お前が好きだと言えたなら






「あ……愁。起きた?」
「……ん………」

 のそり、寝ぼけ眼をこする。見えたのは寝付く前と変わらぬ風景だった。虎石も、まだ昨夜と同じ格好をしている。
 虎石が、ぐんと伸びをした。オレも今起きたとこ、と。変な姿勢で寝てたからちょっと体痛えわ、などと文句を言っている。

「で、オレのベッドの寝心地はどうよ」
「……悪かねえな」
「ったく、勝手に人のベッドで寝やがって……」
「お前がソファで寝落ちたからだろうが」
「それは~、愁がオレを運んでくんねえから~」
「あ? 喧嘩売ってんのか?」
「ハ~、冗談の通じねえ奴。そんな怖え顔すんなよ。オレ、シャワー浴びてくる。愁は?」
「着替え持ってねえ」
「そっか。愁ん家にはオレのあるけど、愁はあんまオレん家来ねえもんな。別に、服くらい貸してやってもいいけど」
「下着もか? ウチで浴びるからいい」
「あー…わかった」

 じゃれるような会話ののち、虎石は着替えを持って風呂場の方へと姿を消した。さて、どうしたものか。ぼんやり考えて、空閑はもう一度ごろんと横になった。待っている必要はないので帰ろうかとも思ったが、まだ眠かったので。
 天井を見上げる。てっきり、この天井を見慣れた女がいるのだとばかり思っていたが、どうもいないらしい。いないのか。
 何を、感じたのか。意識してしまう前に目を閉じる。今はまだ、もう少しこうしていたいから。
 ザー、ザーと、水の滴る音がぼんやりと聞こえてくる。心地よい音色に耳を傾け、うつらうつらとしていれば、夢の世界はすぐそこだった。



「……あれ、愁…また寝てやんの。春眠暁を覚えず、ってか?」

 くすくすと、笑う声が聞こえる。少し離れたところから、だんだんと近づいてくる。

「……今のうち、か」

 ふわり、温かな感触に撫でられる。髪を梳くような感覚が心地よい。

「愁……、……、いや」

 温かく、少しばかりしっとりとしたものまで遠ざかっていく。これは行かないでほしいのに。しかし引き留めようとした体はまだ夢の中で、上手く動いてはくれなかった。
 しばらくそんな風で。ちょうど、眠っているのと目覚めているのとの間を行ったり来たりしているような感じだった。音は聞こえている、しかしそれがなんの音かはわからない。夢かもしれないし、現実かもしれないし、やっぱり夢かもしれない。

 今、虎石に頭を撫でられたような気がする。

 寝付く前に、空閑がしたのと同じように。気のせいか、本当か、都合のいい夢か。きっと夢だろう。だってやっぱり、今は眠っているから――浮上しかけた意識が再び遠のいていく。



「――、……う、しゅう、おい、愁!」
「…………、とら…いし…?」
「やぁ~っと起きたか。いつまで寝てんだよ、酒抜けてねえの?」
「いや……それは大丈夫だ。たぶん」
「たぶんじゃ困んだろ、バイクだろ? まあ、オレはオフだから、のんびりしててもいいけどよ。とりあえず、顔洗ってくれば?」
「……ああ。そうする」

 ほいタオル、サンキュ。軽いやり取りをして指さされた方へと進んでいく。ここが洗面台、チューブがやたらあって何がなんだかわからないから、水だけでいいか。ザバザバと顔を洗うと、ようやく寝ぼけていた頭が起きたような気がした。

「愁~、買い物行きてえから帰る時ついでにスーパーまで送ってくんね~?」

 部屋の方から、間延びした声が聞こえてきた。

「……構わねえ。もう支度できてんのか」

 その場から、そう答える。顔を拭きながら。

「えっ? もう帰んの? ゆっくりしてきゃいいじゃん。幼馴染水入らずってな」
「……お前、まだ酔ってんのか?」
「どういう意味だよ、それ。オレだってたまにゃ、子猫ちゃんとじゃなくて愁とのんびり会話してえ時があんの」
「……今月、何回ものんびり喋ってんだろ。昨日も散々」
「あーあーあーあー、だ~から愁はモテねえんだよっ」
「ハァ?」

 ひょいと、部屋へと戻る。虎石が何故か腕組みをして立っていた。ばっちり洒落た格好だった。
 どうしてモテるモテないの話になったのかが理解できなくて、眉をひそめる。それが尚更お気に召さなかったらしい、虎石が口をへの字に曲げた。何勝手にキレてんだ、この言葉が油であることくらいはわかるから黙っておいた。
 はあ、と虎石がわざとらしくため息をつく。

「支度はできてっから、すぐには出れるぜ」
「そうか」
「んじゃ、朝飯食い行こうぜ。オレの奢り。店は任せる」

 朝飯。一瞬で頭がそれで埋め尽くされる。どこにしようか、昨夜はつまみと酒ばかりで飯らしい飯を食べなかったから、何かがっつりしたものがいい。この辺りから覚えている場所から考えると、牛丼で決まりだ。
 一人頷いて、虎石の方へと向き直る。まだ少しだけ拗ねたような顔をしていたが、仕方ねえなとでも言う風に片目を瞑っている。
ふっと笑って、んじゃあ行くか、と虎石が言った。

「……それ、」

 そうしてくるっと方向を変えた時、しゃらりと首元で揺れるものが見えたのだ。思わず歩み寄り、手を伸ばす。

「早速、つけてくれてんだな」

 指を引っ掛けて、服の中に潜り込んでいたリングを引っ張り出す。リボンがモチーフだなんて、そうと言われなければわからない、けれど言われてみれば確かにと納得できる絶妙なデザインだ。思い描いた通り、虎石によく似合っている。

「似合ってる」

 だから、感じたことをそのまま告げた。頬が緩む、実際に使ってくれるというのは、想像していたよりも嬉しいことだ。虎石がわざわざ指さした気持ちが今になってわかった。
 はぁっ? と、虎石が声を荒げる。

「おまっ……んなハズイこと、男に向かって言うなよ! 手ぇ放せっつの! そりゃっ…もらったんだから、つけんだろ。今日の服装に合いそうだったし? つーか、そういうクサイ文句は、子猫ちゃんに言ってやれ!」
「……お前も虎だから、猫みてえなもんだろ」
「どんな理屈だよっ」

 あーもう、と褒めてやったのに何故か怒り出した虎石が、ドスドスと空閑を追い抜いていく。早くしねえと置いてくぞと言われても、運転するのもバイクの鍵を持っているのも空閑なのだが。あえては言わない、火に油を注ぐタイミングではないから。今は、黙ってついていくタイミングだ。
 少し遅れて部屋を出る。小脇にヘルメットを抱えた虎石が、ネックレスのチェーンを指で撫でていた。空閑の姿を見てハッとしたように手を離し、行くぞとまた大股で歩き出した。バイクは、たぶん一晩くらいなら大丈夫、と虎石に言われている階段下に停めてある。
 バイクの前まで来た虎石が、空閑を振り返った。は、や、く、とシートを叩く。あえてのんびり行ってやろうか。
 虎石からの贈り物をしっかりと手にはめる。ぐっぱっと手を握って開く、やっぱり馴染みがよくていいものだ。バイクの前から虎石を退かし、シートの中からヘルメットを取り出す。免許を取ってからずっと使っているものだ。
 ヘルメットを被り、ぎゅっとブレーキを握ってバイクを立てる。サイドスタンドを払ったら、行くぞ、と言って跨った。おう、と答えた虎石も同じようにヘルメットを被り、後ろに乗る。ミラーの位置は昨日と同じ、安全良し、発進。
いつもの調子で走り始めて、少し経った頃合いだった。

「なあ、愁」

 ぽつりと、虎石が呟いた。聞こえるか聞こえないか、ギリギリの音量だった。返事はせずに、前を向いたまま。

「……やっぱ、なんでもねえ」

 しかし続きの言葉は、待っていてもやってこなかった。だから、エンジン音で聞こえなかったことにした。なあ虎石、こちらがそう話しかけたとしても、続きの言葉は吐けそうにないと思ったから。
 ぎゅうと、虎石が腰に回した腕の力を強くした、言えなかった言葉の代わりのように。いいや、ちゃんと捕まってないと危ないから、だ。とっくに慣れているはずの背中の体温が、何故だか今日は妙に熱く感じる。それが、体温のせいじゃないことは、なんとなくわかっていた。
 バイクは走る。都合よく、目の前の信号は青だ。牛丼まであと少し、五分もかからない。短くて、長くあってほしい時間だ。

 なあ、虎石。

 続く言葉はなんだろう。言ってしまったら変わるのだろうか、何も変わらないような気もするし、百八十度変わってしまうような気もしなくはない。言ってしまったら、どうなるのだろうか。

「……なあ、虎石」
「……なんだよ」
「腹減った」

 牛丼の手前の、最後の信号。停まったところでそう言った。虎石はしばし間を空けたのち、ぶはっと笑った。マジ、愁のそういうとこ――信号が青に変わる。走り出す、今度こそ本当にエンジンの音で聞こえなかった。

「なんか言ったか?」
「――なんでもねえ!」

 カチカチとウインカーを出す。牛丼特盛はもう目の前だ。
 虎石が笑う、牛丼かよ、と。まあ道で察してたけど、と。特盛だ、んじゃオレも、腹減った、わかったわかったほら降りんぞ、ああ。
 バイクを停める。ヘルメットはハンドルにかけて、グローブは財布を入れてある鞄にしまって。早く行くぞと虎石を急かすと、食い意地張りすぎ、とまた笑われた。
 なあ、虎石。腹減った。とりあえず今は、本能で!



おわり
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