Viaje
「クリス、ここにいたのですか」
クリスは、甲板に出て夜風に吹かれていた。海は穏やかに凪いでいて、見上げれば雲一つない満天の星空が広がっている。辺りはこんなにも晴れやかだのに、それを見つめる横顔はすっきりとしない曇り空であった。
声に振り返り、クリスは寂しそうに笑った。その姿は昼間の雄々しさを忘れさせてしまうほどに儚く、手を掴んでいなければそのままこの美しい景色の中に溶けて消えてしまいそうであった。
「アルベール」
「……アンリたちのことを考えていたのですか?」
「すごいな、アルベールは。何でもお見通しだ」
「何年きみの傍にいると思っているんです、きみが生まれた時からですよ」
「……アルベール、きみは少しずるいな」
クリスが目を伏せる。アルベールがその様子をじっと見守っていることを知った上で、クリスは海の方を眺めた。それに倣って、アルベールも海を眺める。星が映り込むほどに静かな海はまるで眠っているようだった。
クリスは空を仰いだ。月や星の光を跳ね返す瞳はエメラルドグリーン、その名に相応しく宝石の如き輝きを放つ。クリスは短く息を吐き、そのままぽつんと呟いた。
「俺は、何も知らなかった」
ひた隠しにされていた自身の生い立ちを知ったクリスは、すぐさま祖国へと向かった。その地で戦うアルベールを想い、彼に与えられていた自由に感謝し、彼から奪った自由に胸を痛めて。
きっと彼は、クリスがこうして悲しむことを、望んではいない。全てクリスのため、故郷のためだとはわかっている。それでも思わず漏らしてしまうこと、今だけは許してほしいと我儘を思った。
「俺はきみの全部を知っているつもりだった。きみのことを一番知っているつもりだった。でも、違った。俺はきみのことを何も知らなかった」
「クリス、それは」
「わかってる、俺のためだ、って。故郷のためだ、って。でもきみは俺の全部を知っていた。だから、少しずるいと思ってしまうんだ。許してくれないか? 子どもの我儘だと思って」
「クリス……子ども扱いをすると怒るくせに、都合がいいですね」
「いけない?」
「いいですよ、許しましょう。なんて、私が大きな顔で言えることではありませんよ。私はきみを騙していたようなものですから」
「騙す? きみの隠していた秘密を、罪だなんて思わないさ。それに、今はもう隠し事なんてしていないだろう?」
「ええ、もちろん」
クリスとアルベールは見つめ合い、どちらからでもなく微笑んだ。星は静かに瞬いて、彼らの様子を見守っている。
「ねえ、アルベール。俺は、アンリとジョバンニのことを考えていたんだ」
「彼らのことです、きっと立派に国を治めてくれますよ」
「ああ、それは心配していない。俺の自慢の家族だから」
「……寂しい、ですか?」
「アルベールは寂しくない?」
「寂しいですよ」
「そうだろう。いつも心にカリビアン・グルーヴ──俺たちは心で繋がっている。そうは言っても、あの二人の声がないのはやっぱり寂しいよ」
クリスは船べりに腕を乗せ、寄りかかった。また海を見つめ、それからアルベールを見上げる。
「でも、悲しい寂しさではないよ。これは新たな人生の幕開けだから」
「そうですね」
「きみがいなくなった時は、寂しいと思えないくらいに悲しかった」
「………」
「この話をしてしまうことは謝る、だけど、言わせてくれないか? 大事なことなんだ。ああ、アルベール。俺はきみにそんな顔をしてほしいわけじゃない、暗い話じゃないんだ」
クリスは船べりから離れ、申し訳なさそうに眉を下げたアルベールに手を伸ばした。アイパッチに隠された、左眼の方へと。そこへは触れないように、その近くの髪を優しく撫でる。
「きみが俺を大切に思ってくれるように、俺もきみが大切なんだ、アルベール。もう、俺のために傷つくようなことは、あってほしくない」
クリスは真剣な眼差しを向けた。じいっと真っ直ぐ、アルベールを射抜くように。この傷の本当の理由を知って、誓ったのだ。
アルベールは少し目を見開いて、クリスの言葉を待った。
「俺は強くなる。きみを、みんなを、大切な人を守れるように。俺はもう子どもじゃない、守られるだけなのは嫌なんだ──アルベール? どうして笑うんだ」
「ふふ……、すみません。クリス、さっきは自分で子どもだと言ったのに。本当に都合がいい」
「いけない?」
「いいでしょう」
「もう一度、誓いを。俺は、強くなる!」
天高く、右腕を突き出す。それからその拳を胸に当て、その誓いを体の中に刻み込む。目を閉じて反芻した誓いは、今までの子ども染みた欲望のような願いではない。
ゆっくりと瞼を上げ、クリスはアルベールに微笑みかけた。
「大切な仲間を、きみを守るために」
それを受けて、アルベールは恭しく礼をした。さながら王に仕える家臣のように。クリスは少し、むっとした顔。
「頼もしいキャプテン、私もお力添えを」
「アルベール、俺はきみと対等でいたいんだ。きみを守るのは、俺が船長だから。──きみを守りたいのは、きみのことが大切だからだけど」
「おや、それなら私がきみを守りたいと思うのも仕方ないということですね?」
「ああ、言われてみればそれもそうだ」
ふふっと、クリスは悪戯っぽく笑った。それは少年らしい、無邪気なもの。アルベールも笑った、二人で笑い合った。この海のように穏やかな時間がゆるりと流れる。
さあ、とアルベールが手を叩いた。くるりと方向を変え、顔だけクリスに向ける。
「そろそろ寝ませんか? きみは船長、あとは見張り番に任せて休んでください」
「もう少しこの景色を眺めていたい気もするけれど……そうだな、眠ろうか。アルベール、故郷の思い出話をしてくれないか? 今夜はそういう気分なんだ」
「ええ、もちろん。私の好きな花のこと、きみと眺めた海のことを」
「それは楽しみだ。早く行こう、アルベール」
歩み始めたアルベールの前に出て、クリスはその手を取り部屋へと戻る道をぐいぐい進んでいく。あとは整えられた寝床に潜り込んで、アルベールの話を聞くだけだ。
早く早くと手を引く姿はまるで子ども、しかしひとたび戦場へ出れば頼もしい背中であることを、アルベールは知っている。海に出た頃はとてつもなく大きかった四年の差も、気がつけばそれほど大きな差ではなくなってきた。いつの間に少年は青年となって、アルベールに追いついてしまうのだろうか。
たとえ差がなくなったとしても、こうして世話を焼かせてほしい。寝床に入ったクリスをいつものように寝かしつけながら、アルベールは願ったのだった。
トン、トン、トン。
クリスがぐっすりと眠りについてから、アルベールは部屋のドアを三回ノックした。
──ティ、エ、ラ。
彼はこのノックの意味を知っている。尤も、今夜はまだ夢を見ていないのだが。
間もなくドアが開き、少し驚いたような表情を浮かべたティエラが顔を出した。入れと促され、アルベールは部屋の中に入った。武器だけが丁寧に置かれ、服や地図などが乱雑に散らばっている。
「もう少し片付けたらどうです? せめて、地図くらい」
「そこに置いてあんだよ、下手に動かすなよ? どこに何があるのかわからなくなる」
「これでわかるのですか? 大したものですね」
「それは馬鹿にしてるのか、アルベール」
「ただの皮肉ですよ」
「馬鹿にしてるんじゃねえか。やれやれ、たまに来たと思えば可愛くない奴だ」
「おや、可愛いと思ったことが?」
「弱ってるところはわりと可愛かったぜ、アルベール?」
からかうような声色で、冗談だということがわかる。こちらも冗談で言っていることがバレている証拠だ。二人で軽く笑い合う、挨拶みたいなものだ。
座れよ、と出された椅子に腰かける。ティエラはハンモックに寝そべり、揺られながらアルベールの方を向いた。一瞬黙ったその表情は真剣なもので、アルベールは少し驚いた。そんな顔を見せられるとは思っていなかったから。
「……もう二度と、来ないかと思っていた」
天井を見上げたティエラが、ポツリと呟いた。声が天井にぶつかって跳ね返り、アルベールの耳に落ちてくる。
「……どうして?」
「それを聞くのか? オレたちがよく話をしていた理由を考えればすぐにわかるだろ」
「もう一度聞きましょう。どうして?」
「………オレとお前の秘密は、もうなくなっただろ」
少し拗ねたような声が、そんな返事をした。
思わず、アルベールは目をしばたかせた。まさかティエラがそんな風に考えていたとは思いもしなかったから。
ふっ、と笑う。何笑ってんだよ、とさっきクリスに言われたようなことをティエラにも言われてしまった。彼らにとっては真剣なことなのだとはわかっていても、わかっているからこそ、可笑しくなってしまうのだ。
アルベールは構わず笑った。背けられた顔はきっと顰められているだろう。それでも構わない。
「心外ですね、ティエラ。きみは、私がそれだけの理由できみと話をしていたと? 内容は確かに、秘密を共有しているきみとしかできないものだった。けれど、そればかりでしたか? きみは、クリスの次に付き合いの長い友人なのですよ」
「………」
「いつも心にカリビアン・グルーヴ──私たちは心で繋がっている。そうは言っても、一緒に船旅をする仲間と別れて寂しさを感じている時に、古い友人と話がしたいと思ってはいけないのですか?」
「………アルベール、頼みがある」
「ええ、聞きましょう」
ゆら、ゆらりと、ティエラを乗せたハンモックが大きく揺れる。ティエラが左足だけ下ろしてぶらぶらさせているせいだ。
「思い出話を、してくれねえか。オレが、眠りにつくまで」
「……もちろん、構いませんよ」
「ああ、お前が眠くなったら、先に寝てもいい」
「この部屋のどこに寝るんです? きちんと寝かしつけてから、自分の部屋で寝ますよ」
「ははっ、確かにオレ一人しか寝られねえな」
「やはり片付けた方がいいと思いますが」
「いいんだよ、オレが一緒に寝んのは女だけだから」
「そういう問題ではありませんが……ふふ、それもそうですね」
軽口を叩いてくすくすと笑う、アルベールはやはりこの時間が好きだった。少し乱暴とも言えるやり取りは、昔からの友人であるティエラとしかしない。守るべき存在ではなく、共に守ってくれる存在。秘密を知っていながら、この十三年間ずっと黙って、突然転がり込んできたアルベールたちを守ってきてくれた。
ゆらゆらと揺れるハンモック越しにティエラを見つめる。アルベールはおもむろに立ち上がり、散らばる物たちを避けながら歩み寄った。
「──きみと、出会った頃の話をしましょうか、ティエラ」
「……覚えてねえんじゃなかったのかよ?」
「覚えてないとは一言も言ってませんよ」
「……なら、それで」
ゆら、ゆら。ハンモックの揺れ方が穏やかになる。近づいて覗き込むと、ティエラは僅かな光を遮るように両腕を顔に乗せていた。顔を見せまいとする意思を感じる。アルベールは無理に引き剥がすようなことなどせず、その傍らに佇んだ。
「──オレは、生まれたその日から、海の上で生きてきた」
アルベールが口を開こうとした時、先にティエラが呟いた。アルベールは黙り、ティエラの話の続きを聞く。
「たくさんの出会いがあった。港町で会った者、ついてきた者、遭難しているところを助けた者、戦いを経て居ついた者。たくさんの別れがあった。戦いで命を落とした者、陸で伴侶を見つけた者、それから──陸でやり残したことを、思い出した者」
「………」
「お前も、そうなるかと思っていた。お前がそう決めたのなら、オレは何も口出しはできねえ。だけど違った」
ハハ、声が笑った。誰も何も返さない。そうして訪れた沈黙はすぐに破られた。
「──おかえり、アルベール」
そんな言葉と、鼻を啜る小さな音。
アルベールは目を見開いた。ああ、これにするべき返事は、わかっている。
「──ただいま、ティエラ」
ふっ、とティエラはまた笑った。ふふっ、とアルベールも笑う。
なあ、とティエラが声をかけてきた。なんですか、とアルベールは答える。
「今夜のことは、航海記に書くのか?」
「もちろん。しっかりと書きますよ、甘えん坊のティエラが思い出話をせがんできた、と」
「おいっ、その書き方はあんまりだろっ!」
「おや、暴れると落ちますよ」
「ったく……意地が悪い奴だ。誰に似たんだか」
「ティエラ、きみかもしれませんね」
「あー、そうかも」
ティエラは大袈裟なため息をついて、アルベールはくすくすと笑った。対照的な反応のようでいて、その実どちらもじゃれ合っているだけである。
「アルベール、話を聞かせてくれ。オレが悪い夢を見ないように」
「ええ。では──出会ったばかりの頃、きみは野蛮な海賊で……」
「それ、悪い夢見そうなんだけど?」
「事実ですよ? 国王陛下、女王陛下と私の両親、それからクリスと暮らしていた私と、海の上で育ったきみ。価値観が違うのも当然です」
「そーだけど」
不服そうな声を出すティエラが可笑しくて、アルベールはまた笑ってしまった。笑うなよ、と怒られる。
確かにティエラは、アルベールの知っていた少年の中では一番野蛮だった。だけれど、とても優しかったことは、一番初めの航海記に記した通りである。そんな当時のことを振り返りながら、アルベールは昔話を語った。
ティエラの相槌が、だんだんと静かなものになってくる。アルベールは続けた、クリスにはまだ語れないような思い出に浸るのも悪くない。昔は楽しいことよりもつらいことの方が多かった。クリスとアンリは幼くて、アルベールも幼かったから。故郷を想って苦しむ日も珍しくなかった、むしろほとんど毎日だった。
そういう時はやっぱり、ティエラがいてくれた。秘密を知っているティエラと船長だけが、アルベールの全てを受け止めてくれた。やがて楽しいことも多くなり、秘密を知るのがティエラだけになっても、それは変わらなかった。
もし、船を降りることをティエラに言ったとしても、全てを知っていたティエラは何も言わずに見送ってくれただろう。しかし、危ないことはさせたくないと言ったのは本心だろう、クリスのことは考えてやれというのも彼なりに引き止めたつもりだったのかもしれない。海の生活で別れに慣れている彼も、アルベールが船を降りたことに対して──寂しさを感じていたのだと、知ったから。
「ティエラ──心からの、ありがとう」
「………」
「おや、眠ってしまいましたか……おやすみなさい。私もそろそろ寝ましょうか」
返事はない。寝たふりだとはわかっていた、だからこちらも気がつかないふりを返す。
静かに、音を立てないように部屋を出て、アルベールは自室へと続く廊下を歩いた。今日話したことは詳しく書くとしよう。もう、秘密はないのだから──。
クリスは、甲板に出て夜風に吹かれていた。海は穏やかに凪いでいて、見上げれば雲一つない満天の星空が広がっている。辺りはこんなにも晴れやかだのに、それを見つめる横顔はすっきりとしない曇り空であった。
声に振り返り、クリスは寂しそうに笑った。その姿は昼間の雄々しさを忘れさせてしまうほどに儚く、手を掴んでいなければそのままこの美しい景色の中に溶けて消えてしまいそうであった。
「アルベール」
「……アンリたちのことを考えていたのですか?」
「すごいな、アルベールは。何でもお見通しだ」
「何年きみの傍にいると思っているんです、きみが生まれた時からですよ」
「……アルベール、きみは少しずるいな」
クリスが目を伏せる。アルベールがその様子をじっと見守っていることを知った上で、クリスは海の方を眺めた。それに倣って、アルベールも海を眺める。星が映り込むほどに静かな海はまるで眠っているようだった。
クリスは空を仰いだ。月や星の光を跳ね返す瞳はエメラルドグリーン、その名に相応しく宝石の如き輝きを放つ。クリスは短く息を吐き、そのままぽつんと呟いた。
「俺は、何も知らなかった」
ひた隠しにされていた自身の生い立ちを知ったクリスは、すぐさま祖国へと向かった。その地で戦うアルベールを想い、彼に与えられていた自由に感謝し、彼から奪った自由に胸を痛めて。
きっと彼は、クリスがこうして悲しむことを、望んではいない。全てクリスのため、故郷のためだとはわかっている。それでも思わず漏らしてしまうこと、今だけは許してほしいと我儘を思った。
「俺はきみの全部を知っているつもりだった。きみのことを一番知っているつもりだった。でも、違った。俺はきみのことを何も知らなかった」
「クリス、それは」
「わかってる、俺のためだ、って。故郷のためだ、って。でもきみは俺の全部を知っていた。だから、少しずるいと思ってしまうんだ。許してくれないか? 子どもの我儘だと思って」
「クリス……子ども扱いをすると怒るくせに、都合がいいですね」
「いけない?」
「いいですよ、許しましょう。なんて、私が大きな顔で言えることではありませんよ。私はきみを騙していたようなものですから」
「騙す? きみの隠していた秘密を、罪だなんて思わないさ。それに、今はもう隠し事なんてしていないだろう?」
「ええ、もちろん」
クリスとアルベールは見つめ合い、どちらからでもなく微笑んだ。星は静かに瞬いて、彼らの様子を見守っている。
「ねえ、アルベール。俺は、アンリとジョバンニのことを考えていたんだ」
「彼らのことです、きっと立派に国を治めてくれますよ」
「ああ、それは心配していない。俺の自慢の家族だから」
「……寂しい、ですか?」
「アルベールは寂しくない?」
「寂しいですよ」
「そうだろう。いつも心にカリビアン・グルーヴ──俺たちは心で繋がっている。そうは言っても、あの二人の声がないのはやっぱり寂しいよ」
クリスは船べりに腕を乗せ、寄りかかった。また海を見つめ、それからアルベールを見上げる。
「でも、悲しい寂しさではないよ。これは新たな人生の幕開けだから」
「そうですね」
「きみがいなくなった時は、寂しいと思えないくらいに悲しかった」
「………」
「この話をしてしまうことは謝る、だけど、言わせてくれないか? 大事なことなんだ。ああ、アルベール。俺はきみにそんな顔をしてほしいわけじゃない、暗い話じゃないんだ」
クリスは船べりから離れ、申し訳なさそうに眉を下げたアルベールに手を伸ばした。アイパッチに隠された、左眼の方へと。そこへは触れないように、その近くの髪を優しく撫でる。
「きみが俺を大切に思ってくれるように、俺もきみが大切なんだ、アルベール。もう、俺のために傷つくようなことは、あってほしくない」
クリスは真剣な眼差しを向けた。じいっと真っ直ぐ、アルベールを射抜くように。この傷の本当の理由を知って、誓ったのだ。
アルベールは少し目を見開いて、クリスの言葉を待った。
「俺は強くなる。きみを、みんなを、大切な人を守れるように。俺はもう子どもじゃない、守られるだけなのは嫌なんだ──アルベール? どうして笑うんだ」
「ふふ……、すみません。クリス、さっきは自分で子どもだと言ったのに。本当に都合がいい」
「いけない?」
「いいでしょう」
「もう一度、誓いを。俺は、強くなる!」
天高く、右腕を突き出す。それからその拳を胸に当て、その誓いを体の中に刻み込む。目を閉じて反芻した誓いは、今までの子ども染みた欲望のような願いではない。
ゆっくりと瞼を上げ、クリスはアルベールに微笑みかけた。
「大切な仲間を、きみを守るために」
それを受けて、アルベールは恭しく礼をした。さながら王に仕える家臣のように。クリスは少し、むっとした顔。
「頼もしいキャプテン、私もお力添えを」
「アルベール、俺はきみと対等でいたいんだ。きみを守るのは、俺が船長だから。──きみを守りたいのは、きみのことが大切だからだけど」
「おや、それなら私がきみを守りたいと思うのも仕方ないということですね?」
「ああ、言われてみればそれもそうだ」
ふふっと、クリスは悪戯っぽく笑った。それは少年らしい、無邪気なもの。アルベールも笑った、二人で笑い合った。この海のように穏やかな時間がゆるりと流れる。
さあ、とアルベールが手を叩いた。くるりと方向を変え、顔だけクリスに向ける。
「そろそろ寝ませんか? きみは船長、あとは見張り番に任せて休んでください」
「もう少しこの景色を眺めていたい気もするけれど……そうだな、眠ろうか。アルベール、故郷の思い出話をしてくれないか? 今夜はそういう気分なんだ」
「ええ、もちろん。私の好きな花のこと、きみと眺めた海のことを」
「それは楽しみだ。早く行こう、アルベール」
歩み始めたアルベールの前に出て、クリスはその手を取り部屋へと戻る道をぐいぐい進んでいく。あとは整えられた寝床に潜り込んで、アルベールの話を聞くだけだ。
早く早くと手を引く姿はまるで子ども、しかしひとたび戦場へ出れば頼もしい背中であることを、アルベールは知っている。海に出た頃はとてつもなく大きかった四年の差も、気がつけばそれほど大きな差ではなくなってきた。いつの間に少年は青年となって、アルベールに追いついてしまうのだろうか。
たとえ差がなくなったとしても、こうして世話を焼かせてほしい。寝床に入ったクリスをいつものように寝かしつけながら、アルベールは願ったのだった。
トン、トン、トン。
クリスがぐっすりと眠りについてから、アルベールは部屋のドアを三回ノックした。
──ティ、エ、ラ。
彼はこのノックの意味を知っている。尤も、今夜はまだ夢を見ていないのだが。
間もなくドアが開き、少し驚いたような表情を浮かべたティエラが顔を出した。入れと促され、アルベールは部屋の中に入った。武器だけが丁寧に置かれ、服や地図などが乱雑に散らばっている。
「もう少し片付けたらどうです? せめて、地図くらい」
「そこに置いてあんだよ、下手に動かすなよ? どこに何があるのかわからなくなる」
「これでわかるのですか? 大したものですね」
「それは馬鹿にしてるのか、アルベール」
「ただの皮肉ですよ」
「馬鹿にしてるんじゃねえか。やれやれ、たまに来たと思えば可愛くない奴だ」
「おや、可愛いと思ったことが?」
「弱ってるところはわりと可愛かったぜ、アルベール?」
からかうような声色で、冗談だということがわかる。こちらも冗談で言っていることがバレている証拠だ。二人で軽く笑い合う、挨拶みたいなものだ。
座れよ、と出された椅子に腰かける。ティエラはハンモックに寝そべり、揺られながらアルベールの方を向いた。一瞬黙ったその表情は真剣なもので、アルベールは少し驚いた。そんな顔を見せられるとは思っていなかったから。
「……もう二度と、来ないかと思っていた」
天井を見上げたティエラが、ポツリと呟いた。声が天井にぶつかって跳ね返り、アルベールの耳に落ちてくる。
「……どうして?」
「それを聞くのか? オレたちがよく話をしていた理由を考えればすぐにわかるだろ」
「もう一度聞きましょう。どうして?」
「………オレとお前の秘密は、もうなくなっただろ」
少し拗ねたような声が、そんな返事をした。
思わず、アルベールは目をしばたかせた。まさかティエラがそんな風に考えていたとは思いもしなかったから。
ふっ、と笑う。何笑ってんだよ、とさっきクリスに言われたようなことをティエラにも言われてしまった。彼らにとっては真剣なことなのだとはわかっていても、わかっているからこそ、可笑しくなってしまうのだ。
アルベールは構わず笑った。背けられた顔はきっと顰められているだろう。それでも構わない。
「心外ですね、ティエラ。きみは、私がそれだけの理由できみと話をしていたと? 内容は確かに、秘密を共有しているきみとしかできないものだった。けれど、そればかりでしたか? きみは、クリスの次に付き合いの長い友人なのですよ」
「………」
「いつも心にカリビアン・グルーヴ──私たちは心で繋がっている。そうは言っても、一緒に船旅をする仲間と別れて寂しさを感じている時に、古い友人と話がしたいと思ってはいけないのですか?」
「………アルベール、頼みがある」
「ええ、聞きましょう」
ゆら、ゆらりと、ティエラを乗せたハンモックが大きく揺れる。ティエラが左足だけ下ろしてぶらぶらさせているせいだ。
「思い出話を、してくれねえか。オレが、眠りにつくまで」
「……もちろん、構いませんよ」
「ああ、お前が眠くなったら、先に寝てもいい」
「この部屋のどこに寝るんです? きちんと寝かしつけてから、自分の部屋で寝ますよ」
「ははっ、確かにオレ一人しか寝られねえな」
「やはり片付けた方がいいと思いますが」
「いいんだよ、オレが一緒に寝んのは女だけだから」
「そういう問題ではありませんが……ふふ、それもそうですね」
軽口を叩いてくすくすと笑う、アルベールはやはりこの時間が好きだった。少し乱暴とも言えるやり取りは、昔からの友人であるティエラとしかしない。守るべき存在ではなく、共に守ってくれる存在。秘密を知っていながら、この十三年間ずっと黙って、突然転がり込んできたアルベールたちを守ってきてくれた。
ゆらゆらと揺れるハンモック越しにティエラを見つめる。アルベールはおもむろに立ち上がり、散らばる物たちを避けながら歩み寄った。
「──きみと、出会った頃の話をしましょうか、ティエラ」
「……覚えてねえんじゃなかったのかよ?」
「覚えてないとは一言も言ってませんよ」
「……なら、それで」
ゆら、ゆら。ハンモックの揺れ方が穏やかになる。近づいて覗き込むと、ティエラは僅かな光を遮るように両腕を顔に乗せていた。顔を見せまいとする意思を感じる。アルベールは無理に引き剥がすようなことなどせず、その傍らに佇んだ。
「──オレは、生まれたその日から、海の上で生きてきた」
アルベールが口を開こうとした時、先にティエラが呟いた。アルベールは黙り、ティエラの話の続きを聞く。
「たくさんの出会いがあった。港町で会った者、ついてきた者、遭難しているところを助けた者、戦いを経て居ついた者。たくさんの別れがあった。戦いで命を落とした者、陸で伴侶を見つけた者、それから──陸でやり残したことを、思い出した者」
「………」
「お前も、そうなるかと思っていた。お前がそう決めたのなら、オレは何も口出しはできねえ。だけど違った」
ハハ、声が笑った。誰も何も返さない。そうして訪れた沈黙はすぐに破られた。
「──おかえり、アルベール」
そんな言葉と、鼻を啜る小さな音。
アルベールは目を見開いた。ああ、これにするべき返事は、わかっている。
「──ただいま、ティエラ」
ふっ、とティエラはまた笑った。ふふっ、とアルベールも笑う。
なあ、とティエラが声をかけてきた。なんですか、とアルベールは答える。
「今夜のことは、航海記に書くのか?」
「もちろん。しっかりと書きますよ、甘えん坊のティエラが思い出話をせがんできた、と」
「おいっ、その書き方はあんまりだろっ!」
「おや、暴れると落ちますよ」
「ったく……意地が悪い奴だ。誰に似たんだか」
「ティエラ、きみかもしれませんね」
「あー、そうかも」
ティエラは大袈裟なため息をついて、アルベールはくすくすと笑った。対照的な反応のようでいて、その実どちらもじゃれ合っているだけである。
「アルベール、話を聞かせてくれ。オレが悪い夢を見ないように」
「ええ。では──出会ったばかりの頃、きみは野蛮な海賊で……」
「それ、悪い夢見そうなんだけど?」
「事実ですよ? 国王陛下、女王陛下と私の両親、それからクリスと暮らしていた私と、海の上で育ったきみ。価値観が違うのも当然です」
「そーだけど」
不服そうな声を出すティエラが可笑しくて、アルベールはまた笑ってしまった。笑うなよ、と怒られる。
確かにティエラは、アルベールの知っていた少年の中では一番野蛮だった。だけれど、とても優しかったことは、一番初めの航海記に記した通りである。そんな当時のことを振り返りながら、アルベールは昔話を語った。
ティエラの相槌が、だんだんと静かなものになってくる。アルベールは続けた、クリスにはまだ語れないような思い出に浸るのも悪くない。昔は楽しいことよりもつらいことの方が多かった。クリスとアンリは幼くて、アルベールも幼かったから。故郷を想って苦しむ日も珍しくなかった、むしろほとんど毎日だった。
そういう時はやっぱり、ティエラがいてくれた。秘密を知っているティエラと船長だけが、アルベールの全てを受け止めてくれた。やがて楽しいことも多くなり、秘密を知るのがティエラだけになっても、それは変わらなかった。
もし、船を降りることをティエラに言ったとしても、全てを知っていたティエラは何も言わずに見送ってくれただろう。しかし、危ないことはさせたくないと言ったのは本心だろう、クリスのことは考えてやれというのも彼なりに引き止めたつもりだったのかもしれない。海の生活で別れに慣れている彼も、アルベールが船を降りたことに対して──寂しさを感じていたのだと、知ったから。
「ティエラ──心からの、ありがとう」
「………」
「おや、眠ってしまいましたか……おやすみなさい。私もそろそろ寝ましょうか」
返事はない。寝たふりだとはわかっていた、だからこちらも気がつかないふりを返す。
静かに、音を立てないように部屋を出て、アルベールは自室へと続く廊下を歩いた。今日話したことは詳しく書くとしよう。もう、秘密はないのだから──。
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