傍にいる人
◆
ジュー、パチパチ、パチッ、ジュー。
アルハイゼンを出迎えたのはそんな音と、肉の焼ける香ばしい匂いだった。発生源は、またしても扉の開く音に気がつかなかったらしい。
「今夜はステーキか」
「うわっ?! か、帰ったなら帰ったと言え! 驚かせるんじゃないっ」
「君が勝手に驚いたんだろう。大声で、ただいま、とでも言えばよかったか?」
「それはそれで心臓に悪いな……って、そういう話じゃない! 背後に忍び寄る前に声をかけることくらいできただろ!」
「忍び寄った覚えもないが」
「まあいい、もうすぐ焼けるから、手を洗って席で待っていろ」
アルハイゼンの言動にぷんぷんと怒りながらも、彼が作っているのはどう見てもアルハイゼンのための料理であった。このような豪快な料理を好むのは、繊細な芸術家たるカーヴェではなくアルハイゼンの方だからだ。
しかし、あまり食卓に並ぶメニューではない。家に置いてもらう代わりにと家事を請け負ったのはカーヴェだ。食事の支度もその一つだが、大抵は盛り付けにもこだわった掴みにくい料理を出される。
本を読みながら食べにくいと苦言を呈すると、そもそも食事の時に本を読むなと説教が返ってきたものだ。今でもしょっちゅうそんなやり取りをしているが、言っても聞かないと双方諦め、カーヴェは手で掴んで食べやすい料理も作るようになり、アルハイゼンもたまには本を置くようになった。
単純かつ豪快に焼いただけの肉は、確かにアルハイゼンの好物ではある。しかし切り分けて提供しろと要求するほど傲慢でもない。つまり、本を読みながら食べるのに適した料理ではない、というわけだ。だからアルハイゼンもわざわざリクエストなどしないし、機会が少ないことについても文句はない。
ただ、今夜はステーキだ、と。それはなかなか魅惑的な言葉だ。食欲というのは、生存において最も優先されるべき欲求なのだから。
「そら、出来たぞ」
言われた通りにして席で待っていると、目の前に皿が置かれた。乗っているのはもちろんステーキだ、それもかなり分厚い。
「本を読みながら食べられそうにないな」
「君ねえ……何度言ったらわかるんだ、食事の時は食事を楽しめ。君だって好きだろ、ステーキ。好物くらい食べることだけに集中したらどうなんだ」
「ふむ。肉に免じて、今日のところは君に軍配を上げるとしよう」
「ふん、妙に素直じゃないか。いつもそうなら後輩らしくて可愛げがあるってのに」
ぶつくさ文句を言っているカーヴェを尻目に、アルハイゼンはステーキにナイフを入れた。大きめに切り分けた一切れをばくりと頬張る。
それを思い切り噛み締めると、肉汁がジュワッとあふれて口の中を満たした。咀嚼する、歯を押し戻すような弾力も食べ応えがあって悪くない。味の決め手は凝ったソースではなくシンプルに塩、それからハッラの実を使った香辛料だけで、素材の味を最大限に引き出している。
ごくりと飲み込む。喉を通るその時までもが味わいと言わんばかりの存在感だ。皿の上の塊を見下ろす。今夜はあと幾度、この食感を楽しめるだろうか。
お望み通り本を開かずに食事を楽しんでいるアルハイゼンがお気に召したらしい。カーヴェは上機嫌に鼻唄を歌いながら立ち上がった。そして、酒瓶を手に戻ってくる。
「ふふん、こないだのセールの掘り出し物だ。今日は気分が良いから君にも分けてやろう」
「ほう。では頂こう」
「あのアカツキワイナリーの赤ワインだ、期待していい。今日の料理にもきっと合うぞ」
――どうしてそんなに上機嫌なんだ。
と、尋ねる気はなかった。理由ならわかっている。あえてつつくこともできるが、今夜はそれをしない。この贅沢な食事の味を損ねたくないからだ。
ポン、と小気味いい音と共に栓が抜かれる。二人分のカップに深い紅色を注ぐ横顔は微笑んでいた。
カーヴェはアルハイゼンの隣に腰掛けると、肉を小さく切り分けて口へ運んだ。
「――うん、美味しい! いい肉だな、また次もあの店で買うとしよう。ワインも……うぅん、いい香りだ……味は、少し渋みが強めだが、やはり今夜のメニューにはよく合う。このワインを使ってソースを作ってもよかったかもな……いや、余計なひと手間を加えるよりも、シンプルなこの調理法こそが今夜のベストだ。アルハイゼン、君はどう思う?」
「ああ、悪くない」
「……その、口には合ったのか?」
「逐一説明する必要が? 皿を見ればわかるはずだが」
「君は素直に美味しいのひと言も言えないのか?! あーやめだやめだ、君みたいな堅物に料理の感想なんか聞いた僕が馬鹿だった。口論なんかいつだってできる、今は食事を楽しむべきだ」
普段ならもう二、三言は文句が続くところ、終わらせたのはカーヴェの方だった。特段珍しいと驚くべきことではない。この食事の意味を推察すればわかることだからだ。
アルハイゼンはワインに手を伸ばした。唇に寄せた時に香る芳醇さだけでも満足感を得られる。それはカーヴェの評価通りの味わいだった。スッキリとした渋みが慣れた口内から肉の味を忘れさせ、次も最初の一口のような感動を与えてくれるだろう。
再び、皿を見下ろす。あと一回、いや、二回というところか。残りを二つに切り分けて、口の中を満たした。カーヴェはまだ半分以上残っているステーキをちまちまとつついている。
穏やかな時間だった。こうした食事のひと時を、アルハイゼンは好ましく思っている。共に過ごせる時はなるべく食卓を囲みたいというのがこのルームメイトの意向らしい。無理に付き合う気はないが、本を読むなという文句を許容する程度には気に入っていた。
そしてカーヴェも当然、この時間を気に入っているだろう。我らが大建築家殿は、家という存在に大層なこだわりがあるからだ。
ふと、明け方のことを思い返す。何を言うでもなく、ただ傍にいただけのひと時を。
「……ん? なんだ、アルハイゼン。じっと見つめたりなんかして。一口が小さいとでも言いたいのか?」
「いや? 君の食事のペースについて、特段気に留めたことはない」
「なら、何が可笑しいんだ。何もないのに笑うなんて、気味が悪いぞ」
「ふむ」
すっかり調子を取り戻したらしいルームメイトをじっくりと観察する。
彼は、ありとあらゆることに頭を悩ませる。きっとこのメニューに決めるのさえ、あれやこれやと悩んだことだろう。アルハイゼンの好物と言っても、食べやすさの観点から好むものもあれば、食べ応えで好んでいるものもあるからだ。
その中から選ばれたのは、最もシンプルで、シンプル故に誤魔化しの効かない一品――アルハイゼンは空になった皿へ目を落とした。
気が向いたので、思考を口にする。
「様々な事象が絡み合うと、物事はいかにも複雑そうに見えるだろう。しかし解いてしまえば、それぞれは一本の糸に過ぎない。解くことなど出来ないと思わせることが、複雑さの正体とも言えるな」
「なんだ? また講義が始まったのか? こんな時にやめるんだ。せっかくの料理が冷めるだろ」
「俺はもう終わったが。君はまだ半分も残っているな」
「僕のペースに文句はないんじゃなかったのか? 僕は味わっているんだ。君こそ、この特別な料理をもっとじっくり味わって食べるべきだったんだ! ふん、どうせすぐに部屋に戻って本でも読むんだろ、好きにしたらいいさ」
「そうか。なら、好きにさせてもらおう」
カーヴェは目を見開いた。立ち上がらず、その場で本を開いたアルハイゼンには意外性があったのだろう。しかしこれで、今夜のメニューの真意がアルハイゼンに伝わっているということは、カーヴェにもわかったはずだ。
アルハイゼンの好物を用意しておく。実にシンプルなやり方だ。アルハイゼンはページをめくりながらカーヴェを見遣った。
カーヴェはあれこれ感想を呟きながら食事を続けている。視線も言葉も交わさない、たまにはこういう日があってもいいだろう。
――ありがとう、そんな言葉の代わりだと、知っているからそれでいいんだ。
ジュー、パチパチ、パチッ、ジュー。
アルハイゼンを出迎えたのはそんな音と、肉の焼ける香ばしい匂いだった。発生源は、またしても扉の開く音に気がつかなかったらしい。
「今夜はステーキか」
「うわっ?! か、帰ったなら帰ったと言え! 驚かせるんじゃないっ」
「君が勝手に驚いたんだろう。大声で、ただいま、とでも言えばよかったか?」
「それはそれで心臓に悪いな……って、そういう話じゃない! 背後に忍び寄る前に声をかけることくらいできただろ!」
「忍び寄った覚えもないが」
「まあいい、もうすぐ焼けるから、手を洗って席で待っていろ」
アルハイゼンの言動にぷんぷんと怒りながらも、彼が作っているのはどう見てもアルハイゼンのための料理であった。このような豪快な料理を好むのは、繊細な芸術家たるカーヴェではなくアルハイゼンの方だからだ。
しかし、あまり食卓に並ぶメニューではない。家に置いてもらう代わりにと家事を請け負ったのはカーヴェだ。食事の支度もその一つだが、大抵は盛り付けにもこだわった掴みにくい料理を出される。
本を読みながら食べにくいと苦言を呈すると、そもそも食事の時に本を読むなと説教が返ってきたものだ。今でもしょっちゅうそんなやり取りをしているが、言っても聞かないと双方諦め、カーヴェは手で掴んで食べやすい料理も作るようになり、アルハイゼンもたまには本を置くようになった。
単純かつ豪快に焼いただけの肉は、確かにアルハイゼンの好物ではある。しかし切り分けて提供しろと要求するほど傲慢でもない。つまり、本を読みながら食べるのに適した料理ではない、というわけだ。だからアルハイゼンもわざわざリクエストなどしないし、機会が少ないことについても文句はない。
ただ、今夜はステーキだ、と。それはなかなか魅惑的な言葉だ。食欲というのは、生存において最も優先されるべき欲求なのだから。
「そら、出来たぞ」
言われた通りにして席で待っていると、目の前に皿が置かれた。乗っているのはもちろんステーキだ、それもかなり分厚い。
「本を読みながら食べられそうにないな」
「君ねえ……何度言ったらわかるんだ、食事の時は食事を楽しめ。君だって好きだろ、ステーキ。好物くらい食べることだけに集中したらどうなんだ」
「ふむ。肉に免じて、今日のところは君に軍配を上げるとしよう」
「ふん、妙に素直じゃないか。いつもそうなら後輩らしくて可愛げがあるってのに」
ぶつくさ文句を言っているカーヴェを尻目に、アルハイゼンはステーキにナイフを入れた。大きめに切り分けた一切れをばくりと頬張る。
それを思い切り噛み締めると、肉汁がジュワッとあふれて口の中を満たした。咀嚼する、歯を押し戻すような弾力も食べ応えがあって悪くない。味の決め手は凝ったソースではなくシンプルに塩、それからハッラの実を使った香辛料だけで、素材の味を最大限に引き出している。
ごくりと飲み込む。喉を通るその時までもが味わいと言わんばかりの存在感だ。皿の上の塊を見下ろす。今夜はあと幾度、この食感を楽しめるだろうか。
お望み通り本を開かずに食事を楽しんでいるアルハイゼンがお気に召したらしい。カーヴェは上機嫌に鼻唄を歌いながら立ち上がった。そして、酒瓶を手に戻ってくる。
「ふふん、こないだのセールの掘り出し物だ。今日は気分が良いから君にも分けてやろう」
「ほう。では頂こう」
「あのアカツキワイナリーの赤ワインだ、期待していい。今日の料理にもきっと合うぞ」
――どうしてそんなに上機嫌なんだ。
と、尋ねる気はなかった。理由ならわかっている。あえてつつくこともできるが、今夜はそれをしない。この贅沢な食事の味を損ねたくないからだ。
ポン、と小気味いい音と共に栓が抜かれる。二人分のカップに深い紅色を注ぐ横顔は微笑んでいた。
カーヴェはアルハイゼンの隣に腰掛けると、肉を小さく切り分けて口へ運んだ。
「――うん、美味しい! いい肉だな、また次もあの店で買うとしよう。ワインも……うぅん、いい香りだ……味は、少し渋みが強めだが、やはり今夜のメニューにはよく合う。このワインを使ってソースを作ってもよかったかもな……いや、余計なひと手間を加えるよりも、シンプルなこの調理法こそが今夜のベストだ。アルハイゼン、君はどう思う?」
「ああ、悪くない」
「……その、口には合ったのか?」
「逐一説明する必要が? 皿を見ればわかるはずだが」
「君は素直に美味しいのひと言も言えないのか?! あーやめだやめだ、君みたいな堅物に料理の感想なんか聞いた僕が馬鹿だった。口論なんかいつだってできる、今は食事を楽しむべきだ」
普段ならもう二、三言は文句が続くところ、終わらせたのはカーヴェの方だった。特段珍しいと驚くべきことではない。この食事の意味を推察すればわかることだからだ。
アルハイゼンはワインに手を伸ばした。唇に寄せた時に香る芳醇さだけでも満足感を得られる。それはカーヴェの評価通りの味わいだった。スッキリとした渋みが慣れた口内から肉の味を忘れさせ、次も最初の一口のような感動を与えてくれるだろう。
再び、皿を見下ろす。あと一回、いや、二回というところか。残りを二つに切り分けて、口の中を満たした。カーヴェはまだ半分以上残っているステーキをちまちまとつついている。
穏やかな時間だった。こうした食事のひと時を、アルハイゼンは好ましく思っている。共に過ごせる時はなるべく食卓を囲みたいというのがこのルームメイトの意向らしい。無理に付き合う気はないが、本を読むなという文句を許容する程度には気に入っていた。
そしてカーヴェも当然、この時間を気に入っているだろう。我らが大建築家殿は、家という存在に大層なこだわりがあるからだ。
ふと、明け方のことを思い返す。何を言うでもなく、ただ傍にいただけのひと時を。
「……ん? なんだ、アルハイゼン。じっと見つめたりなんかして。一口が小さいとでも言いたいのか?」
「いや? 君の食事のペースについて、特段気に留めたことはない」
「なら、何が可笑しいんだ。何もないのに笑うなんて、気味が悪いぞ」
「ふむ」
すっかり調子を取り戻したらしいルームメイトをじっくりと観察する。
彼は、ありとあらゆることに頭を悩ませる。きっとこのメニューに決めるのさえ、あれやこれやと悩んだことだろう。アルハイゼンの好物と言っても、食べやすさの観点から好むものもあれば、食べ応えで好んでいるものもあるからだ。
その中から選ばれたのは、最もシンプルで、シンプル故に誤魔化しの効かない一品――アルハイゼンは空になった皿へ目を落とした。
気が向いたので、思考を口にする。
「様々な事象が絡み合うと、物事はいかにも複雑そうに見えるだろう。しかし解いてしまえば、それぞれは一本の糸に過ぎない。解くことなど出来ないと思わせることが、複雑さの正体とも言えるな」
「なんだ? また講義が始まったのか? こんな時にやめるんだ。せっかくの料理が冷めるだろ」
「俺はもう終わったが。君はまだ半分も残っているな」
「僕のペースに文句はないんじゃなかったのか? 僕は味わっているんだ。君こそ、この特別な料理をもっとじっくり味わって食べるべきだったんだ! ふん、どうせすぐに部屋に戻って本でも読むんだろ、好きにしたらいいさ」
「そうか。なら、好きにさせてもらおう」
カーヴェは目を見開いた。立ち上がらず、その場で本を開いたアルハイゼンには意外性があったのだろう。しかしこれで、今夜のメニューの真意がアルハイゼンに伝わっているということは、カーヴェにもわかったはずだ。
アルハイゼンの好物を用意しておく。実にシンプルなやり方だ。アルハイゼンはページをめくりながらカーヴェを見遣った。
カーヴェはあれこれ感想を呟きながら食事を続けている。視線も言葉も交わさない、たまにはこういう日があってもいいだろう。
――ありがとう、そんな言葉の代わりだと、知っているからそれでいいんだ。