、ミュージカル。



















「あっ、鳳せんぱ〜い!」
「やあ、星谷。何か用かい?」
「えっへへ、用事は特にないんですけど…鳳先輩の姿が見えたから、つい」

 少し離れたところからぶんぶんと大きく手を振って駆けてくる。照れたように微笑む彼は、鳳の可愛い教え子である星谷悠太だ。鳳もつられて笑みを浮かべる。

「どう? 準備は進んでる?」
「バッチリです! ……って言えたらいいんですけど……、でも、毎日みんなとミーティングして、いーっぱい考えてます! あっ! 詳しくは内緒ですよ、鳳先輩のためのものですから!」
「ははは、わかってるよ。これからミーティング?」
「そうです! ……うわっ、大変だっ、天花寺に早く来いって言われてるんだった……! すみません、先輩! 失礼します!」
「廊下を走ると誰かさんに怒られちゃうよ? 怪我にも気をつけて。楽しみにしてるよ、ボーイ」
「はいっ!」

 パアッと晴れやかな笑顔が眩しくて、鳳は目を細めた。よーっしやるぞ〜と意気込みながらパタパタと駆けていく背中を見送り、それがすっかり見えなくなってから窓の外を見遣る。青いキャンバスにふわりと描かれた淡い白が美しく、どこまでも続く自由な空だった。笑うような日差しが眩しい。

 あいつら──あいつの夢の始まりは、雨ばかりだな。

 晴れ渡る空を見上げながら、キャンバスに思い出の色を乗せる。深く湿った暗いグレー、雨色の絵の具も一緒にスプレーで吹きつけて。
 星谷が、鳳と出会った日のことを思い出す。鳳が、星谷と出会った日ではない。
 あの時は、気がつかなかった──止めどなく雨が降り注いでいたあの日、一瞬、太陽が顔を覗かせていたことに。


『オレ、憧れの高校生がいるんです!』

『その人を追いかけて、綾薙学園まで来たんです』

『あの人みたいになりたい、いつか同じステージに立ちたい──それが、オレの夢!』


 彼の夢は、鳳のダンスだった。雨の中、誰のためでもないダンスが、彼の夢になった。目指したい光になった。そのためだけに難関である綾薙学園を目指し、入学し、ついにミュージカル学科にまで。
 夢が、星谷の原動力だ。


『夢を諦める方法なんて、知らない』


 鳳が、星谷と出会った日のことを思い出す。あれは入科オーディションの面接のことだ。今でも忘れられない衝撃が、胸のどこか奥の方をきゅうと締めつける。それは決して嫌な感じではない。
 身に染みついたダンス、誰も知らないはずのステップ。あの時飛び立った自身の、一人同じステージに上がらなかった鳳の、自由への喜びと仲間への罪を踊ったものだった。
 "綾薙の伝統"から飛び立って生まれたダンスを、まさか"綾薙の伝統"である"華桜会"としての初仕事で、見ることになるなんて。
 実力は確かに他の者よりも劣っていたかもしれない。けれどまだ拙いダンスは生まれたての夢で、誰にも負けないエネルギーと輝きの可能性を秘めていた。鳳はそこに賭けたかった、何も知らない彼ならば、伝統の中でもそれを破れるかもしれないと。
 そしてそれは、期待よりもずっと早く頭角を現した。


『そうかなぁ……王様になったら、なんでも思い通りになりますよね?』

『じゃあ、夢を叶えて、恋人と結婚すればいいんじゃないかなぁ』


 何も知らない、無垢な少年の言葉だった。鳳は、権力に興味がない。それよりも自由を愛したい、だから自由を捨て権力者となった王の物語を"つまらない"と評した──その解釈に、もっと自由なものがあることを思い知らされたのだ。王になったからこそ得られる自由もあるんじゃないか、星谷はそう解釈した。
 物語は自由だ、伝統に囚われていたのは鳳も一緒だったのかもしれない。自由は教えるものじゃない、彼ら自身が手にするものだ。伝統という鳥籠を知らない星谷は、何にも囚われないまさに自由な純白の翼で飛んでいく。覚えたてのステップを踏んで、楽しそうに、周りの空気までもを明るく照らしていく。
 彼らのファーストステージ──新人お披露目公演は、バラバラだった星屑たちが輝きを放った良いステージだった。こいつらが、観客を前にしたら何が起こる? これはまだ始まりで、先は長い。楽しそうにミュージカルをする彼らをもっと見ていたいと願う心は、一人の観客としてのものか、それとも──。

「鳳。こんなところで何をしているんです? 次期華桜会の選考はまだ終わっていないのですよ」
「──柊。ちょっと考え事さ、空があんまり青いものだから」
「日光浴なら仕事を終えてからにしてください」

 ふぅとため息をつくのは、綾薙学園理事長様の孫、柊翼だ。思い出の色がさらに濃くなる。懐かしいような切ないような、なんとも言えない気持ちになって、鳳は柊をじっと見つめた。返ってくる視線は、この一年で随分と柔らかなものになったと思う。
 鳳は再び窓の外を見上げた。青は美しいまま、透き通るように薄くて白い雲は風に流されたようだ。

「……ねえ、柊」



『俺たちは、諦めない!!』



 嵐の中、倒れた野外ステージ。虚しく響く中止の知らせ。
 それでも教え子たちは諦めなかった。向かい風 華  桜  会を蹴って、嵐に刃向かって、憧れという名の夢を武器にして。その想いが、情熱が、光が、周囲の心を溶かして変えていく。そうして今、鳳も、脱いだはずの燕尾服を再び身に纏っているのだ。
 自由を選んで仲間を傷つけた──それが、いつの間にか孤独 ひ と りでいることを当たり前にさせていたらしい。一緒に遊ぶことの楽しさを誰よりも知っているはずの自分が、その楽しさを教えたあいつらに改めて教わった。
 皮肉な話だ、鳳があまりの窮屈さに捨ててしまった"伝統 ス タ ー"の肩書きがなければ、あの五人を集めることはできなかった。

「俺たちは案外、いつでも一緒に遊べるのかもしれないね」

 雲が流れる、キャンバスに新たな白が現れた。上空は風が強いらしい。
 柊が、鳳の隣に並んだ。瞳に同じ青を映す。

「──未来は、何が起こるかわかりませんから」
「はは、そうだね」


 星谷──お前が俺を見つけてくれたおかげで、やっぱりどんなミュージカルにも観客は必要なのだと、悟ったよ。
 お前に、お前たちに出会って、自分が飛んでいたのは切り取られた空のままだったのだと、その先があるのに向こう側へは行けなかったのだと、ようやくわかった。ボーイズ、俺は臆病者だ。自由と引き換えに仲間を傷つけたことが、自分でも気がつかないくらいに細く微かな足枷になっていたのかもしれない。愛する自由は、楽しいものだから──。

 自分についてきてくれるだろうかと不安に思っていた。けれど、この黒い翼に憧れを見出した彼の夢が彼らを繋ぎ、鳳のことまでも未来へ連れ出した。想像できなかった世界は明るく華やかで、今なお想像できない方へと進んでいく。
 この先、どうなるのかなんてわからない。誰にもわからない。どうしても"華桜会"というスターの肩書きは窮屈で仕方ないけれど、それで彼らチームの夢が叶うのならば。こんな自分のために必死になってくれる彼らに報いることができるのならば。終わったと思っていた指導者としての仕事を、全うしようじゃないか。

「さて、行こうか。──翼」
「ええ、行きましょう。──樹兄さん」

 柔らかく、秘密の名前を呼び合った。窓から射す光のような微笑みを交わして、未来への一歩を踏み出す。


 ──ピチョン。


 これは、夢の始まりの音。次はどんな夢を見たい? 繋いでいく物語 未 来の可能性は無限大──お前たちのステージはこれからだよ、ボーイズ!
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