傍にいる人


 ――ああ、なんと情けないことか。

 ぽたり、ぽたりと。滲んでいくのは視界ばかりではない。止めどなくあふれるものが頬を伝って落ちていく。
 薄闇の中、カーヴェは呆然と、濡れていくシーツを握りしめた。
 アーカーシャを止められてから、スメールの大人たちは夢を見るようになった――というのは、かの英雄譚からよく耳にするようになった噂だった。夢は子供のものではなく、奪われていた資産だったのだと。
 しかし、しばらくの間、カーヴェにとって噂は噂に過ぎなかった。酔い潰れて、気がつけば朝――そうした生活を続けていたからだ。
 そして今更、体験して。夢と現実の落差に困惑し、ハッと飛び起きてから身動ぐこともできずにいる。残像に縛り付けられたかのようにピタリと止まったその中で、こぼれ落ちる雫だけが時の流れを示していた。

 母がいた。その隣には父がいて、カーヴェは両親の間にいた。依頼のことでプンプンと怒り出す母に父は寄り添い、話を聞いているうちに母は笑顔になって、つられてみんなが笑う。そうして、また明日、おやすみなさい、と、眠りに就いた。

「夢、ってのは、こんなにも空虚なものなのか」

 ぽーんと、静寂に放った声が体の中に響く。己の他に誰もいないベッドが冷たいように思えて、すぐにでも抜け出したいのに、直前までそこにあった温もりを探してしまう。ないものは、ないのに。
 空虚だ。虚しさを感じずにはいられない。だったら夢なんて見られない方がよっぽどかいい。

 ――空虚? 空虚なものか。どんなに目覚めが虚しくとも、今の僕を構成する要素には違いない。であれば、無意味なものではないはずだ。

 建築と似たようなものだ。たった一つの材料が仕上がりを左右するように、あの温もりが存在したこと、そして、この夢のように消え去ってしまったこと、そのどちらもが今のカーヴェを作り上げている。
 いっそ握り潰してほしいとすら思えるほどの胸の痛みも、決して無意味ではないのだ。己の根幹とも言えるものなのだから。

「っ……、う……」

 飲み込みきれなかった感情が実体を得て、現実を濡らす。こうして涙を流すのはいつぶりか、酔っている時のことまではいちいち覚えていないが、この家に来てからは初めてのはずだ。
 ――ああそうだ、ここは、空っぽの住居じゃなくて、あの無礼な後輩の家だ。これ以上情けない姿を晒したくはない。
 だがしかし、まだ明るくならないこんな時間だ。彼は眠っているだろう。お得意の遮音ヘッドホンでもって、深い深い眠りに。

「っふ、ぐ………うぅ……っ」

 きっと気がつかれやしない――そう思ったら尚のこと、止まらなくなってしまった。ただ流れるばかりだったものに嗚咽が伴う。
 カーヴェは泣いていた。子供のようにはできなかった。わんわんと泣きじゃくりたくなる衝動を膝と一緒に抱え込み、声を押し殺して泣いていた。
 どうして泣いているのか、悲しいからではない、ただ、心を整理するためだ。顔も歪めて、今、自分は苦しいんだと、そう示してやることで落ち着くからだ。この苦しみを送り出す儀式のようなものなのだ。
 そう言い聞かせて、一人分の温もりを抱きしめる。

「――アーカーシャがあった頃の方がよかったと、君は思うか?」
「ッ、あ……アルハイゼン……?!」

 部屋の扉が開く音さえ聞こえなくなるくらいには、泣くことに集中していたらしい。声の主、かつ家の主は、カーヴェの部屋の入り口に佇み、じっとこちらを見据えていた。

「な、なんで、起きているんだ」
「君がうるさかったからに決まっているだろう」
「そんなはずっ……だって君、ヘッドホンがあるだろ!」
「自分の家で眠る時までヘッドホンをしていたくないと思うのは、至って普通のことだと思うが」
「うぐっ……いや待て! いくらなんでも聞こえるはずないだろ。ちゃんとドアは閉めていたし、君だって自分の部屋で寝てたんじゃないのか」
「ほう。どうやら君は、己の騒々しさを知らないらしい」

 ムッと眉を顰めても、未だ止まらない涙を見て、さすがのアルハイゼンも怪訝に思ったらしい。いっそもう少し暗ければバレなかったろうに、互いの表情が見えるくらいの時間にはなってしまっていたようだ。
 アルハイゼンが一歩踏み出した――それからベッドの脇に来るまで、数秒もかからなかった。

「カーヴェ」

 たった一回、名前を呼んだだけ。
 それからアルハイゼンはベッドに腰を下ろした。本当にそれだけだった。何も聞かず、泣けとも、泣くなとも言わず、何もせず、動こうともせず、ただそこにいた。己の存在を示すかのように、ただそこにいてくれた。
 いつもこうだったら、腹も立たず、友人だった頃のように、言えるのに。やればできるくせに普段はやろうともしないから、嗚呼、やはり、腹が立つのだ。
 カーヴェは奇妙な縁を睨みつけた、ほんの一瞬だけ。今はどうしても、温もりが恋しい。

 ――ありがとう、たった五文字が言えなくて。君の背中に、僕は縋った。



 
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