Viaje

「どうだ、アルベール。一杯やらねえか」



 ──時は、海賊黄金時代。海賊たちがしのぎを削り合うカリブ海、彼らもその中の一つであった。
 "ブラッディ・ロジャー"、血染めの海賊団。掲げられた真紅の海賊旗が、海はステージだと歌う船員たちに相応しく、まるで踊るようにたなびいている。彼らは今日も鮮やかな勝利を収め、宴を催していた。今はもう宴は終わり、船員たちは殆ど寝静まっている。それまでの騒ぎが嘘のように静まり返った船内、人の声は聞こえない。
 アルベールは、この時間が好きだった。一人部屋の中、自然の奏でる旋律に耳を傾けながら航海記を書く。一日の出来事と仲間たちの様子の覚えている限りを記すこれは、海へ出てから今まで欠かしたことがない。
 僅かな仲間の気配と、それをかき消すような波の音。激しかったり、微かであったり、時には眠れないほどの轟音であったり、子守唄のように心地よいものであったりする。今日は、穏やかだ。
 いつものように波の音に耳を澄ましていたアルベールであったが、軽快なノックの音にハッとした。この音は、彼のものだ。

「……ティエラ。今夜はもう散々飲んだでしょう」

 ティエラ、共に航海する仲間だ。ドアを開けると、グラスを二つ、それからワインを一瓶抱えたティエラが立っていた。ニカッと人懐こそうな笑みを浮かべて、ズカズカと部屋の中へと入ってくる。

「宴とこれとは別だろ。話を聞いて欲しそうな顔してたからよ」
「私が? いつですか」
「さっき、クリスの部屋から出てきた時。うなされてたか?」
「……見られていましたか。いえ、穏やかに眠っていますよ」
「そうか、そりゃよかった。それじゃあ今度は、こっちの可愛い坊ちゃんがいい子にねんねするまで、お兄さんが寝かしつけてやるぜ?」
「私のことまで子ども扱いをするのはやめてください。……ですが、少しだけ、話を聞いていただいてもいいですか」
「そのために来てやったんだろ。今日は何を話す?」

 カラカラと笑うティエラは、生粋の海の男だ。この海賊団の船長だった男の息子、しかし手の施しようのないほどの女好きであり、陸で待つ大勢の恋人たちのために船長は継いでいない。海では死ねねえ、それが彼の座右の銘だ。故に今、ブラッディ・ロジャーには船長がいないのである。
 ティエラがグラスを差し出す。アルベールはそれを受け取った。その三分の一ほどにワインが注がれる。同じようにもう一つのグラスにも注いだティエラは、いつもの椅子を引っ張り出し、アルベールが座っていた椅子の隣にどっかりと腰を下ろした。座れよ、と目で促される。

「……クリスのこと、なのですが」
「ああ」

 ポツリと切り出したアルベールに、ティエラが短い声を返す。聞いてやる、という合図だ。こちらが一通り話し終えるまでは黙って聞いてくれる。
 女好きなのはティエラの性分で、それでなくとも整った容姿と惜しみなく振りまかれる野性的な色気は女性を惹きつけてやまない。しかし彼女らがティエラに惚れ込んでしまうのは、それだけが理由ではないということも、なんとなくわかっていた。

「彼は、海が似合いますね。どんなに恐ろしさを説いても憧れることをやめなかった。今の彼は、とても生き生きとしています。まるで、海で生きることを定められていたかのように。荒々しく強いだけでなく、きちんと冷静に状況を見据え、そして、人を惹きつける求心力──クリスはもう、自称ではなく、うちの船長のようなものですね」
「それ、そのまんまクリスに言ってやりゃあ、大喜びするぜ」
「……言えない理由を、きみは知っているのに。意地が悪いですね」
「拗ねるなよ、頭を撫でてやろうか」
「結構です」

 ため息をつくアルベールとは対照的に、ティエラは笑みを浮かべてワインを口に含んだ。アルベールを見つめる視線は、普段向けられる友愛のものとも、他の仲間たちに向けられる勝気なものとも、陸に残したたくさんの恋人たちに向ける情熱的なものとも違った、慈愛に満ちたものである。アルベールがクリスとアンリを見つめている時はこんな風なのではないかというような、優しく温かな眼差し。
 その撫でるような視線がくすぐったくて、アルベールは目を伏せた。嫌いではないのだが、自分が酷く幼い子どもになったような気がして少し恥ずかしく思うのだ。こんな風に悩むところ、彼にしか見せられない。全てを知っている彼にしか、見せてはいけない。

「心配か、クリスが」
「当たり前でしょう。私は、彼の命を守るための存在。彼は強い、故に、目立つ」
「狙われやすい──か。海賊団の船長となれば、頭を討とうと今よりも標的になりやすい。どっかり中で構えて守られてくれりゃあいいが、クリスはそういう男じゃねえ。むしろクルーを守るため、自ら立ち向かう男だ。…ま、そんなの、お前が一番よく知ってるだろうけどな、アルベール」
「……ええ」
「ただでさえ狙われやすいってのに──そいつが」


 ──あるところに、愛にあふれる平和な小国があった。国王は民に尊敬され、民は国王に愛され、人々はみな笑顔で暮らす美しい国であった。しかし、優しく積み重ねられた歴史が壊されるのは一瞬で──ある夜、大国の軍が攻め入ってきた。平和な国は瞬く間に侵略され、多くの命が失われた。国王の、命も。
 命潰える前に、国王は幼き家臣に王子の命を託した。王子と、まだ生まれたばかりの王族の子。物心ついたばかりの家臣は必死で守った、自らの使命を果たすために。その王子の名を──


「クリス」


 ──と、言った。




「王子だと、知られたら。死んだはずの命を、敵国の奴らが見過ごすわけがねえ。どんなに小さな芽でも、脅威となり得る因子はしらみ潰しだ。もっとも、海賊団の船長になれるような男──既に、確かな脅威だけどな」
「………」
「クリスは強い。力も、意志も。これも王族の血なのかもしれねえ、あいつは船長の器だ。お前さえ認めりゃいつだってキャプテンだと呼んでやる」
「……私は、守るべき命を、強さの象徴として掲げるわけにはいかないのです」

 グラスを掴む指に力が入る。震えてしまいそうなのを必死でこらえて、残っていたワインをグッと煽った。血のように赤い、ワイン。ティエラがアルベールの元へと訪れる夜はいつもワインがお供だ。必ず赤、宴の時には澄んだワインを飲むことがあっても、ティエラはこの赤黒いワインしか持ってこない。
 口の中に広がるほのかな渋みと芳醇な香り、これは前に立ち寄った港町で仕入れた品だろう。確か、その町で一番美味いと言われているらしいものを、ティエラが女を口説くついでに手に入れた、と。自慢げに見せびらかされたラベルと同じものだ。

「おいおい、そんな一気に飲んで大丈夫か? オレが手厚く介抱してやるのは女だけだぜ」
「心配されるほど、弱くありませんよ」
「はは、まあ、ベッドに運ぶくらいはしてやるよ」

 ティエラは喉を震わせて笑いながら、空になった自分のグラスにワインを注いだ。飲むか、と勧められたが、それは断っておいた。少しだけ、頭がクラクラするから。
 チラッと、ティエラの視線が動く。その先には書きかけの航海記があった。今日のこの出来事は、詳しくは書けない。もしもクリスたちに読まれたとしても、この秘密が守られるように。

「……航海記、だいぶ溜まってきたな」
「そうですね」
「年ごとに分けているのか? 一、二、三、……十三年──か。オレとお前たちが出会ってから」
「……早いものですね」
「ええと、どれどれ──今日もまたティエラがアンリを怒らせていた……って、アルベール。お前はこんなことまで書くのか? 航海関係なくねえ?」
「航海中の出来事でしょう、関係はありますよ」
「そーだけど。んじゃあ、こう付け加えときな。今日もティエラに優しく慰めてもらった、ってな」
「書きません」
「おーおー、返事の早いこと」

 ティエラは肩を竦めておどけてみせた。注ぎ足したワインを飲み干し、グラスをテーブルに置く。ティエラは頬杖をつき、ピシッと背筋を伸ばして座っているアルベールを見上げた。それまでとは異なる真剣な眼差しに、心臓がギクリと軋む。

「……いつまで、隠せると思う?」
「……いつまでも」
「そんなことはできないと、賢いお前ならわかるだろ?」
「……私は、彼の自由を奪いたくはない。もし自身の境遇を知れば、彼は心を痛め、国に戻ると言うでしょう。私は彼を守りたい、これ以上危険な目にもあわせたくないのです」

 ドク、ドク、ドク、と耳鳴りのように心臓が暴れる音がする。自分の心に迷いがあるのはわかっていた。クリスたちと故郷、守りたいものを全て守ることは難しかった。こうして生きていることを感謝すると同時に、故郷はどのような姿になっているのかと思うと胸が痛む。あの凶暴な国の支配下にあって、故郷の民は無事だろうか、無事なはずがない。故郷を捨て親を捨て海賊として生きる今が、酷く心を蝕む夜もあるのだ。
 そんな夜は決まって、こうしてティエラと話をする。アルベールから誘うこともあれば、ティエラが察して部屋を訪れてくれることもある。全てを知っているのはアルベールの他にティエラただ一人。船の上で共に過ごした時間は決して短くはない。この想いをアルベール一人で抱え込んで生きていくことは難しかっただろう。ティエラと、匿ってくれたティエラの父へは、深く感謝している。

「オレには、話を聞いてやることしかできねえ。決断はいつだって自分でするしかない。オレはオレのやり方で、オレのやりたいように生きてきた。だから、アルベール」

 ──泣きそうな顔でも、していたのだろうか。

「お前がそう思うなら、隠し通せ。無責任な言葉に聞こえるかもしれねえ、けどよ、クリスは苦しんでいるか? アンリは怯えて泣いたりもしているが、クルーのことまで嫌いなわけじゃねえ」

 ぽんぽん、と優しく頭を撫でられる。ハッとして、俯けていた顔を上げると、ティエラがこちらを見つめていた。慈愛に満ちた、兄のような眼差し。
 年齢は二つしか変わらないのに、生まれ落ちたその日から海で育ったこの男は力強く、自由で、憧れにも近いような眩しさを感じる。普段はアルベールが血の気の多いティエラを窘めることが多いが、こういう時ばかりはティエラの方が大人なのだと実感するのだ。

「危険な目にあわせたくねえのは、クリスたちだけじゃねえよ。オレはお前にも死んでほしくねえ、死んでほしい奴なんかいねえ。命ってのはな、無闇に失くしていいもんじゃあねえ。こんな生き方してりゃ、いつだって死とは背中合わせだ。だからこそ、守るんだよ。自分の身も、仲間も」

 ぎゅうと、頭を抱き寄せられる。髪を梳く指は火照った首筋よりも熱い。幼い子どもをあやすような動きが恥ずかしくてたまらなかったが、やめてくださいと突き放すこともできなかった。
 しばらくの間、無言でそうしていた。今、アルベールに必要なのは言葉ではなく温もりなのだと、ティエラは知っていたのだろう。強張っていた体から力が抜けたのを察したのか、ティエラは離れた。アルベールに触れていた指が、トントンと航海記を叩く。

「なあ、ジョバンニが仲間になった頃のことも書いてあるのか?」
「ええ、もちろん」
「はは、思い出話をしようぜ。確かあの時、たまには町を歩こうと一緒に連れ出したアンリが迷子になって──」
「それで、ジョバンニが肩車をして踊っていたのを、私たちが見つけたんでしたね」
「危ねえ! っつってな。アンリの奴、目を回して可哀想だったぜ。おかげで寂しい思いはしなかったみたいだけどな」
「懐かしいですね」

 それまでの息苦しさを拭い去るように、ティエラは笑った。眼差しもいつものものだ、あの視線はあの時間だけのもの。こうした振る舞いにアルベールがどれだけ救われているか、ティエラは知っているのだろうか。
 そういえばあの時、それでこの時、あああの町では、いつかの海の戦いは──ティエラとアルベールが思い出話に花を咲かせ始めた頃。一つの人影が、話し声が僅かに漏れるその部屋から離れていった。



 静かに、静かに。その人影は甲板へ出て、暗闇の中に一人佇んだ。それから、波の音にかき消されてしまうくらいの小さな声で、ポツリと呟いた。

「やっぱり、王子様──か」

 大きな人影──ジョバンニは、苦しそうに呟いた。普段の陽気さは太陽とともに沈んでしまったのか、その表情は暗く真剣なものだった。

「みんな、もっと疑ってくれればいいのに。こんな、急についてきて、仲間に加わった僕のことなんて。どうして僕を受け入れるの? 成功しそうだよ、王様……でも、とっても苦しいんだ…」

 滅ぼしたはずの王族の生き残りが、海で生きていると──噂を聞きつけた王が放った密偵こそ、このジョバンニであった。明るすぎる振る舞いの全てが嘘ではない、けれど溶け込むための衣装だ。ブラッディ・ロジャー、血染めの海賊団。その真紅を纏えぬ代わりに、ジョバンニは歌った、踊った、そして共に過ごせない時間を誤魔化した。
 ジョバンニには、家族がなかった。気がつけば一人で生きていた。寂しくないわけではなかったが、歌って踊れば楽しく、周囲の人々とも騒ぐことができた。笑えばいい、歌えばいい、ジョバンニが一人で生きていく中で得たことだ。時には戦い、逃げ、そしてまた歌う。愉快に振る舞っていた方が、盗みを働くよりも上手く生活できるということも、知っていた。
 ずっと一人だったジョバンニを拾ったのが、今の雇い主だ。その腕っ節と知性に加えて、身寄りがないこと──死んでも構わない駒として、ジョバンニは雇われた。
 クリスが王子であると確信してしまった今、ジョバンニがするべきことは一つだ。あの国へ──王子たちの、故郷であるあの国へ。そこへと近づく航路を、提案するのだ。何も知らないふりをして、彼らを殺すために。
 そろそろ食料の調達をする頃合いだ。どの町へ降り立とうかと相談するあの二人に提案するのは難しいことではない。今のジョバンニは雇われた身──任務を全うするしかないのだ。

「……僕も、本物の──」

 ジョバンニの漏らした言葉のその先は、海だけが知っている。塩辛い水が混じり合い、想いを隠した。もうすぐお別れだ、と、ジョバンニは身を翻し、誰かに見つかる前に部屋へと戻ったのだった。








「そうだ、アルベール。そろそろ食料を調達した方が良さそうだ。今夜の宴でかなり消費しちまったらしい」
「きみは少し食べすぎですよ」
「食いすぎなのはオレだけじゃねえだろ? お前たち三人は食わなすぎだけどな」
「結構食べているつもりですが……まあ、きみに比べたら随分と少食でしょうね。目的地はどこにしましょう」
「そうだな、また日が昇ったら話し合おうぜ。今日はもう遅い」

 持ち込んだグラスと瓶を持ち、ティエラは静かに立ち上がった。柔らかな笑みを浮かべ、アルベールを見下ろす。

「おやすみ、アルベール。いい夢見ろよ」
「ええ、おやすみティエラ。きみも」
「ありがとう。──ところで、それ。オレと出会ったばかりの頃の記録もあるのか?」

 ニッと、微笑みが悪戯をする少年のようなものへと変わった。それ、と航海記を顎で指す。何て書いてあるんだ、と記されていることを疑っていない顔だ。
 彼と、出会った頃のこと。まだアルベールが七歳で、もっと幼いクリスとアンリを抱えて逃げてきた、あの頃のこと。それは、当然──

「いくつだったと思っているんです? さすがにありませんよ。あの頃に、そんな余裕もありませんでしたからね」
「それもそうか。なら、そういうことにしておくぜ。アルベール、怖い夢を見たらオレの部屋のドアを三回ノックしな。ティ、エ、ラ、ってな」
「おや、きみもうなされたらここに戻ってきてもいいのですよ。クリスのように寝かしつけてあげましょう」
「はは、そりゃいい夢が見られそうだ。じゃあ、また」
「ええ、また」

 アルベールも立ち上がり、手が塞がっているティエラのためにドアを開けてやる。グラスとワインを食堂に置いてから部屋へと戻るのだろう、足取りが酷くふらついていないことを確認してからアルベールはドアを閉めた。
 そして、テーブルの下に置いてある引き出しの奥から、小さな鍵を取り出した。その鍵で開くのはその下の引き出し。久方振りに挿した鍵は、案外軽く回った。開けた引き出しから、懐かしい記憶を引っ張り出す。最も古い航海記、きちんと残しているものとは違って薄く、端はぼろぼろで、ページにはところどころ濡れた跡が残っている。その、最初のページを、開く。
 そこには、こう記されていた。どのページよりも、滲んだ文字で。






『クリスと、アンリ。そしてわたしは、かいぞくになった。おそろしいはずのかいぞくは、とても、やさしくしてくれた。キャプテン、それから、ティエラ。ほんとうに、ありがとう』

 
1/3ページ