After rain comes fair weather.



 空気が湿気ている。梅雨入りしたと気象予報士が告げたのはいつ頃だったか、つい最近の話だ。珍しく晴れから始まった今日の降水確率は午後から六十%、折り畳み傘があると安心でしょう、とのこと。
 南條は空を見上げた。撮影の仕事を終え、今住んでいるマンションの最寄り駅に着いたところである。もちろん折り畳み傘は持ってきているが、今のところ出番はなさそうだ。歩き出す前にスマートフォンを取り出し、連絡が入っていないかチェックする。

『今終わった』

 というメッセージが、ちょうど画面を明るくしたところだった。差出人は予想通り、北原だ。
 ふっと口元を緩める。そのままロックを解除して、通話ボタンをタップする。

「……や、もしもし~?」
『んだよ聖、テメーも今終わったとこか』
「まあそんなとこ」
『そうかよ。テメー、今どこだ』
「んー? 最寄り駅。お前は?」
『俺は……待ってろ』
「ああ、駅ね。別に待つ必要もないって思うけど……どれくらいかかる?」
『十分もかからねー。電車乗ったから切るぞ』
「はいはい」

 通話、終了。おそらく電車を待っている時に連絡を寄越したのだろう、ホームのアナウンスが聞こえた。声が少し揺れていたから、歩きながらだったのかもしれない。
 さて。南條は駅の中に戻り、柱に寄りかかった。あいつはこっちが待ってくれるものだとばかり思っているから、待っていてやらないと有罪判決を下されそうだ。別にそれでもいいんだけど、と思いながら、おとなしく待っていてやるとしよう。
 綾薙の寮を出てから、しばらくは実家で暮らしていた。卒業して、落ち着いてきた頃。実家を出るタイミングで、南條は北原と同じ部屋で生活することを選んだ。ルームシェアというやつ。その方が、いろいろと楽なことが多いから。綾薙学園にいた頃、南條は第二寮、北原は第一寮だったが、すっかり向こうに馴染んでしまうくらいには北原の部屋に入り浸っていた。その延長線だ。
 もっとも、ただの仲の良い友人同士ならそこまでしなかった。南條と北原が今のような関係に落ち着いたのは、綾薙学園を卒業した後の話である。







「聖!」

 そこで会ったのは、まったくの偶然であった。駅へ向かう途中の、そこそこ人通りも多いところ。南條を呼び止めたのは、つい数か月前まで散々聞いていたあいつの声だった。
 振り返る、前に手首をがっしりと掴まれた。ぐいっと引かれてそのまま駅を離れて路地裏の方へと歩き出す。人目は一応気にするらしい。お前人違いだったらどうする気なの、とあの頃となんら変わらない頭を見下ろした。

「聖」
「や、廉。久しぶりだってのに、随分と強引だねえ? こんな路地裏に連れ込んで。ナニする気?」
「ア? テメーは呑気すぎだろーが、有罪」
「ハハッ! 相変わらずだな」
「はあ? 意味不明、有罪。つーか久しぶりっつーのがおかしいだろーが、テメー」
「なんで?」
「なんで、じゃねーだろ。テメー卒業してから何も連絡寄越さねえで、何してやがった」

 胸ぐらを掴まれる、壁に押しつけられる。こいつは自分の力ってものをわかっているんだろうか、結構痛い。痛いし、傍から見たらただの暴力沙汰だ。
 トントントン、と容赦のない手を軽く叩いてギブアップの意思を示す。そいつの顔は険しいままだったが、力は緩めてもらえた。

「お前、そんな面倒臭いこと言う奴だった? 離してほしいんだけど」
「逃げる気じゃねーだろうな」
「それこそなんで? 別に逃げる理由はないし。というか、そんなに俺に会いたかったならお茶にでも誘えばいいだろ」
「ハ? お茶とか、んなナヨナヨしたことするかよ」
「そこも相変わらず……。はは、お茶って言っても軽食のことだよ?」
「質問に答えろ、有罪。卒業してから、何してたんだよ。俺に何も連絡寄越さずに」
「面白いこと言うね、廉。お前に連絡する義務はないだろ? 普通に、事務所に入って大学通いながら仕事してるよ。今日も仕事の帰り」
「………」

 そいつ、北原は、腑に落ちない、という顔をしていた。解放された襟元を正し、一息つく。あんまり突然だったから、こっちも心の準備というものが何もできていないのだ。いずれ話そうという気もなかった。けれど訪れてしまったからには仕方ない。
 さて、納得してもらえるかどうかは二の次として。こちらの思惑を説明してやるとするか。

「俺たちさ、チームメイトだっただろ」
「ア? 今更なに当たり前のこと言ってやがる」
「でも、卒業した」
「……?」
「だから、そんなもんだろ」

 北原の目が、わかりやすく見開かれる。あ、これはまた掴みかかってきそう、思った時には直した襟元が乱れていた。

「テメー……」
「なに熱くなってるの? 他のチーム見て、馴れ合いすぎって言って笑ってたの、誰だっけ? 俺的には、そんなだとうちのチームも人のこと言えないんじゃないって思うけど」
「……」
「というか、廉。俺もお前も、立場的にこういうのマズイだろ? どう見ても暴力沙汰。もっと和やかにさ~、同級生兼元チームメイトとして、これから食事でもどう? 俺、この後オフだし。ああ、お前が暇ならだけど」
「……わかった」

 北原の手が離れた。そして今度は手首を掴まれ、またぐいぐいと引かれて大通りに戻る。
 お前、どこか掴まないと歩けないわけ? と、問いかける。
 ア? んなわけねーだろ。と、返ってくる。
 じゃあ離せよ、一人で歩けるから。と、言うと、北原が振り返った。

「アァ? テメー、俺ん家知らねーだろーが」

 あ、お持ち帰りする気だったのお前。
 拒否権はないようで、すぐに前に向き直った北原はどんどん進んでいったのだった。





「ふーん、廉ってここに住んでるんだ」
「飯、簡単なやつでいいな?」
「え、自炊してるの? お前。すごいね」
「愁の弁当作りで鍛えたからな……さすが愁、いずれ俺が一人暮らし始めた時、自炊に困らねーように弁当作ってこいって言ったんだな」
「へー、空閑様様だね~。よかったな。期待してるよ」

 連れ込まれたのは、駅から歩いて程遠くないところにあるマンションの一室。北原の住処らしい。がさつそうな見た目とは裏腹にしゃんとしている奴だから、部屋も綺麗に片付いている。
 座ってろ、と促された座布団に腰を下ろす。なんとなく、寮の部屋を思い出した。広さも、置いてある家具も違って、似ているわけではないのだが、北原が住んでいる空気感というもののせいなのだろうか。なんだか急に懐かしくなってきてしまった。
 ジュウ、と何かが焼ける音がする。肉でも焼いているのだろう、匂いがそうだ。ぼんやりと、部屋の中を見回した。ふうん、ここが今あいつの住んでる部屋ね、ふうん、そう。
 卒業してから。一度も、北原には連絡をしなかった。北原だけではない、他のチームメイトにも、クラスメイトにも。連絡があれば返す、しかしこちらからすることはなかった。そこに理由はない、単にする必要がなかったから。環境が変われば、人間関係も変わる。それで過去の奴をないがしろにしないからこその人脈ではあるが、積極的に集まろう食事に行こうなどと誘うタイプでもない。向こうから、頼ってくる。そう仕向けるようなコミュケーションだ。だからクラス会などの計画が立ち上がれば、いつの学年でも毎度南條に連絡が来る。いつだか、まだ高校生の頃にもクラス会をしたことがあったな、と思い返す。確か二年の夏、世話の焼ける奴の面倒を見てやったんだっけ。もっとも、向こうは絶対にこっちの世話になんかなりたくないと思っているだろうけど。
 クスッと笑った。思い出し笑い。あいつは気付いていない。一番世話が焼けるのは間違いなくあいつだ。本格的にチームが関係あるのは一年の時だけ、せいぜい二年の育成枠オーディションまで。それなのに三年間サポートさせられた。珍しく、サポートしてやるなんて自分から言い出してしまったせいだろうか、つい世話を焼いてしまった。だから。
 南條は目を細め、キッチンで動いている北原を見遣った。
 だから、連絡しなかったんだけど。
 北原には、連絡をしない理由があった。つい、ついうっかり、あいつだけ特別扱いをしてしまいそうだったから。別に、自分の隣にいるのは、上等な奴なら誰だっていいのに。個人の隣ではなく、その時々のトップの隣。生徒会長とか、リーダーとか、そういう。北原廉っていう個人じゃなくたっていい。個人にこだわりはない。
 と、言い切るのが難しくなっていたのは、おそらく、出会い方のせいだ。テストステージを通過するのはチーム、個人戦じゃない。自分のためにもサポート抜きにはできなかった。何故ってこいつは、傍にいると退屈しない奴ではあるが、安全な奴ではないのだ。テキトーに泳がせといて甘い蜜を吸うのは自分、ということができない。放ったらかしにしておくと敵に囲まれるような奴だから。
 まあ、メンタルは鋼を通り越してタングステン、フィジカルも空手段持ちのパワフルさだから、敵に囲まれようと関係なしに己が道を進んでいきそうなものだが、チーム戦とあればそうもいかない。だから足を引っ張られないように上手く立ち回っていたわけだが、結果として泳がされていたのはこちらというかなんというか。
 呆れるくらい単純で。アホみたいな嘘を信じるくらいピュアで。脳みそまで筋肉なのかというくらいにバカで。そのくせ、自分のことを客観的に見て、短所も認めて強みを生かす。面白い奴だ。とんでもなく面白い奴。気がつけば、北原廉という個人に、振り回されそうになって、否。振り回されていた。

 他人お前が俺の中心にいるなんて、俺的にはだめなんだよ。

 あくまで、他人ってのは他人でしかなくて、俺は俺が一番大事。だからいつも上手く他人をコントロールしてきたのに、振り回されないように生きてきたのに。南條の中心にはいつだって北原がいた。お前の場所じゃないっていうのに、勝手に居座って出ていこうともしない。まるで、最初から、生まれた時からそうでしたとでもいうような顔をして。
 今日だって、一体どういうつもりなのか。北原が、肉を乗せた皿を持って戻ってきた。

「ほらよ」
「え、肉だけ?」
「文句言うな。簡単なやつっつっただろーが」
「火を通して、せいぜい味付けしただけだろ。きょうび小学生の調理実習でももっと凝ったもの作らされるよ? せめてスープとかないの? インスタントでいいからさ~」
「テメー、言いたいことはそれだけか? ねーよ、んなもん」
「あはは、あると思って聞いてないし。ちなみに、言いたいことなら他にいくらでもあるけど」
「ア? んだよ」
「言ってやろうか?」

 もともと家で食べる予定だったらしい、炊飯器から炊けたばかりの米をよそっている北原を眺めながら、南條は軽く息を吸った。
 それから、努めて低く感情のない声で。

「お前、どういうつもりなわけ?」
「は……?」

 しゃもじを持ったまま、北原が固まる。笑いそうになるから勘弁してほしいが、そこは培った演技力で耐える。

「駅に向かって歩いてる奴を捕まえて、路地裏に連れ込んで、胸ぐら掴んで恐喝みたいなことして。仕方ないから食事でもどうかって誘ってやったら今度は家に連れ込んで。どう考えても自己中心的な行動にしか思えないんだけど、どういうつもり?」
「お、怒ってんのか……?」
「俺的には、これで怒るなって方が難しいって思うけど? 俺の行動、なんでお前に逐一報告しなきゃなんないの? そんなの、学生の頃もしたことないだろ。今日は朝から講義でした~とか報告すればいいわけ? お前も俺に何か連絡したことある? ないだろ。表紙決まったとかCM決まったとかドラマ決まったとか、いつ発売だとかいつオンエアだとか、そういうの。ないだろ、一切。学生の頃は、そういう話も教室でしたかもしれないけど、もうとっくに卒業したんだよ、俺ら。報告するのも会って話すのも、全部さぁ、今は、わざわざメールとか電話とか約束とかしないとできないわけ。それで急に、偶然会って、捕まえられて、連絡寄越さないで何してやがった、とか言われても困るんだけど。そっちこそ、何も連絡寄越さないで何してたの?」


 あれ。
 これじゃまるで、こっちが連絡欲しがってたみたいだ。


 ちょっとだけ、困らせてやろうと思った。怒ったふりをして、まんまと騙されてくれたら笑い飛ばしてやろうと。
 ところがどっこい、言葉が止まらなかった。途中から演技ではなくなってしまった。本当に腹が立ってきてしまった。こいつ、連絡寄越さずに何してたとかどの口がきいているんだ、と。先月北原が表紙の雑誌を見かけた、ほんの一瞬だけどCMにだって映った、そんな報告一切されていない。別にそれだって義務はないから気にしていなかった、はずだった。
 根に持っていたらしい自分に気がついてしまった。柄じゃない。まくし立てて、何してるんだろう。こいつも、いつまでしゃもじ握ったまま固まってるんだろう。
 なんだか笑えてきた。だから、笑ってやった。

「アァ? てめっ、何笑ってやがる!」
「ハハハッ! 本気で焦った?」
「からかってたのか? 有罪だ!」
「……忘れてよ。お前、忘れるのなら得意だろ? 脳みその出来はお粗末だもんな」
「テメー……また有罪なこと考えてやがるな、聖」

 しゃもじも、茶碗も置いて。北原がこっちにやってくる。来るなよ、来ないで、頼むから。
 そんな、真っ直ぐな目で、俺を見ないで。

「言いたいことは、それだけか」

 それだけ、ってことにさせてよ。

「考えてみりゃ、俺から連絡すりゃいいだけの話だったんだよな」
「……」
「卒業してから、……三か月くらいか? 意外と経ってねーな。けど、妙に長く感じた」
「………」
「夏休みとかも、ほとんど帰省しなかったからな、俺ら。ほぼ毎日顔合わせてた」
「…………」
「三か月。いきなり三か月だぜ? いっぺんも会わねーどころか、メールも、電話もねー。急にテメーがいなくなった」
「……………」
「だから今日、テメーを逃がすわけにはいかねーって思ったんだよ」
「……俺は悪党か何か? 警察官ジュニア」
「ジュニア言うな、有罪」
「弁護士ジュニアは俺なんだけどなあ」
「ハ?」

 フッと、また笑う。こんな口癖も自覚できないくらいだから、相当鈍感な奴だ。

「俺のありがたみ、わかった?」
「ハァ?」
「急に俺のサポートがなくなって、困ったんだろ」
「……困ったっつーか……」
「俺的には別に、お前から連絡があれば返す気でいたけどね」
「………」
「あのさぁ、廉」

 だめだな、どうしてもこいつは、特別扱いしてしまうらしい。


 ――俺の隣、お前にくれてやろうか。


「まさかお前、一生サポートしてくださいとか、プロポーズみたいなこと考えてるわけ?」

 北原が、きょとんとした顔をしている。そんな間抜け面が可愛いと思った。

「まあ……またサポート、してやってもいいけど」

 プロポーズ、とそいつは呟いた。拾うところそこじゃないんだけど。
 北原の顔が妙に引き締まった。そうそう、こいつ無駄に顔はいいんだよな、とドキッとしてしまった心臓を誤魔化す。特別って、そういう意味じゃなかったんだけど。たぶん。
 あれ、なんか、近くない? どしたの、そんな真剣な顔して、肩に手なんか置いちゃって。なんで、顔を、傾けて。

 初めてのキスは、焼肉の匂いが漂う食卓で。







 待たされているせいで、懐かしいことを思い出してしまった。ちょうど一年前のこれくらいの季節、この駅で始まったことだったから。その年の夏にでも実家を出ようと思っていた頃、一緒に住もうと誘われるままに同棲を始めて、好きだのなんだのはっきりとした告白は抜きに、なんとなくお付き合いも始まっていた。友人の頃と何ら変わらないのではないのか、と問われると、普段はそうだとも言えるが、一応やることはやっている。
 キスは、思い出の通り。プロポーズというのは言葉の綾だったのだが、それが引き金になったのか、北原から。思ったことをそのまま口に出して行動する奴だからそうなったのだろう。それにしても、いきなりキスできるなんてすごい奴だと、一周回って感心してしまった。異性相手でもなんの断りもなくするのはどうかと思うが、同性相手に。受け入れてもらえるのかとか、そういう葛藤もなく一気に飛び越えてきた。
 まあ、俺にはそれくらいの方がちょうどいいのかもしれないけど。
 と、思う。いろいろとはぐらかす前に、捕まえられてしまうから。わかってないくせに、なんか有罪なこととか笑えること言って、勘で捕まえてくる。まんまと捕まってしまう。予想したところでは何もしてこないくせに、油断しきった予想外のところで手を出してくる奴なのだ。まさに、あの日とか。久々に見かけた奴を大声で呼び止めて、手首掴んで走り出すとか、普通できない。失踪したわけでもないのに。やっぱりこれは笑い話だ。一応、感謝はしておこうか。
 それで、セックスは、まあ、お互い性欲がないわけじゃないし。と、思って仕掛けてみたら、思いのほか向こうもノリノリで。あれよあれよという間に。最初は抜き合いだけだったのが、少しずつ回数を重ねるごとにセックスじみてきて、じゃあそろそろかなと思ってどっちがいいかと聞いてみたら間抜け面で返事をされたので、まあ、まあ。安全面を考慮して。準備してやるよ、と、まあ、そんな感じで。
 そういえば、廉の奴も今日の仕事は一件だけって言ってたな。と、ふと思い出した。それなら、久々にできそうだな、と。
 いやいや。期待外れの肩透かしは向こうの得意技だ。あからさまに誘ってやらないとそうはならない。あいつの性欲はだいたいジムかどこかで発散されてしまうらしいから。しょっちゅうされても困るが、たまには襲ってきたって、まあ、怒らないでいてやってもいいのに。なんて。

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