小春日和
二学期の終わりも間近、よく晴れた日の昼下がりのこと。
「………」
ここにいたか。と、冬沢は小さく息を漏らした。校内で見当たらなかった姿を探し、ふと思いついた場所を訪れてみたのだ。
野外劇場──本来、封鎖されているはずの立ち入り禁止区域。
そんな場所で、尋ね人は優雅に昼寝をしていた。いくら暖かい日とはいえ、真冬の石階段なんて冷たいだろうに。もう一度、改めてため息をつく。
「──四季」
今、この瞬間に相応しい、静かな声で。おそらくその耳には届いただろうが、夢の中にまで響いたかどうかはわからない。穏やかな寝顔を見下ろす。
四季。四季、起きろ。眠っている王に呼びかける。
「………」
四季。四季、起きろ。身じろぎもしない王に呼びかける。
「………」
四季。次に出たのは、声と言うよりはため息だった。ちっとも動かない穏やかな寝顔を見下ろして、その傍らに腰掛ける。微かな寝息を聞きながら、これで何度目だろうか、と今はもう数えていない回数を考えた。あと何回かと逆算した方が早いだろう。
見慣れない背景だ、と思った。四季は次から次へと昼寝場所を見つける。すっかり慣れてしまったが、最初の頃は苦労したものだ。思い出してフッと息を漏らす。こういう気持ちの良い晴れの日は外、曇りや雨の日は校内、そんな風に覚えていったな、と。
起きる気のなさそうな寝顔に視線を戻す。飽きもせずによく眠る奴だ。
「……呪いでもかけられているのかもな、お前は」
それで釣り合いが取れているのかもしれない、呪いに身を護られて、だから穢れを知らず清廉なままでいられたのだ。と、馬鹿げたことを考えた。考えてしまった。
これは一年の、まだ候補生だった頃の話だ。
休み時間になるとふらふらと出かけて授業が始まっても戻ってこないことがある──ということは中等部時代からよく知っていたが、スター・オブ・スターという名誉の冠を手にしてもあいつは変わらなかった。
稽古の時間が近づいてきても姿を現さない四季を探して空き教室を全部覗いて回り、最終的に屋上で見つけた、あのよく晴れた春の日。
「──四季、こんなところにいたのか」
「ん……、……ふゆさわ?」
「どうしてここに、とでも言いたげな顔をしているな。それはこっちの台詞だよ。何時だと思っている? もう稽古が始まる時間だ、先輩を待たせる気か?」
「ああ……そんな時間か。悪い、行くよ」
のそりと起き上がる四季を待ち、稽古場へ向かおうと踵を返したその瞬間。見計らったかのように、屋上の扉が開いた。
「あっ……」
そこから現れたのはジャージ姿の生徒だった。それも一人ではなく、五人。ということは、おそらくは同じ一年の、一般枠の生徒だろう。見慣れない顔だ。
先客がいたことで引き返そうとするリーダーらしい一人に声をかける。
「俺たちはもう行くよ。好きに使うといい」
「あ……そう、なんだ。ありがとう、……冬沢、くん」
「礼を言われるようなことじゃないよ。屋上は俺たちのものではないからね。行くぞ、四季」
「ああ」
「………」
一般枠の生徒を尻目に、さっさと階段を降りていく。スター・オブ・スターの指導者、すなわち現華桜会の首席様をお待たせするわけにはいかない。屋上から稽古場まではそこそこ距離があるのだ。
だというのに、こんなところまで来させた理由は、バタンと閉まった扉の音に立ち止まっていた。そして振り返る──まるで、後ろ髪でも引かれたかのように。
思えば、それが片鱗だったのだろう。一年の春の、まだチームメイトとして顔を合わせてから日の浅い頃に見せた、こぼれ落ちた者へと手を差し伸べたがる心。自分が高みへと行くことよりも、より多くが自由に羽ばたけることを願う心。
冬沢はため息をついた。見下ろした先の口角が、ほんの少し上がっていることに気がついたから。
「四季。起きているんだろう? 騙す気なら本気を出せ。茶番に付き合ってやるほど、俺は暇じゃないんだよ」
「……ふはっ、バレたか。王子様が起こしてくれるのを待っていたんだけどな」
「まだ眠っているつもりか?」
「いいや、ちゃんと起きているよ」
そう言って、四季は体を起こした。冬沢の隣に座り直し、かつてのステージの方へと視線を向ける。
「よくここがわかったな」
「最近言っていただろう、侵入者がいないか時々見に行くと。その侵入者と、密会をしていたのはここだったんだな」
「密会の気はなかったが……特別な場所なんだと。あいつ、しょっちゅうここで考え事してるんだぜ」
「考え事?」
「ちょっと意外だろ? あいつもあいつなりに考えて行動してた、ってわけさ」
「考えた末に華桜会に楯突いたと言うなら、呆れたものだね。並の神経でできることじゃない」
「そんなこと、team鳳の綾薙祭公演……いや、新人お披露目公演の頃からわかってたことだろ?」
「……はあ。あんなことをしておいてテストステージをパスできたなんて、未だに信じ難いよ」
「あいつらは、観客の心を魅了した──ただトリッキーなだけじゃ評価はついてこない。あいつらのパフォーマンスには、何か心を動かす力がある。オープニングセレモニーのステージ、冬沢も見ただろ?」
「…………」
古びたステージに目を向ける。最新設備の整った歌劇場とは似ても似つかぬ姿だ。けれど、パフォーマンスを披露する場であることには違いない。目の前のステージと、あの日の記憶が重なる。
思い出したくないような、それでもずっと心に残ってしまいそうな、オープニングセレモニー。学園内外に実力の象徴として見せつけるパフォーマンスとしては荒削りだった、けれど。
あの日、あの時、舞台袖で見えた景色を──眩しい、と感じた。
あいつらが? 照明が? 今となってはわからない。わからないふりをしている。チームもステージの持つ意味も関係なく、真正面からただ互いを鼓舞し高め合う姿が、そこにあったのだ。
チラッと、視線を動かす。四季は変わらず、ステージだったものを見つめていた。以前は誰かが立ってパフォーマンスをしていただろうその場所に、今は立ち入り禁止の看板とカラーコーンが立っている。
「……お前は? 今までこんなところに足を運んでいなかっただろう。どういう風の吹き回しで昼寝場所にしようと思ったんだ?」
「あぁ……ほらここ、取り壊されるだろ」
「老朽化が進んでいるからな」
「今まで、ろくに目を向けてこなかった。長いこと使われていなかったから……ずっと、ここに在ったのに」
──ああ、この顔。この顔だ。こいつのこの顔が、どうしようもなく気に食わない。こぼれ落ちるような弱き存在に向けるこの眼差しが、こちらを向かないこの眼差しが、やっぱり気に食わないのだ。
同時に、上を向かずただ目の前に在るものを見据えるその純粋さこそ、四季斗真なのだ、と。そう思っているから、この胸の内を明かす気などなかったのだ。
一年の、新人お披露目公演が終わった頃の話だ。
その日も、冬沢はいつものように四季を探して屋上へと向かっていた。移動時間も考慮して、余裕を持って。よく晴れた気持ちの良い日だから屋上に違いない、と確信めいた予想を抱いて向かっていた。
屋上の扉に、手をかける。
「ワン、ツー、スリー、フォー、……、………」
ドアノブを回す、その寸前で止まった。パン、パン、パン、パン、というリズミカルな手拍子とともに声が──四季の、声が、聞こえてきたから。
「………」
にわかには信じ難かった。間違いなく四季の声なのだ。耳を澄ませばステップを踏むような音も聞こえる。タン、タン、タタン、タン、一瞬ズレてすぐに戻って、また四季の声が聞こえる。いいぞ、その調子だ。なんて、そんな声が。
いったい、何をしているというのか。お前が屋上ですることなんて昼寝か、日光浴か、せいぜい手すりに寄りかかって風に吹かれるくらいのことだろう。これはまるで、まるで──
「……っと、こんな時間か。悪いな、今日はここまでにしよう」
──稽古でも、しているみたいじゃないか。
足音が近づいてくる。一人分だ、おそらく四季だろう。音を立てないように階段を降りて、扉の位置からは死角になる場所でそいつを待った。
扉が開く。コツコツと階段が音を奏でる。それ以外は静かすぎる空間であった。
そうして、想像通りの姿が現れる。
「冬沢」
「驚くようなことか? いつも稽古の前には探しに来てやっているだろう。じゃないとお前は時間を無駄にしかねないからね」
「……冬沢」
「行くぞ。……話はそれからだ」
背中を向けて歩き出した冬沢に、四季は黙ってついてきていた。音の響く踊り場を離れ、廊下に差し掛かったところで改めて口を開く。
「……昼寝、ではなかったようだね。いったい何を企んでいる?」
「企んでいるわけじゃあないが……、特訓を」
「……特訓?」
「ああ」
「一般枠の生徒に、か?」
「さすが、冬沢は鋭いな」
「他に特訓するような相手はいないだろう。まさか先輩相手にやるはずもないしね」
「はは、それもそうか」
「目的は? 寝てばかりいるお前の睡眠時間を割くようなことなんだ、説明してくれ」
返事の代わりに、四季は黙った。しかしその瞳に迷いのようなものはなく、言葉を探しているわけでもなさそうだった。むしろ、答えは決まっているという風にさえ見える。
不意に、四季が立ち止まって。
「俺は……、……俺にできることは少ない。だが、だからこそ、俺にできることはしてやりたいと思ったんだ」
真っ直ぐ前を見つめていた瞳が、こちらを向く。
「見逃してくれないか?」
四季の回答は、なんとも要領を得ないものだった。なんの説明にもなっていない。けれど、四季なりの思惑があるらしいことだけはわかった。支障は出ないようにする、言外にある言葉を察して、ぐっと沈黙を返す。
しかし、こちらを向いているはずの瞳はいったい何を見ているのか。誰を見ているのか。
それは、わからなかった。
「……人に教えるのは、自分のためにもなる。くれぐれも、自分のパフォーマンスの質は落とさないように。そんな心配はないと思っているけどね」
──お前のチームメイトは、俺じゃないのか。
そんな言葉とともに、四季の要求を飲んだ。ほっとしたような顔で笑った奴のことを置いて歩き出す。
焦る必要は、ないのだ。
チームメイト以外の連中に割く時間があるのなら、その時間をこっちの稽古に充てろと。そう言って掴みかかることもできるのかもしれない。それをする気にはなれなかった。実力差は明らかで、与えられた時間できちんと稽古をこなせば問題ないだろうという、慢心ではない自信があったからだ。
スター枠は四チーム、ミュージカル学科に選ばれるのは五チーム。どうせ一枠は確実に一般枠のものだと決まっている。四季の施しが原因で足元を掬われることもないだろう。むしろここで断ったせいで四季の集中を欠く可能性の方がデメリットだという冷静な判断をしたつもりだ。
胸に燻った想いには目を伏せて、見ぬふりをする。こんな
今、思えば。
四季にとっては、誰もがチームメイトのようなものだったのだろう。春日野や入夏のことも、名実ともにチームメイトである冬沢のことも、実力の差異に関わらず、同じ志を持つ仲間として。四季はあくまで平等だったのだ。
理解し難い感覚だった。今でも理解できているわけではない。普通の友情など呑気に育めないのがこの世界だからだ。チーム戦では強みになる秀でた才能も、時が過ぎれば地位を脅かす存在になり得る。それが、この世界だ。
冬沢は、王の方を見遣った。何を見て、何を思っているのか。
「……そういうお前は? 冬沢」
視線を感じたらしい、四季の顔がこちらを向いた。ニッと目を細め、ワクワクしているようなと形容したくなる表情を浮かべている。
「今日は特に大事な会議もないから、俺に用事なんてないんじゃないか?」
「はぁ……そんなに嬉しそうな顔で聞かないでくれ」
「ふははっ、悪い。俺はお前とこうしてのんびり話せるのが嬉しいんだよ、冬沢」
「いちいち言わなくても、その顔を見ればわかるよ」
目は口ほどにものを言う、というものか。それで十分わかるというのに、言わなくてもいいことばかりは言う奴だ。
無駄な抵抗だとはわかりつつ、わざとらしくため息をつき、改めて視線を返してやる。
「……癖、のようなものかな」
「癖?」
「何度俺に起こされたと思っている? いないと困る時にもお前はふらっといなくなるからね」
「苦労……かけたな」
「それはいい。もうとっくに慣れたよ」
四季を探す理由は、その必要があったから。しかし今日は特に会議も、用事もなかった。それでも姿を探した。
その理由こそ──あえて口にするものではないと、そう思っているから、冬沢はただ笑みを返した。
「まったく……卒業したらどうする気だ?」
「ん?」
「俺たちの進路は別々だろう。これからは、誰に起こしてもらう気なんだ」
「誰に……そうだな」
二学期が終われば、冬休み。冬休みが明ければ三学期が始まって、次期華桜会選考が始まる。そうして慌ただしくしていれば、卒業なんてあっという間だろう。
こうしてゆったりとした時間を過ごせるのも、今のこの束の間だけか──と。そんなことを考えてしまっただけだ。
四季は顎に手を当て、ふむ、と唸った。まだ始まってもいない新生活の対策案なんて思いつくはずもないだろうに、考える素振りを見せている。
「もう行くよ。いいかげん体を冷やしすぎだ。いくら暖かい日とは言え、こんな季節に長々と外にいるべきじゃない」
「冬沢」
出ないだろう答えを待つのに焦れて立ち上がった、直後にぐんと腕を引かれて引き戻される。
「……?!」
「……王子様に」
冬沢の視界も思考もみんな奪った奴はすぐに離れていって、悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべてみせた。
「呪いを、解いてもらおうと思ってな」
と、そんなふざけたことを大真面目に言ってのけたそいつはひょいひょいと身軽に段差を登っていく。冬沢、とわざわざ振り返って呼びかける声は腹の立つほど呑気なものだった。
ふざけるな、と。そう言って掴みかかることもできるのかもしれない。けれどこの体は動いてくれなくて。
ひと気のない野外劇場に、声が響く。
「──四季ッ!」
「ふははっ」
これは三年の、穏やかな冬のある日の出来事である。
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