黎明を託す。
金色の海。見事に実った麦畑の間から、ひょっこりと白い頭が二つ飛び出した。ぴょこぴょこと体を弾ませ声を弾ませ、全身で喜びを表している。
「シロノン、そろそろお祭りの季節かな?」
「わふっ」
「あははっ、くすぐったいよ! 父さんに叱られる前に戻らなきゃ。呼びに来てくれてありがとう」
白い髪の少年は青い瞳を輝かせ、太陽のように笑った。同じく白い毛色の犬と共に家の方へと駆けていく。
おかえり、と少年の母は微笑むのだろう。よく似た白い髪をふわりと揺らし、少年たちの頭を撫ぜるのだ。
おかえり、と少年の父は手招くのだろう。よく似た青い瞳で少年を捉え、胸に飛び込んでくるのを受け止めてくれるのだ。
「まったく、また畑の傍で寝ていたな? 草は母ちゃんに取ってもらったみたいだが、泥が取れてない。飯の前に綺麗にしておけよ」
「うん、わかった。ねえ父さん、麦畑がきれいだったよ! お祭りはまだかな」
「良い知らせを聞きたければ手を洗ってこい」
「そうよ、ファイノン。泥んこのハニークレープは嫌でしょう?」
「え! やった、前夜祭ってこと? 手を洗ってくるよ!」
楽しそうな笑い声が響く家は、幸福の象徴である。生まれ育った村という小さな世界しか知らない少年の心臓だ。穏やかでありきたりな日常を守りたい、そんな些細な願いから、不相応な英雄の鼓動は始まった。
少年の笑顔が光であるならば、それに落ちる影もある。影は光を見守った──少年はまだ、目覚めていない。空虚な体に目一杯の愛情を注がれて、ようやく輪郭が現れる。変わらない始まりを見届けて、幸福を守り、目覚めを待つのだ。
まだ、まだその時じゃない。影は離れた──役目を果たすその一歩を踏み出す時を待つために。
小さな村の広場には人々が集い、収穫の季節を祝っていた。皆が嬉しそうに歌い、踊る。豊作の喜びは金色に輝いていた。
その光から逃れるように、影はひっそりと身を隠した。賑やかな祭りの音、平穏な日々の中において貴重な盛り上がりのワンシーン。石の上に腰を下ろし、風が運んでくれる麦の香りの懐かしさに目を細める。
そこへ不意に、陽が差した。
「お兄さんは、外から来た人?」
広場から少し離れた岩陰に、あの少年が現れたのだ。この現象に驚くことができればよかったが、幾度も繰り返した記憶には意外性も何もない。
「お兄さんって運がいいね! エリュシオンは今、お祭りの最中なんだ。よかったらお兄さんも広場に行かない? みんな歌ったり踊ったり、にぎやかで楽しいよ。あっ、でも」
少年はこちらの返事を待たずにペラペラと言葉を並べた。同じくらいの高さにある青色を見つめていると、少年はハッとしたように口を押さえた。
「お兄さんは静かな方が好きなのかな? 僕はお祭りが好きだけど、お兄さんはどう?」
そのまま体ごと首を傾げ、顔色を窺うように不安気な表情を浮かべてみせた。安心させる義務はない、しかし幸福を奪うのは今ではない。
「……嫌いではないよ。遠くから雰囲気を味わうのは」
「近くには行かないの?」
「ここで十分だ」
ふぅん、と少年は不思議そうに呟いた。興味を失って広場に戻っていくかと思ったが、彼は立ち去るどころか正面にやってきて自分の頭と顔を順に指差した。
「お兄さん、僕とおそろいだね。髪も、目も」
フードも仮面も、今は何もない。不要な記憶を増やさぬよう、あえて顔を覆うものを取り払ってここに来たからだ。
「もしかすると、お兄さんが子どもの頃は、僕とそっくりだったのかもしれないね!」
「どうかな」
「あっ、じゃあ、僕が大きくなったらお兄さんみたいになるのかな?」
「……どうかな」
「それ、お兄さんの剣? すごくかっこいいね! お兄さんは背も高そうだし、きっと強いんだろうなあ……あのね! この前、父さんが剣を作ってくれたんだ。木だけど……僕の宝物なんだよ」
好奇心旺盛で無垢な少年は呑気に話を続けた。大きく身振り手振りを使い、くるくると表情を変えて、動かなくなったこちらの心を揺さぶろうとするかのように。
遠い昔、掠れた記憶の始まりのこと。この道を歩み始める前の自分もこんなだった、などと、つい思い返してしまったのは、歳月の神像の傍にいるせいかもしれない。
「君は、エリュシオンが好きかい」
この問い掛けは、気まぐれだった。わかりきった答えを得ることに何の意味もないのに、初心をこの身に刻もうとでも思ったのだろうか。
少年は目を瞬かせてから大きく頷いた。そこには、満面の笑みが浮かんでいる。
「うん、大好き!」
「……そう。それは、よかった」
烈日の成り損ないは、太陽の眩しさに目を細めた。
──願わくば、彼こそは黎明を灯す烈日に出会えることを。
「僕はもう行く。君も戻るべきだ。聞こえるか、君のお母さんが君を呼んでいる」
少年の返事を待たずに立ち上がり、彼が広場を振り返っている内に姿を消す。今の少年にとって、この出来事は夢のようなものだ。非日常を埋めるなら非日常の中へ、接触はこの祭りの季節に限られる。遠くから眺めるだけに終わる時もあれば、姿を見られるだけの時もあり、こうして言葉を交わす時も、ある。
影──カスライナは故郷を振り返った。守りたいと願った世界を見つめた。
穏やかな日々の象徴が優しく頬を撫でる。麦の香りを感じられるのは長い長い時間の中で今この瞬間だけだ。
彼の旅の始まりに、この風は吹かない──何もかも全て、失うのだから。
「うわぁあああああ!! あぁ……、ああぁあ……!!」
随分と背の伸びた少年が闇雲に剣を振るった。暗黒の潮の中心に佇む大男に向かってくる勇気は讃えるべきか、無謀だと一蹴すべきか。この無鉄砲な命を確実に送り出すため、自らの手で故郷を燃やし尽くすのだ。
怪物が、生まれる。かつて隣人だった者が、異形の姿に変わる。怪物を、かつて友人だった者を、屠る。少年にスカーフを見せつけ、目の前で串刺しにする。救世とかけ離れた行為でも、火を追わせるためには欠かせない。
「なんで……ッ、どうして……!」
──憎しみを燃やせ、それが救世の道を歩む燃料だ。憎め、恨め、憤れ。これまで注がれてきた愛を変換して原動力にしろ。
「あぁあ!! ッ、あぁ……!!」
少年は黒衣の剣士を睨みつけた。人懐こい笑みを忘れた燃えるような視線だ。
故郷を愛していなければ、蹂躙を憎むことはない。器を満たした愛の源を全て奪い去り、沸々と煮えたぎる怒りに変える。これは、火種を奪い続ける火負いの囚人が唯一与える炎だった。
──終着で、また会おう。
『ファイノン』を一瞥し、カスライナは立ち去った。
ヘリオスが、この胸を貫く。
「この世界に太陽がないと言うのなら……! お前を薪に、黎明を灯してやる」
今回も『ファイノン』は世界の果てまで辿り着いてくれた。ずり落ちた仮面の下の顔を見て、彼は目を見開く。幾度となく見てきた表情だ。
──運命に、抗え。
"僕"の手に、僕の手を重ねる。
「怒りで……運命を、焼き尽くせ。炎は、僕の……中にある……」
キュレネの、儀礼剣が現れる。輪廻の時がやってきたのだ。
同じ一歩を踏み出してくれるだろうか──「僕」には見届けることができない。ボロボロの、炭のような身体が神火に飲み込まれるこの瞬間だけ、責から放たれるような気がした。歳月の力で燃える記憶を受け継いで、僕が終わり、"僕"が始まる。
『ファイノン』は、胸を押さえた。燃えるよりも熱い火種は、命の重みだ。
「ッ……僕は……続けるよ……、この、終わりの見えない輪廻を……」
──いつか訪れるかもしれない「英雄」を、待ち続けて。
輪廻の数だけ『ファイノン』は旅立つ、その信念はいつも同じだ。儀礼剣ごと己の身体を抱き締める。
「だから、今回の賭けも……勝ち、だよ。カスライナ──僕が、この輪廻を終わらせて、次の『ファイノン』に託す、から……」
記憶の渦に飲まれそうになりながらも、[[rb:ファイノン > カスライナ]]は前を向いた──今までの"自分"に倣うように。
そして最後であり、最初の役目を果たすのである。
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