今日もまた、明日の火を灯す。
「うーん……」
アグライアの仕事を手伝った帰り道、ファイノンは雲石市場を目指して歩いていた。今は離愁の刻に差し掛かろうという時間帯、夕食を何にしようか決めかねているところだ。
黄金のハニーケーキ、は今朝食べた。昼に食べたオムレツも美味しかった。いっそフルーツにしようか、いや、今日は動き回ったからサッパリよりもガッツリの気分だ。じゃあ大地獣ステーキか、でも頭も使ったから甘いものを食べたい気もする。
「ファイノン様、何かお悩みですか」
「ん?」
不意に、呼び止められて振り返る。そこには初老の女性が立っていた。市場ではあまり見かけないが、初めて見る顔ではない。確か、雲石の天宮の方で占いをやっているご婦人のはずだ。
彼女は恭しく一礼すると、ファイノンに微笑みかけた。
「私は占い師でございます。浮かない顔をしていらっしゃいましたので、不躾ながらお声がけさせていただきました」
「あはは、そんな深刻そうに見えちゃったかな? なんてことない、目下の悩みは今日の夕食のメニューさ」
「あぁ、そうでしたか。ファイノン様のお優しさはオクヘイマ市民が存じ上げております。その笑顔が曇るようであれば、どんな種類の悩み事でもお力添えをしたくなるというもの」
「ありがとう。あなたの優しさが嬉しいよ。でも本当に、大した悩みじゃないんだ。大地獣ステーキにしようかと思っていたところだから」
「ですが、決めかねているのでしょう? そうお時間はいただきません。もちろん、お代も。いかがでしょう」
ファイノンはがしがしと頭を掻いた。夕食の悩みの上に断る言葉の悩みを追加するよりも、占いに決めてもらった方が解決への近道だ。たまにはこういう選択もいいかもしれない。
「ははっ……じゃあ、お願いしようかな。どうやって占うんだい?」
婦人の目尻に皺が寄る。この回答は彼女を喜ばせることができたらしい。
「いくつか方法があります。先ほど、大地獣ステーキとおっしゃっていましたが、他には何をご検討中ですか?」
「うーん……とりあえず二択かな。ステーキを食べたいけど、前におすすめされたハニーフルーツスープのことを思い出してね。そっちもいいなと思ってるんだ」
「でしたら、天秤で占いましょう。簡単ですよ、天秤に石を乗せるだけですから」
婦人は占い道具を入れているらしい手荷物から、同じくらいの大きさの石を二つと、小さな天秤を取り出した。その刻印からタレンタムの加護を受けていることが見て取れる。
両手を差し出すと、彼女はそれぞれの手のひらの上に石を乗せてくれた。石は思ったよりも軽く、大きさだけでなく重さにも差がないように感じれられる。物体の重さではなく望みを測るのだろう。彼女は自分の手のひらに天秤を置き、ファイノンの方へと差し出した。
「選択肢を呟きながら、その石を天秤の皿にそれぞれ置いてください。傾いた方が答えとなります」
「なるほど。じゃあ早速……大地獣ステーキ、か、ハニーフルーツスープ、か」
向かって左側に大地獣ステーキを、右側にハニーフルーツスープを託す。天秤は暫く水平を保ち、ファイノンの代わりに悩んでくれた。それもほんの三秒程度、結論が出たようだ。
「左……大地獣ステーキに決まりだね。そう思うとなんだかものすごく食べたい気分になってきたよ。ありがとう」
「お役に立てて何よりです」
「あ、そうだ。もう夕食は済んだ?」
「え? いえ、まだですが……」
お代はいらないと、彼女はそう言ったが、占いは彼女の生業だ。結果には対価を、ファイノンは思いつきを口にする。
「だったら、一緒にどうかな。占いのお礼にご馳走するよ。もし迷うならあなたも答えを天秤にかけてみるといい」
婦人は困ったように眉を下げた。占うことすら迷っているようだ。促すように石を差し出すと、彼女はそれを受け取ってくれた。そして、行く、行かない、と呟きながら石を乗せる。
結果を見て、ファイノンは微笑んだ。彼女も釣られたように微笑んで、こう言った──ファイノン様から食事に誘われて、心が動かない者はおりませんよ。と。
オクヘイマはいつも、いつでも、眩い光の中に在る。ファイノンは目を細め、光を見上げた。婦人と別れ、これから夕食後の腹ごなしに鍛錬でも始めようかとぶらついているところだ。
相手はおそらく、この辺りにいる。彼は大抵、雲石市場の屋上で一人の時間を楽しんでいるのだ。
「──あ、いた。おーいモーディス!」
迷惑そうな視線が下りてくる。市中で大声を出すな、と。オクヘイマの日常風景として市民も気にしていないことをファイノンが気に留めるはずもなく、そのまま大声で用件を続ける。
「よかったら手合わせしてくれないか!」
モーディスは眉を顰め、踵を返して視界から消える。モーディスという人物をよく知らなければ機嫌を損ねて振られたのだと思うだろうが、ファイノンはモーディス百科事典を自称できるくらいには彼に詳しかった。だからここまで来てくれるとわかっている。返事をせずともファイノンには伝わると思っている彼は、ただ単に降りるために姿を消したにすぎないのだ、と。
程なくして、予想通りモーディスはファイノンの方へと歩いてきた。ふん、といつものように鼻を鳴らし、腕を組んでこちらを見据える。偉そうに見えるのは彼の出自のせいかもしれない。
「今日の勝敗はどうつける気だ、救世主」
紛争の国、クレムノスの王子はいつでも戦う準備ができているようだ。ここで吹っ掛けても手合わせを始められるだろう。勿論、仮の話だ。市民の乱闘に混じり諍いを治めるついでならまだしも、平和な市場で黄金裔が暴れ始めるようなことがあってはならない。
ファイノンは顎に手を当て、彼の問いを検討した。先にルールを決めておかないと殴り合いだけでなく言い争いも勃発する。複雑な条件は不要だ。どうなったら負けか、それだけ定めればいい。
「そうだな……先に膝をついた方が負け、ということでどうだろう?」
「自ら不利な条件を掲げるとは相当な自信があるらしい。受けて立とう」
「おや、君こそさすがの自信だね。僕だって負けないよ。でも、決着がつかなくていつまでもやってるとまたアグライアに叱られちゃうから、時間を決めよう。制限時間は一時間!」
「ふん、いいだろう」
「決まりだね。じゃあ行こうか」
あえて場所を告げずとも、手合わせをする時のいつもの鍛錬場だということは伝わったらしい。モーディスはその方向へ向かってさっさと歩き始めた。
ファイノンも負けじとその背を追いかける。並んだ、抜かれた、抜き返した、また並んで、抜かれて抜いて、またまた並んで、肩と肩がガシャンとぶつかる。
「──よし、鍛錬場まで競争だ!」
「はぁ……ははっ、僕の勝ちだ」
「俺の爪先の方が僅かに早く踏み入った」
「いいや、僕の腕だ!」
「腕を伸ばせばその地に着いたことになるのか? ついていないだろう、足でなければな」
「屁理屈だ。ゴールラインを割るのは体の一部であればいいんだよ。もう、映写ストーン判定もできないし……そうだ、手合わせの勝者がこの競争の勝者でもあるってことにしよう」
「望むところだ」
「伝言の石板でアラームを仕掛けておくよ。これが鳴るまで、思い切りやり合おうじゃないか」
審判のように、伝言の石板を石の上へ置く。モーディスの前に戻ると、ニッと彼の口角が上がった。交戦的なそれは、鏡のような表情だろう。言葉は要らない──ファイノンは訓練用の大剣を、モーディスは拳を握り、真剣勝負の火蓋が切られた。
モーディスが地面を蹴る。懐に飛び込んで一発くれてやろうということだろう。素早いながらも大振りな攻撃は躱し易い。難なく避けると、向こうもさすがに躱される前提の一撃だったと見られる。勢いを殺さないままに踏み留まり、回し蹴りが繰り出された。
ガシャンと、それを食らったのはファイノンの大剣だ。足を思い切り押し返し、モーディスを吹っ飛ばす。数歩後ろに引いた彼の左肩に大剣を振り下ろすと、既に体勢を立て直していた彼は手甲でそれを防いだ。
「ははっ、さすがだね」
「ふっ、当然だ」
武器を弾かれないよう腕を引き、もう一撃をお見舞いしようと様子を窺う。言うまでもなく、隙なんてものは存在しない。じりじりと睨み合うだけの静寂が訪れた。聞こえてくるのは互いの呼吸音だけ、それに耳を澄まして攻撃の機を待つ。
──今だ!
動き出そうとする前触れだ、彼は僅かに深く息を吸い込むと重心を前へと移動させた。そのほんの一瞬を狙い、彼の胸元目掛けて地面を擦るように大剣を振り上げる。
しかしこの剣先には何の手応えもない。こちらが踏み込むや否やモーディスは重心を戻して一歩引いたからだ。そして大剣の間合いを避けるように彼は左へ移動し、そのまま突進してくる。
だが、おとなしく反撃を待つファイノンではない。振り上げた大剣を下ろす反動で身を翻し、モーディスの拳をいなす。体勢が崩れてくれれば儲けものだったが、彼との勝負に幸運を期待してはいけない。弾いたその瞬間に追撃するくらいでなければまだまだだ、彼はとっくに拳を構えてファイノンと対峙している。
ファイノンは大剣を掲げ、モーディスを見据えた。
「……」
「……」
次の一撃はどちらからか。睨み合い、窺い、相手に膝をつかせるのはこの自分だと、貪欲に勝利を求める。渾身の一撃を──踏み出したのはほぼ同時だった。ガキン、と鎧と大剣のぶつかる鈍い音が響く。彼は両腕をクロスさせて振り下ろされた大剣を防いでいた。
上からの利があっても単純なパワー勝負では些か分が悪い。突き飛ばすようにして距離を取り、次の一手を思案する。
笑みを湛えたのはどちらが先か、これもほぼ同時だったかもしれない。好敵手との真剣勝負は、心踊る時間なのだから。
もしファイノンの体に直撃したら。もしモーディスの体に直撃したら。お互い、結果は理解している。それでも鍛錬だからと手加減をするのは、お互い無礼にあたる──それくらい拮抗した実力の持ち主だ。一瞬も気を抜けない、命のやり取りにも似たモーディスとの手合わせの時間を、ファイノンは好んでいた。
故郷のエリュシオンは小さな村で、幼い頃は平和に暮らしていた。いつか村の頼れる英雄になるのだと、華々しい英雄譚を夢見てかかし相手に鍛錬をする。相手の攻撃を妄想してみても一方的な攻撃にしかならなかった日々の思い出だ。
あれはあれで楽しかった。平和の象徴だからだ。しかしその幕はとうに下りている。剣を握らねばならない、戦わねばならない、鍛えねばならない。戦うための筋肉は戦って身につけるしかない、ただがむしゃらに鍛えたところで動かし方を知らない筋肉は体を固くするだけだ。敵との戦闘では相手も容赦のない攻撃を仕掛けてくる。攻撃を攻撃で凌ぐ戦い方だけではこの身はいつ果てるかわからない、避けて攻撃に転じるための動作を学ばなければ。
オクヘイマに辿り着き、衛兵隊で訓練をするようになってからは実践的な経験を積むことができた。誰もを師と仰ぎ、その全ての技術を吸収する。そうしていつしか、ただの新兵だったファイノンに敵う相手はオクヘイマにはいなくなった。
「──ッ、や!」
「ふんっ」
激しい攻防が続く。こうして全力で臨めるのは彼が相手の時だけだ。この激しいやり取りは言葉で多くを語るよりも彼を知ることができるような気がする。こちらの心の内もみんな、ぶつかり合う剣先から伝わってしまっているのかもしれない。
攻撃を放つ、受け止められて反撃される、それをいなして撃ち返す、機を窺い睨み合う、そしてまたぶつかり合う。弾かれるようにお互い一歩引いて、反撃の構えを取ったその時だった。
ジリリリリリ、と、けたたましいベルの音が鳴り響く。終了の合図だ。
「はッ……ふぅ、もう一時間? まだまだこれからだったのにね」
「ふん。命拾いしたようだな、救世主」
「まさか! このまま続けていたら僕が勝っていたさ」
「未来を決めつけるな。俺が勝つ」
「君だって決めつけてるじゃないか……」
ファイノンはモーディスにじとっとした視線を送った。もし時間制限がなければ──彼は息一つ乱さずに涼しい顔をしている。先に膝をついていたのは、いつかのようにスタミナ切れになった自分の方かもしれない。
しかし、そうなる前にこちらの技術が彼を上回ったら。その時はファイノンの勝ちだ。だから勝利の可能性を否定したくはなかった。
今回は、いや、今回も、引き分け。気持ちを切り替えるが吉だ。アラームを止めようと伝言の石板を手に取ると、ファイノンは異変に気がついた。慌てて石板を耳に当てる。
「ごめん、アグライア。気づくのが遅くなった」
終了のアラームに紛れていたのは、火を追う旅のリーダー、アグライアからの着信であった。メッセージではないということは緊急事態だろう。
『暗黒の潮の造物を感知しました。地点はあなたたちのいる場所から北西方面、詳細はメッセージで送ります。急ぎメデイモスと共に向かってください』
「わかった、すぐ行く」
通話を切り、モーディスを振り返ると、彼は既に出発の準備を整えているようだった。
「モーディス、要請だ。行こう」
アグライアから送られてきた情報を確認する。目的地はこの近くのようだ。モーディスに共有し、競争を言い出すまでもなく二人で走っていく──事態は一刻を争うのだから。
「みんな! 避難経路はこっちだ、中心部に向かってくれ!」
「ファイノン様……!」
「ああ、メデイモス様が来てくださった……もう安心だ」
現地に到着するや否や、モーディスは迷いなく敵に向かっていった。状況を見るに、衛兵隊はまだ到着していないようだ。焦らなくていい──今日はあいつがいる。背中を預け、ファイノンは近隣住民の誘導を優先させた。
怯える市民たちの中には子どももいる。ファイノンは泣きじゃくっている男の子を見つけ、すぐさま駆け寄った。
「ごめんなさ、っ……ごめんなさい……!」
「もう大丈夫だよ、一緒に行こう」
「ぁ……、あ、うぅ……ぼくが、約束をやぶったから……ッ」
わぁわぁ泣いている男の子を抱き上げ、歩きながらその背を撫でる。怖がらないで、大丈夫だよ、そう柔らかく繰り返していると少し落ち着いてきたようだ。
「君のお家はこの辺り?」
「うん……でも……あぶないから、遅くまで外で遊んでちゃいけないって……お母さんに言われてたのに……」
「そっか、じゃあお母さんを探さないとね。そしてごめんなさいをしよう」
「うん……!」
こくんと頷いた男の子の頭を撫でてやり、ファイノンは周囲を見回した。子どもを探して親が逃げ遅れる可能性は早めに潰したい。走る市民の中に逆走している者はいないか、留まっている者はいないか。
「あ──お母さんの声……」
あっちから聞こえる、と男の子が指差した方向を振り返る。そこには誰かの名前を叫びながら覚束ない足取りで現場に戻ろうとしている女性の姿があった。
「テオ、テオ! どこにいるの?! テオドロス、私のかわいい子!」
テオドロス? と呼びかけると、男の子はファイノンを見上げて、ぼくの名前、と小さく答えた。
他の市民は順調に中心部の方へ向かって避難している。方向転換をしても混乱させることはなさそうだ。ファイノンは女性を追いかけ、進行方向に回り込んだ。
「! ファイノン様、私の息子が──」
「お母さん!」
「テオドロス!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
彼を下ろしてあげると、すぐさま母親に抱きつきに行った。母親も彼を抱きしめ、安心したように涙を流している。
しかしここは現場から十分に離れていない、対話には不向きだ。
「無事に合流できてよかった」
「ファイノン様……! このご恩は忘れません。私にはもう、この子しかいないので……」
「当然のことをしたまでさ。それより急ごう、ここは危険だ。話をするなら避難してからにしよう」
「はい!」
「テオドロス、お母さんを見つけてくれてありがとう。避難先までまだ距離があるけど、頑張れるね?」
「うん!」
いい返事だと頭を撫でると、小さな英雄は誇らしげに微笑んだ。避難を急がなくてはならない、聖都の中心部の方へと顔を向ける。視界に、見知ったピンク髪の少女が駆けてくるのを捉えた。
「ファイノン様! ここはわたしにお任せください」
「ヒアンシー!」
「間も無く衛兵隊が到着します! ファイノン様はどうか、前線へ!」
「わかった! 頼んだよ、ヒアンシー!」
立ち上がり、戦場へと向かおうと翻ったマントを、ツンと引かれた。犯人は誰だか予想はつく。振り返り目線を下げると、予想通り男の子が英雄らしからぬ顔でファイノンを見上げていた。
「こらっ! テオ、ファイノン様のお邪魔をしてはいけません!」
「だ、だって……」
「ごめんね、お仕事があるんだ。終わったら必ず会いに行くよ。君はお母さんと一緒に、あのお姉さんが来る方へ走れるかい?」
「う、うん……でもファイノンさま、あっちはあぶないんでしょう……?」
「はは、テオドロスは優しい子だね」
もう一度しゃがんで目線を近づけ、その小さな頭に優しく触れる。微笑みかけると、彼の瞳に浮かぶ不安げな色が少し和らいだ。
「心配しないで、お兄ちゃんは強いんだ。あの怪物をやっつけてくるよ」
「そっか……ファイノンさまは黄金裔だもんね。がんばって、ファイノンさま!」
「ファイノン様、ご武運を!」
「ありがとう!」
彼が母親と共に駆けていくのを見送り、ファイノンはモーディスが戦っている方向を振り返った。そして走り出し声を張り上げる。
「モーディス! 加勢するよ!」
「いらん、貴様は市民の安全を確保しろ!」
「ヒアンシーが来てくれたんだ、二人で食い止めた方がいい!」
地面を蹴る。モーディスに迫ろうとしていた暗黒の潮の造物を切り伏せ、モーディスの隣に並んだ。立っている敵よりも、モーディスに屠られた数の方が多そうだ。
「ふん、足を引っ張るなよ」
「勿論。君こそさっきの疲れがまだ残ってるんじゃないか? 僕が来る前に片がついてないんだからさ」
「無駄口を叩くな。さっさと終わらせる」
「ああ!」
訓練用ではない、本来の武器を構える。
奴らが動いた。鋭い剣先で、襲い来る造物を貫き活動を停止させる。目の前の敵を倒すことだけに集中し、この戦いに身を投じるのだ──何も、奪わせないために。
「これで、片付いたかな」
後ろを振り返る、モーディスの方も終わったようだ。そしてこちらを向いたその体を見てギョッとする。
「君ねえ……少しは攻撃を避けたらどうなんだ? 血塗れじゃないか」
「傷は浅い。この程度すぐに塞がる」
「便利な体だな。でも、無茶はするなよ。痛みがないわけじゃないんだろう?」
「二度も言わせるな。この程度、お前が気を揉む必要はない」
「まったく、心配してくれてありがとうくらい言ったっていいのに。──あ、衛兵隊が到着したみたいだ」
近隣住民の避難が完了したのだろう、衛兵たちが駆けてきた。彼らに向かって大きく手を振り、声を上げる。
「僕とモーディスで片付けたから、この辺りにもう脅威はない!」
ファイノンの報告を聞き、衛兵たちは安堵したようだった。その様子を見てファイノンは目を細める。犠牲者を出すことがなくてよかったと、そう思って。訓練しているとは言え、モーディスやファイノンのように戦える者はそう多くはないのだ。中には入隊してから日の浅い者もいるかもしれない。
モーディスはさっさと歩き出していた。物思いに耽る時間は故郷までとっておくらしい。であれば、こちらも立ち止まっているわけにはいかない。一、二、三歩急いで彼の横に並ぶ。
「モーディス、報告へ行く前に避難所へ寄ってもいいかな? 約束があるんだ」
この提案に返事はなかった。それなら、答えはイエスだ。ノーならばきちんと言葉を返す、彼はそういう男だから。
「ファイノン様、モーディス様、衛兵隊から報告を聞きました。お疲れ様です!」
避難所へ向かう途中、救護担当のヒアンシーが駆けてきた。モーディスの歩みが一瞬止まる。軽くとも少なくない怪我をした分、少し気まずさがあるのだろう。
案の定、ヒアンシーはニコッと笑った次の瞬間、モーディスの状況に気づいて目を丸くした。
「まあ、モーディス様! また無茶をされたのですか?」
「そうなんだよ、すぐ敵に突っ込んで行くんだから」
「何故お前が答える。もう傷は塞がっている、治療は必要ない」
「本当ですか? でも、血が付いてますから、綺麗にしましょうね! 確認もさせてください。それからファイノン様も、お怪我はありませんか?」
「僕は見ての通り、元気だよ」
「ふふ、よかったです。ファイノン様もご無理はなさらないでくださいね」
ヒアンシーは救急箱からガーゼを取り出し、血を拭っていく。痕跡の残る上半身を丁寧に診て、モーディスの傷を探した。
虚勢でないことを確認できたらしい、ヒアンシーは頷くとモーディスを見上げて微笑んだ。
「本当に傷は見当たりませんね……血は全部拭き取りましたから、もう大丈夫ですよ」
「ああ、感謝する」
「ふふっ、唯一の怪我人にならずに済みましたね。駆けつけてくださってありがとうございました! 汚染の始末はわたしたちに任せてください」
「ありがとう。遅い時間なのに悪いね」
「いいえ、お互い様ですから。今日はゆっくり休んでくださいね!」
「うん、ヒアンシーもね」
「はい!」
幾人かの衛兵を連れてトコトコと駆けていく背中を見送る。小柄な少女は昏光の庭の頼れる医者で、天空の血を継ぐ黄金裔だ。彼女がいるなら大丈夫、そう思わせてくれる。医者として最も重要な資質と言えるだろう。
──僕も、安心感を与えられる存在だろうか。
救世主として最も重要な資質とも共通するように思う。果たしてそれが自分に備わっているのかどうか、判断はできない。けれど人々にとってそれが真実か虚構かは重要ではないのだ。どんなに自信がなくたって、いつでも胸を張って微笑もう。
「何を立ち止まっている、『救世主』。避難所へ寄ると言い出したのはお前だろう」
「ああ、行くよ」
──それが、人々の心が求める『救世主』の姿なのだから。
「ファイノン様! 息子を助けていただき、本当にありがとうございました」
「ありがとうございました……!」
避難所へ辿り着くと、探し始める前に先程の親子が駆け寄ってきた。モーディスと一緒だったから目立ったのだろう。やはり連れてきてよかった。
母親に微笑みかけ、何か話したそうにしているテオドロスの目線に合わせるよう腰を落とす。彼は少し照れたようにもじもじしながら、控えめに声を上げた。
「ファイノンさま、あの怖いの、やっつけた……?」
「ああ、もちろん。お兄ちゃん頑張ったよ、そこのモーディスお兄さんと一緒にね」
安心させることができたらしい、彼の表情がパッと明るくなる。そして彼はファイノンが示した方向を見遣った。それに合わせてファイノンもモーディスを見上げる、バチッと目が合う。
「ね、モーディスお兄さん」
からかうように目を細めると、モーディスは面食らったようだった。意図を探るようにその視線がファイノン、それから少年の方を向く。
どういうノリか察したらしい。モーディスは軽く息を吐き、ファイノンと同じように膝を曲げた。
「……子どもだけで出歩くのは危険だ。遊びたくなったら聖都の中心部へ行くといい。このファイノンお兄さんが構ってくれるだろう」
「ははっ、もちろんモーディスお兄さんも遊んでくれるだろ? 今度一緒に遊ぼうか。きっと新しいお友だちもできるよ」
「うん!」
ニッコリと満面の笑みを浮かべた少年の頭を撫で、モーディスに視線を送る。合わせてくれてありがとう、と片目を閉じながら。
モーディスはやや呆れたように首を振ると先に立ち上がった。ファイノンも立ち上がり、親子に別れを告げる。
「それじゃあ、良い夢を」
「ファイノン様、今日は本当にありがとうございました。ゆっくりお休みください」
「ファイノンさま、おやすみなさい!」
「うん、おやすみ」
ひらひらと手を振り、モーディスの隣に戻る。彼らはこちらの姿が見えなくなるまで見送ってくれるだろう。あまり時間を奪いたくはないから、早めに立ち去った方がいい。
「さて……アグライアのところへ戻ろうか。ついでに、汗も流しにね」
アグライアやトリビーたちが待っているだろう、英雄のピュエロスへ。先に進み始めたモーディスに置いていかれないよう追いかける。モーディスは隣に並んだファイノンを一瞥すると、歩みの速度を上げた。
抜かれてそのままにするファイノンではない。負けじと速度を上げて抜き返し──結局、また小競り合いが始まり、次の
「今度こそ! 僕の勝ちだ!」
「目が曇ったか? 俺が先だった」
「さすがはメデイモス殿下、随分な自信だね。でも僕も譲らないよ、今のはどう見ても僕の足の方が早く台に乗ってた!」
「ふん、自分の足しか見えていなかったのだな。視野は広く持て、救世主」
「それはこっちの台詞だよ。素直に負けを認めたらどうだい? 起動させたのだって僕だったんだから僕の勝ちだろ」
ゴールは英雄のピュエロス行きの昇降台、これまた決着がつかなかった。登りながらも口論は止まらない。
そうして睨み合ったまま、上層に到着する。
「ファイちゃん、モスちゃん、お疲れ様!」
出迎えてくれたのはトリビー、その後ろからトリノン、トリアンがぴょこんと顔を出した。幼い容姿ながらも千年以上を生きる半神の彼女たちは、緊急事態にこうして起きてファイノンたちの帰還を待っていてくれたらしい。
パッと切り替えて慈愛に微笑みを返す。
「トリビー先生、ありがとう。現場にはヒアンシーが残って後処理をしてくれているよ」
「怪我は、ありませんか」
「トリノン先生、僕は大丈夫だよ。怪我人もいなかったみたいだ。まあ、モーディスは傷を作って血塗れだったから、ヒアンシーに叱られてたけど」
「なんだって〜!? モスちゃんが元気か、ぼくも見るぞ!」
「語弊のある言い方をするな。細かい傷だ、とっくに塞がっている」
「あはは、トリアン先生、それくらいにしてあげて」
一番容姿に合った言動のトリアンがモーディスの腕にぶら下がる。モーディスはそれを邪険に扱うことなく、されるがままになっていた。
異常な〜し! と高らかに報告しながら飛んだトリアンは華麗に着地をしてみせる。トリビーはぱちぱちと拍手をしてからファイノンとモーディスを見上げた。
「うんうん、大きな怪我はないみたいで安心ちたよ。でも、ちょ〜っとだけ、ライアちゃんからお話があるみたいだよ?」
ギクッと、肩が跳ねたことなどバレているだろう。トリビーたちが道を開ける、奥にはアグライアがいる。先ほどまで風のように体を運んでくれたはずの足が重い。けれど一歩一歩確実に近づいて、とうとうアグライアの目の前にまでやってきた。
ファイノン、メデイモス──冷えた声に鋭く呼ばれる。
「此度は迅速な対処に感謝します。ですが」
おとなしく、それはもう借りてきたキメラのように、じっと黙ってアグライアの声を聞く。
「人通りが減る時間帯とは言え、緊急時以外に走り回るのは控えること。あなたたちの遊びに口を出したくはありませんが……節度というものを弁えてください。いいですね」
ピシャリと嗜められ、ファイノンは気まずく項垂れた。チラッと横を見ると、モーディスもばつが悪そうに地面を見つめていた。
たとえ競争がそう珍しい光景ではなかったとしても、救世主ファイノンとクレムノスの王位継承者メデイモスが猛ダッシュしていたら何事かと思う市民もいるだろう。ぐうの音も出ない正論である。
反省していることは伝わったらしい、アグライアが終わりを告げるように短く息を吐く。金糸に嘘はつけないのだ。
「私はこれで失礼します。あなたたちも、きちんと体を休めるように」
「ふっふふ〜、反省するんだぞ〜。まったあっした〜!」
「『あたちたち』はもう寝るね。また明日!」
「二人とも、休息は大事ですよ。どうかゆっくり休んでください。また明日、です」
また明日──祝福を返して半神たちを見送る。その真意は伝わった。
だから、ちゃっかり一緒に立ち去ろうとするモーディスの腕をがっしり掴んで引き留める。
「今のは、ちゃんと英雄のピュエロスで汚染を流せって意味だよ。温度が気に食わないからって逃げるなよ?」
「ふん、クレムノス人の辞書に『逃げる』の文字はない」
逃げられないように煽れば、思惑通りの返事がきた。不服そうではあるが、ちゃんと浸かってくれるだろう。いくら彼が不死身だろうと、暗黒の潮はタイタンすら汚染する脅威なのだ。少しでも汚れを流した方がいい。
早速軽装になり、ピュエロスに足を入れる。ちょうどいい湯加減だ。せっかくの貸切で広い方を使わないのも勿体無いが、長時間浸かるなら椅子の方が楽である。
モーディスも同じ場所を選んでくれた。隣に腰を下ろした彼の方へと顔を向け、ため息混じりに戯れてみる。
「せっかく対策したのに、結局叱られちゃった。君が競ってくるから」
「戯言を……競争を言い出したのはお前だ」
「追い越されなければ提案しなかったよ。君がせっかちすぎるんだ。僕は君と二人並んでのんびり喋りながら向かったっていいと思ってるんだからさ」
「ふん、お前は口数が多すぎる。どうせ湯に浸かりながら語ることになるのに、歩きながらも語ったら何も言うことがなくなるだろう」
「それは君に雑談の習慣がないだけだ。言葉を交わすのも楽しいだろ? 少なくとも僕は楽しいよ」
これには返事がなかった。普段の方式なら肯定だが、今回ばかりはうんざりしているだけかもしれない。ファイノンがそれを気にする性格であったら、彼と拳以外で語り合うことはなかっただろう。厳密には全く気にしないわけではないが、疎まれても近づきたい相手は例外だ。
目を瞑ったまま黙っているモーディスを見遣る。温いとでも思っているに違いない、クレムノス人は熱い湯にこだわりがあるらしいから。汗を流しに行こうという誘いも勝手に高温ピュエロスのつもりでいたのだろう。ファイノンが連れていかないと、彼はこの祝福を受けたピュエロスには入ろうとしないのだ。
適温の湯は疲れを癒してくれた。背もたれに寄りかかり、ふーっと息を吐き出す。心地好い時間だ。どうせ洗い流すのにはそれなりに時間がかかるのだから、のんびり話すとしよう。
「そうだ、今朝は黄金のハニーケーキを食べたんだ。おすすめでハニーフルーツをトッピングして、ね! 美味しかったな」
「だからなんだ」
「雑談の手本だよ。話を膨らめる気はないのかい? 例えば、俺は作るのが得意だから今度作ってやろう、とか」
「作ってほしいのなら遠回りせずにそう言え」
「え、作ってくれるのかい? 嬉しいな、君のおすすめはザクロシロップ?」
「お前の好きなものを選べばいい」
「じゃあ、君のおすすめがいいな。きっと好きだから」
モーディスは片目だけ開けて、ファイノンをチラッと見た。ニコニコと見つめていると視線が閉じられ、ため息を返される。
「いつでも構わん。時間が合う時に来い」
「ありがとう! 約束だよ」
これは思いがけない収穫だ。なんでも言ってみるものである。嬉しくてそのままじっと見つめていると、モーディスの目が再び開いた。
「うるさい奴め……」
「ええ? 何も喋ってなかっただろ」
「視線が、だ。いつまで見ている気だ」
「目を瞑ってたくせに」
「気配もわからずに戦場で戦えるものか」
「それは確かに。僕も君に見つめられたらすぐにわかる自信があるよ。なんたって君、眼力が強いからね!」
「ふん」
また、彼は目を閉じた。会話を終了させたいらしい。ファイノンはどうしようかと思案して、それをそのまま声に出した。
「でも、黙っていてもうるさいって言われるなら、喋らないと損だな。昼食はオムレツを食べたよ。店主こだわりの一品だけあって、ふわふわで蕩けるようになめらかで……美味しかったなぁ」
「お前は食事の話しかできんのか」
モーディスが呆れたような返事を寄越した。言われてみれば確かに、食事の話ばかりだ。さっきの戦闘だとか、その前の手合わせだとか、今日一日の出来事だけでもたくさん話題はあるというのに。
気を取り直して朝のことから振り返る。
「そんなことないよ。他には……今朝の訓練は物資運搬を兼ねた筋力トレーニングだった、とか。あとはアグライアに連れられて黎明の崖に行ったり、トリビー先生たちが子どもたちに囲まれていたから一緒に遊んだり、シタロースさんのところへ行ったり。どの話を聞きたい? でも僕は君の話も聞きたいな。君は今日何を食べた?」
「ふん、結局食事の話ではないか」
「あれ……お腹空いてるのかな、僕。夕食もしっかり食べたんだけどなぁ……」
ファイノンは小首を傾げ、頭に手をあてた。全く意識はなかったが、楽しい話題と言えば食事の話だと思っているのかもしれない。
その様子を受けて、モーディスはふっと笑った。
「今日は、クッキーを焼いた。キメラたちに強請られてな」
「え、なにそれ。僕も生命の花園に行けばよかったな……あ、作ってほしいってリクエストしたら作ってくれるのかな?」
「ふん、キメラたちのように素直に頼めば済む話だ」
「キメラと同レベル……まあいいか。僕の分のクッキーも焼いてほしいな」
「あぁ。俺は料理が得意だから今度焼いてやろう」
「その言い方……意趣返しかい?」
「素直に受け取れ。嘘はつかん」
「ははっ、じゃあクッキーも楽しみにしてるよ」
パチャッ、湯の中でぐんと足を伸ばす。そろそろ上がってもいいが、もう少しのんびりしていたい気分だ。話すことで頭を空っぽにしていくこの時間を手放すのはまだ惜しい。
「せっかくだ、朝食と昼食の話をしたことだし、夕食の話もするね」
「……」
モーディスは何か言いたげな目をしていたが、黙っていた。それに甘えて話を続ける。
「夕食は……何を食べようか悩んでたら市民に心配されちゃってね。彼女は、自分は占い師だから占おうって提案してくれた。僕はなんてことない悩みだから大丈夫だって言ったんだけど、結局占ってもらうことにしたんだ」
眉を顰める表情で、さすがに何を思っているか察しがついた。案外彼はわかりやすいのだ。くすくすと笑って話を続ける。
「あ、その程度のことで占うなんてって思っただろ。僕だって一度は断りを入れてるからね? でも、たまには悪くないと思った。悩んでいるように思えても、案外自分の心は決まっているものだとわかったから」
モーディスは黙っていた。相槌も拒絶もない。一応聞く気があるということだろう。ファイノンは手合わせをするためにモーディスを探し始める前のことを思い返した。
食事中、満足気にステーキを頬張るファイノンを見て、婦人は柔らかく微笑んだ。それはまるで母親のような表情であった。
『私にも、息子がおりました』
しばらくして、彼女はポツリと語り始めた。
『勝手に思い出を重ねて申し訳ありません。ちょうどファイノン様と同じくらいの歳だったのです、あの子が暗黒の潮に飲まれたのは』
『それは……』
『聞いてくださいますか、年寄りの後悔を』
『勿論。話すことで気持ちが整理できることもある。話したいと思ったのなら、僕はあなたの意思を尊重するよ』
『ありがとうございます、ファイノン様』
彼女は寂し気に顔を曇らせた。匙でスープをかき混ぜながら、長く語って来なかっただろう胸の内を打ち明けた。
『夫は随分前に亡くなって、私の家族は息子だけでした。数年前、あの子が衛兵隊に入隊してまだ間もない頃のことです。オクヘイマの近郊に暗黒の潮の造物が出たとの知らせがあり……新兵は待機でもいいとのことでしたが、先輩方が戦うのに出ないわけにはいかないと、あの子は出撃しようとしました。私は当然止めました……けれど説得され、送り出してしまったのです。占いもせずに』
それが最期だったのだと、伏せられた目が言外に語る。
『あれ以来、私はどんな些細なことであっても、何かを決断する時は占うようになりました。選択によりたとえ望まぬ結果になったとしても、タイタンのお導きであれば、そういう運命だったのだと諦めがつきますから』
だから見過ごせずに声をかけたのだと、自分勝手に申し訳ないと、彼女は頭を下げた。彼女なりの優しさが、少々強引であったことを自覚しているらしい。
顔を上げて、とファイノンは柔らかな声でお願いをした。
『こちらこそ、心配をかけたのに大したことない悩みですまない』
『いいえ、とんでもございません。その方がいいに決まっております』
『僕はあなたに声をかけてもらえてよかったと思うよ。悩んでいるつもりだったけど、僕は案外はっきりとステーキを食べたいと思っていたことがわかったから。教えてくれたのはあなたの占いだ』
『ファイノン様……』
それが、レストランでの会話だ。食事の後、婦人と別れてすぐにモーディスを探し始め、今に至る。
掻い摘んで話し、ファイノンは思考を整理するように呟いた。
「彼女は『運命』のことを、逃れられない、定められた『結果』のように言っていた。ままならない現実を諦めるための口実なのだと」
あの婦人の口からこぼれた『運命』という言葉は、酷く重いもののように感じた。逃れられない、縛り付ける、やむを得ない結果。受け入れ難い結末を過度に恐れ、運命による結果を変えることはできないのだと諦めるために、決断の責任を占いに明け渡している。彼女の語りはそのようなものだった。
それ自体を否定する気はない。彼女の人生を否定するのと同じだからだ。占いに委ねる行為は無責任なように聞こえても、その結果に従うと決めたのは彼女自身である。
「でも、『運命は結果ではなく過程』だと、前にトリビー先生が言ってたんだ。結果が運命によって定められてるなら、占いに頼る必要はない。何を選んだって辿り着く先は同じなんだからね」
ファイノンは真っ直ぐ前を見据えた。モーディスの視線を感じるが、今のところ口を挟む気はないようだ。
「実際のところ、結果は、選択によって左右されるものなんじゃないかな。だとしたら、迷いなく選んでしまう道こそが運命なんだろう」
言葉にしたことで考えがまとまってきた。彼を思考整理に付き合わせたことへの罪悪感はあるが、出てしまった言葉は戻らない。
彼の方へと顔を向け、視線を返す。
「そう思うと……運命とは『選択』のことなのかもしれない」
モーディスは目を逸らさずにファイノンの方を向いていた。程なくして彼はふっと息を漏らし、唇の端を僅かに上げた。
「自問自答は済んだか、救世主」
「はは、聞いてくれてありがとう。楽しい雑談のつもりが重苦しくなって悪いね」
「構わん。この道は気軽に歩むべきものではない」
「そう……だね」
ふん、とお決まりのように鼻を鳴らすと彼は前を向いた。どっかりと背もたれに寄りかかる姿が、まるで王座を陣取る王のように見えてくる。
ファイノンはモーディスを真似て前を向いた。同じ椅子に腰掛けたとて、これは王座のようにはなってはくれまい。本来、自分は王座と縁遠い身分なのだ。
「もしも運命があるのなら、何もかも忘れて真っさらな状態で歩み始めたとしても、今と同じ道を選ぶってことなんだろうな」
これを逃れられない宿命として悲観する者もいるのかもしれない。しかし少なくとも、自らの意思で選んだという自認がある内は、これが己の使命だと胸に抱くことができる。黄金裔として救世の責務を果たすこと、それがファイノンの選択だ。
チラッと、隣の男を見遣る。尋ねるまでもないことのように思えたが、彼の回答を聞きたいと思った。
「君はどう思う? モーディス」
「ふん、奇妙な例え話だ。だが仮に、俺が再びメデイモスと成ったならば──俺は迷いなく、何度でも、故郷と一族の誇りのために歩むことを選ぶだろう」
彼らしく、キッパリと言い切る声だった。彼にも迷うことはあるのだろうか。クレムノスの王位継承者として、孤軍の主導者として、そして火を追う旅の一員として。
今は想像できないが、いずれ紛争のタイタンであるニカドリーの火種を目指して彼の故郷へ向かうその時に、彼も憂いを抱くのかもしれない。
「そしてお前と出会い、火追いの旅に加わるのだ」
そんな風に考え込んでいる最中、突然向けられた視線にファイノンは目を丸くした。
彼は当たり前のことのように言った。仮に巻き戻って人生をやり直したとしても、再びファイノンと出会い、オンパロスの未来を目指すのだと。
「……光栄だな。君の想定には僕がいるんだね」
「このオンパロスが変わらんのであれば、お前は必ずいる。そうだろう、『救世主』」
「だったら──いや」
僕がいない方が、オンパロスは平和ということかもしれない──咄嗟に浮かんだ言葉を飲み込む。飲み込めたことに安堵する。
開きかけた口から何を言おうとしたのか、もしかすると彼は察したのかもしれない。一瞬、彼の視線が鋭くなる。
軽く首を振り、言葉を続ける意思がないことを示すと、彼は表情を緩めて前を向いた。
「一つ、答えろ」
「ん? なんだい?」
「選択を運命と呼ぶのなら、お前とこうして水に浸かっていることも運命か?」
チラリと、視線だけが戻ってくる。その目は悪戯っぽく細められていた。まさか彼の口から冗談めかした言葉が出るとは思わず、面食らう。
「そっ……んなこと言って、からかわないでくれ。言い出したらキリがないよ」
ぷいっと顔を背けて目を瞑っても、モーディスに見つめられているのがわかる。だって、彼は眼力が強いから。
モーディスと連れ立ってピュエロスへ来るのはこれが初めてではない。むしろルーティンの一つとも言えるくらいの日常だ。
しかし日々の些細な選択も、道筋の一つなら。運命に組み込まれているとも言えてしまうのかもしれない。
「少なくとも俺は、お前に付き合うのでなければこんなぬるま湯を風呂として認めることはない」
畳み掛けるような発言に、いよいよどうしたらいいかわからなくなってくる。だが、このまま黙っているのでは言い合いの負けを認めるようなものだ。
言葉を絞り出し、彼にぶつける。
「人生には寄り道することもあるんじゃないか? こうして君と僕とで水浴びをするように」
「貴様はこれを寄り道と呼ぶのか」
「だってこんな些細なことまで運命なんかにされたら、今度から誘いづらくなっちゃうだろ」
「ふん、その脆い精神でごちゃごちゃ考えようとするな。運命だの選択だの、どのような呼び名を与えられようと、俺たちのやるべきことは変わらん。『救世主』、忘れるな。お前が一番よくわかっていることだろう」
どうやら、彼なりの励ましだったらしい。
すとんと胸に降りてきた声は、ファイノンの背筋を正した。前を見据え、聖都の風景を見下ろす。
「……うん、わかってる。ありがとう、メデイモス」
ふん、と彼は少し笑ったようだった。
もしも、このオンパロスという世界が、滅びる道を選ぼうというのなら。救世の歩みでその運命に抗ってみせよう。選択の積み重ねで作る道ならば、到達点が変わることもあるかもしれない、そう信じて。
気まぐれに湯を掬い、指の隙間からこぼれ落ちる様を見守る。祝福を受けているこの湯はほのかに金色に光っていて綺麗だ。手のひらには何も残らない、もう一度湯を掬い、小さな滝を作って遊ぶ。意味のない繰り返しのようでも、なんとなく、必要な時間に思えた。
不意に──ぐぅ、と。
静かな感傷の幕が降りる。終演のブザーはファイノンの腹の音だった。
モーディスにも聞こえてしまったようで、顔がこちらを向いている。重さを吹き飛ばすのにはちょうどよかったのかもしれないが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
ざぶっと立ち上がり、モーディスに背を向ける。
「あはは……やっぱり、お腹が空いてたみたいだ。そろそろ上がろうか」
ぐぅ、ぐぅう。モーディスよりも先に腹が返事をした。少し距離を取ったから今のは聞こえていないと思いたいが、どうにも二人きりのバルネアは音が響く。それはもう、普段の騒がしさが恋しくなるくらいには。
「うぅ……何か食べてから寝ようかな……」
「眠る前に食事を摂るのは感心しない。だが」
モーディスが上がってくる。先に着替え始めたファイノンに並び、体を拭きながら甘言を呟いた。
「明日の朝食であれば、ハニーケーキを焼いてやってもいい」
気恥ずかしさ、よりも。口角が上がる、彼の焼くハニーケーキはとびきり美味しいのだ。ファイノンは勢いよくモーディスの方を向いた。
モーディスは柔らかい表情を浮かべていた。からかいではなく約束なのだとわかる。
「本当に? 絶対だよ、朝一番に君の部屋へ行くからね」
「精々、寝過ごして機会を逃さないようにすることだな」
「早すぎて怒られることがあっても、寝坊だけはしないよ。僕の食い意地に誓ってね!」
「それが胸を張って言うことか」
身支度を整えながら、歩きながら、弾む心を声に乗せる。いっそこのままついていって朝を迎えたいくらいだが、目覚めに彼の部屋の戸を叩く楽しみも取っておこう。
各々の部屋へと向かう別れ道、彼の前に回り込み、体を傾けて顔を見上げる。あまりに単純な食いっ気に呆れられているかもしれないが、それでも構わない。緩みっぱなしの唇で、祝福を囁く。
「モーディス、また明日」
「ああ、また明日」
これは、一番身近な未来の約束。エスカトンにおける未来は不確かでも、祈りは真実だ。明日があると誰もが信じている。
その明日の火を灯すのは自分たちだと使命を胸に抱いて、今日という日を終えるのだ。
end
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