名前を呼んだ日

※小学生の頃の二人
※1期3巻特典ドラマCDの内容を含みます。
※pixivより











「くがぁ、キャッチボールしようぜっ」

 空閑、は最近仲良くなった友だち。目つきが悪い上に、女の子たちの間でカッコイイと噂されていたから気に食わねえ奴だと思っていたが、あの一件から付き合いを持ち始めてみると怖いのは顔だけで案外いい奴だということがわかった。家も近く、よく遊ぶようになったのだ。
 今日も同じように、空閑の住む部屋 へ遊ぼうと誘いに訪れていた。ピンポーンと呼び鈴を鳴らすと間もなく空閑が顔を出して、今日はなんだと無言の催促をする。虎石はニカッと笑って持ってきていたグローブとボールを掲げる。野球少年である虎石は、そういやまだ空閑とキャッチボールしたことねえなと思い立って来た、というわけである。
「道具はぜんぶオレ持って来たから! あそこの公園でいーだろ?」
「ああ。待ってろ、いま準備する」
「はやくはやく!」
「そんなに急がなくても公園はにげねえだろ」
「場所はなくなっちゃうかもしんねーじゃん!」
 靴を履いている空閑を急かし、履けた瞬間に腕を掴んで走り出す。空閑が、母さん行ってきます、と後ろに向かって言ったから虎石も、おばちゃんこいつ借りてくね、と叫んだ。リビングの方から、いってらっしゃい、と優しく微笑む声が聞こえた。虎石の母親とは正反対だ。


 バシッ、バシッと小気味いい音を立ててボールが往復する。グローブから伝わる振動がずっしりと気持ちが良い。まるで野球チームの奴らとキャッチボールをしているみたいだ。
「くがぁ、お前野球やったことあんの?」
「まあ、体育とか」
「うっそマジで? そんだけ? くが足はえーし、投げんのもうめえから野球向いてんじゃね? オレといっしょに野球やろーぜ」
「……いや、できねえ」
 弧を描いて飛んだ白球が、空閑のグローブの中にすっぽりと納まる。空閑は一瞬目を伏せて、ふっと口元を緩めながら虎石に視線を戻した。まっすぐな瞳だった。

「おれには、ミュージカルがあるからな」

 ザァッと、風が通り抜けたような感じがした。ふわっと返ってきたボールを慌てて捕る。ナイスキャッチ。それきり投げないで、虎石は目をしばたかせて問い返した。
「みゅーじかる? あの、歌っておどるやつ……」
「そうだ」
「それが、どうしたっての?」
「おれは、ミュージカルスターになるんだ。それで、母さんの喜ぶ顔が見たい」
 空閑の、目が。それこそが星なんじゃないかってくらいにキラキラ輝いていて、言葉にするよりも雄弁にそれが夢なのだと物語っていた。絶対に叶えたい夢なのだと、だから野球はできないと言ったのだと、虎石は悟った。
 ミュージカルスター、ということはつまり俳優とか、そういうやつ。虎石が放課後や土日に野球の練習へ行っていることは空閑も知っている。こうやって付き合いで遊ぶことはできても、ミュージカルスターという夢に向かう一歩のためにはそちらの練習や勉強をしたい、とそういうことだろう。
「じゃあお前、歌も歌えんの? 想像できねー!」
「……歌ってやろうか」
「マジっ? いーの?」
「……トクベツに」
 なにがいい、と聞かれてもすぐには思いつかなかったから、おまかせで、と答えた。じゃあ最近習ったやつ、と言って、メロディを紡いだ。知らない歌だったが、この無愛想からは想像できない美しいボーイソプラノで、振り付けなのだろう、グローブをはめたままの腕を広げくるっとターンを決める。
 空閑がふぅと息を吐いた。ワンフレーズだけ、ほんの一分にも満たないステージが終わった。どうだ、と聞かれる前に虎石は、ほうっと息を漏らした。
「…すげえ……」
「……本当か」
 虎石の言葉に空閑も顔をほころばせて──いつもそうしてりゃ怖くねえのに──声を弾ませた。練習、がんばってんだ。と言った。そんなん言われなくても伝わってきた、とは言わずに、すげえとだけもう一度呟いた。それが素直な感想だった。
 こんな風に歌って、この一瞬だけでもステージを魅せられたら、どんなに最高だろう。なんとなく空閑が眩しく見えた。負けてる、と思った。無性に悔しい。澄ました顔して空閑は虎石の想像よりも遥か未来を目指して努力している。野球は好きだ。でも、それとは違う何か──虎石も一緒に、空閑と並んでステージに立てたら。
 ヒュッ、ボールを投げた。バシッ、グローブの中に吸い込まれていく。
「なぁ、また聞かせてくれよ、歌」
「……ああ。あと、ピアノも練習してる」
「ピアノ!? お前ピアノ弾けんのっ? 猫ふんじゃった弾ける?!」
「あれは簡単だ」
「マジか」
「……教えてやろうか」
「マジ?! やった、約束だかんな! 明日の二十分休みに音楽室集合な」
 わかった、と言って空閑は笑った。つられて、虎石も笑った。なんとなく照れくさい、けど、嫌じゃない。しばらくキャッチボールを楽しんでから、じゃあまた明日学校でな、と別れた。楽器はせいぜいリコーダーくらいだから、弾ける奴はみんなカッコイイと思う。楽しみだな、とグローブに隠れてニヤニヤした。
 ──そういえば。
 ハッとして、振り返る。空閑の後ろ姿はもう小さくなっていた。空閑がミュージカルスターになりたいとか、そういう話は初めて聞いた。女の子たちも、空閑と同じクラスの男子も、誰もそんなことは言っていない。なにかと噂話が好きだから、誰かが知っていたら広まっていそうなのに。と、いうことは。
 ──もしかして、学校じゃオレしか知らねえのかも。
 そう思ったら、体がムズムズとしてきて、虎石はたまらなくなって駆け出した。家まですぐそこの距離を、全力ダッシュ。なんか、なんて言うのだろう、よくわからないが、ムズムズというかうずうずというか、落ち着かない。
 だから早く明日になってほしくって、ただいまよりも先に母ちゃん飯! と叫ぶと、おかえりの代わりに拳骨が降ってきた。やっぱ、空閑の母親とは大違い。涙目になってぶすっとしたまま、ただいまでしたと呟いた。満足そうにおかえりと言われ、手洗いうがいをしてこいと背中を押されて言われた通りにする。逆らうと飯抜きにされそうだから。その日のメニューは、ちょっぴり焦げてホワイトじゃなくなっているシチューだった。


 朝起きて、顔が見えたらオハヨウの挨拶。最近はほとんど、空閑と一緒に学校へ向かっている。今から休み時間のことが楽しみで、他にはなに弾けんのとかダンスも見せてとかいろいろ一方的に喋った。空閑はああとかうんとかそうだなとか短い返事ばかりで、でも顔はいつもよりわかりやすく嬉しそうにしていた。
 学校に着いて、教室の前でまたなと別れる。オハヨーと教室にいる友人たちに挨拶をして、自分の席に座ると前の席の男子が、最近さ、と話しかけてきた。
「とらいし、くがと仲いーよな」
「あっおれも思ってた! なんで? くがってちょっと怖くね?」
「たしかに~、くがくんってちょっと怖いよねぇ」
「でもそこがカッコイイ!」
「くがくんってあんたたちと違って静かで、いいよねぇ」
「んだよ女子! お前らこそくがくんくがくんってうるせーっての!」
 あっという間に虎石の周りに男子も女子もみんな集まってきて、揃って空閑の話をしている。虎石もつい最近までは空閑を見かけるたびに睨みつけていた身だから、この友人たちの言うこともわかる。けど、あいつはそんなんじゃねえんだ、と思った。思っただけで、言わなかった。なんとなくもったいない気がして。
 こいつらが知らない空閑を、虎石は知っている。そんな優越感を味わいながら、でも、とこっそり唇を尖らせた。それには気付かれなかったらしく、友人たちはくがが、くがくんが、と話し続けている。当の本人は違う教室で、今頃くしゃみでもしているかもしれない。
 虎石はふむと唸った。ちょうど、チャイムが鳴って、先生が立ち上がる。それを合図に日直が起立と言って、朝の会が始まった。約束の二十分休みまで、授業はあと二回。待ち切れねえとそわそわしていると、虎石、と呼名だけで咎められる。はーいとむくれて、それからあとはおとなしくしていた。

「おっせーぞ!」
「わるい、迷ってた」
「はあっ? ここ同じ階じゃん、ホーコーオンチかよ!」
 空閑がちょっとムッとした顔になったので、まあいいやとピアノの前まで引っ張っていく。先生から鍵を借りて、二人きりの音楽室。ピアノなんてふざけて鍵盤を鳴らしたことがある程度だから、これから自分の知っているメロディを奏でられるのかと思うとわくわくする。
「なぁくが、まず手本!」
「猫ふんじゃったでいいのか」
「うん、だってそれ弾けるようになりてーし」
 ふうん、と返事をして、空閑は跳ねるようなあのリズムを演奏した。ピアノの上手い下手はわからない、けど、上手いと思った。疑っていたわけではないが、本当に弾けるんだなぁとしみじみと感心してしまう。演奏が終わって、空閑が立ち上がる。次はお前、そんな顔をして。
「まずどこ?」
「ここだ」
 空閑の手が、虎石の指を掴んで。黒い鍵盤の上にそっと乗せた。ぐっと押し込むと、最初の音が鳴る。次はここ、という指示に従って隣の鍵盤をはじく。次の音が鳴った。こっちは左手で、と言われた場所を押す。三番目の音が鳴った。ここは指を開いて一緒に、と言われた通りに指を開いて同時に押さえる。ジャンジャンと跳ねるように二回、猫ふんじゃったのリズム。
 弾けた、と空閑を振り返って、すぐにうーんと唸る。だってあまりにも、音が。
「くがの音と、ぜんぜんちげー……」
 もう一回、と思って弾こうとしたが、指を離したらもうどこがその音の鍵盤かわからなくなってしまって、振り上げた手をそのままさまよわせた。
「……ここ」
 空閑の手が、後ろから。虎石の手を掴んでその上から一緒に鍵盤を押さえる。始まりの、猫ふんじゃった猫ふんじゃった、がメロディになった。少し不格好な音だったが、虎石だけでやるよりもずっと空閑の音に近いものだった。そしてその次、その次と空閑と一緒にどんどん曲が進んで、とうとう最後まで。
「弾けた!」
 終わりの音をジャーンと押さえたまま、今度こそ笑顔で空閑を振り返る。空閑も笑顔を返してくれた。またムズムズしてきて、虎石は空閑をはねのけるように立ち上がった。
「なぁ、」
 くが、と呼ぼうとして、ふと、止まる。首を傾げたその胸元で、空閑愁、と振り仮名つきで書かれた名札が揺れた。
「──オレ、今日からお前のこと、しゅうって呼ぶ!」
「……急だな」
「だってほら…ほら、オレ、お前んちよく行くじゃん。ミョージだとお前の母ちゃんも入っちゃってまぎらわしーから、お前のことは名前で呼ぶ! 今決めた!」
 ぱちくり。思いついた言い訳を思いついたままに言うと、空閑は数回まばたきをして、それもそうだなと言った。別に構わないらしい、虎石はへへっと笑った。
「しゅう」
「……なんだ」
「練習。呼んでみただけ!」
「なんだそれ」
「あっなんかちがう曲弾いて! むずかしーやつ!」
「もう時間ねえだろ」
「うーわマジかよ。ホントだ。じゃあまた今度な。約束!」
「……ああ」
「んじゃもどるか。カギ、せんせーに返してこねえとだからまず職員室だな。あ、お前そーとーホーコーオンチっぽいからオレが教室まで送ってやんよ」
 ほら、と言って空閑の手首を掴む。教室から音楽室までの一直線を間違えた空閑だから、案内には素直に従うらしい。虎石に手を引かれるまま空閑のクラスの前までやってきて、そこでようやく手を離す。
「昼休みはドッヂボールしようぜ」
「わかった」
「またあとでな、しゅう!」
 くが、を、しゅう、と呼ぶ。今んとこ、オレだけ──そんなちっぽけな優越感。虎石だけ、を勝手に増やした。本人もそれを嫌とは言わなかったし、ミュージカルのことは本人が先に言ったことだ。友だちになったばかり、でも、なんとなく他の奴とは違うって思ってるのは、お互いさまらしい。ムズムズ、あっこれ、うれしいんだ。
 せんせーカギありがとーございました! と満面の笑みで返すと、ちょっと不思議そうな顔をしてみせた先生に、楽しそうで何よりだ、と言われた。ついでに、鍵を振り回すんじゃない、と小突かれた。気を付けまーすとテキトーな返事をして、教室へ向かう。昼休みまで、授業はあと二回。今日はドッヂボール、明日は何して遊ぼう。また、音楽室もいいな。
 帰り道、口の中だけで、しゅう、と呟いた。明日も、楽しみ!
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