傍にいる人








「――花?」

 カーヴェがアルハイゼンの部屋に入ったのは、掃除のためだった。いつものようにやろうとしてドアを開けた瞬間、いつもだったら有り得ない光景に出迎えられたのである。

「あいつに花を飾る趣味なんかあったのか? ……うん? この花……なんだか見覚えが――あっ!」

 そこでカーヴェはようやく思い出した。酔ったおかげですっかり忘れていたが、仕事になるはずだった品である。珍妙な依頼人のせいで、丹精込めて選んだ花束を持ち帰る羽目になったのだ。

「どうしてアルハイゼンの部屋に……? 僕が置いたとは思えないし。まさかあいつが自分で? いやいや、そんなはずが……でも、現にこうしてあるわけだし」

 花瓶は机とベッドの間にある棚の上にちょこんと乗せられていた。机にいる時には眺めることができ、眠る時には香りを楽しめる、そんな位置だ。

「ふぅん。あいつにしては悪くない場所じゃないか。どうせ他に置く場所がない、とかそんな理由だろうけどな」

 カーヴェは己が時間をかけてじっくり選んだ花を見つめた。いったいどういう風の吹き回しかは知れないが、カーヴェが君の部屋に飾れとごねたところで自らの意思がなければ従わない男だ。であれば、少なからず気に入ってくれたということだろう。

「まあ、あいつにも草花を慈しむ心くらいはあるだろう。美しさへの理解とはまた別の感性だからな。ああほら、また本を出しっ放しにしている! 部屋の中のことまで口を出したくはないが、花瓶の傍に置くのは有り得ない! 濡れてしまったらどうする気なんだ」

 本を読みたいからスープは嫌だと言うくせに、と、ぶつぶつ文句を言いながらカーヴェは本を片付けた。
 そう頻繁に部屋の中までは掃除をしてやらないが、明日からまた依頼でしばらく家を空けるのだ。きちんと掃除してから行ってやろうというわけである。
 カーヴェは美しい花を見遣った。なかなか悪くない気分だ、と口元を緩めながら。





「――花?」

 数日後、依頼人との話し合いが一段落したところでカーヴェは家に帰ってきた。掃除をしていなかったのだろう、埃が溜まってきているからまずは掃除だ、と。自分の部屋と共有スペースの掃除を終えてから、最後にアルハイゼンの部屋のドアを開けたのだ。

「あいつ、まだ飾ってたのか」

 出発前と同じように、カーヴェを出迎えてくれたのは花だった。花の数が減っているようだから、枯れてしまったものを片付けたのだろう。

「ちゃんと水も換えてるみたいだな……アルハイゼンのやつ、花の世話の仕方なんて知ってたのか。まあ、あれだけ本を読んでいるんだ、そういうことも書いてあるだろ。ティナリに尋ねるって手もあるしな」

 少し高さも変わっているようだから、おそらく茎の切り直しもしているのだろう。数日前と遜色ない美しさが保たれているのは非常に喜ばしいことだ。

「どういうつもりかは知らないが、この花だって一応は僕の作品だ。まあ……その、なんだ……」

 そっと、花瓶に手を伸ばす。愛しいものに触れる時のように、優しく柔らかく、その縁を撫でる。

「大切にしてくれて……ありがとう」

 ――と。
 思わず呟いてしまった言葉が音として再びカーヴェの脳に戻ってきたところで、カーヴェはびくっと体を飛び上がらせた。体ごと首をキョロキョロと動かして周囲を確認し、誰もいないことに安堵する。

「あいつはまだ仕事中のはずだ、いるわけない。大丈夫だ。……聞かれてないよな? あいつ、たまに妙なタイミングで出てくるからな……」

 もう一度、注意深く周囲を見回す。しんと静かな家には何の気配もなく、カーヴェ一人きりのようだ。改めてホッと息を吐き出し、花の前に立った。 

「君は、聞いてたよな……伝言頼むよ――なんて」

 取り消すようにぶんぶんと頭を振って、カーヴェは箒を握り直した。いつもより、少しだけ、丁寧に掃除してやろう――と、考えながら。





「ふふん、今夜はそうだな、好物でも作ってやるか。何にしようか……ステーキ? あいつは単純な料理が好きだからな。盛り付け甲斐がないよ、まったく」
「――カーヴェ。君は独り言の声量に気を遣うべきだ」
「うわっっ?!」

 妙なタイミング、というのはカーヴェが夕食の材料を買いに店を見て回っている時のことだったらしい。ぬっと背後から現れて声をかけてきたのは、あいつことアルハイゼンである。

「そんなに大きな声で言った覚えはない! 君こそ登場の仕方に気を遣うべきなんじゃないか?!」
「知り合いがいたから声をかけた。それのどこにおかしな点が?」
「強いて言うなら君の方から声をかけている点じゃないか? もっと友好的な態度を示すべきなんだよ、君は」
「なかなか面白い指摘だ。そんなことより、随分機嫌が良さそうだな。理解ある依頼人だったか?」

 機嫌がよさそう、という言葉にカーヴェはピクリと反応を示した。眉を顰め、気まずそうにアルハイゼンを見上げる。

「そ、そんなに浮かれて見えたか……?」
「もし旅人たちが君を見かけていたなら、カーヴェはご機嫌だったと報告しただろうな」
「そんなにか?!」

 出てしまった大声は戻らない。カーヴェはハッと口元を押さえ、視線だけをきょろきょろと動かして周囲を確認した。幸い、大した注目は集めていないようだ。
 確かに気分は良かった。しかしそこまで浮かれていたつもりはないのに、こうもわかりやすいと指摘されると気恥ずかしくもなるものだ。依頼人が起因であればそうもならないが、生憎、上機嫌な理由を作り出したのはじっとカーヴェを見つめている彼である。

「………花を」

 その視線に耐えかねて、カーヴェは口を開いた。

「部屋に、飾ってくれているだろ」
「花? ――ああ」
「僕が選んだものだ。……悪い気は、しない」

 ふっ、とアルハイゼンは鼻を鳴らした。僅かに口元を綻ばせている。
 しかしカーヴェはそれどころではない。複雑な胸の内を察したところで慮る奴ではないと嫌と言うほど知っているからだ。これ以上隙を見せるべきではない。

「それで! 今夜は何を食べたいんだ?」
「この前のステーキは悪くなかった」
「まったく、素直に美味しかったと言えばいいだろ」
「ほう。大建築家殿は棚の設計もさることながら棚に上げるのもお得意のようだ」
「き、君ねえ……! 作ってやらないぞ?!」
「なるほど。お優しいカーヴェ先輩ともあろうお方が随分卑怯な手をお使いになる」
「こんな時ばっかり先輩なんて言葉を使う君の方が卑怯じゃないか?! ふん、作ってやろうじゃないか、前よりもっと美味しいステーキを!」
「ほう? それは楽しみだ」

 上手く乗せられたフリをして、内心ほっと息をつく。友人とも家族とも呼べない奇妙な間柄の彼に礼をする機会を逃したくはなかったのだ。
 こうなったら合流したのをいいことに、予算は全てアルハイゼンに任せて材料をグレードアップしてやろう――そう決心して店を探すカーヴェの後ろにアルハイゼンがついていく。

「お、今日もいい獣肉を仕入れているみたいだ。おいアルハイゼン、せっかく合流したんだ。君が出せよ」
「俺と会わなかったら払う気があったとは驚きだな」
「仕事をしてきたからな! 収入はあるんだっ」
「君は使い切らないと気が済まない性分らしいな。そういえば、あの花瓶も高そうに見えたが」
「うぐっ……あれはその……いいだろ別に!」

 目を引くほどの声量ではないものの、わーわーと言い争いながら彼らは歩いて行った。
 もし、アルハイゼンを知っている者がこの様子を見かけていたなら、きっとこう言うだろう――アルハイゼン書記官が珍しく上機嫌だった、と。


 
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