お前が好きだと言えたなら



 プシュッ、ビールを飲み切ったらしい虎石が、チューハイのプルタブを引く。柑橘系の爽やかな香りがこちらまで漂ってきた。そういえば、オレンジ風味のものがあったから買ってきたことを思い出した。

「なんか、この辺はジュースみてえだな。もっと強えのいけそうな気ぃする」
「早速ハメ外すなよ」
「わかってるって。んでも、あいつら、酔ったらどんな感じになんのかな。つっても、今飲めんのはオレらくらいか。あとは北原? あいつ確か、二十二日だよな」
「へえ」
「あー…覚えてねえか…」

 プシュッ。空閑も新しい缶を開ける。いちご風味のチューハイだ。ルームメイトだった月皇が好きそうだと思って買ってきた。春限定だから、彼が二十歳になる頃にはとっくにないだろうけれど。
 甘い果実の香りが広がる。確かにジュースのようだ。悪くない。チームメイトだった奴らと飲んだら、楽しいだろうな。と思った。別に酒などなくても集まれば楽しいに決まっているが、忙しいスケジュールをわざわざ合わせて集まる口実にはちょうどいい。天花寺は『二十歳になっても絶対に那雪とは飲みたくない』と言っていたが、なんだかんだ誘えば必ず行けるように調整するだろう。五人の中だけでなく一番忙しい奴だが、一番友だち想いの寂しがり屋さんだから。先輩も呼んで、大所帯にするのも有りだ。
 虎石も似たような計画を考えていたらしい。またクラス会の幹事やるか? 今度は高校の。なんて言って笑っている。女来ねえんだからお前がやれ、と言えば、んじゃあ一緒にやろうぜ、と。星谷もこういうの好きだろ、あいつの頼みなら来るって奴もいそうだし。と、うちのリーダーまで勝手に巻き込こもうとしている。だが、確かに好きそうだ。いつもお祭り騒ぎの中心には星谷がいたから。大抵言い出しっぺだ、こちらからけしかけなくてもやりたいと言いそうだ。
 くぁ、と虎石が小さなあくびをした。酒が入って眠くなってきたのだろうか。空閑も少し眠くなってきた。

「そういや……愁、今度プリンシパル昇格オーディション、受けんだっけ」
「ああ」
「オレも負けてらんねえな……愁より先に、メインの役とってやる!」
「お前、どんだけ勝ち負けにこだわってんだ。まあ、負けてやる気はねえ。俺も、次のオーディションでプリンシパルに上がる気だ。まあ、メインになれるかどうかはわからねえけどな」

 卒業後、空閑と虎石は別々の進路を選んだ。空閑は定期公演がある大きな劇団、虎石は舞台メインだが活動分野が広めの事務所に所属した。お互い、目指す場所は同じ――それぞれ、自分に合った道を。今はまだ交わらない、己の道を。

 ――いつか。

「いつか」

 ――同じ舞台に。

「同じ舞台に」

 ――立ちたい。

「立ちてえな」

 いつだって、胸に秘めた夢の温度はおんなじ熱さだ。だから高め合える、競い合える。
 口元をふっと緩めたのはどちらが先だったか。ぐっと握った拳を突き出したのもどちらが先だったか。ごつんとぶつけた拳の方が、乾杯よりも意味のあるもののように感じられた。
 いつの日か、初めて酌み交わした安い酒の味を、思い出すのかもしれない。突き合わせた拳の感触を懐かしむのかもしれない。
 よくある淡い夢の語らいだ、と。笑う奴もいるのだろう。しかし空閑にとっては、おそらくは虎石にとっても、大事なやり取りだった。変わっちゃいない熱さを確認し合った、大事な夜だ。
 忘れないだろう、と思った。四月の何日だったか、日付は重要じゃなかった。この日改めて感じたものは、いつになっても色褪せない宝物になる。確信だった。


 ふぁーあ、虎石が大きなあくびをした。いつの間にか空になっていた缶がテーブルの上に転がっている。一、二、三…、空閑が飲み干した分と合わさって、どれくらい飲んだのかはもうわからない。残りを数えた方が早そうだ、そもそも残りがあるのか。虎石はソファに沈み込み、目をこすっている。
 そういえば。今日散らかした分だけではない、虎石の部屋は実家並みとはいかないが、案外ごちゃついていた。女を連れ込むために綺麗にしているかと思っていたが、引っ越しぶりに中へ入った部屋はお世辞にも片付いているとは言えない。

「……虎石」
「ん~?」
「部屋、わりと汚えな」
「んだよ、別にいいだろ~? オレん家だし」
「いや、女連れ込んでねえのかと思って」
「それは……オレだって、いろいろ考えてんの。ガキの頃は、とにかくモテたいって思ってたけど…まあ今もだけど、それだけじゃダメだってこともわかってきたっつーか。オンナノコは大好きだしいつだって抱きしめたいけど、ファンもおんなじだから」
「……そうか。悪かったな」
「なんで謝んの?」
「思い込んでて、悪かった」
「んっだよ……別に、気にしてねーよ」

 虎石が、クッションをぎゅうと抱きしめて縮こまった。顔を隠すように丸まって、うーうー唸っている。空閑がストレートに謝ったせいで照れているのだろうか。

「……そういや、前の朝帰りは?」
「あ……あれは、二人きりじゃねえからセーフ。カラオケで集まってるんだけどって連絡でさあ」
「………」
「さすがにオールする気はなかったんだけど、子猫ちゃんたちが、えー虎石くん帰っちゃうの~? って…」

 置いて帰るわけにはいかねえじゃん? と、そういうことらしい。それで結局朝帰り、そのまま空閑の部屋まで来たらしい。わざわざ少し高めの声を出して子猫ちゃんの口調を真似た虎石がなんとなく可笑しく思えた。笑いのツボが浅くなっているのだろうか。
 二人きりじゃないからセーフ、なんて、むしろハーレムならそれはそれで目立つから問題のような気もするが。他にも男がいたならセーフ、なのだろうか。どこからがアウトでどこまでがセーフなのか空閑には見当がつきそうになかった。女には例外はないと主張する虎石にかかれば、その場の女全員とそういう仲になれてしまう気がするから。虎石に限って言えば、どれもみんなアウトのような気もする。
 虎石がクッションから顔を離した。半分寝ているような目をしている。そのままころんと、空閑の方へと転がってきて、頭を空閑の腿へとつける。あついからやめろ、と言うにはまだ春の優しい気候だった。

「ねみぃ~…」
「……風呂とか、いいのか」
「シャワー…んー…朝でいいや…オフだし」
「ベッドには運ばねえぞ」
「ん……冷てえな、愁ちゃん。ベッドに寝かせて?」
「……甘えても無駄だ。ベッドで寝たけりゃ、自力で移動しろ」

 抱っこをせがむ子どものように伸ばしてきた両手を、虎石ははいはいと諦めたように下ろした。ついでにベッドで寝ることも諦めたらしい、目を瞑ってうだうだしている。頭をぐりぐりと押しつけてきて、まるで甘えん坊の幼子のようだ。これを女相手にやらかさないといいのだが。このまま放っておいたら枕にされそうだから、早めに退散した方がいいかもしれない。
 んー、と一応眠気に抵抗しているのか、虎石が唸っている。ごろごろと寝やすいところを探して、ふぁあ、とでかいあくびをして、なんとも無防備な様子だ。もともと警戒心が強いタイプではないが、つくづく女が見ていないところではだらしない奴である。
 ベストポジションを見つけたらしい、静かになった虎石からすーすーと規則正しい寝息が聞こえてきた。薄っすら開いた唇は見なかったことにしよう。
 そっと手を伸ばして、ぐしゃぐしゃと虎石の頭を撫でた。さらさらと指通りが良いのは手入れの賜物だろう。ふわふわしていて気持ちいい。虎石の方は見ないで、ふっと口元を緩めた。手触りが良くていつまでも撫でてしまいそうだから、変な気を起こす前にここらでやめておこう。
 ふぁあ、空閑もでかいあくびをした。目をぐしぐしとこする。実を言うと、空閑も眠気の限界だ。
 目の前の子にいつだって本気で恋してると言う虎石が、女の前ではカッコつける理由。おそらく、それと似たような理由で今まで耐えていた。のそり、と立ち上がる。
 今夜は、ベッドを借りるとしよう。男にベッドは貸さねえ、とあの小さい卯川にさえもベッドを貸さなかった虎石だが、本人がソファを陣取っているのだから仕方ない。一緒に眠りこけるという選択肢はなかった。
 立ち去る前に、虎石を見下ろした。こいつは空閑にとって、切っても切り離すことは決してできない、腐れ縁の幼馴染だ。切れないとわかっているから切ろうと思ったこともない。どうしたって、空閑を語るには虎石が必要だから。
 幼い頃、母の笑顔見たさに描いた夢。そのために、真っ直ぐ走ってここまで来た。でも、もしあの日――珍しく、熱で倒れた十一歳のあの日、あいつが現れなかったら。理由はなんであれ、あいつが来なかったら。困り果てる母の顔が、目に焼き付いて離れなくなっていたかもしれない。そうだったら、力強く踏み出せなかったのかもしれない、と思うのだ。あいつに助けられた、それが事の始まり。
 一方的に睨みつけられていた頃が懐かしい。顔覚えは悪い方だが、もともと目立つ奴だったのと、あんまりにも目の敵にされていたものだから、同じ委員会だったのもあって、きちんと知り合う前のことも覚えている。睨みつけていた理由は酷くくだらなくて、実に虎石らしいものだったが。
 思い出した、ついでに笑えた。自分たちは、出会う前からライバルだったのかもしれない、と思って。最初は虎石が一方的に、しかし空閑も負けず嫌いな性分だから、勝負を仕掛けられれば受けて立つ。だから、友人になってからも張り合い続けているのかもしれない。最初からライバルだったから。
 出会いから、今まで。随分とたくさんの思い出がある。あの頃出会ったチームメイトたちだって、空閑を語る上では外せないし、虎石の知らない思い出もたくさんある。大切な奴らだ。だけど、また、別なのだとも思う。
 幼馴染、親友、相棒、ライバル、腐れ縁。空閑と虎石の関係性を表す言葉はたくさんある。家族ぐるみの付き合いもあるから、家族と呼んでも良さそうだ。しかし、既にある言葉では言い表せないような、そんなものもある。

 ――俺にとって、虎石ってなんなんだろうな。

 わかりそうにない。眠いから。冴えた頭でも導けない答えをどうして寝ぼけた状態で見つけられるのか。
 ぼふんと、ベッドにダイブした。布団が柔らかくて気持ちいい。よく眠れそうだ。
 おやすみ。声になっていたかどうかは知らないが、そう呟いて。抗う必要のない眠気に従ったのだった。



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